脱進機の引き込み

脱進機の引き込み

アンクルを定位置に保つ力#

引き込み(英語 draw / draft、フランス語 tirage)は、時計のレバー脱進機で、がんぎ車の歯がアンクルの爪石を押す力を利用し、アンクルを制限ピンに押し付ける作用である。テンプが脱進機から離れて振れる間もアンクルの位置を保ち、衝撃で少し動いたときには元の位置へ戻す。別のばねを追加するのではなく、輪列から伝わる力と爪石の休止面の傾きを利用する。1 2

スイスレバー脱進機では、がんぎ車の歯が入り爪と出爪に交互に止められる。アンクルの反対側にある叉(フォーク)はテンプの振り石と断続的にかみ合う。テンプが戻ると振り石が叉を動かして歯を解放し、歯と爪の衝撃面を通じてテンプに力を返す。引き込みはこの一連の動作のうち、歯が爪の休止面に止まっている間の位置保持を担う。2

保持から解放まで#

  1. 一方の歯が爪を離れてから、別の歯が反対側の爪の休止面に当たるまで、がんぎ車は短く自由に進む。この自由移動はドロップと呼ばれ、引き込みそのものではない。
  2. 歯は傾いた休止面を押し、アンクルをさらに少し回して制限ピンに当てる。この区間をラン・トゥ・バンキングという。以後も歯の圧力がアンクルをピン側に保つ。
  3. テンプが補助弧を振れる間、アンクルは原則としてピンに留まる。衝撃で離れた場合、安全ローラーとガードピンなどが異常な移動を制限し、引き込みがアンクルを戻す。
  4. 振り石が叉に入ってアンクルを逆向きに動かすと、歯は休止面に沿って少し押し戻され、爪から解放される。続いて衝撃面が働き、反対側で同じ過程を繰り返す。1 2 3

保持作用は万能の耐衝撃装置ではない。外力が保持力を上回ればアンクルは動き得る。安全機構は引き込みと協働するが、両者は別の役割を持つ。ガードピンが普段から安全ローラーに接触し続けると、テンプの周期を妨げるため、引き込みによって通常位置へ戻すことが大切になる。1 3

角度と力の釣り合い#

爪石の休止面を、アンクルの回転中心を中心とする円の接線から傾けると、歯の圧力はアンクルを回す向きのモーメントを生む。接触点からアンクル中心へ引いた線に垂直な線と、休止面のなす角を引き込み角として表す方法がある。接触点が休止面上を移るため、爪先で測った角度と実際の接触点での角度は必ずしも同じではない。1 2

角度が小さすぎれば摩擦などに対して戻す力が不足し、アンクルが制限ピンに安定して着かないことがある。大きすぎれば歯を押し戻して解除する仕事が増え、テンプの振動に負担をかける。つまり設計上の課題は、保持を確保しながら解除抵抗を抑えることにある。力の大きさは角度だけでなく歯の圧力や接触位置、摩擦にも左右される。1 2 3

Horlogerie Suisseは鋼のがんぎ車とルビーの爪石の例で、滑りの限界角を9度、一般的な引き込み角を13〜16度と説明し、入り爪13度・出爪15度を例示する。一方、H. R. Playtnerの1910年の設計例は両爪12度で、別の設計者による入り15度・出12度にも言及する。測定位置や設計条件を確認せずに値を比較したり、すべての時計に共通する調整値とみなしたりすることはできない。1 3

検査と設計の工夫#

角度の検査には角度計付き測定顕微鏡や投影機を使い、爪先とアンクル中心を結ぶ方向、休止面の方向を比較する方法がある。時計に組み込んだ状態で歯の実際の接触点を基準に測る方法もある。角度だけでなく、爪のかかりの深さ、制限ピンまでの余裕、歯先や休止面の仕上げ、潤滑の状態を合わせて評価する必要がある。休止面から解除できず止まる原因には、強すぎる引き込みのほか、面の不良や潤滑不足なども挙げられる。1 2

2018年公開の国際特許出願WO2018091619A1は、入り爪の休止面を凸形にし、接触位置が変わる間の引き込み角を一定または減少させる構想を示す。保持と解除の要求を両立させようとする設計例である。特許文献は提案された構造を示すものであり、特定の製品への採用や性能の実証を、それだけで意味しない。4

歴史の中の用語#

レバー脱進機の成立後、その安定した動作には解放と安全保持の両立が求められた。Playtnerは1910年の著書で、引き込みが安全装置の作動後に叉を制限ピンへ戻すと説明し、解除が難しくなる不利益も認めたうえで、安全に必要な範囲で軽くするよう論じた。これは当時の設計上の考え方を示す資料であり、引き込みの発明者や最初の採用時計を特定する根拠ではない。3

時期確認できる事柄
1910年Playtnerが引き込みと解除抵抗の関係、両爪12度の設計例を記述。
2018年凸形の休止面を用いた引き込みの設計に関する国際出願が公開。
現在スイスレバー脱進機の解説や検査で、保持力と解除抵抗の両立が扱われる。

参考文献#

1. Horlogerie Suisse, “Le tirage de l’échappement à ancre suisse”, 定義・角度・測定。公開年不明。https://archive.horlogerie-suisse.com/Echappement/Chap3.htm(2026年11月3日閲覧)。

2. Horopedia, “Distribution Mechanism (Swiss Lever Escapement)”, Operation、Draw、Stops on the resting and impulse planes。公開年不明。https://horopedia.org/distribution-mechanism-swiss-lever-escapement/(2026年11月3日閲覧)。

3. H. R. Playtner, An Analysis of the Lever Escapement, Hazlitt & Walker, 1910, “The Draw”, “The Run”, “Specifications for Lever Escapement”。https://www.gutenberg.org/files/21978/21978-h/21978-h.htm(2026年11月3日閲覧)。

4. Alexis Héraud, Valentin Molina, “Échappement d’horlogerie à tirage optimisé”, WO2018091619A1, 2018年5月24日公開、明細書・請求項。https://patents.google.com/patent/WO2018091619A1/fr(2026年11月3日閲覧)。