アレクサンダー・ダリンプル#
アレクサンダー・ダリンプル(Alexander Dalrymple、1737–1808)は、英国東インド会社と海軍本部で海図や航海資料を整理した水路誌官である。時計師ではないが、ジョン・アーノルドの航海時計を船上で使い、経度の観測、航海日誌の標準化、海図の編纂へ結び付けた。時計を作る技術と、それを海で使って情報を集める実務との間をつないだ人物である。1 2
インド洋と海図への道#
1737年、スコットランドのエディンバラ近郊ニューヘイルズに生まれ、ハディントンで学んだ。東インド会社の書記として1752年に英国を出て、翌年マドラスに到着した。会社の記録や蔵書に触れ、1760年代初めにはボルネオ、フィリピン、中国方面への航海と測量を経験した。商業の拡大を構想する会社人としての活動と、航路・港の知識の収集は密接に結び付いていた。1 2 3
1765年に英国へ戻ると、航海記録や海図の収集・出版を続け、太平洋に大きな南方大陸があるという説も支持した。1768年には金星の日面通過を観測する遠征の指揮候補になったが、船の指揮権をめぐる問題があり、遠征はジェームズ・クックの指揮で行われた。ダリンプルの地理的構想は当時の探検と帝国の商業政策の文脈で理解する必要がある。1 3
1775年に再びマドラスへ向かい、翌年には政治的対立のさなか英国への帰途に就いた。1779年、会社に蓄積された船の日誌を調べ、海図と航海案内を作る仕事を引き受ける。1795年には海軍本部の初代水路誌官となり、会社の職務も続けた。会社や海軍の船が持ち帰った資料を集め、比較し、彫版・出版へ移すことが彼の仕事の中心だった。1 2
時計で経度を知る#
船が東西に移動すると、太陽が南中する現地時刻と、出発地など基準地の時刻との差が生じる。地球の自転に伴い、時差1時間は経度15度に相当する。航海時計に基準地の時刻を保たせ、天体観測から得た現地時刻と比較すれば、経度を求められる。ただし時計には進み遅れがあり、出発前に測った誤差と日ごとの歩度を考慮しても、長い航海中に誤差は変化し得る。観測や時計の管理を伴って初めて、時刻差は航海に使える情報になる。4 5
1775年の船グレンヴィル号でのマドラス行きには、ジョージ・ピゴットが所有するアーノルド製の時計が持ち込まれた。彼はクロード・ラッセルと観測を記録し、時計による経度を、針路と速力から位置を推定する推測航法や月距観測と比較した。刊行した航海日誌の欄説明は、推測航法と時計による経度の日々の変化の差から海流の影響を考える一方、針路や航程の誤差もその差に現れると注意している。6到着時にピゴットから船長アバクロンビーへ贈られたこの時計を、ダリンプルは1776年の帰路に船長から借り、1778年には自身の時計を注文した。これらの経験は、単発の位置だけでなく、航海を通じて一貫した経度の系列を得る価値を示した。1 2
時計による経度も自動的に正解となるわけではない。時計の誤差、天体の高さを測る誤差、計算、船の動きが結果に影響する。複数の方法を記録することは、それぞれの弱点を考え、航路や海図に使う観測の信頼性を吟味するために重要だった。2 5
航海日誌から海図へ#
東インド会社の船は多くの航海日誌を残していたが、観測方法や記録の形式が揃わなければ、別々の航海を比較して海図を作ることは難しい。ダリンプルは風・天候と位置を組み合わせた記録様式を提案し、時計による経度の記入を促した。収集した記録は、危険な浅瀬や港の位置の検討だけでなく、季節ごとにどの航路を取るかという実用上の判断にも役立つ。1 2
彼はモザンビーク海峡から中国海へ続く沿岸海図の体系を構想し、約15年間に港図、沿岸測量図、陸地の見え方を描いた図を合わせて約600点刊行した。観測値の乏しい海域では、古い推測航法の日誌を互いに整合させる難しさが残り、インド洋全体の正確な海図作成を妨げた。時計はその問題への有力な道具だったが、測量、資料の整理、印刷と配布を置き換えるものではなかった。1
アーノルドの時計と使い方#
ダリンプルはアーノルドの航海時計を強く支持し、その利用方法も説明した。専門研究者アンドリュー・クックによれば、1779年または1780年頃の小冊子 Some Notes useful to those who have Chronometers at Sea は、時差からの経度計算と太陽高度を使った時刻の求め方を扱った。1786年にはボンベイへ送った時計の取扱いと巻上げ、翌年には時刻計算の例を扱う資料を加え、1788年に Instructions concerning Arnold’s Chronometers としてまとめた。この手引きは死後も再版された。2
同じ研究によると、ダリンプルはその小冊子で、ジョゼフ・バンクスとの話し合いを踏まえ、海上の計時器に「クロノメーター」という名称を用いたと述べている。これは彼自身の説明として理解すべきで、あらゆる時代の同語の最初の使用を証明するものではない。また彼はアーノルドと競争者アーンショウの論争でアーノルド側を支持した。擁護文書は、性能をめぐる当事者に近い立場からの主張として読む必要がある。2
晩年と遺産#
海軍本部では蓄積された海図を分類し、製図・彫版の体制を整えた。1800年には海軍本部の海図の制作が始まったが、出版に必要な資金や人員には制約があった。1808年に解任され、その数週間後に死去した。クックは地理書や航海資料、海図などが遺言により海軍本部の収蔵の基礎になったと述べる。一方、オーストラリア国立図書館は蔵書が1809年に競売されたと記す。会社が引き取らなかった銅版の多くも後に海軍本部から再刊された。1 3
ダリンプルの重要性は、時計の新機構を発明したことよりも、航海者が計測し、記録し、他の航海の結果と照合できる仕組みに時計を組み込んだ点にある。時間の精度は、海図を共有するための地理的な知識へと変換された。
年表#
- 1737年:スコットランドのニューヘイルズに生まれる。1 3
- 1752–1753年:東インド会社に入り、マドラスへ渡る。2 3
- 1760年代:東南アジア方面を航海・測量し、帰国後に海図や航海記録を刊行する。1
- 1775–1776年:アーノルド製の時計を航海で使用し、経度観測を記録する。1 2
- 1779年:会社の日誌を調べ、海図と航海案内を整備する仕事を引き受ける。1
- 1788年:航海時計の取扱いと計算をまとめた手引きを刊行する。2
- 1795年:海軍本部の水路誌官となる。1 3
- 1800年:海軍本部の海図制作が始まる。1 3
- 1808年:海軍本部を解任され、死去する。1 3
参考文献#
1. Andrew S. Cook, “Dalrymple, Alexander,” The History of Cartography, vol. 4, pp. 328–329, University of Chicago Press, 2020. PDF(2026年11月4日閲覧)。
2. Andrew S. Cook, Alexander Dalrymple (1737–1808), Hydrographer to the East India Company and to the Admiralty, as Publisher, doctoral thesis, University of St Andrews, 1993, vol. 1, pp. 87, 104–112, 239–245. 本文(2026年11月4日閲覧)。
3. National Library of Australia, “Dalrymple Collection,” 2019. 所蔵案内(2026年11月4日閲覧)。
4. University of California Press, Background to Discovery: Pacific Exploration from Dampier to Cook, 1990, navigation discussion. 本文(2026年11月4日閲覧)。
5. Royal Museums Greenwich, “Our collections: A unique history of timekeeping.” 所蔵案内(2026年11月4日閲覧)。
6. Alexander Dalrymple, “Journal of a Voyage to the East Indies, in the Ship Grenville,” Philosophical Transactions of the Royal Society, vol. 68, 1778, pp. 389–418, とくに欄の説明 p. 389. 原本のデジタル複製(2026年11月4日閲覧)。