裏蓋に残る修理記号――時計師は何を書き残したのか

裏蓋に残る修理記号――時計師は何を書き残したのか

時計を修理に出すと、裏蓋の内側に小さな印が増えることがあります。針の先で引っかいたような数字、何文字かのアルファベット、ペンで走り書きした日付。持ち主には見えない場所で、修理した人が仕事の記録を残しているのです。1 2

英語では watchmaker’s service marks、repair marks、scratch marks などと呼ばれます。ここではまとめて「修理記号」と呼びます。ただし、その中身は一様ではありません。誰が、いつ、何をしたかを表すものもあれば、工房の台帳を引くための番号もあります。3 4

この小さな印の面白さは、時計の中に仕事の痕跡が残ること。そして難しさは、目の前に文字があっても、書いた本人の約束事が分からなければ読めないことです。

何のために、何を書いたのか#

修理記号には、大きく分けて次のような働きがあります。ひとつの印に複数の情報を組み合わせることもあります。

記録するもの何に役立つか確認できる実例
修理した人・店・工房自分が以前扱った時計か確かめる個人の印、担当者や店のイニシャル。1 2 4
作業した年月日前回の作業からの経過を知るオーバーホール日、電池交換日。1 2
作業の内容今回の不調と前回の処置を照合する洗浄・オーバーホールや部品を表す個人用コード。4
台帳・作業の番号工房にある詳しい記録へ戻る作業番号、顧客カードとの対応。3 5
団体に登録した識別記号記号から修理者を探す米国の時計師団体によるケースマーク。5 6

「誰が直したか」のサイン#

1991年の米国の業界誌『Horological Times』には、職人ごとの記号の具体例が載っています。Alice B. Carpenterが紹介したRexという修理者は、Rにxを組み合わせた印を使っていました。別の職人は、作業番号を丸で囲み、その外側に日付を書いていました。4

こうした印は、同じような外観の時計が再び持ち込まれたとき、自分の扱った個体かどうかを確かめる助けになります。一方、日本の修理現場でも、店名や担当者のイニシャルを残す例が説明されています。2

署名であることと、第三者が修理者を特定できることは別です。Rという一文字だけでは、その人を知らない読者には意味が分かりません。書いた側の識別方法があって初めて、印と人が結びつきます。

「いつ、何をしたか」のメモ#

正美堂時計店の合田圭四郎は、電池交換で預かった時計の裏蓋を見て、前回の交換日を確認すると説明しています。前の交換から日が浅ければ、単なる電池切れ以外の原因も考える手がかりになります。同店では交換後に古いメモを消し、その日の日付を書き直して返していました。2

ここで残しているのは電池交換の記録です。日付があるからといって、分解掃除をした日とは限りません。

作業内容を数字で表す実例もあります。先ほどの1991年の記事には、団体登録の識別記号に独自の作業コードを続け、最後に日付を置く職人が登場します。その人の方式では、1が洗浄とオーバーホール、2が天真、3がぜんまいを表しました。天真は、テンプの軸にあたる部品です。4

ただし、これは紹介された一人の職人の約束事です。別の時計に「2」があっても、同じ意味だとは読めません。宝石広場の修理技師・小島も、裏蓋の限られた場所に収めるために作業を略記し、その略し方はメーカーや工房によって違うと説明しています。7

詳細は台帳にあった#

裏蓋に長い修理明細を書くことはできません。そこで、詳しい記録を工房の側に置き、時計にはそれを引くための印や番号を残す使い方がありました。

英国のOxford Pocket WatchesのJohn Lashbrookは、英国で見かける印について、台帳番号や作業番号、記入者にだけ意味のある符号であることが多いと説明しています。3 また、1959年の米国の資料には、時計の記号と、顧客の氏名・住所を記した店のカードを対応させる運用が記録されています。5

つまり、裏蓋そのものが修理記録の全文とは限りません。「この時計の詳しい記録は、こちら」という索引の役目もあったのです。その場合、台帳が失われれば、番号だけを手がかりに作業内容を復元するのは難しくなります。

けがく、ペンで書く、シールを貼る#

印を残す方法にも違いがあります。

金属にけがく#

けがきは、先のとがった工具で金属表面に細い線を刻む方法です。時計修理工房の友輝は、油性マジックで線を引いた上から、針状の工具で文字をけがく例を紹介しています。けがいた印は、超音波洗浄をしても残るという利点があると説明しています。1

記録が消えにくい一方、時計そのものに跡を残します。同じ修理者は、見えない内側でも消せない跡を刻むことに抵抗があるとして、自分の作業では極細の油性マジックだけを使うと述べています。1

修理する側にも、履歴を残すことを重視する考えと、素材に手を加えないことを重視する考えがあるわけです。

ペンで書く#

1996年の『Horological Times』には、Jack Kurdzionakによる「Stop Scratching」という提案が載っています。けがきの代わりに極細ペンを使い、「針だけ」「文字盤だけ」「巻真とリューズだけ」といった作業範囲を裏蓋に記す例です。紹介したペンの記録は、後の整備時にアルコールで消す運用を想定していました。8

これは当時の職人の提案であり、どの時計・どの筆記具にも適用できる推奨手順ではありません。それでも、「印を付けるかどうか」だけでなく、「消せる形で残す」という選択が以前から議論されていたことが分かります。

シールと工房のデータ#

宝石広場の小島は、刻む方法、サインペン、シールを挙げています。また、裏蓋にはサインを残さず、パソコンで履歴を管理する工房もあると説明しています。7

紙や画面の修理記録と、時計の中の印では、情報の残る場所が違います。外の記録は詳しく書けますが、その記録と時計を対応させる手がかりが必要です。内側の印は時計と一緒に移動しますが、記入できる量が少なく、読み方が引き継がれないこともあります。

そのため、ペンがあるから新しい、けがきだから古い、と年代を二分することもできません。ここで確認した資料でも、同じ時代に方法の選択が分かれています。1 7 8

職人の印を集めた、米国の登録制度#

個人用の符号を、ほかの人からもたどれるようにしようとした仕組みがあります。

1959年7月の『FBI Law Enforcement Bulletin』に、United Horological Association of America(UHAA)の事務局長Orville R. Hagansが寄稿しています。同協会は職人の記号を集める全国的な登録簿を整備し、記事では5,000件を超える登録があると報告していました。会員以外も、無料で登録できる制度でした。5

時計が見つかったとき、捜査機関は記号と時計の特徴を照会します。一致する登録があれば修理店の名称と所在地が分かり、その店の記録を通じて持ち主を調べる、という仕組みです。記号、登録簿、店の顧客記録がつながって初めて役に立ちます。5

これは、修理内容を全国共通の数字に置き換える制度ではありません。また、FBIが刊行する雑誌に載ったことを、FBIが登録簿を運営したという意味には取れません。

2026年10月の確認時点でも、American Watchmakers-Clockmakers Institute(AWCI)は公式サイトでケースマークを案内しています。例示は 25ΔJF。数字または文字を二つ、三角印、さらに数字または文字を二つ、という形式を個人の情報の前に置き、顧客名・日付・時計の説明とともに修理記録へ残す方式です。6

登録記号は「誰の記号か」を探すためのもの。その後ろに続く作業コードまで、世界共通の読み方になったわけではないのです。

実物の記号は、どこまで読めるのか#

年月らしく見えても、断定はできない#

Oxford Pocket Watchesは、ある懐中時計のまとまった記号について、1935年10月から1953年4月までの整備時期を読み取っています。ただし、併記された番号が台帳番号か、文字が作業者のイニシャルかについては、推測を含む説明です。3

一方、ダートマス大学Hood Museumの金時計の所蔵記録では、H-3-58-dという引っかき書きについて、修理記号か、1958年3月か、と疑問符を付けています。博物館の記録でも、読める文字と、その意味の確定は分けているのです。9

数字が四桁並んでいても、西暦とは限りません。作業番号かもしれませんし、数字の一部だけが年月かもしれません。店や職人に由来する別の記録と照合できなければ、候補として残すのが適切です。

製造時の表示とも区別する#

同じHood Museumの記録には、メーカー名、18K、ケース番号、1918年の贈答銘も載っています。その時計の裏蓋にあるものが、すべて修理記号というわけではありません。9

メーカーやケース製作者の表示、貴金属の品位表示、製造番号、所有者の名前、贈答の銘文、後年の修理記号は、それぞれ違う情報です。手書き風だから修理記号、と外見だけで決めず、場所・文言・ほかの表示との関係も見る必要があります。

印の数は、整備回数や現在の品質を保証しない#

ここまでの例を組み合わせると、印の数をそのまま分解掃除の回数とすることはできません。電池交換の記録もあり、過去の記入を消す店もあり、そもそも印を残さない工房もあるからです。2 7

同様に、直近の日付が新しくても、現在の状態がよい保証にはなりません。友輝の修理者も、オーバーホール後に水分が入る場合などを挙げ、記録だけより現物の状態を点検することを重視しています。1

印は、その時計を誰かが扱ったことを考える手がかりです。何をどこまで整備し、その結果が今どう保たれているかは、別に確かめる必要があります。

印を見つけたら、どう残すか#

調べるときは、最初に「見えるもの」と「読み取った意味」を分けて記録すると整理できます。たとえば H-3-58-d という転記と、「1958年3月かもしれない」という解釈は、別の欄に残します。判読できない文字は無理に埋めず、写真と一緒に保留します。

裏蓋全体の写真と印の拡大写真があれば、ほかの表示との位置関係も残せます。修理明細や古い保証書、工房の記録があれば照合材料になります。けがきも筆記も上書きや除去で情報を失うため、まず記録を取るのがよいでしょう。これは、上の実例を踏まえた調査上の整理です。

次に修理を頼む機会があれば、内側に古い記号があるか、その工房ではどんな記録を残すか、写真を撮れるかを聞くと、自分の時計と記録の関係が分かります。

裏蓋の小さな印には、職人の名前だけがあるとは限りません。次に来たときに思い出すための日付、詳しい台帳へ戻る番号、次の職人へ渡す短いメモ。同じ時計を使い続けるための仕事が、それぞれの方法で書き込まれています。

資料からたどる年表#

慣習の始まりを確定する年表ではなく、今回確認できた記録の時系列です。

時期確認できること
1935~1953年Oxford Pocket Watchesが、ある懐中時計の記号をこの期間の整備記録と解釈。2018年の実物紹介に基づく。3
1959年FBIの刊行物でUHAAの記号登録簿と顧客カードの照会方法を紹介。5
1991年『Horological Times』が個人のサイン、作業番号、独自の作業コードの実例を紹介。4
1996年同誌で、けがきからペンへの変更を提案。8
2014年正美堂が、電池交換日を裏蓋に記し、次回に消して更新する自店の運用を説明。2
2017年友輝が、消えないけがきへの抵抗と、自身のペンでの記入方針を説明。1
2021年公開・2022年更新宝石広場の技師が各種サインと、パソコンで履歴を管理する工房を紹介。7
2026年確認時点AWCI公式サイトにケースマークの発行・記録方法の案内がある。6

調査の範囲と限界#

今回確かめたのは、日本と英国の修理現場の説明、米国の業界団体の資料、博物館の所蔵記録です。修理記号を使い始めた最初の人物・工房や、世界共通の成立年代は確認できません。個々のメーカーの内部規則や廃止時期も、ここで挙げた工房の観察だけでは確定できません。

したがって、この記事の実例は未知の印を自動的に解く辞書ではありません。時計と一緒に残った記号を、工房の約束事や外部の記録と結びつけて考えるための手がかりです。

参考文献#

各資料の閲覧・確認日:2026年10月25日。PDFの頁は印刷された紙面の頁番号です。

  1. 時計修理工房(有)友輝「ロレックス 裏蓋内側のオーバーホールサイン」、2017年7月30日。担当者の記入方針とけがき・ペンの比較。

2. 合田圭四郎、正美堂時計店「お客様はしらないサイン」、2014年6月10日。電池交換時の自店の記録方法。

3. John Lashbrook, Oxford Pocket Watches, “Watchmakers Service Marks.”, 2018年1月15日。英国の修理記号と実物の読取り。一部の文字・番号の解釈には著者の推測を含む。

4. Alice B. Carpenter, “President’s Message”, Horological Times, Vol.15, No.1, 1991年1月、p.2。個人の印と作業コード、登録識別記号の用途。

5. Orville R. Hagans, “Watch Mark File Is Useful Aid to the Investigator”, FBI Law Enforcement Bulletin, 1959年7月、pp.6–7。UHAA事務局長による当時の登録制度の説明。

6. American Watchmakers-Clockmakers Institute, “Member Benefits — Case Marks”、公開日記載なし。確認時点の制度案内。

7. 宝石広場 時計修理センター、技師小島「18239|ロレックス デイデイト」、2021年5月25日公開、2022年1月17日更新。修理サインの方法・略記・記録の保存先。

8. Jack Kurdzionak, “Stop Scratching”, “From the Workshop”, Horological Times, Vol.20, No.11, 1996年11月、p.41。筆記による作業記録の提案。欄の冒頭に、掲載された方法をAWIが試験したものではないと注記がある。

9. Hood Museum of Art, Dartmouth College, “Gold Watch”, 所蔵番号2007.1.80、公開日記載なし。C. H. Meylanの時計の刻銘・番号・修理記号らしき書込みの記録。