ダニエル・クエール (Daniel Quare, 1648/1649年頃 – 1724年3月21日) は、17~18世紀イングランドの著名な時計職人・計器製作師であり、懐中時計で時と四半時を一度の操作で報せる繰返し報時機構(リピーター)の考案者として知られています4 1。また、携帯可能な水銀気圧計(ポータブル・バロメーター)を開発し特許を取得した人物でもあります4 1。彼は高精度の振り子時計や長持続の時計も手掛け、17世紀ロンドンの成功した時計師の一人に数えられています2。
生涯と経歴#
ダニエル・クエールは1648年または1649年頃、イングランド南西部サマセット州に生まれたと推定されています4。誰のもとで時計製作を学んだかは明らかではありません。メトロポリタン美術館も修業先を不明としています。2
1671年4月3日, クエールはロンドン市の時計師組合 (Clockmakers’ Company) に「会員(brother)」として入会を許可されました4。1676年の婚姻登録ではマーティンズ=ル=グランド在住の時計師と記されており、組合入会時の「Great Clockmaker」は、メトロポリタン美術館の解説によれば塔時計を扱う職種を指します3 2。クエールは熱心なクエーカー教徒としても知られ、ロンドン・ビショップスゲートのデヴォンシャー・ハウスでのフレンド派集会に初期から参加していました4。1676年4月18日, ロンドンでメアリー・スティーヴンスと結婚します4。結婚式はクエーカー教徒の習慣に則りデヴォンシャー・ハウスで執り行われ、記録にはクエールが「ウェストミンスター管区マーティンズ=ル=グランド在住の時計師」として記されています4。
しかし当時のイングランドにおいて非国教徒であるクエーカー教徒は社会的迫害の対象でした。クエールも信仰に基づき英国国教会への課税や政府への徴募金支払いを拒んだため、1678年には教区聖職者維持の課税を拒否した2ポンド12シリング6ペンスの罰金を科され、5ポンド相当の家財を差し押さえられました4。1679年にも民兵徴募費の負担を拒否して時計2台と懐中時計2個を没収されるなど、度重なる財産差押えに苦しめられました4。それでも信念を曲げることなくクエーカー活動を続け、1683年にはホワイト・ハート・コートの集会参加を理由に、クエールとほか5人から合計195ポンド17シリング6ペンス相当の財産が差し押さえられたとラドフォードは記しています4。こうした迫害にもかかわらず彼の時計師としての評判は高まり、1685年にはロンドン中心街の時計商が集まるエクスチェンジ・アレー(交換横町)にある「キングズ・アームズ」という表札の店舗に移転しました4。同年即位したジェームズ2世の治世下、1686年6月4日にはクエーカー教徒代表の一人として王直属の委員会に召喚され、他の50名ほどの同志とともに迫害の実情を訴える機会を得ました4。さらにジェームズ2世の追放後に即位したウィリアム3世の時代には、クエールは王の知遇を得て迫害緩和に尽力します。1689年には再び罰金を科されましたが、その後ウィリアム3世の厚遇を受け、クエールの請願でウェストモーランドの囚人2人が釈放されたとラドフォードは記し、これとは別に1695年5月2日、彼がジョージ・ホワイトヘッド、ギルバート・レイティーら4人とウィリアム3世の非公式面会を取り次いだと述べています4。また原文で1695–6年2月7日付でクエールを含む20名のクエーカー教徒が議会に請願書を提出するなど、宗教的寛容の拡大に貢献しました4。
クエールの時計師としての名声もこの頃確立されます。1680年代前半にはすでに懐中時計への繰返し報時(リピーター)機構の考案に着手しており、1686年にはロンドン・ガゼット紙に彼の製作した「振り子式懐中時計」を紛失した旨の広告が掲載されています4。広告の引用によれば、その時計には6時間分の数字と各時の間の小さな目盛があり、1本の針が6時間で一周して時と分を示しました4。クエールの現存作には一針式と、時・分を別々の円で示すものもあり、異なる表示方式が工房で並存していました。4
クエール最大の転機は1687年に訪れます。聖職者でもあった発明家エドワード・バーロウ(別名エドワード・ブース)が、自身考案の「引き繰り返し時計」の特許を申請した際、ロンドン時計師組合はクエールがそれ以前に製作した懐中時計に同様の報時機構があることを証拠としてこの特許に異議を申し立てました4。両者の報時機構を比較検討する場が設けられ、国王ジェームズ2世も審問に関与したと伝えられます。その結果、クエールの機構は1度の操作で「時」と「15分刻み(四半時)」の両方を打刻できる優れたものであり、対してバーロウの方式では時刻と四半時を別々に操作する必要があったため劣ると判断されました4。ジェームズ2世はクエールの発明に軍配を上げ、バーロウへの特許付与を認めませんでした4 5。1687年3月2日の枢密院命令を翻刻する時計師組合史は、既に複数の時計師が製作していることを理由に、バーロウその他への独占特許を認めないと記します。クエールへの特許付与を意味する裁定ではありません。6アシュモレアン博物館には初期のクエール製リピーター(WA1947.191.85)があり、Metの研究は、彼の最初期、あるいは最初の四半時リピーターである可能性を挙げています。2
ジェームズ2世亡命後に即位したウィリアム3世(在位1689–1702年)はプロテスタントでありクエーカーへの寛容政策をとりました。クエールはウィリアム3世から直接の庇護も受け、その腕を高く評価されています。クエールは国王の注文に応じ「一年時計」 とも呼ばれる特別な長持続時計を製作しました。この時計は一度の重錘巻き上げで1年間動作するとされるもので、就寝室に置かれ夜間の音を避けるため報時機構を持たない静粛な振り子時計でした4。ラドフォードの1896年の記述では、この時計はハンプトン・コート宮殿の王の寝室にあり、日時計の時刻、緯度・経度、太陽の運行を示すと記されています4。高さ3メートルを超える堂々たる時計で、頂部には5体の金色の人物像が飾られています4。のち1836年に修復師のベンジャミン・ルイス・ヴュリアミーによって一部改造され、均時差を示す機構が外され振り子も交換されましたが、Metの所蔵品研究もRoyal CollectionのRCIN1040を年時計の例として挙げています2 4。さらにクエールはグリニッジの王立海員病院からも依頼を受け、1716年に恒星時と太陽時の二つの時刻を同時に表示できる二振り子式の長柱時計を製作しています7。この時計は左右に独立した文字盤を持ち、一方が天文学者向けの恒星時、もう一方が日常用の平均太陽時(グリニッジ平時)を示し、上部中央には日付と均時差を示すダイヤルまで備えた精巧なものでした7。Royal Museums Greenwichの記録では、1716年に病院の評議室用に購入され、当初の性能への不満のため70ポンドの支払いが1718年になりました。改良の具体的内容や引渡日をこの説明から確定することはできません7。同館は同種の既知の時計を3台とし、クエール作品の希少さと技術水準の高さを物語っています7。
クエールは時計以外にも計測器の分野で革新的な業績を残しました。1695年8月2日, 彼は携帯式水銀気圧計(携帯できる晴雨計)の発明に対して特許を取得しました4。ラドフォードが引用する特許説明では、倒立して運んでも水銀をこぼさず、管内へ空気を入れず、測定時には通常の計器と同様に大気圧が作用することを意図しています。4携帯気圧計の同時代の受け止め方を伝える記録として、時計師組合の1695年6月・9月の決議があり、携帯計器を製作・販売する権利をめぐって他の製作者も関与していたことが分かります。6現存する携帯気圧計には、科学博物館1948-227 Pt1、サー・ジョン・ソーン博物館MP281、メトロポリタン美術館64.101.877があります。8 9 10 11ラドフォードは1896年時点でハンプトン・コートの据置型にも言及しています。現存する携帯型には卓上に立てたり壁に掛けたりできるものがあり、所蔵品記録は携帯性と室内での使い方の両方を伝えます。4 9このようにクエールは時計以外の精密機器の分野でも先駆的な技術者でした。
時計師組合内でのクエールの地位も上昇を続けました。1697年には組合の評議員に選出され、1705年および1707年にはワーデン(役員)を務め、1708年9月29日には組合の親方(マスター)に選出されています4。徒弟から共同経営者へ進んだ人物には、スティーブン・ホースマンがいます。彼は1709年に組合自由会員となりました。2メトロポリタン美術館によれば、1718年頃にクエールのビジネス上の共同経営者(パートナー)となり、クエールの工房は「クエール&ホースマン」の名で活動しました2。クエール晩年の製作品にはホースマンと連名のものもあります2。クエールは1710年代にはイングランド屈指の富裕な時計商・時計師となり、宮廷や国内外の上流顧客から厚い信頼を得ていました。長女アンの1705年の結婚式にはヴェネツィア・フィレンツェ・ハノーファー・ポルトガル・スウェーデン・プロイセン・デンマーク各国の駐英外交使節が参列し3、1715年に三女エリザベスが結婚した際にはマールバラ公爵夫人サラ・チャーチルまでもが署名人の一人として名を連ねています4 3。このようにクエールは宗教的マイノリティでありながら社交界や国際社会にも影響力を持つ存在となっていきました。
宮廷との関係には、信仰上の制約もありました。メトロポリタン美術館は、セドリック・ジャガーの研究に基づき、クエーカーとして国王への忠誠の宣誓を拒んだことが王室時計師への正式任命を妨げた一方、イングランドと大陸の貴族社会へ直接出入りできたことを述べています。王室の時計を扱う仕事と、宣誓を必要とする公職に就くことは同じではありません。2
ラドフォードの伝記によれば、ダニエル・クエールは1724年3月21日(原記載1723–4年。3月25日を年の始めとする当時の年記との二重表記)にロンドン南郊クロイドンに所有していた邸宅で75歳で死去しました4。遺体は3月27日にロンドン市壁外バンヒル・フィールズのクエーカー墓地(チェッカー横丁)に埋葬されています4。死の直後に発行された新聞『デイリー・ポスト』1724年3月26日号には訃報が掲載され、「交換横町の時計師ダニエル・クエール氏逝去。かの人はこの技術に多大な改良をもたらしたことで国内外の宮廷で有名であり、その工房と商売は徒弟で共同経営者のホースマン氏が継ぐ模様」と報じられました4。クエールの遺言は1723年5月3日付で作成され、翌1724年3月26日に息子で執行人のジェレマイアによって検認されています4。遺産の処分として、妻メアリーに2,800ポンドとロンドンおよび別荘の全家具調度品、および妻が普段身に着けていた金時計2個(うち1つは繰返し時計) が遺贈されました4。ラドフォードは幼児期を生き延びた子として商人ジェレマイアと娘アン、サラ、エリザベスを挙げ、アンの夫をジョン・ファルコナー、サラの夫をジェイコブ・ワイアンと記しています。エリザベスは薬種商シルヴァナス・ベヴァンと結婚しており、その婚姻証人帳にはサラ・チャーチル公爵夫人とほか72名もの署名が残されています4。妻への現金遺贈に加え、家具や日常携帯する金時計まで指定した内容は、工房の成功と家族の生活を具体的に伝えます。4
発明と技術的貢献#
時打ち懐中時計(リピーター)の発明#
懐中時計のリピーターは、必要なときに操作して時刻を音で確かめる機構です。定刻に自動的に鳴る時打ちとは、報時を始めるきっかけが異なります。ラドフォードの伝記は、1687年に争われたクエールとバーロウの方式を、時と四半時を一度の押し操作で報せるか、二度の操作を必要とするかという違いで説明しています。4
ここでの四半時は15分刻みです。時の数だけでなく、正時からどの四半時まで進んだかを音で読み分けられれば、暗い場所でも針を見ずに時刻の範囲が分かります。分単位の時刻を報せるミニッツ・リピーターとは区別されます。クエールの仕事の特徴は、時と四半時という二種類の情報を一回の操作にまとめたことにあります。2 4
初期の四半時リピーターはアシュモレアン博物館のWA1947.191.85として現存します。Metの研究はこれをクエールの最初期、あるいは最初の例である可能性のある作品として挙げています。一操作で四半時を報せる初期の携帯時計を伝える作例です。2
クエールの方式で重要なのは、時と四半時を一度の操作で呼び出せることです。時刻を目で読む表示と、必要なときに耳で確かめる表示を、一つの携帯時計に収めています。時刻の情報を打数へ変え、報時機構へ動力を渡す仕組みが携帯時計の中に加わります。メトロポリタン美術館のグラハム作時計解説は、バーロウの1676年の置時計、トンピオンがバーロウ向けに作った1685年の懐中時計、1687年の比較を区別しています。クエールの一操作式は、先行する時打ち・繰返し時計を背景にした携帯時計の工夫でした。12
同軸二針式表示の導入#
時と分を同じ中心から伸びる長短2本の針で示す方式も、クエールと結び付けて語られてきました。ラドフォードはこの功績が彼に帰されることを紹介しつつ、ホイヘンスの1673年刊『Horologium Oscillatorium』p.4に既に同心二針の図があると指摘しています。クエールの現存作にも1本針のもの、時と分を別々の円と針で示すものがあると説明します。このため、クエールの工房では複数の表示方式が併存したと考えられます。1686年の紛失広告で知られる6時間一周の時計も、並存した表示の一例として理解できます。4
同心二針は、分の目盛と時の目盛を一つの文字盤上で読み合わせられる表示です。一方、メトロポリタン美術館の共同名義の長柱時計64.101.870では、中央の時分表示に加え、小秒針と暦を別の場所に置いています。単に針を増やしたのでなく、異なる速さで変わる情報を読み分けられるよう配置した実例です。2

図1:クエール&ホースマンの暦付き長柱時計の文字盤(1720–25年頃、メトロポリタン美術館64.101.870)。作品制作者:Daniel Quare、Stephen Horseman。写真提供:The Metropolitan Museum of Art(撮影者名の記載なし)、Gift of Irwin Untermyer, 1964。出典:所蔵品ページ。ライセンス:CC0 1.0 Universal。変更:なし。
携帯式気圧計の発明#
水銀柱式気圧計は、測定時に働く大気圧を水銀柱の高さに表す計器です。クエールの携帯式では、運搬中に水銀を失うことや、管へ空気が入ることを防ぎながら、測定時には大気圧が作用するようにする点が課題でした。ラドフォードは1695年8月2日付特許の趣旨を、倒立して運んでも漏出と空気流入を防ぐものとして引用しています。特許原巻または完全な翻刻は本稿の調査では発見できておらず、技術説明はラドフォードの引用と所蔵館の研究によります。倒立したまま通常の測定ができるという性能までは示されていません。4 8 9 10 11
組合は1687年にはリピーターの独占に反対しましたが、1695年には会員クエールの携帯気圧計特許にも反対しています。刊行組合史に引用された6月3日の決議は特許を止める方針を示し、9月30日の記録は既に特許が成立したと報告したうえで、訴えられる会員、使用人、ジョン・パトリックを組合が防御すると定めています。技術を作る側と、それを独占して販売する権利を守る側の利害が、案件ごとに一致するとは限らなかったことが分かります。6
現存するものには、1695年頃のメトロポリタン美術館64.101.877、科学博物館1948-227 Pt1、1710年頃とされるソーン博物館MP281があります。後者には折畳み脚、28–31インチの目盛と20分の1インチの細分があり、館は無署名の品をクエールへ帰属させています。1948年の『Nature』が紹介した科学博物館への貸与品では、革底の水銀槽をねじで押して運搬時に管を水銀で満たし、管上端のくびれで水銀の衝撃を弱める工夫が説明されています。この現存品では、運搬のために測定系を保護する具体的な手順が分かります。脚で卓上に立て、輪で壁に掛けられる計器は、携帯性が小ささだけを意味しなかったことも伝えます。8 9 10 11

図2:携帯気圧計(1695年頃、メトロポリタン美術館64.101.877)。作品制作者:Daniel Quare。写真提供:The Metropolitan Museum of Art(撮影者名の記載なし)、Gift of Irwin Untermyer, 1964。出典:所蔵品ページ。ライセンス:CC0 1.0 Universal。変更:なし。
その他の技術的工夫と作品#
長期間の駆動には、動力を増やすだけでなく、伝達に必要な輪列、摩擦、針の負荷、重錘が下がる空間をまとめて設計する必要があります。ラドフォードが引くブリテンの年時計の説明は、81ポンドの重錘が4フィート6インチ降下して13か月以上駆動する個体について、軽いガンギ車、釣り合いを取った分針、短い軸と細い軸先を挙げています。同じ伝記はハンプトン・コートの重錘を72ポンドと記します。二つの年時計には異なる重量の重錘が用いられていました。4
時計師組合コレクションの年時計no.1264(科学博物館L2015-4174)では、走行輪列6輪、アンカー脱進機、秒振子という構成を所蔵館が記録しています。オークにウォルナットを化粧張りしたダニエル・マロー風ケースを持ち、所蔵館は製作期を1700–1710年(説明では1705年頃)とし、初代コニングズビー伯トマスがウィリアム3世の来訪に備えて注文したと記しています。王は1702年没のため、この年代帰属と発注説明だけから、注文と製作の厳密な前後関係は定まりません。のちの所有者にはリチャード・アークライトがいます。王室だけでなく、王を迎える貴族の家にも長持続時計の需要があった具体例です。13
共同名義の小型長柱時計64.101.870(1720–25年頃)は35日駆動です。走行輪列5輪、長振子によるアンカー脱進機と、ラック&スネイル式の時打ちを備えます。走行と打方の輪列配置は当時の通常の配置と逆で、いずれも反時計回りに巻き上げます。胴扉の内側を掘り込み、重錘の降下する空間を作った点にも小型化の工夫が表れます。現状の脱進機、振子の吊り、時針には交換があるため、現存するすべての部品を1720年代の原設計とみなすことはできません。2
天文表示を考えるには、均等な長さの時を刻む平均太陽時と、太陽の見かけの動きに従う視太陽時の違いが重要です。ジョセフ・ウィリアムソンは1719年刊行の王立協会への書簡で、クエール向けにこれらを表示する時計を作ったと主張しています。スペイン王カルロス2世の部屋にあった時計について、自分がクエールのために製作し、彼が王へ売った400日時計だと述べ、固定した目盛と動く目盛の組合せを説明しました。別の型では、1年で回転する楕円状ローラーと、振子ばねが通る真鍮の切込みによって振子の有効長を変え、見かけの太陽の動きに合わせたと記しています。ウィリアム3世へ売られ、生前にハンプトン・コートへ据えられた時計もあったというのが本人の証言です。14
この書簡は優先権を主張する当事者の回想ですが、工房の名、実際の製作者、販売者、注文主の関係を具体的に伝えます。クエールを一人ですべてを発明・加工した作者とするより、専門技能を持つ製作者と顧客を結んだ時計師としても捉えることができます。ウィリアムソンは温度による振子長の変化にも触れ、数年間の太陽南中観測をもとに1711年に表を完成したと説明しています。精巧な表示を持つことと、あらゆる条件で正しいことは別の問題でした。14
グリニッジの二重長柱時計ZBA0474は、病院評議室向けに1716年に購入された月巻き時計です。独立した振子制御の機構を2基持ち、左が恒星時、右が平均太陽時を示し、中央上部に日・月と均時差の表示を置きます。それぞれの振子と機構で進む二種類の時刻を、一台の時計上で読み比べられる構成です。7
外装にも、機能を読み取りやすくする工夫があります。Metの小型長柱時計では、文字盤の金色の装飾と銀色の目盛環が対照をなし、時分・秒・暦をそれぞれの場所で読めます。ケースにはウォルナットの化粧板を使い、柱状の木部や透かし彫りを組み合わせています。機構を小さなケースへ収めながら、文字盤を覆う扉、重錘が下がる胴、設置を支える台座を一つの家具としてまとめた作品です。2
技術的背景と当時の時計製造技術#
クエールの長柱時計を理解するには、動力、速度を伝える輪列、時を刻む調速装置を分けて見ると分かりやすくなります。重錘は下がることで輪列を動かし、輪列は針へ運動を伝えます。脱進機は歯車の動きを区切りながら振子へ働きかけ、その振動を維持します。35日駆動のMetの作品では、長い振子に制御されたアンカー脱進機と走行輪列を、時打ち用の輪列から分けて記録できます。2
一回の巻上げで長く動くことと、一日ごとの誤差が小さいことは別の性質です。年時計の軽いガンギ車、釣り合いを取った分針、細い軸先という記述は、限られた動力を長く使う工夫を具体化します。一方、ウィリアムソンの書簡に現れる振子長と温度の問題は、時を刻む周期の安定に関わります。輪列や負荷の工夫と、調速装置の安定が、それぞれの役割を果たします。4 14
時刻を比べる需要には、室内と海上で異なる条件がありました。スコットランド国立博物館が所蔵する1662年頃のブルース=オーステルワイク海上経度用振子時計は、船の運動の中で振子を使うという問題に取り組んだ別の製作者の実例です。海上の時計には、船の動揺や湿気の中でも基準時刻を保つ性能が求められました。1714年経度法は、海で経度を求める方法へ報奨を設け、時計による時刻比較もその解決策として追求されます。17 18
クエールの確実な作例では、王立海員病院の二重時計が、恒星時と平均太陽時という異なる尺度を同じ場所で示しています。また、ウィリアムソンは視太陽時を表示するための製作と観測について当事者の立場で説明しました。これらは、時計師、計算や観測を行う製作者、時計を使う施設や宮廷が関わる仕事でした。クエールの名で販売された時計も、専門的な分業の中に置くと、その機能と社会的な役割が具体的に見えてきます。7 14
製造と流通を支える組合も、新技術へ常に同じ態度を取ったわけではありません。1687年には複数の時計師が既に作っていたリピーターの独占に反対し、1695年には会員クエールの気圧計特許に対しても他の会員らを守る決議を行いました。発明の優先権、製品の操作性、販売権はそれぞれ異なる争点です。後世の報時時計や気圧計へ通じる技術課題を考える際にも、この具体的な製作・販売の場を起点にできます。6
死後の評価と現代の保存研究#
クエールの評価は、死後の文章で使われた名声と、現存作品を読むために続けられている所蔵・研究・修復から具体的にたどることができます。
1766年1月27日のジョン・アダムズの「Clarendon, no.3」は、政治体制を説明するため時計を比喩に使い、その設計と実際の工作を区別しています。時計をできるだけ正確に作る職人の例として、クエール、Tomlinson、グラハムの名を挙げています。クエールの死から40年以上後、大西洋を隔てた政治的議論でその名が時計製作の巧みさを表すものとして用いられた例です。その名が、巧みな工作を読者へ伝える比喩として通用していたことが分かります。15
音による時刻確認、時分を読み分ける文字盤、少ない巻上げで長く動かす輪列は、現在でも歴史的な時計を理解する重要な観点です。操作を伝える史料と、年代・署名・構造を持つ現存作によって、17~18世紀の携帯時計や長柱時計の工夫を今日も具体的に確かめられます。
長持続時計の工夫は、輪列や針を軽くし、必要な動力を無駄なく届けるという機械設計の問題を目に見える形で残しています。Metの小型長柱時計では、外からは見えにくい扉内面の加工にまで目を向けると、ケースと機構を一緒に成立させた条件が分かります。重錘の大きさだけでなく、降下する距離、巻上げの方法、輪列を収める余地までが製品を成り立たせています。少ない巻上げで長く動かす課題を、現物で確かめられる具体的な設計です。2
携帯気圧計を研究する際も、持ち運ぶ手順と、測定する姿勢、管内へ空気を入れない工夫を分けることができます。Natureの1948年の現物説明と、現在の複数の所蔵記録を読み合わせることで、1695年の特許要約だけでは見えない物の使い方が分かります。水銀柱という壊れやすい測定系を運搬可能にしようとした具体的な工夫が、現物と記録に残されています。8 9 10 11
作品の保存には、製作後に加えられた修理や交換を記録する仕事も含まれます。64.101.870の所蔵品研究は、交換された時針、脱進機、振子吊り、修理された分針、変形した木製ケースまで記録しています。後世の補修を特定することで、製作時の意図と、長く使用する間に生じた変化を読み分けられます。博物館は作品を収蔵するだけでなく、その構造を確かめられる記録を残しています。グリニッジのZBA0474は所蔵されますが、2026年10月19日の所蔵館ページでは展示中ではありません。7 2
クエールの宗教活動と職業生活は、互いに切り離せない面を持っています。罰金や差押えを受ける一方で、王に通じる関係を同信仰の人々のために使ったというラドフォードの伝記は、その重なりを伝えます。宮廷への接近、組合の役職、工房の共同経営、家族の婚姻という複数の社会関係を通じて、彼の職業生活と信仰活動は広がっていました。4
主な顧客とパトロン#
ウィリアム3世との関係には、時計の所在を伝える伝記だけでなく、ウィリアムソンが製作と販売を述べた当事者証言があります。スペイン王カルロス2世への販売も同書簡に現れます。これは、自らの製作上の優先権を述べる製作者が、時計の販売先も記した証言です。ウィリアム3世の年時計は王の寝室という用途、カルロス2世の400日時計は王の部屋という設置先を伴い、宮廷の室内で長く動く時計への需要を伝えます。4 14
個体に結び付いた発注者としては、時計師組合コレクションno.1264を注文したコニングズビー伯が挙げられます。1716年の二重時計では、王立海員病院の評議室という購入先と、1718年の支払いまでが所蔵館の解説に記録されています。注文主の邸宅に置くための時計と、公的施設の部屋で使う時計では、購入の文脈も異なります。顧客の名を具体的な作品と結び付けると、宮廷用・家庭用・施設用という需要の幅が見えてきます。7 13
Metの研究は、宣誓拒否による任命の障害と、貴族社会との接点の両方を伝えます。2一方、エリザベスとシルヴァナス・ベヴァンの婚礼でマールバラ公爵夫人が証人となったことは、家族の社会関係を示します。職業上の宮廷との関係に加え、婚姻を通じても有力者とのつながりが見られます。4
年時計no.1264は後にリチャード・アークライトが所有し、Met64.101.870は演劇興行家デイヴィッド・ベラスコの所有から、競売と美術商を経てアーウィン・アンターマイアーの収集に入りました。実用時計は、貴族の邸宅や公的施設の調度であるとともに、後世には収集と保存の対象になっています。クエール没後も続いたホースマンの事業について、Metの研究は1730年の破産公告を案内しています。2 13
作品の特徴とデザイン#
作品の特徴は、機構、外装、表示、署名を個体ごとに照合することで明確になります。
長期間の駆動:35日時計と年時計では輪列・動力・ケースの条件が異なります。重錘の大きさと降下する空間、輪列や針の負荷を組み合わせて、少ない巻上げで長く使う機能を実現します。2 13
木製ケースと金属文字盤:no.1264はオークをウォルナットで化粧張りしたマロー風ケースと、日付窓、銀の装飾板を備えます。Met64.101.870は細身のウォルナット化粧板ケースに暦・秒・時分の表示を収めます。豪華な外装と複雑な機構を一つの作品で見ることができます。2 13
署名と共同名義:no.1264にはDan Quare LondonとDaniel Quare, Londonの銘があり、Met64.101.870の文字盤にはクエールとホースマンの共同名とNo.220が見られます。個人名から共同名義へ移った工房の活動を、現物の銘からもたどれます。2 13
音による表示:リピーターでは音が時刻情報の伝達手段になります。クエールの一操作式では、針による視覚の表示に加え、時と四半時を必要なときに呼び出す使い方が可能になりました。12
関連する文献・資料#
クエールの生涯をまとめた歴史的な伝記には、エマ・L・ラドフォードによる1896年の『英国人名事典』の記事があります。クエーカーの登録簿、組合史、新聞、特許台帳、ブリテンの時計研究などを参照し、経歴と作品を結び付けています。家族の婚姻、財産差押え、王との面会、遺言の具体的記述は、この伝記からたどれます。4
製作技術については、ウィリアムソンの1719年書簡が、平均太陽時と視太陽時を示す機構、クエールを介した販売、温度の問題を当事者の言葉で伝えます。組合史に翻刻された1687年と1695年の決議は、発明を独占する権利をめぐる異なる対応を記録します。これに対し、所蔵館の研究は、現存品の寸法、輪列、署名、修復、来歴を対象としています。文章の記録と物の記録を合わせることで、製作当時と後世の変化を分けて理解できます。6 14 2
書誌情報として確認できる個別研究には、George C. Kenney「Daniel Quare’s numbered clocks」(2016年、37–54頁)、Richard Higginsの携帯柱型気圧計の特許・機能・機構に関する論文(2007年、787–797頁)があります。いずれもAHSの論文一覧に書誌が掲載され、作品番号や特許を軸にクエールの仕事を調べる入口になります。16
資料を作品と照合するための手掛かりは、所蔵番号と文書の参照箇所です。Metの所蔵品研究は、ホースマンの1709年の会員認定にClockmakers’ Company Court Minute Books Ms.2710/3、p.98r、9月29日の記録を挙げています。番号と日付のある参照は、一般的に「組合に資料がある」という案内よりも具体的に経歴をたどる入口になります。また、同館は1730年11月28日–12月1日のLondon Gazette p.2を破産の出典として挙げています。現物、会議録、公告はそれぞれ異なる側面を記録し、署名や来歴の意味を読み分けるための資料になります。2
年表#
生涯と工房#
- 1648/49年頃 – サマセットにて出生(推定)4。
- 1671年4月3日 – ロンドン時計師組合に会員として入会4。職種は塔時計師とするMet解説がある2。
- 1676年4月18日 – クエーカー教徒の集会所(デヴォンシャー・ハウス)でメアリー・スティーヴンスと結婚4。
- 1678年 – 教区教会税の不払いにより5ポンド相当の財産を没収される4。
- 1679年 – 民兵隊費の不払いで時計2台と懐中時計2個を没収される4。
- 1683年 – クエールとほか5人から合計195ポンド17シリング6ペンス相当の財産が集会参加を理由に差し押さえられる4。
- 1685年 – ロンドン、エクスチェンジ・アレーのキングズ・アームズに店を移転4。
- 1686年3月 – 『ロンドン・ガゼット』紙にクエール製の一針懐中時計紛失広告が掲載4(6時間で一周する1本針の表示)。
- 1686年6月4日 – ジェームズ2世の委員会(宗教寛容政策審問)にクエーカー代表の一人として召喚される4。
- 1687年 – エドワード・バーロウが繰返し時計の特許申請。時計師組合がクエールの先発明を主張し特許却下4。ジェームズ2世も裁定に関与しクエールの機構を支持4 5。
- 1689年 – クエール、再度罰金科されるも以後ウィリアム3世の庇護を受ける4。
- 1695年5月2日 – ラドフォードによれば、ホワイトヘッドら4人とウィリアム3世の非公式面会を取り次ぐ4。
- 1695年6月3日 – 時計師組合がクエールの携帯気圧計特許を止める方針を決議。6
- 1695年8月2日 – 携帯式気圧計の特許を取得4。
- 1695–6年2月7日(当時の年記) – クエール含む20名のクエーカーが議会に請願提出4。
- 1697年 – 時計師組合の評議員 (Court of Assistants) に選任4。
- ウィリアム3世の生前(1702年以前) – ウィリアムソンの1719年書簡は、同王向け時計のハンプトン・コート設置を述べる。14
- 1705年 – 時計師組合ワーデン(副役員)に就任4。長女アン、ジョン・ファルコナーと結婚(各国大使出席)3。
- 1707年 – 時計師組合ワーデン再任4。
- 1708年9月29日 – 時計師組合マスター(親方)に就任4。
- 1709年 – 弟子スティーブン・ホースマンが組合自由会員に昇格4。
- 1711年 – ウィリアムソンが、自身の太陽南中観測による表を完成したと後年の書簡で記す。14
- 1715年11月10日 – エリザベスがシルヴァナス・ベヴァンと結婚。マールバラ公爵夫人とほか72名が婚姻登録簿へ署名4。
- 1716年 – グリニッジ王立病院向けに恒星時・太陽時二重長柱時計を製作(£70で販売、1718年支払)7。
- 1718年頃 – ホースマンが共同経営者となり「Quare and Horseman」名義で活動2。
- 1723年5月3日 – 遺言状作成。遺産を妻子と孫に分配指定4。
- 1724年3月21日 – クロイドンの別邸にて死去4。
- 1724年3月26日 – 『デイリー・ポスト』紙が訃報掲載。徒弟ホースマンが事業継承と報道4。
- 1724年3月26日 – 遺言検認。妻メアリーに2800ポンドと金時計2個他を遺贈4。
- 1724年3月27日 – バンヒル・フィールズ(ロンドン)クエーカー墓地に埋葬4。
- 1728年11月4日 – 妻メアリー死去(77歳)4。
- 1730年 – Metの所蔵品研究は、ホースマンの破産に関するLondon Gazette公告を同年11月28日–12月1日号p.2に挙げる。2
死後の受容・所蔵・研究#
- 1766年1月27日 – ジョン・アダムズが「Clarendon, no.3」で、巧みな時計製作を表す例としてクエールの名を用いる。15
- 1896年 – ラドフォードのクエール伝が『英国人名事典』第47巻に収録される。4
- 1948年12月11日 – 『Nature』第162巻919頁の「Portable Barometer」が、科学博物館へ貸与された現存気圧計の運搬時の仕組みを紹介する。11
- 1964年 – アーウィン・アンターマイアーの寄贈により、暦付き長柱時計64.101.870と携帯気圧計64.101.877がMetの所蔵となる。2 10
- 2015年 – Metの所蔵品研究『European Clocks and Watches in The Metropolitan Museum of Art』が刊行される。現在の個別作品ページにも、この研究に基づく輪列・修復・来歴の解説が掲載されている。2
- 2016年 – George C. Kenney「Daniel Quare’s numbered clocks」が刊行される。AHS論文一覧で確認できる書誌情報による。16
参考資料#
- Daniel Quare, Britannica。 閲覧日:2026年10月18日。
- Met, Miniature longcase clock with calendar, 64.101.870。Clare Vincent / Jan Hendrik Leopold, with Elizabeth Sullivan, European Clocks and Watches in The Metropolitan Museum of Art(2015年)の所蔵品研究。 閲覧日:2026年10月19日。
- Keith Bates, Daniel Quare – Master Clockmaker (2021)。 閲覧日:2026年10月18日。
- Emma L. Radford, Quare, Daniel, DNB47 (1896)。 閲覧日:2026年10月19日。
- The Antique Clock Company, Daniel Quare。 閲覧日:2026年10月18日。
- Atkins / Overall, Some Account of the Worshipful Company of Clockmakers (1881), pp243–244。 閲覧日:2026年10月18日。
- Royal Museums Greenwich, Double longcase clock, ZBA0474。 閲覧日:2026年10月19日。
- Science Museum, Barometer by Daniel Quare1948-227Pt1。 閲覧日:2026年10月19日。
- Soane Museum, Portable pillar barometer MP281。 閲覧日:2026年10月18日。
- Met, Portable barometer64.101.877。 閲覧日:2026年10月19日。
- Portable Barometer, Nature 162, 919(1948年12月11日)公開Abstract。 閲覧日:2026年10月18日。
- Met, Graham pair-case watch52.62a–d:報時機構史の解説。 閲覧日:2026年10月18日。
- Science Museum / Clockmakers no1264, Year-going longcase clock by Daniel Quare。 閲覧日:2026年10月19日。
- Joseph Williamson, Philosophical Transactions 30(363)(1719年12月31日), pp.1080–1082。 閲覧日:2026年10月18日。
- John Adams, Clarendon no3, 1766-01-27。 閲覧日:2026年10月18日。
- Antiquarian Horological Society, List of articles(論文の書誌情報)。 閲覧日:2026年10月18日。
- National Museums Scotland, Calculating longitude at sea: The clock that tried to solve the problem。 閲覧日:2026年10月19日。
- Royal Museums Greenwich, Longitude found – the story of Harrison’s timekeepers。 閲覧日:2026年10月19日。