シャルル=ピエール・クラーレ・ド・フルリュー(Charles-Pierre Claret de Fleurieu、1738–1810)は、フランスの海軍士官、水路学者、地理学者、海軍行政官である。初期の著作にはd’Éveux de Fleurieuの名を用いた。時計史では、フェルディナン・ベルトゥーの海上時計を単に携行した船長ではなく、天文学者アレクサンドル=ギー・パングレとともに、性能を検証する観測・管理・計算の手続きを組み立てた人物として重要である。1 2
海軍士官から時計の試験者へ#
フルリューは1738年7月2日にリヨンで生まれた。数学の素養を持ち、1755年に海軍の士官候補生となり、七年戦争に従軍した。1761年にはリヨンのアカデミーに選出され、1762年の入会講演で航海術の諸分野を扱った。船を動かす実務と、数学・天文学・計測の研究を早くから結び付けた経歴である。1 3
1765–1768年にはベルトゥーのもとで時計学を学び、天文時計の製作にも取り組んだとリヨンの伝記資料は記す。ここでの師はフェルディナンであり、のちに小型の航海時計で知られる甥のルイ・ベルトゥーとは区別する必要がある。フルリューは量産時計を作る工房主というより、構造を理解して、実際の船上でどう試すかを設計する技術者・利用者の側に位置する。2 3
ベルトゥーが取り組んだ課題は、出発地の時刻を海上へ運び、天体観測による現地時刻との差から経度を求めることであった。しかし、精密時計の陸上試験だけでは、船の運動、温度変化、巻上げ、港への出入りを含む長期運用に耐えるか分からない。フルリューの仕事は、この不確かさを実測できる問題に変えることだった。2
『イジス』の海上試験#
1768–1769年の試験航海には、ベルトゥーのNo.6とNo.8という二台を用いた。本人の報告は両者を明確に区別する。No.6は1秒間に4振動し、時・分・秒の針を同心に置く。No.8は1秒刻みの秒表示を中央に置き、分表示を偏心させ、時は窓に順次現れる。いずれも原則24時間ごとの巻上げを想定し、余裕の運転時間があっても、日常の観測条件をそろえるように扱った。2
船はロシュフォールからイギリス海峡ではなく大西洋の南方・西方へ向かい、カディス、カナリア諸島、ゴレ、カーボベルデ、マルティニーク、サン=ドマング、ニューファンドランド沖、アゾレスなどを経て戻った。第1部の「海上時計日誌」には、1768年11月のロシュフォールでの第1回検査から、1769年11月のエクス島での第14回・最終検査までが整理されている。後世の「15か月」「18か月」という要約には、準備・検査を含める範囲の差があるため、試験日誌の個別日付を基準に読むのが確実である。2 3 4
鍵、立会人、署名#
1773年刊報告の冒頭には「試験に関するすべての操作の真正性を確認するため」の調書がある。1768年11月8日に二台をロシュフォールへ置き、時計箱を二つの異なる鍵で閉じ、フルリューとパングレがそれぞれ鍵を管理した。観測室にも鍵を分けて設け、一人だけでは時計へ触れられないようにした。12月8日に『イジス』へ運び込んだ後も、室と箱に複数人の立会いを必要とした。2
これは盗難防止だけではない。途中で針を合わせたり、不都合な観測を後から書き換えたりしたのではないかという疑いに対し、試験結果が誰の管理下で得られたかを示す仕組みである。時計の精度に加えて、その精度を主張する証拠の信頼性まで設計している点が、フルリューとパングレの重要な仕事となる。2
比較を繰り返し、観測者を入れ替える#
日々の巻上げは当直士官の立会いで行い、二台の表示を比較した。一人がNo.8で秒を声に出して数え、60秒になった瞬間に他方がNo.6の秒と端数を読む。その後、二人は場所を交換して繰り返し、士官が記録して両観測者とともに署名した。水銀温度計の読みも同じ記録へ加えた。時計間の差だけでなく、読み手の癖と温度の影響を識別するための情報が残る。2
陸上での天文時計との比較にも同様の手順を使った。寄港地では太陽高度から時刻を求め、船上の時計と陸上の基準を火光信号で照合する。調書は、予告信号を付けて比較を5回繰り返すこと、信号を見る人と時刻を読む人の間に生じる遅れを見積もることまで記している。脚注では半秒の差を計算で扱ったと説明する。これは海上時計の歩度と、人が測る際の反応遅れを切り分けようとする試みだった。2
時計から経度、経度から海図へ#
経度を時間差へ変換する基礎は、地球が24時間で360度回転する関係である。同じ種類の時刻を比べれば、1時間の差は15度に相当する。現地時刻が基準地より先なら東、遅ければ西となる。ただし、機械時計の表示と太陽を観測して得た時刻は、そのまま比較できるとは限らず、時計の既知の進み遅れや、視太陽時と平均時の違いを計算に入れる必要がある。2
したがって、目的は「時計を合わせて放置する」ことではない。出航前に歩度を求め、寄港地で確認し、二台の相互差と環境を追い、測定法の誤差も記録する。その結果を用いて、島や岬の位置、港までの航路を修正する。1773年の書物は第1部に時計日誌と航海日誌、第2部に天文観測と使用・計算の付録を置く構成で、時計製作と海図作成を結ぶ実務書でもある。2 3

図1:『Voyage fait par ordre du roi…』第2部の扉、パリ、王立印刷所、1773年。著者:Charles-Pierre d’Éveux de Fleurieu。扉の装飾版画の制作者は本画像から確定できない。出典:Wikimedia Commons個別ファイル。Public Domain(1773年公表の原本の忠実な平面複製、著者は1810年没。根拠:権利表示、Public Domain Mark 1.0)。変更なし。
成果の評価と、優先権の争い#
現在のフェルディナン・ベルトゥー公式史は、No.8によって経度を半度以内に求めたとし、成功が1770年の海軍時計師任命と20台の注文につながったと説明する。これは時計の採用をめぐる重要な成果だが、現代メーカーによる歴史の要約である。「半度以内」はあらゆる地点・期間に共通する保証日差でも、二台の時計が常に同じ成績だったという意味でもない。4
フルリューはベルトゥー側の技術を支援し、1768年にはル・ロワの試験・構造論への批判も著した。よって彼の航海報告は、詳細な観測記録として重要であると同時に、フランスの海上時計開発における競争の当事者が書いた史料でもある。ベルトゥーとピエール・ル・ロワの優先権を、この報告の成功だけで一方へ帰することはできない。2 3
また、フルリューに「フランス最初の航海時計の発明」をそのまま帰属させるのも正確ではない。本人の書名は時計の発明者を明瞭に「M. Ferdinand Berthoud」としている。彼自身の貢献は、時計学を理解したうえで、試験航海を指揮し、観測を組織し、検証可能な報告として公刊したことにある。2
海軍行政、革命、晩年#
フルリューは1776–1777年に港湾・工廠行政の責任者となり、海軍の調達と運用を担った。ラ・ペルーズ探検の指示書作成にも関わり、時計を含む観測機器を用いて世界を測る事業を行政側から支えた。1790年に海軍・植民地大臣となったが、1791年に辞任する。1 3
革命期には投獄と釈放を経験した。1795年には経度局、のちには国立学士院に属し、1797年の元老会議、1799年以降の国務院を経て、ナポレオン体制下でも海軍・地理学の知識を求められた。1810年にパリで死去し、パンテオンへ葬られた。没日はリヨン・リンネ協会の目録が17日、リヨン・アカデミーのLouis Davidの伝記が死亡記録の所在を示して18日とするため、本稿では後者を採る。1 3
年表#
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1738-07-02 | リヨンで誕生 |
| 1755 | 海軍士官候補生。七年戦争期に海上勤務を経験 |
| 1761-11 | リヨン・アカデミーに選出 |
| 1765–1768 | ベルトゥーに時計学を学び、天文時計を製作したとされる |
| 1768-11 | ロシュフォールでNo.6とNo.8の管理・比較試験を開始 |
| 1768-12-08 | 二台を『イジス』へ搭載 |
| 1769-11 | エクス島で最終検査 |
| 1773 | 海上試験報告を王立印刷所から刊行 |
| 1776–1777 | 港湾・工廠行政の責任者に就く |
| 1785 | ラ・ペルーズ探検が出航。計画・指示書に協力 |
| 1790–1791 | 海軍・植民地大臣 |
| 1793–1794 | 革命期に逮捕・拘禁される |
| 1795 | 経度局と国立学士院の活動へ |
| 1799 | 国務院に入る |
| 1810-08-18 | 死去。17日とする資料もある |
| 19–21世紀 | 航海報告と観測資料が図書館に保存され、デジタル公開される |
出典:1–4。職名就任の月日は資料差があるため、年単位または範囲で示した。
調査上の限界#
時計の試験手順は本人の刊本で具体的に確認できるが、No.6・No.8の全測定値を現代的に再計算したものではない。フルリューが製作したとされる天文時計の現所在、各部品の自作範囲、海軍行政時代の調達台帳の全体、ル・ロワとの論争の全書簡も確認できていない。これらの空白を、一般的な「海軍時計師」「発明家」という称号で埋めることはできない。2026年時点でも、彼の時計史上の役割を最も直接に伝えるのは、観測の公正さまで規定した1773年の試験報告である。
参考文献#
- Louis David, “CLARET de FLEURIEU de La TOURRETTE Charles Pierre (1738–1810)”, Dictionnaire historique des académiciens de Lyon, 改訂版、公開年記載なし。アカデミー公式伝記。閲覧2026-10-22。
- Charles-Pierre d’Éveux de Fleurieu, Voyage fait par ordre du roi en 1768 et 1769… pour éprouver en mer les horloges marines inventées par M. Ferdinand Berthoud, Paris, Imprimerie royale, 1773, première partie, “Procès-verbal…”, pp.LXVII–LXXI、時計日誌の構成。ETH書誌・原本、試験調書部分PDF。閲覧2026-10-22。
- Société linnéenne de Lyon, “Claret de Fleurieu Charles-Pierre (1738–1810)”, Dictionnaire historique des membres, pp.1–7。伝記・著作目録。閲覧2026-10-22。没日と一部の職歴日付は[1]と異なる。
- Chronométrie Ferdinand Berthoud, Histoire, 1768年・1770年項。公式史。閲覧2026-10-22。現代ブランドによる歴史説明であり、本人の試験日誌とは区別した。