航海暦

航海暦

海上の観測と時刻を結ぶ数値の道具#

航海暦(nautical almanac)は、太陽・月・惑星・恒星の位置や出没などを、天文航法で使える形にまとめた暦である。船の位置を直接印刷したものではない。観測した天体の高度とその瞬間の時刻を、既知の天体運動と照合するための数値を提供する。六分儀が角度を測り、時計が観測時刻を与え、航海暦と計算表が両者を位置の情報へ変える。1 2

一般名としての航海暦と、英米が共同制作する年刊書『The Nautical Almanac』は区別される。後者は英国の『The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris』1767年用に連なる系列であり、フランスの『Éphémérides nautiques』や、日本で海上保安庁が刊行していた『天測暦』『天測略暦』も、それぞれ航海に使う天体暦である。海図が海岸や水深を示すのに対し、航海暦の中心は天体と時間の対応である。1 3 4

時計史との関係は、時計が十分正確になるまでの代用品という一方向の関係ではない。月の位置から基準地点の時刻を推定する月距法を助ける一方、クロノメーターの時刻から天体の位置を求める航法にも使われる。同じ暦が、空から時刻を読む方法と、時計から空を計算する方法の双方を支えた。

経度問題と1767年用の暦#

月の運動をあらかじめ計算する#

経度を時刻から求める基本は、地球一周360度と一日24時間の対応である。同じ種類の太陽時を比べれば、経度差15度は時刻差1時間に対応する。現地が基準地点より先に正午を迎えるなら東、遅ければ西にある。ただし、現地の太陽から得た時刻と、平均的な速さで進む時計の時刻を、そのまま同じ量として引き算することはできない。

18世紀の月距法は、月と太陽または恒星との角距離を測り、暦に載る角距離と照合してグリニッジの時刻を求めた。月は恒星に対して移動するので、その配置が時刻の目印になる。船から見た月には大きな視差があり、大気差も角度を変える。測った月距を地心から見た角距離に直す作業と、現地時刻を求める作業は、暦を手に入れただけでは省けなかった。5

1767年用の序文は、トビアス・マイヤーの月表による経度測定を実用に広める際、計算の難しさと長さが障害だったと説明する。航海者が月表から月の位置を求め、さらに対数を使って月距を算出する部分を、陸上で先に済ませるのが刊行の狙いだった。マスケリンは使用説明と例題を作成し、別冊の必要表ではライアンズとダンソーンの補正法にも言及する。月運動理論、数値計算、観測器械、出版を組み合わせた事業であり、一人が月距法全体を発明したという説明には収まらない。5

扉には1767年用とあり、刊記は1766年である。経度委員会の印刷・販売の許可文書は1766年4月26日付。刊行史の記述にある「1766年刊行」と「1767年用」は矛盾しない。初年度から年間継続を想定した出版物で、太陽・月だけでなく惑星や木星衛星の現象も含んでいた。5 6

暦はどのように作られたか#

初版序文によると、太陽と月の計算にはマイヤーの最終手稿表、惑星にはハレーの表、木星衛星の食には主としてヴァルゲンティンの表が使われた。計算結果を年刊の参照表に直すことは、元の理論表をそのまま複製することではない。日時と観測対象を選び、必要な角度を計算し、読み取れる桁と間隔で配置する工程を伴う。5

誤りの検査にも区別があった。序文は、原則として別々の二人が計算し、第三者が検査したと記す一方、月の黄経・黄緯・赤経・赤緯・視半径・視差については例外を明記する。正午分と深夜分を別の人が計算し、差分によって検査し、月の黄経では4階差分まで確認した。すべての数値が同じ方法で二重計算されたわけではない。5

これは計算者への信頼だけに頼らず、別計算と数値列の規則性を利用する品質管理だった。ただし、計算の照合は、出発点となる月理論・観測値や、組版後の誤植まで自動的に正すものではない。正確な時計と同様、暦にもモデル・作業・検査の各段階がある。

初版の表を読む#

視太陽時と正午始まりの日#

1767年用の使用説明は、グリニッジ子午線の視太陽時を用い、別記のない値は視正午に対応すると述べる。視太陽時は、実際の太陽の子午線通過や高度などから得る時刻である。均等に進むよう調整した時計の平均太陽時とは異なる。5

同書の日付は、天文学の慣例に従い正午に始まり、次の正午まで24時間を数える。説明中の例では「1月10日15時」は、民間の日付では1月11日午前3時になる。古い暦の数字を現代の深夜始まりの日付に置き換えず読むと、半日の誤りを生む。時刻の精度以前に、何を一日の始めとするかが重要だった。5

太陽の動きが時計と合わない理由には、太陽の見かけの公転速度の変化と、黄道と赤道の傾きがある。使用説明の150頁は、均時差を視太陽時へ加減して平均時を得る手順と、逆変換では符号を反転することを説明する。表頭の「加える」「引く」は計算の一部であり、装飾ではない。時計を太陽に照合するときも、この変換が必要になる。5

三時間ごとの月距と補間#

初版は月と太陽・恒星との距離を3時間間隔で掲載した。使用説明は一般に月の両側から対象を選ぶと述べ、太陽との距離は40度から120度の範囲で計算したと説明する。明るさと位置の条件に応じて太陽と星、または二つの星を使い分け、複数の結果を比べる構成だった。5

この3時間の表も、すべての時刻で月運動を最初から計算して作ったものではない。166–167頁では、正午と深夜の月距を厳密計算し、その間を差分補間する手順を示す。列の最初と最後には両側の数値がそろわないため、3階差分を含む別式を用いる。印刷された一列の数値の背後に、計算量を抑えながら精度を保つ設計がある。5

船上では、その表の二時刻の間に入る月距から時刻を補間する。たとえば、仮に3時間で月距が1度30分変わる区間で、補正済み月距がその増加量の3分の1だけ進んでいれば、経過時刻は約1時間になる。これは説明用に置いた一定速度の例で、初版の実測値ではない。角距離の変化が一様でない範囲や高精度の処理では、単純な比例だけに頼れない。

また、月の両側で測った結果の平均は、器械や観測に由来する一部の誤差を減らすために役立つが、同じ月表に由来する誤差は両方に共通しうる。初版165頁はこの違いを明記する。反復すればあらゆる誤差が消えるという理解は、当時の説明にも合わない。5

クロノメーターと併用する現代の原理#

時刻から天体の地理的位置へ#

現代の天測では、観測時刻について、天体のグリニッジ時角(GHA)と赤緯を暦から得る。GHAはグリニッジ子午線から西向きに測る角度、赤緯は天の赤道から北または南への角度である。天体の真下に当たる地球上の点は、赤緯を緯度、GHAを西経に対応させて表せる。船から天体までの距離ではなく、地球上のどちらの方向に天体があるかを定める量である。2

英米『The Nautical Almanac』は、太陽・月・航海用惑星のGHAと赤緯、春分点のGHAなどを毎時の値として載せ、主要な角度は0.1分角単位で表記する。恒星は各星の毎時表を繰り返す代わりに、春分点のGHAへその星の恒星時角(SHA)を加えてGHAを得る。0度・360度の折返しを処理する必要がある。1 2

時刻が毎正時と一致しなければ、増分・補正表を使う。太陽と惑星の標準増分は毎時15度、月では毎時14度19分を基準とし、月と惑星の運動差をv、赤緯変化をdで補う。太陽には同じ形のvを掲載しないなど、天体ごとに手順が違う。何にでも15度毎時を掛ければよいわけではない。2

暦から観測高度を予測する#

観測地点の緯度をφ、赤緯をδ、地方時角をHとすれば、球面地球上の天体の計算高度hは次の関係を満たす。2

\[ \sin h=\sin\varphi\sin\delta+\cos\varphi\cos\delta\cos H \]

北緯と北赤緯を正とし、東経を正に取る経度λなら、地方時角はGHA+λを360度で折り返して得る。西経は差し引くことになる。式は天体方向と天頂方向の幾何学的関係を表し、屈折や六分儀の指標誤差を含まない。天体が地平線より上か下かを含め、使用する角度の単位をそろえる必要がある。

暦と概略位置から計算した高度Hcと、六分儀の測定を補正した高度Hoを比べる。球面近似では高度差1分角が地表の約1海里に対応し、HoがHcより大きければ、想定した位置より天体の真下の点へ近い側にいる。差を天体の方位方向に取り、そこへ垂直な位置線を引く。一つの高度は通常、一つの地点を確定せず、位置線を与える。異なる天体や時刻の観測と、船の移動の処理を組み合わせて船位を絞る。2

数値を置いてみよう。赤道上、赤緯0度、地方時角60度なら、計算高度は30度である。補正済み観測高度が30度10分なら、高度差は10分角、約10海里で、天体へ向かう側となる。これは式の働きを示す仮想例で、特定の航海の測定結果でも、実際の測位精度の保証でもない。

補正表も航海暦の一部#

六分儀で読む高度は、直ちに式のhやHoにはならない。海面の見える水平線は観測者の目の高さによって水平面より下がり、地平線俯角の補正が必要になる。大気差は一般に天体を高く見せる。太陽や月の下縁・上縁を測ったときには中心への視半径補正を行い、月などでは観測者が地心にいないことによる視差を補う。器械の指標誤差の補正も別に扱う。2

地平線付近では大気差が大きく、気温・気圧や大気の層構造によって通常の補正から外れる場合がある。海面と空が不鮮明なら測定そのものが難しい。暦の桁数を増やしても、波による船の動揺、水平線の状態、観測対象の取り違えを解決することはできない。0.1分角という表の表示桁は、船位が必ず0.1海里で求まるという意味ではない。2

「正確な時刻」にも種類がある#

クロノメーターは一定の歩度で基準時を運ぶが、地球の自転速度は完全に一様ではない。現代の計算では、地球の回転角に結び付くUT1、原子時計に基づくUTC、天体運動の計算に使うTTやTDBなどを区別する。航海者向けのUTと、理論上の暦計算の時間引数を同一に考えると、時計が正しくても別の天体位置を引いてしまう。7

USNOの現行の天測データサービスは、入力時刻をUT1と明示する。一方、時計や時報から得られるUTCを利用するときには、必要な精度に応じてUT1との差を確認する。2024年版の米国航海教本も、この差を無視した場合の経度への影響を説明する。日本標準時で記録した時刻なら、まず9時間の時差と日付の繰上げ・繰下げを処理し、さらに用いる暦が指定する時間系へ合わせる。2 8

歴史的には、英国暦は1834年用から平均時を採用し、1925年には天文学上の日の始めを深夜へそろえた。GMTという語も、歴史・市民生活・航海の文脈によって意味が一定ではない。古い観測記録を読むときは、GMTと印刷されていることだけで現在のUTCと同じだと決めず、その版の説明に戻る必要がある。6 7

天体暦の精度と刊行物の設計#

天体の位置を作る計算と、使いやすい表へ圧縮する計算は別の段階である。天体運動の理論や数値積分を観測へ合わせ、その結果を必要な時間間隔の表として表現する。速く変化する量には細かい間隔が必要になるが、細かくするほど印刷量が増える。補間はその間を埋める方法であり、無制限に細かい精度を引き出す方法ではない。9

フランスのIMCCEは、天体暦の表現として数値表、グラフ、チェビシェフ多項式などを説明している。高精度の電子暦は多項式係数などを使って容量と計算量を調整できるが、航海用の紙面では、人が読み取り、補間し、補正できる形式が重要になる。数学的モデルの精度、印刷桁、補間誤差、観測誤差を一つの「精度」にまとめないことが肝要である。9

航海暦の技術を理解するうえで中心となるのは、歯車の材質や潤滑ではなく、座標系、時間系、計算・検査、組版と読み取り、観測器械との組合せである。特定の特許一件をこの用語全体の発明として掲げることはできない。初版に載る印刷・販売の許可も、機械装置の構造に対する特許請求とは異なる。5

各国の刊行と現在の役割#

英米の暦は、当初の天文観測一般を含む大きな暦から、航海者向けの部分を独立させてきた。英国では1914年、米国では1916年に航海専用の刊行形態が整い、1958年には共通化した内容を使用する体制となった。両国版の書名が『The Nautical Almanac』となるのは1960年用からである。月距表の廃止年も国により異なり、米国版では1912年用から除かれた。6

フランスでは、IMCCEの公開刊行案内が『Éphémérides nautiques』を1889年以来の航海者向け年刊として紹介する。一般天文学用の『Connaissance des Temps』と航海用の暦を区別しており、同じ天体計算でも利用者に応じて構成を変えることが分かる。3

日本の海上保安庁による『天測暦』『天測略暦』は2022年版を最後に廃刊となった。海上保安庁の告知は、衛星航法の普及と国際条約等における船舶備置の必要の消失を理由とし、航海用の天測計算には英国等の航海暦を利用するよう案内する。これは日本語で天文計算ができなくなったという意味でも、世界の航海暦が廃止されたという意味でもない。4

紙の暦には、電源や通信を使わず、その年の数値と手順を参照できる利点がある。電子計算は、指定時刻と想定位置へ直接合わせた天体座標・高度・方位や補正値を返せる。USNOのサービスはその一例だが、表示された天体が実際に観測可能とは限らず、昼間の恒星や太陽に近い対象も列挙されうると注意する。数値が得られることと観測が成立することは別である。8

衛星航法に対して独立した測位を考える場合も、紙の本一冊だけで完結はしない。時刻、角度測定、水平線、手順を使う技能がそろって初めて位置を得られる。時計が運ぶ時刻を、地球と天体の幾何学へつなぎ直すところに、航海暦の役割がある。

年表#

年・時期出来事と意味
1679年フランスで『Connaissance des Temps』が始まる。後の航海専用暦より広い天文学の系列。9
1766年4月26日英国1767年用暦の印刷・販売許可。扉の刊記も1766年。5
1767年用英国『The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris』初年度。3時間月距表と使用説明を掲載。5
1832年英国Nautical Almanac Officeの組織化。6
1834年用英国暦へグリニッジ平均時を導入。6
1849年米国Nautical Almanac Office成立。6
1852年/1855年用米国『American Ephemeris and Nautical Almanac』初巻が1852年に刊行、対象年は1855年。6
1889年フランスの航海者向け『Éphémérides nautiques』刊行開始。3
1912年用米国暦から月距法用データを除く。6
1914年・1916年英国・米国で航海向けの独立刊行形態が整う。6
1925年天文学の日の始めを深夜へ合わせる。6 7
1934年米国暦に太陽・月・惑星のGHAと航海星のSHAを導入。6
1958年/1960年用英米の内容共通化、続いて両国版の書名も『The Nautical Almanac』となる。6
1989年簡潔な天測計算表とコンピューター計算説明を導入。6
2022年版海上保安庁刊行『天測暦』『天測略暦』の最終版。4
2024年版米NGA航海教本が航海暦の補間・高度補正・位置線の計算を体系的に説明。2
2026年10月確認USNOが英米共同の年刊航海暦と、UT1を指定するオンライン天測データを提供。1 8

参考文献#

  1. U.S. Naval Observatory, “The Nautical Almanac”. 現行刊行案内、毎時表・0.1分角・補正表・英米共同制作。閲覧2026年10月15日。

2. National Geospatial-Intelligence Agency, The American Practical Navigator, Volume II, 2024 edition. 第6章pp.248–253(高度補正)、第7章pp.260–262(GHA・赤緯・補間・高度式)、第8章pp.279–281(位置線と計算例)。閲覧2026年10月15日。

3. IMCCE, “Publications institutionnelles — Éphémérides nautiques”. フランス航海暦の1889年以来の刊行と対象。閲覧2026年10月15日。

4. 海上保安庁海洋情報部、「『天測歴』等の廃刊について」。2022年版での廃刊、関連計算表等の廃刊と代替案内。告知見出しの表記は原文どおり。閲覧2026年10月15日。

5. Commissioners of Longitude / Nevil Maskelyne, The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris, for the Year 1767, London, 1766. Cambridge Digital Library所蔵本。扉・許可文書・序文、使用説明pp.145–150, 160–167。通常viewerが応答しない場合は公開IIIF manifestから原画像を参照できる。閲覧2026年10月15日。

6. U.S. Naval Observatory, “History of The Nautical Almanac”. 初年度刊記と対象年、米国成立、刊行形態、時間・表の変遷。閲覧2026年10月15日。

7. C. Y. Hohenkerk and J. L. Hilton, “Time references in US and UK astronomical and navigational almanacs”, Metrologia 48 (2011), S195–S199, doi:10.1088/0026-1394/48/4/S10. 特にS195–S197、時間系と暦の用途。2011年時点の論文であり、将来のUTC運用予測は現行仕様として扱わない。閲覧2026年10月15日。

8. U.S. Naval Observatory, “Celestial Navigation Data for Assumed Position and Time”. UT1入力、GHA・赤緯・高度・方位・補正、海面高度・標準大気・下縁観測等の条件。閲覧2026年10月15日。

9. IMCCE / Bureau des longitudes, “Comprendre — Concepts fondamentaux — Éphémérides”. 定義、理論・観測、時間引数、数値表と補間、多項式表現、印刷・電子媒体の説明。歴史的な機関所在地や「現在」の古い記述を現行制度の根拠にはしない。閲覧2026年10月15日。