アンドルー・エリコット(Andrew Ellicott、1754–1820)は、アメリカ合衆国の国境と首都の測量に携わった天文観測者であり、時計と測量器械を自ら作り、調整した技術者でもある。時計史との接点は、精密時計を製作したことだけではない。野外へ運んだ時計が何秒進み、どれだけ遅れるのかを天体観測で確かめ、その時刻を位置の決定へ結び付ける実務にある。本人の1803年の報告書には1784年製作の精密振子時計が挙げられ、1803年の書簡には温度補償振子の製作が記されている。12
時計職人の家から天文測量へ#
父の工房と数学の教育#
エリコットは1754年1月24日、ペンシルヴェニアのバックス郡に生まれた。父ジョゼフ・エリコットは製粉業と時計製作に従事した人物である。1908年刊行の伝記『Andrew Ellicott: His Life and Letters』は、少年のアンドルーが父の複雑な音楽時計の製作を手伝ったと伝える。ただし、この時計をアンドルーの単独作品とすることはできない。家族内の工作環境と、少年が歯車や機構に触れた経歴を示す記述として読むべきである。34
同伝記は初歩の教育をソールズベリーのクエーカー学校で受けた可能性を述べ、その後フィラデルフィアでロバート・パターソンに学んだとする。学校に関する記述自体が推定を含む一方、数学者パターソンは後年も書簡を交わす指導者・協力者として現れる。エリコットの活動では、数学を学ぶことと器械を扱うことが別々の仕事ではなかった。4
時計と測量器械を作る職業期について、スミソニアンの研究者シルヴィオ・ベディーニは1774–1780年を挙げている。その後の主要な職務は測量と教育へ広がり、米国議会図書館の年譜では1785年にボルティモア・アカデミーの数学教師を務めたことが確認できる。以後、時計を商品として作るだけの職人というより、観測・計算・工作を組み合わせる実務家として歩んだ。35
国境と首都の測量#
1784年にはメイソン=ディクソン線に関わる測量に参加し、1789年にはニューヨーク州の境界測量を担った。1791–1793年の首都周辺の測量と1792年のランファン案の改図は、その仕事を代表する例である。さらに1796年には、合衆国とスペイン領フロリダの境界を定める任務に就いた。3
こうした測量では地上の距離や方角だけでなく、緯度・経度を決めるための天体観測が必要だった。エリコットは望遠鏡、天頂儀、六分儀、時計を組み合わせ、測定値と時刻を記録した。1803年に刊行した南部国境測量の『Journal』は旅行の記録と観測・器械の説明を収めており、器械の製作者も個別に挙げている。彼自身の製作、他の職人からの購入、既製器械への追加工作を区別できる点が重要である。1
野外の時刻を支えた時計と器械#
1784年のレギュレーターと現存時計#
『Journal』付録の器械一覧で、エリコットは1784年に自ら製作したレギュレーターを挙げている。ここでいうレギュレーターは、観測の時刻基準となる精密時計である。同じ一覧には秒針を備えた予備の時計2個もあり、主時計に事故が起きた場合や、主時計を運べない場所で使うものと説明される。野外の観測装備は一台の優秀な時計だけで完結せず、運搬と故障を見込んだ組合せだった。1
米国国立アメリカ歴史博物館には、エリコットに関連する天文時計が残る。所蔵記述によれば、鉄製の四角い文字盤に「Ellicott/Baltimore」とあり、時を刻む機械は真鍮製で、重錘を動力とする時刻専用のものだった。元のケースと機械を載せる座板は残っていない。博物館は機械の製作者をアンドルー本人または父ジョゼフとしており、製作時期も1790年頃より前と幅を持たせている。本人が報告書に挙げた1784年の時計と、現存個体の機械すべてを無条件に同一視することは避ける必要がある。6
1803年の温度補償振子#
1803年3月6日、エリコットはトマス・ジェファソンへ、自分のレギュレーターにグリッドアイロン、すなわち格子状の温度補償振子を取り付けたと書いた。棒と錘の合計重量は18ポンドで、官職の仕事があるため製作には日曜を使ったという。同時に彼は「この国で初めて」のものと述べているが、これは本人の優先権の主張であり、独立した全国的な調査によって確認された記録とは区別される。2
温度補償が狙うのは、温度の変化によって振子の有効な長さが変わり、時計の進み方が変わる問題である。博物館も現存個体の振子を温度補償用のグリッドアイロンと記述し、その製作・取付を息子のアンドルーに帰属させている。ただし、確認できる本人書簡は棒の本数、各材料の寸法、調整方法、完成後の秒差を示していない。英国のジョン・エリコットが考案した別系統の補償振子の仕様を、同姓を理由にこの個体へ当てはめることはできない。26
製作期間の記述にも幅がある。3月6日の書簡では6回の日曜、4月18日の書簡では新しい振子について5回の日曜とされる。2月24日付の妻宛書簡を載せた1908年の伝記には、勤務時間外と日曜を費やして前日に複合グリッドアイロン振子を完成したとの記述がある。これらは製作に注いだ労力を具体的に伝えるが、日数の差の原因や、すべてが同じ工程を指すかは確定できない。247
時計や補償振子に関する本人名義の特許の一次情報は確認できていない。ここでの製作と機構の説明は、本人の刊行報告・書簡と博物館の所蔵記録に基づく。特許が見つからないことは、特許が存在しなかったことの証明ではない。126
自作器械と共同製作の区別#
時計と組み合わせる主要な器械の一つが、1789年にエリコットが製作した子午儀兼等高度観測器である。『Journal』ではニューヨーク州の西境、首都地区の境界、ワシントンの主要道路の測設に使ったと記される。現存器械には「Andw Ellicott Philadelphia」の銘があり、国立アメリカ歴史博物館は所蔵番号PH.152080として管理している。同館は、メイソンとディクソンの測量で使われたジョン・バード製器械をモデルとするものと説明する。18
一方、大小2台の天頂儀について、エリコット自身は主な製作者を友人デイヴィッド・リッテンハウスとし、自分の仕事は追加工作だと記した。大きいものは半径約6フィート、小さいものは19インチで、後者は大きな器械を運ぶ費用と困難を避ける用途を持った。測量用コンパスの製作者としてはベンジャミン・リッテンハウスを挙げている。器械を所有し使用した人物と、設計・加工した人物を分けることで、エリコットを支えた職人の協働が見えてくる。1
時計を天体に合わせる技術#
等高度観測と人工地平#
野外へ運んだ時計の表示を、そのまま正しい時刻とみなすことはできない。エリコットが詳しく説明した方法の一つが、太陽を午前と午後に同じ高度で観測する等高度法である。時計で二つの観測時刻を読み、その間にある正午の時刻を求める。ただし太陽の赤緯、すなわち天の赤道からの南北方向の位置は一日の間にも変化するため、単純な中間時刻には補正が必要になる。9
陸上では、水平な水面に映った天体と実際の天体を六分儀で比べる人工地平器を使った。『Journal』は、水面が風で揺れると観測が安定しないことを説明し、容器を薄い雲母などを使った屋根で覆う仕組みを紹介する。1803年4月のルイス向けの助言では、強風が覆いを揺らしても水へ振動を伝えないよう、水の容器と覆いを一体にしない方がよいとも記した。透明な覆いを付けるだけでなく、その支持方法が測定へ与える影響まで検討していたのである。110
同じ助言では、等高度観測を正午の少なくとも2時間前と2時間後に行い、午前の観測後は六分儀の指標を動かさずに午後まで保管するよう勧めた。時刻だけを求める場合は同じ高度を再現することが中心となり、緯度まで求める場合には高度の数値も正しく読む必要がある、と目的の違いも説明している。10
赤緯変化の補正を示した原論文#
エリコットの時計校正に関する論文は、1801年1月16日にアメリカ哲学協会で朗読され、1809年の『Transactions』第6巻に掲載された。内容は、等高度観測の間に生じる太陽赤緯の変化を、緯度に関係する部分ともう一つの部分に分けて補正する計算法である。対数表を使う当時の計算手順と数値例が示されている。9
例では、同じ高度を観測した時計の読みを午前8時32分20秒と午後3時32分24秒とする。二つの時刻の中間は12時2分22秒になるが、そこで計算を終えない。原論文は秒より下を60進法で記しており、10秒24サードは10.4秒、2秒12サードは2.2秒に当たる(1サードは1秒の60分の1)。したがって第一の補正を10.4秒加え、第二の補正を2.2秒引くと、太陽の中心が子午線を通ったときの時計の読みは12時2分30.2秒となる。9
この8.2秒の差は、時計の性能値でも、観測が0.01秒まで正確だったことの証明でもない。太陽の動きに対する補正を時計の進み遅れと取り違えないための計算例である。時計の表示を天文時刻へ合わせるには、時計そのものの工作だけでなく、観測方法と計算の扱いが必要だったことを示している。9
現場の停止と修理を記録する#
『Journal』付録の観測日誌には、時計を据え付けたこと、寒さの中で停止したこと、錘の位置を調整したこと、清掃して再始動したことまで記される。末尾では、観測時の時計の読みを保存したのは、平均時・視時への換算に誤りがあっても再検討できるようにするためだと説明した。完成した数字だけでなく、その数字を生んだ時計の状態を残す姿勢である。1
本人はまた、仮設の観測所では雨風にさらされ、荒野の運搬で器械を傷めることが多かったと述べる。自分に器械製作の習慣がなければ、修理のためにヨーロッパへ送り返して仕事を中断しなければならなかっただろう、と振り返った。彼の工作技術は、測量を現場で続けるための修理能力でもあった。1
利用者への助言と晩年#
ルイスの訓練と器械の選択#
1803年、ジェファソンが準備した西部探検に向け、メリウェザー・ルイスはランカスターでエリコットの指導を受けた。国立公園局の記述では4月19日に到着し、翌20日から観測の練習を始め、5月7日にフィラデルフィアへ向かった。エリコットの3月6日書簡は、観測を素早く確実に行う技能には練習が欠かせないと強調し、自分の器械を使って指導すると申し出ていた。211
彼は携帯時計としてジョン・アーノルドのクロノメーターを勧めたが、それを自分の製品と称してはいない。4月18日の書簡では、ジョン・ヴォーンを介した照会に応じ、人工地平器を自分の監督下で製作させることを引き受けている。照会の名義人はメイン地区の人物で、エリコット自身はルイス用の器械ではないかと推測した。この推測と実際の注文経路は分けて読む必要がある。27
ルイス向けの助言には、クロノメーターを使わないときはケースごと防水用の袋に包み、カヌーの転覆などで水へ落ちた場合に備えるようにとの注意もある。ここにも、最高の器械を選ぶだけでは足りず、移動中の破損・水濡れ・観測の不手際を減らすという実用的な視点が表れている。10
政府の測量委嘱、器械の製作監督、科学者への指導は確認できるが、ジェファソンやルイスをエリコット製時計の購入者とする根拠とはならない。彼の顧客・利用者を考える際は、時計販売、政府からの業務委嘱、観測方法の教授を分けることが大切である。127
ランカスターからウェストポイントへ#
1801年10月、エリコットはペンシルヴェニア土地局の書記に任命され、ランカスターへ移った。この時期に書簡、観測、振子の工作を続けた。1813年には陸軍士官学校ウェストポイントの数学教授となる。1908年の伝記には、同年7月の陸軍省からの照会、10月の本人書簡、11月の妻の到着報告が収められ、赴任の経緯を追うことができる。3412
晩年も米加国境に関わる測量を担い、1820年8月28日にウェストポイントで死去した。議会図書館の年譜と、伝記に転記された同日付の家族書簡がこの日付を示す。現在は本人の時計と器械がスミソニアンに、書簡や観測記録が議会図書館などに収蔵されている。3468
エリコットの意義は、孤立した一つの発明より、時計を作る・測る・運ぶ・直す・教えるという仕事を連続したものとして扱った点に見いだせる。温度補償振子、等高度観測、赤緯の補正、予備時計、現場の修理は、それぞれが別の問題を解いている。時計の読みを地理上の位置へ結び付けるには、それらを組み合わせる必要があった。129
年表#
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1754年1月 | ペンシルヴェニアのバックス郡に生まれる。3 |
| 少年期 | 後年の伝記は父ジョゼフの音楽時計製作を手伝ったと伝える。4 |
| 1774–1780年 | ベディーニの研究が時計・器械製作者としての活動期に挙げる。5 |
| 1784年 | メイソン=ディクソン線に関わる測量に参加。本人はこの年のレギュレーター製作を記す。13 |
| 1785年 | ボルティモア・アカデミーで数学を教える。3 |
| 1789年 | ニューヨーク州の境界測量。子午儀兼等高度観測器を製作する。18 |
| 1791–1793年 | 首都地区の測量に従事。1792年に都市計画図を改め、1793年に地図を刊行する。3 |
| 1796年 | 合衆国とスペイン領フロリダとの境界測量を委嘱される。3 |
| 1796–1800年 | 南部国境測量で天体・気温・時計の状態を記録する。1 |
| 1801年1月 | 等高度観測における太陽赤緯変化の補正法をアメリカ哲学協会で発表する。9 |
| 1801年10月 | ペンシルヴェニア土地局書記に任命され、ランカスターへ移る。4 |
| 1803年2–4月 | 温度補償振子の製作・完成について妻とジェファソンへ書き送る。247 |
| 1803年4–5月 | ルイスの観測訓練に携わる。11 |
| 1803年 | 南部国境測量の『Journal』を刊行する。13 |
| 1809年 | 等高度観測の補正法が『Transactions』第6巻に刊行される。9 |
| 1813年 | ウェストポイントの数学教授に就任する。312 |
| 1818–1820年 | 議会図書館の年譜では、米加国境確定の首席米国測量者を務める。3 |
| 1820年8月 | ウェストポイントで死去する。34 |
| 1908年 | 家族書簡などを収めたMathewsの伝記が刊行される。4 |
| 1964年 | ベディーニの器械製作史が、現存器械と製作者の関係を整理する。5 |
参考文献#
- Andrew Ellicott, The Journal of Andrew Ellicott, Philadelphia, Budd & Bartram for Thomas Dobson, 1803。付録pp.3–12、44–48、151。Newberry Library所蔵初版のデジタル原本。閲覧日:2026年10月26日。
2. Andrew Ellicott to Thomas Jefferson, 6 March 1803, Founders Online, National Archives。書簡本文。The Papers of Thomas Jefferson, vol.40, pp.15–16。閲覧日:2026年10月26日。
3. Library of Congress, Manuscript Division, Andrew Ellicott Papers: A Finding Aid, 2003、2010年改訂、pp.2–5、特にp.4の年譜。所蔵資料案内。閲覧日:2026年10月26日。
4. Catharine Van Cortlandt Mathews, Andrew Ellicott: His Life and Letters, New York, The Grafton Press, 1908、pp.7–12、206–210、229–233、244–246。デジタル原本。初期教育の一部は著者の推定、書簡は同書掲載の転記による。閲覧日:2026年10月26日。
5. Silvio A. Bedini, Early American Scientific Instruments and Their Makers, United States National Museum Bulletin 231, Smithsonian Institution, 1964、pp.19–21、131–137、142–146。全文電子版。閲覧日:2026年10月26日。
6. National Museum of American History, Smithsonian Institution, “Astronomical Regulator,” ID 1986.0189.01 / nmah_1050451。所蔵記録。機械はAndrewまたはJosephへの帰属、元ケース欠。閲覧日:2026年10月26日。
7. Andrew Ellicott to Thomas Jefferson, 18 April 1803, Founders Online, National Archives。書簡本文。The Papers of Thomas Jefferson, vol.40, pp.222–223。閲覧日:2026年10月26日。
8. National Museum of American History, Smithsonian Institution, “Transit and Equal Altitude Instrument,” PH.152080 / nmah_758993。所蔵記録。閲覧日:2026年10月26日。
9. Andrew Ellicott, “A Short and Easy Rule for Finding the Equation for the Change of the Sun’s Declination When Equal Altitudes Are Used to Regulate a Clock or Other Time Keeper,” Transactions of the American Philosophical Society, vol.6, 1809, pp.26–28。DOI: 10.2307/1004760、原論文PDF。1801年1月16日朗読。閲覧日:2026年10月26日。
10. Andrew Ellicott, “Remarks on Observations with a Sextant,” enclosure, 18 April 1803, Founders Online, National Archives。本文。The Papers of Thomas Jefferson, vol.40, pp.223–224。閲覧日:2026年10月26日。
11. National Park Service, “Andrew Ellicott,” 2019年4月5日更新。解説。ルイスの訓練日程に参照。閲覧日:2026年10月26日。
12. United States Military Academy Library Archives and Special Collections, “Andrew Ellicott papers, December 3, 1814–December 25, 1815.” 所蔵記述。数学教授在任1813–1820。閲覧日:2026年10月26日。