フェルディナント・ベルトゥー (Ferdinand Berthoud) – 18世紀時計学の巨星

フェルディナント・ベルトゥー (Ferdinand Berthoud) – 18世紀時計学の巨星

生涯と経歴#

幼少期と修業時代 (1727–1752): フェルディナント・ベルトゥー(1727年3月18日 – 1807年6月20日)は、現在のスイス・ヌーシャテル州ヴァル=ド=トラヴェール地方プランスモンで生まれました1。父は建築家兼大工、母は名家の出身で、ベルトゥー家は代々時計・クロック製造に関わる家系でした1。14歳の時に兄ジャン=アンリの下で振り子時計職人の徒弟修業を始め、数学や物理学など科学的素養も身に付けました1。1745年4月に修業証明書を得て時計師見習いを終えると、さらなる研鑽を積むため18歳でパリへ移住しました1。パリでは一流の時計師たちの工房で働き、非凡な才能を発揮します。伝承によれば、一時ジュリアン・ルロワ(Julien Le Roy)の工房で働き、その息子で後にライバルとなるピエール・ルロワと共に技術を磨いたとも言われます1。この若きベルトゥーの技量は評判を呼び、20代前半にして高い評価を得るようになりました。

パリでの台頭 (1753–1762): パリの時計師ギルドは外部出身者には厳しい制約を課していましたが、ベルトゥーはその才能ゆえ特例的な支援を受けます。1752年、ベルトゥーは自作の**等時性振り子時計(時間等式時計)の構造に関する論文を王立科学アカデミーに提出し、その卓抜した設計が認められました2。これがきっかけとなり、1753年12月4日、フランス王の特別裁定により組合規則を超えて26歳で時計師親方(マスター)**の称号を得るという異例の昇格を果たしました3。王室天文学者シャルル=エティエンヌ・カミュや水路学者ピエール・ブーゲーらアカデミー会員の後押しもあり、若き時計師は正式にパリで工房を構えることが許されたのです3

親方となったベルトゥーは1755年から、ディドロとダランベール編集の百科全書において時計学関連記事の執筆を委嘱されるなど、学術界でも名声を高めました3。1759年には最初の専門著作**『振り子時計・懐中時計の指導と調整法』**を刊行します。この書物は時計の知識がない一般人向けに正しい時計の扱い方や調整法を解説したもので、ベルトゥーは教育者としても才能を示しました3。同書は18~19世紀を通じて何度も版を重ね各国語に翻訳されるベストセラーとなり、彼の名は広く知れ渡りました3

経度時計への挑戦 (1760年代): 18世紀半ば、航海中に船の正確な経度(東西位置)を測定することは最大の科学技術上の課題でした。当時イギリスとフランスでは、経度を正確に求める実用的方法に巨額の賞金が懸けられており、天文学的手法と航海用時計(マリン・クロノメーター)による手法の競争が繰り広げられていました4。フランス出身のベルトゥーもこの「経度の問題」に強い関心を抱き、航海用精密時計の開発に乗り出します。1760年12月、彼は王立科学アカデミーに**「航海時計の構造原理に関する覚書」を提出し、自身が設計した最初の試作航海時計(後の第1号機**)について説明しました5。この時計は1761年初頭に完成しますが、精度や信頼性の点では改良の余地がありました6

ベルトゥーの経度時計研究は徐々に本格化します。1763年、彼は二巻本の大著**『時計学試論(エッセイ・シュル・ロルロジュリー)』**を出版しました。この著作は時計学を市民生活・天文学・航海術に関連付けて論じ、実験で確かめられた原理をまとめたもので、専門家のみならず幅広い読者に迎えられます5。同1763年、フランス国王ルイ15世はベルトゥーをロンドンに派遣し、英国人ジョン・ハリソンの製作した有名な第4号航海時計H4を調査させようとしました7。ハリソンは英国で経度法の賞金を目前にしていた経度時計の先駆者であり、1759年完成のH4は当時もっとも精巧な海洋時計でした。しかしベルトゥーが数学者カミュや天文学者ラランドらと渡英した際、ハリソン本人は秘密保持のためH4を頑として公開せず、代わりに初期試作機のH1~H3だけを500ポンドの謝礼と引き換えに見せただけでした7。このためベルトゥーはH4の設計を直接には知ることができず期待外れに終わります。しかし英国滞在を通じて最新の時計技術に触れ、帰国後1764年2月にはロンドン王立協会の外国人会員に選出されるなど国際的評価を得ました7

1760年代後半、ベルトゥーはフランス国内で航海時計の改良と実用化を目指し、政府高官とも連携します。1765年には再度ロンドンを訪れハリソンに面会を試みますが、またも秘密保持に阻まれました8。しかしこの訪英中、イギリス経度委員会の手違いによりハリソンの情報が一部漏洩し、時計師トーマス・マッジからH4の構造に関する重要な示唆を得ることに成功します9。さらにベルトゥーは英国の時計職人たちが使用する高度な専用工具類も視察し、自らの研究に取り入れようとしました9

1766年5月、ベルトゥーはフランス海軍大臣であるプラズラン公(ショワズール伯爵)に覚書を提出し、自身の設計による改良型マリン・クロノメーター第6号機と第8号機の製作計画を提案しました10。彼はこれまでの業績に対する報奨金と、新型機2台の製作資金として合計3,000リーヴルの助成、および「王室・海軍付き機械時計師(航海時計師)」の官職を求め、経度時計の開発に専念したいという意志を示しました10。国王ルイ15世は1766年7月にこの計画を承認し、資金援助と開発許可を与えました10

こうして製作された航海時計第6号機・第8号機は1768年に完成します。フランス海軍はその性能を試すため、レイモンド・ド・フルリュー伯爵(探検家・海軍将校)と天文学者アレクシス=クラーレ・ド・ピングレにクロノメーター2台を託し、1768年末から約10ヶ月間の大西洋航海試験を実施しました11。フリゲート艦「リシス号」に乗せた2台の時計は、仏領ロシュフォールから西インド諸島サント・ドマング(現ハイチ)までの往復航海で過酷な環境に耐え抜き、その精度を証明します。特に第8号機は洋上で船の現在位置を地図上に正確に割り出すことに成功し、天測による検証でも誤差は経度で±0.5度以内という快挙を成し遂げました11。これはフランス海軍史上初めて航海中に経度を正確決定できた例となり、フルリュー伯爵による観測報告は1773年に公式報告書として出版されました11

試験航海の成功を受け、ベルトゥーは1769年、自身の甥で優秀な若手時計師であった**ピエール=ルイ・ベルトゥー(ルイ・ベルトゥー)**を故郷クヴェからパリに呼び寄せ、弟子兼助手として受け入れます11。ルイは伯父の下で航海時計の製造と保守に携わり、以後フランス海軍のみならずスペイン海軍にもクロノメーターを提供するプロジェクトを支えることになりました11

王室時計師としての活躍 (1770–1785): 1768–69年の海上試験が収めた成果により、ベルトゥーはついに正式な官職と栄誉を手にします。1770年4月1日付で彼は**「王および海軍付き機械時計師(時計工学者)」の称号と終身年金を下賜され、フランス海軍のための経度時計製作監督官に任命されました12。併せて王室からただちに航海時計20台の製作注文**も受けます12。これはフランスにおける航海用クロノメーター量産の幕開けであり、ベルトゥーは多数の遠征航海や測量探検に自らの時計を供給する重責を担うことになりました12。彼は「経度時計(時計式経度測定機)」の需要増大に応えるべく工房の体制を整え、極めて精力的に活動します。その甲斐あって、ベルトゥー製クロノメーターは以後の様々な試験航海や地図作成航海に欠かせない装備として搭載されるようになりました12

1770年代、ベルトゥーは技術革新にも余念がありませんでした。1771年には、自身の航海時計第3号機の脱進機を従来の二重コンマ式(ダブル・ビルギュラ)脱進機から新開発の枢軸てん輪(ピボット・デテント)脱進機に付け替える改良を施しました13。これは同時代のピエール・ルロワが考案した「てん輪式クロノメーター脱進機」の概念を取り入れたもので、摩擦を大幅に減らし歩度の安定性を高める先進的な機構でした。1773年、ベルトゥーは長年の研究成果を体系化した著書**『海洋時計論(Traité des horloges marines)』**を出版します。この専門書は航海時計の理論・構造・製作法・検定法までを網羅し、正確な経度測定と海図の精密化に至る実践的知識を初めて公開した画期的なものでした13。ベルトゥーはこの著作の中で、自身の航海時計にハリソンの発明を一部参考にした旨も述べており、当時の最高水準の技術情報が惜しみなく盛り込まれています14

こうした活躍により、ベルトゥーはフランス宮廷と海軍から絶大な信頼を得ました。1770年代前半には、海軍士官で科学者のシャルル・ブロンド(ボルダ騎士)がベルトゥーのクロノメーターを携えてカナリア諸島・アンティル諸島方面への航海試験を行い、その精度を確認しています。また1774~75年にも、探検家シャストネ・ド・ピュイセギュール伯の遠征でベルトゥー時計が運用されました。さらに1785年、太平洋における探検航海に向かうラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローには、ベルトゥーが新たに5台の航海時計を提供しました15。ラ・ペルーズはイギリスのジェームズ・クックが成し遂げた大発見に続く世界周航を目指して出発しましたが、残念ながら彼の乗艦「ラ・ペルーズ(アストロラーブ)号」は1788年に南太平洋サンタクルーズ諸島沖で難破し、ベルトゥーの時計も海に没してしまいました15

フランス革命前夜の1780年代も、ベルトゥーは旺盛に活動を続けました。1782年、国王ルイ16世はベルトゥーの工房を王室工房として公式に支援し、研究の継続を保証します16。しかし経営面では波乱もありました。1775年、ベルトゥーは工房の監督を甥の一人アンリ・ベルトゥーに委ねましたが、事業運営は振るわず1783年にアンリは自殺、工房に6万リーヴルもの負債を残す事態となりました17。その後はもう一人の甥ルイ・ベルトゥー(前述のピエール=ルイ)が1784年から工房の実質的な指揮を執り、規模を縮小しつつも製作を続けます17。ルイは腕利きの時計師でしたが、伯父フェルディナントが自分の貢献を十分評価しないことに終生不満を抱いていたと伝えられます17。ベルトゥーは主要な作品には自らのフルネームで署名し、それ以外の弟子任せの作品は「Fd. Berthoud」と省略署名するなど厳格な区別をしており、工房作品の品質維持に努めました18。なお1780年代後半には、ベルトゥーの工房製クロノメーターがスペイン海軍にも提供され、アレッサンドロ・マラスピーナの世界探検航海(1789–94年)にはベルトゥー製の第10号機・第13号機が搭載されています19

革命と帝政期、晩年の業績 (1789–1807): 1789年にフランス革命が勃発し旧体制が崩壊すると、多くの王党派技術者が地位を追われましたが、ベルトゥーはその卓越した技術ゆえ新政府下でも重用されました。革命政府(国民公会)期の1793年には、彼が1752年以来製作・改良してきた航海時計の一覧表をまとめた公式記録を提出しており、軍事的にも彼の時計が不可欠だったことが窺えます。また1795年にフランス学士院(旧科学アカデミー)が再編成されると、その会員として迎えられました。ベルトゥーは1790年代にも**『経度時計に関する論考』『経度時計の目録』**など複数の刊行物を発表し続けています。

19世紀に入るとフランスではナポレオン政権が成立します。1802年、ナポレオン・ボナパルト(当時第一統領、のち皇帝)はベルトゥーをレジオンドヌール勲章シュヴァリエ(騎士)に叙し、その長年の功績を讃えました20。同年、甥ルイ・ベルトゥーもナポレオンから帝国海軍時計師に任命されています17。これはナポレオンがエジプト遠征中に購入したブレゲ製時計が砂塵で故障し時間ずれを起こしたことに立腹した結果、信頼のおけるルイを海軍技師長に選んだという逸話が残っています17。こうした厚遇の中、フェルディナント・ベルトゥーは**『時計による時間計測の歴史(イストワール・ド・ラ・メジュール・デュ・タン)』を1802年に出版しました20。この大著は時計技術とその歴史を総括したもので、自身の専門知識を惜しみなく注いだ集大成的作品でした。さらに1807年、80歳になっていたベルトゥーは『経度測定用時計論補遺』**と題する最終著作を発表します。1752年から1807年まで自らが行った主要研究と試作の全貌をまとめた内容で、半世紀に及ぶ研究人生を自ら記録に残したものです21

1807年6月20日、フェルディナント・ベルトゥーはパリ近郊グロスレの自宅で生涯を閉じました。享年80、子孫はなく、遺体はモンモランシー谷のグロスレ墓地に埋葬されました21。墓所には彼の功績を称える記念碑が建てられています。王政から革命、帝政へと激動期を生き抜いたベルトゥーのキャリアは、その時代と同様に非凡でありました。彼が遺したものは、精密航海時計の分野を中心に膨大な業績と数千ページに及ぶ専門文献、精巧な時計類や工具類など多岐にわたります21。晩年まで創造力は衰えず、「偉大なる時計師の中の一人」と称されるにふさわしい生涯を全うしたのです。

技術的背景と発明・功績#

経度測定の課題と背景: ベルトゥーが取り組んだ航海用クロノメーター開発は、当時の最先端科学技術と深く結びついていました。18世紀、多くの列強諸国は未知の海を航海し新天地を求めていましたが、船が自分の経度(東西方向の位置)を正確に知ることは極めて困難でした。太陽や月・恒星の観測によって経度を計算する天文学的方法(時角法・月距法など)は高度な知識と煩雑な計算を要し、気象条件に左右されるという問題がありました。一方、精密な時計を船に積み、出航地の正確な時刻との差を比較すれば経度を簡便に算出できるというアイデアは17世紀から提唱されていましたが、当時の時計は航海の揺れや温度変化で狂ってしまい、長期間精度を保つことができませんでした。英国では1714年に「経度法」が制定され、経度1度以内の精度で航海中に経度を測定できる方法へ巨額の賞金が掲げられます。フランスでもそれに匹敵する懸賞や資金援助が提示され、各国の科学者・職人たちがしのぎを削りました4。こうした背景下、イギリスのジョン・ハリソンは4台の試作海洋時計(H1~H4)を経て1761年にH4で飛躍的精度を達成し、この分野を先んじました。一方フランスでは有名時計師ジュリアン・ルロワの子ピエール・ルロワが1760年代半ばに独自の精密航海時計を開発し、1769年にはフランス学士院から褒賞を受けています14。しかしルロワの試作機は当時一般に共有されず、フランス海軍全体へ実用機を供給するまでには至りませんでした。

こうした先達の成果に続き、ベルトゥーは**「より実用的で頑丈な航海時計」を作り出した点で際立っています。その発明の多くは、ハリソンやルロワが示した原理を踏まえつつ、それらを量産可能な堅牢設計に昇華させたことに特徴があります22。当時、世界でも実用に耐える海洋クロノメーターを製造できる工房は皆無に等しく、ベルトゥーの工房はその草創期を担いました22。彼は生涯で約75台もの航海クロノメーター**を製作し(35年間の製作台数としては驚異的)、その多くが実際の軍務や探検航海で使用されています12。ハリソンのH4やルロワの機械が一品限りの高価な試作品だったのに対し、ベルトゥーは複数の時計を安定して作り上げ、体制として供給した点で、経度時計の本格的実用化に貢献したのです。

航海時計の技術革新: ベルトゥーの航海クロノメーターには様々な技術的工夫が盛り込まれていました。第一に改良された脱進機(エスケープメント)です。初期の試作機では接触摩擦の大きい伝統的な脱進機(例えばビルギュラ脱進機など)を使用しましたが、これは船の振動で精度が乱れる欠点がありました。ベルトゥーは1770年前後から、当時新発明だったてん輪(デテント)式脱進機を研究し、自作クロノメーターに導入しました13。1771年の第3号機改良では枢軸付きデテント脱進機を採用していますが、これは振り子のアンクルに相当する部品を片支点でばね支持し、振動方向への余計な力を極力減らす仕組みです13。この自由脱進機の導入により、航海時計の等時性(振れ幅によらない周期の一定性)が大幅に向上しました。ピエール・ルロワも1766年に同様の概念に到達していましたが、彼が公表を控えている間にベルトゥーが実機に適用し、以後の航海時計の標準構造となっていきます12。またベルトゥーはシリンダー脱進機レバー脱進機(現在のアンクル式)など当時知られた全ての方式について研究を行い、摩擦や衝撃に対する特性を比較検討しました17。その知見は後年の懐中時計製作にも活かされています。

第二に、温度変化対策(温度補償)も大きな課題でした。気温の変化は金属製の振動子や振り子棒の長さ・弾性を変え、時計の進み遅れに直結します。ベルトゥーは1760年代後半からこの問題に取り組み、1768年には温度補償機構の一つを発明しました11。彼は振り子時計用にはハリソン兄弟が考案した格子振り子(グリッドアイロン振り子)の原理を取り入れ、黄銅と鋼鉄の膨張差を利用して長さを一定に保とうと試みました。しかしベルトゥー製振り子の設計では金属棒同士の間隔が狭く厚みも均等だったため、ハリソンの原型ほど十分な効果は得られなかったとされています14。とはいえ、ガラス窓付きの振り子室でその複雑な補償振り子を眺められるようにした天文床置き時計(レギュレーター)シリーズは、精度面のみならず視覚的にも大きな成功を収めました14。一方、携帯型クロノメーターではひげゼンマイ付きテンプ(平衡振子)の温度補償が重要でした。ベルトゥーは自ら温度補正付きのテンプを考案し一時特許取得も検討しましたが、調査の結果それがすでにイギリスのジョン・ジェフリーズによって発明済みであることが判明したというエピソードもあります10(ジェフリーズはハリソンに協力した時計師で、1750年代に二種金属を用いた補償テンプを試作していました)。最終的に、彼の工房ではイギリス勢と同様二重金属板による補償振り車(バイメタル式切り開きテンプ)を備えたクロノメーターが採用されていきました。これらの改良により、ベルトゥーの航海時計は温度変化や船の揺れにも強く、長期間にわたり精度を保持できるようになったのです。

第三に、駆動系の工夫も見逃せません。クロノメーターはぜんまいの力で動きますが、ぜんまいは巻き具合でトルク(力)が変動するため、そのままでは時計の精度に影響します。ベルトゥーの時計は古典的なフュゼ(フーズ)鎖巻き装置を備えており、らせん状のフュゼ錘に鎖を巻き取ることで、巻き始めから緩みかけまで常に一定のトルクを輪列に伝達するよう工夫されていました。この技術は16~17世紀からの懐中時計にも使われていましたが、航海クロノメーターでも引き続き採用されました。また、航海中の衝撃を和らげる緩衝装置(サスペンション)として、時計本体を木箱に収めてジンバル(ヨー)支持する構造も一般化しました。ベルトゥーも自作機を船室に据え付ける際、箱を枠に軸支して水平を保つ取り付けを行っています。

精密加工と工具: 高精度時計の製作には高度な精密加工技術が不可欠でした。ベルトゥーはロンドン訪問時に見た英国製工具に衝撃を受け、自身も国王から資金援助を得て特注工具を揃えています9。自らの工房でも歯車やねじを高精度に切削・研磨する治具を改良し、複数台の時計で部品を再現良く製造できる体制を築きました。彼の執筆した文献には、航海時計の各部品図面や加工手順も詳細に記載されており、熟練工だけでなく後進の技術者が再現できるよう配慮されています21。実際、ベルトゥーの遺した工具類・作業台一式は死後フランス国有となり、現在もパリの工芸博物館(Arts et Métiers)に保存されています。これらを通して、18世紀における精密加工の粋を見ることができます18

その他の功績: ベルトゥーは航海時計以外にも様々な時計を製作・研究しました。若い頃に製作した時間等式時計(太陽時と平均時を同時表示する時計)は既に触れた通り王立アカデミーのお墨付きを得ています。また長年月の研究で培った理論を基に、天文台据置き型の**精密レギュレーター(恒星時時計や振り子時計)**も製作しました。彼の長箱型振り子時計のいくつかは豪華な木製ケースに収められ、当時一流の工芸家であったバルタザール・リユータやフィリップ・カフィエリ製作の装飾を伴っています2。これは科学計器であると同時に美術品として宮廷や貴族のサロンを飾ったものです。ベルトゥーはまた懐中時計も手掛けましたが、1770年以降は前述の通り「私的注文の通常時計には関与しない」と宣言し、自身は海軍向けクロノメーター開発に専念しました12。ただし工房維持のため、市販向けの懐中時計やクロック類の製造は弟子たちに行わせています12。彼が残した出版物には、懐中時計用の改良脱進機や簡便な経度測定法(航海用天測暦と組み合わせた計算法)など、実務に資する情報も数多く含まれていました。

ベルトゥーの研究対象は時計学全般に及び、当時議論されていた振り子とテンプの等時性、摩擦と潤滑、真太陽時と平均時の差(均時差)の補正、時計の耐久性などあらゆるテーマを網羅していました17。彼の論文や書簡には、同業他者(例えばイギリスのマッジやトーマス・アーンショウ、スイスの名工ピエール・ジャケ=ドローら)への尊敬を示す記述もあり、自らの経験を踏まえて時計技術の体系化・理論化にも努めています10。特筆すべきは、その旺盛な出版活動です。前述の百科全書記事や初期の入門書に始まり、『時計学試論』(1763年)、『海洋時計論』(1773年)と続き、1775年には経度時計による航法の手引き、1787年には試論と海洋時計論の補遺、1792年と1796年に懐中経度時計の製作と使用法に関する論考、1802年に時計計時史、1807年に総まとめの補遺と、生涯で4000ページ以上に及ぶ技術文献を著しました21。これらの著作はフランス語のみならず他言語にも翻訳され、19世紀にかけて技術者・学者たちの貴重な教科書となります。ベルトゥーは自身の知識を公開することを厭わず、むしろ「経験に裏付けられた原理を確立し時計学を進歩させる」ことを使命と考えていた節があります。これは啓蒙時代の科学者らしい姿勢であり、師やライバルであったピエール・ルロワが寡作・寡黙であったのと対照的です12。結果として、ベルトゥーの業績は単なる時計職人の枠を超え、科学的発明家・教育者としての側面をも帯びるに至りました。

作品と顧客・弟子#

主な作品と特徴: ベルトゥーの代表的な作品としては、まず航海用クロノメーター(Horloges marines, Montres marines)の各号機が挙げられます。初号機(No.1)は1761年に完成したものの、性能は完全ではなく後の改良の踏み台となりました10。1760年代半ばに製作されたNo.2とNo.3は振り子ではなくゼンマイ式テンプを用いた携行型で、フランス学士院に展示されています。No.6およびNo.8(1768年完成)は前述の通り海上試験で高精度を示し、フランス海軍初の実用経度時計となりました11No.8は出航から12か月後でも出発地時刻との差がわずか1.5分程度という驚異的な安定度で、18世紀当時としては「全く桁外れの精度」であったと伝えられます16。その後もベルトゥーはNo.50台、60台…と製作を続け、生涯最後のNo.80番台までナンバリングされたようです。その多くはフランス海軍に納入され、一部はスペイン海軍や他国にも提供されました11^19。現在、パリ工芸博物館にはベルトゥーの航海時計が少なくとも15台以上所蔵されており、特に第8号機は国家的重要文化財として展示されています16

ベルトゥーはまた、据置き型の天文精密時計(レギュレーター)も優れた作品を残しています。1768–1770年頃に製作された長尺振り子式天文時計は、オーク材と黒檀突き板の堂々たるケースにガラス窓を備え、中の振り子や歯車機構が見えるようになっています。この種の時計はパリの高級家具職人バルタザール・リユータが外装ケースを手掛けており、また装飾金具は彫金師フィリップ・カフィエリ作と推定されます2。文字盤はエナメル(ホワイトダイヤル)で、時刻だけでなく月日や恒星時・太陽時差を示す複雑なカレンダー表示を備えていました2。ベルトゥーの等時性カム(肝形凸輪)によって、真太陽時(平均太陽時との差=均時差)が表示される凝った仕組みです14。このようなレギュレーター時計は天文台や裕福な愛好家に納められ、時間基準としても用いられました。メトロポリタン美術館にはベルトゥー作の長ケース時計(1750年代製作の等時性時計および1760年代製作の天文時計)が所蔵されており、当時の最高級時計の姿を今に伝えています2

懐中時計もいくつか現存しており、細工を凝らした黄金ケースに宝飾が施された作品も見られます。メトロポリタン美術館には18世紀末から19世紀初頭にかけて製作されたベルトゥー署名の懐中時計が複数所蔵されています3^([33])。これらは天文学的表示はありませんが、高級時計として宮廷人や富裕層に愛用されたものと思われます。ただしベルトゥー自身は1770年以降、先述のように海軍向け以外の時計製作を弟子に任せていたため、彼自身の手になる懐中時計は限られています12。実際、ベルトゥーの署名が入った時計には真贋の見極めが問題となるものもあり、彼が直接製作に関わった重要作品にはフルネーム「Ferdinand Berthoud, Paris」と刻まれ、工房で量産した普及版には「Fd. Berthoud」などと略記されました18。単に「Berthoud à Paris」とだけある時計は、当時流通した贋作や同業者の作と疑われるものもあるため、注意が必要です18

顧客と支援者: ベルトゥーの顧客は主に国家機関でした。最大のパトロンは言うまでもなくフランス国王と海軍省です。王室からの厚遇は彼がスイス出身でありながら若くして親方になれた1750年代から始まり、1760年代には科学アカデミー経由で援助金が支給され、1770年以降は正式に官職と年金を受けて研究に没頭しました12。工房設備も1782年以降国王の所有物扱いとなり、事実上官営研究所のような位置づけでした16。フランス海軍はベルトゥーに対し、経度測定の信頼を時計に託す方針をとり、測量航海のたびに彼のクロノメーターを持たせました。名前の挙がったフルリュー伯ボルダ騎士ラ・ペルーズ伯ダントルカストーなどはいずれも海軍将校であり、ベルトゥーの時計の性能を実地に証明した人物です。例えばフランスの太平洋探検家マラスピーナも、スペイン海軍に属しつつフランス製のベルトゥー時計を購入して航海に携行しています(彼の遠征隊はベルトゥーNo.10とNo.13を搭載)19。このようにベルトゥーの名声は国境を越えて広がり、スペイン王室・海軍もその成果を享受しました。イギリス海軍は当時すでにジョン・ハリソンの後継としてジョン・アーノルドやトーマス・アーンショウといった国内製作者を擁していましたが、フランスとスペインはベルトゥーとその一門が事実上独占的にクロノメーター供給を担ったのです。

個人顧客としては、ルイ16世や王妃マリー・アントワネットもベルトゥーの時計を蒐集していた可能性がありますが、文献に明記された例は多くありません。むしろ、王室主催の科学アカデミーが彼の主要な支援母体でした。アカデミーの会員カミュやブーゲー、デュアメル・デュ・モンソー伯などがベルトゥーの技術を高く評価して後援しました310。また、彼はイギリス王立協会の外国会員でもあり、海外の科学者・探検家との知的交流も行っています(帰国したクック船長の土産話から外国の航海時計情報を得たとも言われます)。ナポレオンもまた熱心な時計コレクター・愛好家であり、先述の通りベルトゥーおよび甥ルイを顕彰しています1720。ナポレオン皇帝は自らブレゲ時計を好んだものの、その実用性に不満を持つと代わりにルイ・ベルトゥーのクロノメーターを重宝したといい、帝政期においてもベルトゥー家は海軍省の信頼を勝ち得ました17

弟子と継承者: ベルトゥーは徒弟制度の中で技術伝承にも尽力しました。甥のルイ・ベルトゥー(1754–1813)は最愛の弟子であり、工房のNo.2として長年働きました。フェルディナントはルイに単独署名を認めるのを渋りましたが、1787年頃からルイ自身の名でクロノメーターに署名することを許可しています17。ルイは伯父以上に才能豊かと評され、19世紀初頭にはその名声が国際的にも高まりました22。彼は1802年にナポレオンから正式にフランス帝国海軍の経度時計師に任命され、伯父と共にレジオンドヌール勲章も受章しています1720。しかし残念ながらルイはフェルディナント死去の6年後、1813年に急逝してしまいます。ルイ・ベルトゥーには二人の息子、ジャン=ルイ・ベルトゥー(1793–1880)とシャルル=オーギュスト・ベルトゥー(1798–1876)があり、伯父フェルディナントや父ルイから時計技術を学びました23。彼らはルイの同僚だったアンリ・モテルにも師事し、パリと郊外アルジャントゥイユに「ベルトゥー兄弟」という工房を構えて事業を継続しました23。ベルトゥー兄弟は19世紀前半の航海用クロノメーター製造専門会社とも言うべき存在で、その高精度な製品は航海士や科学者から高い評価を受けました23。シャルル=オーギュストは1819年の産業博覧会で銀メダルを受賞し、1823年・1827年にも銀メダル、さらに1834年・1844年・1849年には金メダルを獲得、レジオンドヌール勲章シュヴァリエにも叙されました23。彼は1876年まで長命を保ち、生涯で約350台のマリン・クロノメーターを製造したと推計されています23。彼の死をもってベルトゥー家によるクロノメーター製造の伝統は途絶えましたが、その間1世紀以上にわたり三代に亘る名工一家としてフランス航海時計史に名を刻みました23

影響と現代への遺産#

航海術・科学への貢献: フェルディナント・ベルトゥーの発明と事業は、18~19世紀の航海術に革命をもたらしました。彼の手がけた精密クロノメーターの普及により、船乗りたちは経度を正確に知ることができるようになり、これまで不確実だった航海経路の安全性が飛躍的に向上しました。長距離航海での遭難や位置誤認による事故が減り、世界地図の空白は着実に埋められていきました。例えばクック船長の探検航海(ハリソン系クロノメーター使用)や、フルリュー/ボルダ/ラ・ペルーズ/マラスピーナなどのフランス・スペイン探検航海(ベルトゥー系クロノメーター使用)の成果は、正確な時計なくしては成し得なかったと評価されています。ベルトゥー自身、王立科学アカデミーからの航海報告で何度も功績を称えられており、その名は同時代の航海者たちに広く知られていました。18世紀末にはイギリスでもアーノルドやアーンショウが実用的な量産クロノメーターを開発し、19世紀に入ると両国海軍は競うように数百台規模の航海時計を艦船に配備するようになります。その意味で、ベルトゥーの努力は**「航海クロノメーターの標準装備化」**という歴史的潮流の一翼を担ったといえます。彼の研究した課題――脱進機の改良、温度補償、等時性の追求、衝撃対策、均時差表示――の多くは、その後の時計技術者たちによってさらに洗練され、最終的に19世紀末まで機械式クロノメーターは精度・信頼性を極限まで高めました。これらは無線航法や電子時計が登場する以前、20世紀半ばまで船舶の命綱として活躍します。機械式クロノメーターによる航海術は現在では歴史的手法となりましたが、正確な時刻で位置を知るという原理自体はGPSなど現代の衛星航法にも通じる基本概念です。そうした意味で、ベルトゥーらが切り拓いた時間計測技術の遺産は、現代の測位システムや時間標準にも連なっているといえるでしょう。

博物館と歴史研究: ベルトゥーの遺した実物資料は、今日でもその影響を伝えています。彼の没後、工房にあった多数の航海時計・器具類は国の所有となり、直ちに**工芸技術博物館(Musée des Arts et Métiers)**に移管されました18。同館には現在もベルトゥーの航海時計や作業台、工具一式が所蔵・展示されており、当時の技術水準や製作プロセスを直接見ることができます18。これらのコレクションは時計学研究者にとって貴重な一次資料であり、19世紀後半の時計史研究の黎明期から盛んに調査が行われました。忘れられていたライバルのピエール・ルロワの評価が蘇ったのも、当時の研究者たち(例えば英国のロイヤル・ソサエティー会員だったラッパート・グールド卿ら)がベルトゥーやルロワの残した時計・文献を精査した成果でした12。ベルトゥー自身もその著作が読み継がれ、フランスのみならず各国語版を通じて時計工学の歴史に名を残しています。1984年にはスイス・ラ・ショー=ド=フォン国際時計博物館(MIH)でベルトゥー没後177年を記念する大規模な回顧展が開催され、C.カルディナルやJ.C.サブリエら専門家による包括的な図録が出版されました21。21世紀に入っても欧米や日本で時計史・科学史の文脈でベルトゥーが言及される機会は多く、その功績は学術的にも再評価が続いています。

現代によみがえる名前: ベルトゥーの名は現在、時計愛好家にとっても特別な響きを持っています。これは近年になって、歴史的時計師の名を冠したブランドが再興されたことによります。スイスの高級時計メーカーであるショパール社共同社長カール=フリードリッヒ・シーフェレ氏は、2006年に「フェルディナン・ベルトゥー」のブランド名を取得し、長年の構想を経て2015年に「クロノメトリー・フェルディナン・ベルトゥー(Chronométrie Ferdinand Berthoud)」を創設しました24。工房は奇しくもベルトゥーの故郷ヴァル=ド=トラヴェールに近いフルーリエ村に置かれ、ちょうど彼の生誕地から5kmほどの場所で現代的な少量生産による時計作りが始まりました25。2015年9月に発表されたファーストモデル「FB 1」は、トゥールビヨンとフュゼ鎖引きを組み合わせた極めて高度な機械式時計で、その設計思想は18世紀のベルトゥーの海洋時計から直接インスピレーションを得たものでした25。開発チームは4年を費やし秘密裏にこの作品を完成させましたが、その努力は時計界から高く評価され、同モデルは翌年のジュネーブ時計グランプリ(GPHG)で最高賞「金の針賞(Aiguille d’Or)」を受賞しています26。さらにクロノメトリーFB社は創業から参加した5回のGPHGで毎回受賞を果たし、特に精度を競うクロノメトリー部門賞を3度も獲得するという前例のない記録を打ち立てました26。これは現代においても**「精度こそ時計の命」というベルトゥーの理念**が確かに受け継がれていることの証と言えるでしょう。

2025年にはクロノメトリー・フェルディナン・ベルトゥー社創立10周年を迎え、限定生産ながら数々の意欲作を発表してきました25。同社の社是は「真正性と精度の追求」であり、各モデルごとに独自の機構アプローチをとりつつも、常に精度向上という共通目的に沿って開発されています26。例えばFB 1系ではフュゼと鎖による等力巻上げに加え、18世紀には実現できなかった**恒動差(レムントワール・ダガリテ)機構やシリンダーひげゼンマイなども採用し、COSC公式検定を大幅に上回る高精度を達成しています26。こうした姿勢は、まさにフェルディナント・ベルトゥー本人が生涯取り組んだ問題——脱進機改良、懸架・素材研究、表示工夫など——に現代技術で再挑戦するものです。実際、同社は社内に小規模な博物館を設けてベルトゥーゆかりの歴史的クロノメーターを収蔵し、18世紀当時の修復も行いながら、その遺産を次世代に継承する努力もしています26。まさに「生きた遺産」**として、ベルトゥーの名は21世紀の今も脈々と時計界に息づいているのです。

年表#

  • 1727年3月18日 – スイス・ヌーシャテル州プランスモン=シュル=クヴェ村に生まれる。
  • 1741年 – 兄ジャン=アンリに師事し、14歳で時計師・振り子時計職人の徒弟修行を開始。科学教育も受ける。
  • 1745年4月13日 – 徒弟修行を修了し資格を取得。18歳で技術研鑽のためパリへ移住し、各地の名工のもとで働く(ルロワ工房等で経験を積む)。
  • 1752年 – パリ王立科学アカデミーに自作の等時性振り子時計の構造を発表。アカデミー年鑑の「機械発明」欄に掲載され高評価を得る2
  • 1753年11月4日 – フランス王ルイ15世の勅許により、パリ時計師ギルドの規定に反して26歳で時計師マスターに特任される(12月4日付で王室枢密院が正式承認)3。パリ・アイル・ド・ラ・サ cité界隈で工房を開く。
  • 1755年 – **百科全書(Encyclopédie)**の時計学関連記事執筆を複数依頼される(1751–1772年刊行の方法序百科全書の一環)3
  • 1759年 – 初の著書**『振り子時計と懐中時計の取り扱いと調整法』**を出版。時計素人向けの実用書として大成功を収め、以後19世紀まで版を重ねる3
  • 1760年12月13日 – 王立科学アカデミーに**「航海用時計の構造原理に関する覚書」**を提出し、試作航海時計第1号機の構想を示す5
  • 1761年 – 航海時計第1号機を完成。結果は十分でなかったものの航海クロノメーター開発の端緒となる10
  • 1763年 – 二巻本の大著**『時計学試論(Essai sur l’horlogerie)』**を刊行。時計学を市民生活・天文学・航海術と関連付けて論じた内容が各国語に翻訳され、時計学の標準的参考書となる58
    同年5月、国王の命により渡英し、ジョン・ハリソン製作の第4号航海時計H4を調査しようとするが、ハリソンにH4の公開を拒まれる。代わりにH1–H3の3台を見るに留まるが、ロンドン王立協会の外国人準会員に選出され国際的評価を高める7
  • 1764年 – フランス科学アカデミーの要請で、会員デュアメル・デュ・モンソーとシャップ・ドートロシュ神父がベルトゥー航海時計第3号機を海上試験する。ベルトゥー自身もブレストで立ち会い、フリゲート艦「イロンデル号」での試験航海に参加した8
  • 1765年 – ザクセン公使ブラウンシュヴァイク伯の仲介で二度目の渡英。再度ハリソンに面会するもH4の詳細公開を拒まれる。経度法委員でレバー脱進機考案者の英時計師トーマス・マッジが、H4の作動原理について知る限りの情報を提供し、ヒントを得る8
  • 1766年5月7日 – ベルトゥー、フランス海軍大臣プラズラン公爵宛に航海時計第6号機・第8号機の製作計画書を提出。英技術に学んだ新型2台の製作資金3,000リーヴルと、「王室および海軍付き機械時計師」の称号を求め、今後航海時計開発に専念したい意向を示す10
    1766年7月24日 – フランス国王ルイ15世、ベルトゥーによる航海時計2台の製作を公式に認可し、資金援助と官職授与を内諭する10
  • 1767年 – 航海時計第6号機・第8号機の製作開始。ベルトゥーはハリソン式懐中時計やルロワ式懐中緯度時計の利点を研究しつつ、独自の改良設計を進める。
  • 1768年11月3日 – 完成した航海時計No.6とNo.8の性能試験として、フランス王の命によりフルリュー伯爵(探検家・海軍士官)とアカデミー会員ピングレが両機を搭載し航海に出発。護衛艦「リシス号」でロシュフォール~サントドマング(西インド諸島)を往復し、約10ヶ月に及ぶ試験航海を成功裏に完遂する11
  • 1769年 – ベルトゥー、甥のルイ・ベルトゥー(当時15歳)をスイスからパリに呼び寄せ弟子とする。ルイは以後、伯父の航海時計製作・整備を助け、フランス・スペイン両海軍へのクロノメーター供給を支援する11
  • 1770年4月1日 – 航海時計No.6・No.8の試験成功により、ベルトゥーは**「王室および海軍付き機械時計師(時計工学技師)」**の称号を正式に与えられる。年金3,000リーヴルが支給され、海軍向けクロノメーター製作総監督に任命、同時に王室から航海時計20台の製作を発注される12
  • 1771年 – ベルトゥー、航海時計第3号機の脱進機を二重ビルギュラ式から枢軸デテント式脱進機に改造。これにより摩擦損失を軽減し精度向上を図る13
    同年、ボルダ騎士がラ・クレンヌ侯の命でフリゲート艦「ラ・フロール号」に乗船し、カナリア諸島・アンティル諸島方面で航海時計の試験遠征を実施(ベルトゥーの時計を使用)12
  • 1773年 – 航海時計の全知見をまとめた著書**『海洋時計論(Traité des horloges marines)』**をパリで出版。理論・構造・製造・検定法を詳細に記述し、航海用クロノメーター製作の標準教科書となる13
    同年、フルリュー伯爵の観測記録『国王の命により行われた航海時計試験航海記録』が刊行され、ベルトゥーの航海時計が公式にフランス海軍採用となったことが公表される11
  • 1775年 – 著書**『経度測定のための時間計測法(Les Longitudes par la mesure du temps)』**を出版。航海におけるクロノメーター利用法(観測と計算による経度算出手順)と必要な航海暦表などを提供。
    同年、ベルトゥーは工房監督を甥アンリ・ベルトゥーに委ね、自らは研究に集中する(~1783年)。
  • 1775–1783年 – 工房経営は不振に陥り、アンリ・ベルトゥーは多額の借財を抱えたまま1783年6月29日に自殺。工房の規模を縮小し、甥ルイ・ベルトゥーが製作指揮を引き継ぐ17
  • 1782年 – 国王ルイ16世の後援により、ベルトゥーのパリ工房が王室支援工房として位置づけられる。研究成果や製作品は王室所有財産とみなされ、開発環境が安定化する18
  • 1785年8月1日 – ベルトゥー、太平洋探検航海へ出発するラ・ペルーズ伯(ラ・ペルーズ号、アストロラーブ号)に航海クロノメーター5台を貸与する。これはクック以来の世界周航探検となる予定だったが、ラ・ペルーズは1788年に消息不明となり、時計も失われた15
  • 1787年 – 著書**『時間計測論 – 海洋時計論および時計学試論の補遺』**を出版。小型経度時計(懐中クロノメーター)や天文時計の製作法などを追補。
  • 1788年 – ラ・ペルーズ探検隊のアストロラーブ号がサンタクルーズ諸島沖で難破、同船に積まれていたベルトゥー時計も海中に没する15
  • 1791年 – ベルトゥー、ルイ16世の命で組織された**ダントルカストー伯(ブリュニー)**の遠征隊に航海時計4台を提供。これは消息不明のラ・ペルーズ捜索を目的とした探検で、フリゲート「ラ・レシェルシュ号」「ラ・エスペランス号」に搭載される15
  • 1792年 – 著書**『経度時計論(Traité des montres à longitudes)』**第1部を刊行(第2部は1796年刊)。懐中型経度時計の構造と、簡便な小型経度時計の使用法について述べる。
  • 1793年7月19日 – フェルディナント・ベルトゥー、革命政府に宛てて**「航海時計および経度時計の製作リスト」**を提出(共和暦2年の公式記録)。1757年以来自らが製作・改良した経度時計の機種と台数、納品先などを網羅した報告書で、革命期も変わらず海軍に協力していたことを示す26
  • 1802年 – 大著**『時計による時間計測の歴史(Histoire de la mesure du temps par les horloges)』を刊行。古代から自分の時代までの時計技術史を総括し、豊富な図版とともに自身の知識を披露したもの20
    同年、ナポレオン政権下でフェルディナント・ベルトゥーがレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受章。また甥ルイ・ベルトゥーがナポレオンより
    帝国海軍時計師**の称号を授与される1720
  • 1804年7月17日 – ベルトゥー、再編されたフランス学士院の会員として、ナポレオン皇帝から改めてレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を親授される20
  • 1807年 – **『経度測定用時計概論補遺』(Supplément au traité des montres à longitudes)**を出版。1752年から1807年までの自身の主要研究・製作の概要をまとめた最後の著作21
    1807年6月20日 – 子孫を残さずグロスレにて逝去(満80歳)。遺品の航海時計・機械工具類は王室所有物として直ちにパリ工芸博物館に収蔵される18。墓所はグロスレ墓地。
  • 1813年9月18日 – 甥のルイ・ベルトゥーがアルジャントゥイユで没する(享年59)。彼は出版の機会を得なかったものの手稿を遺し、そのクロノメーターは当時の科学者・航海士から高く評価された23
  • 1819年 – ルイの子シャルル=オーギュスト・ベルトゥー(ベルトゥー兄弟工房)、フランス産業博覧会で銀メダル受賞。以降1823年・1827年も銀、1834年・1844年・1849年に金メダル受賞し、1849年レジオンドヌール勲章受章23
  • 1876年2月15日 – シャルル=オーギュスト・ベルトゥー、パリで死去(77歳)。推定350台のマリン・クロノメーターを製作し、以後「ベルトゥー」の銘を持つ航海時計の系譜は途絶える23
  • 1984年 – ラ・ショー=ド=フォン国際時計博物館(MIH)にて「フェルディナン・ベルトゥー 1727–1807」展開催(同館新館開館10周年記念)。学術図録『フェルディナン・ベルトゥー ― 王と海軍の機械時計師』刊行21
  • 2006年 – スイスの高級時計メーカー、ショパール社が「Ferdinand Berthoud」ブランドの権利を取得24
  • 2015年9月Chronométrie Ferdinand Berthoud社が創設され、現代の高級時計ブランド「フェルディナン・ベルトゥー」として第一作FB 1コレクションを発表。フュゼ鎖やトゥールビヨンを備え、18世紀の精神を受け継ぐタイムピースが誕生する25
  • 2016年11月 – FB 1クロノメーター、ジュネーブ時計グランプリ(GPHG)で最高賞「金の針(Aiguille d’Or)」を受賞。以降2010年代後半にかけて当ブランドは複数回のGPHG部門賞(特にクロノメトリー賞)を受賞し、現代独立時計師ブランドとして確固たる地位を築く26
  • 2025年 – Chronométrie Ferdinand Berthoud社、創立10周年を迎える。少量生産の高級機械式時計メーカーとして引き続き存続し、精度追求の姿勢を堅持している25。会長シーフェレは「ベルトゥーの名に恥じぬ真正性と高精度の追求」を掲げ、創業地ヴァル=ド=トラヴェールで技術遺産を守りつつ革新的作品を送り出している2526

参考文献#


  1. フェルディナン・ベルトゥーの生い立ちと家族背景12 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  2. Metropolitan Museum (2021). Longcase astronomical regulator – Ferdinand Berthoud (ca.1768–70). ベルトゥーが1752年に時間等式時計を発表し、王立科学アカデミーに認められた経緯を紹介34 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  3. Berthoud公式サイト「History – 1753: Master Watchmaker」 (2026年閲覧). 1753年に26歳でパリの時計師親方に特任された事実と、百科全書への寄稿・1759年の著書出版について記述56 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  4. Berthoud公式サイト「History – 1760: Marine chronometers」 (2026年閲覧). 18世紀当時フランスとイギリスが経度測定法に懸賞を掛けていた状況7 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  5. Berthoud公式サイト「History – 1760: Marine chronometers」より。1760年末に航海時計の構想をアカデミーに提出し、1763年に『時計学試論』を刊行した経緯89 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  6. Antiquarian Horology (ブログ), Ferdinand Berthoud & Pierre-Louis Berthoud (2018). ベルトゥーの第1号航海時計(1761年)は「うまく動作しなかった」旨の記述10 ↩︎ ↩︎

  7. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版 (2018年改訂). 1763年の渡英でハリソンのH4公開を拒まれた逸話11。H1–H3は見せたがH4は拒否12。王立協会外国人会員選出13。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  8. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1765年の二度目のロンドン訪問でハリソンに再度拒まれた件と、トーマス・マッジがH4の仕組みを述べたこと1415。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  9. Antiquarian Horology (ブログ). ロンドン訪問時に経度委員会の不手際でマッジからH4の秘密を聞き出したくだりと、英国の時計製作用工具を入手しようとした点1617。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  10. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1766年プラズラン公への計画書提出内容と、求めた援助・官職の詳細1819。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  11. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1768–1769年フルリュー伯による航海試験の概要と成果、1773年刊行の報告書202122。甥ルイをパリに呼び寄せた件23。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  12. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1770年4月1日付の王室機械時計師任命と年金・注文、以降の海軍遠征への時計提供について2425。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  13. Berthoud公式サイト「History – 1770: Watchmaker-Mechanic to the King and Navy」より。1771年に枢軸てん輪脱進機を採用、1773年に『海洋時計論』を出版した記述26。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  14. Metropolitan Museum Longcase astronomical regulator – Ferdinand Berthoud の解説 (2021). 1760年代のハリソンH4巡る動向と、1769年ピエール・ルロワが褒賞を得たものの1770年にベルトゥーが王室時計師となり、1773年に年4台の航海時計製作と終身年金を与えられたこと427。また1773年の著書でハリソンの影響を認めている点28。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  15. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1785年ラ・ペルーズへの5台貸与と、1788年難破で時計消失2930。1791年ダントルカストーへの4台貸与29。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  16. Antiquarian Horology (ブログ). 1782年ルイ16世がベルトゥー工房を支援し、工房内資産は王室所有となったこと。1807年没後、工房の全内容が工芸博物館に移された件31。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  17. Antiquarian Horology (ブログ). 1775年に工房監督を任せた甥アンリが1783年自殺し、多額の負債を残したこと。1784年以降ルイが工房長となり、制作を縮小し外部委託しつつ継続したこと。ルイが伯父に功績を認められず不満を抱いたこと。1802年ナポレオンがルイを海軍時計師に任命し、ブレゲの時計に失望したエピソード(砂で故障、会合遅刻で時計破壊)323334。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  18. Antiquarian Horology (ブログ). ベルトゥー署名の種類(フルネームと略号の違い)や、贋作の存在。ベルトゥーの性格は謙虚だったこと。死後工房内容が工芸博物館に移管され、ベルトゥーの航海時計・工具・作業台が常設展示されていること3531。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  19. Watchonista, Ferdinand Berthoud FB 1 – Malaspina Edition (2018年). スペインのマラスピーナ探検隊(1789–94年)がフェルディナン・ベルトゥー製航海時計No.10とNo.13を搭載していた事実3637。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  20. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1802年に『時計による時間計測の歴史』を出版し、卓越した知識を示した点38。1804年7月17日にナポレオンから学士院会員としてレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を授与されたこと39。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  21. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1807年出版の『経度時計概論補遺』のタイトル(仏語・邦訳)と内容概要4041。1984年MIH展図録の書誌情報42。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  22. Britannica Online, Ferdinand Berthoud – French horologist (執筆: Jonathan Betts). ベルトゥーの業績は、ピエール・ルロワやジョン・ハリソンが作った精巧だが壊れやすい試作機を基に、より実用的な航海時計を数多く創造した点にあるとの評価43。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  23. Berthoud公式サイト「History – 1813: Three generations of master chronometer-makers」. 1813年ルイ・ベルトゥーの早逝、その息子ジャン=ルイ(1793–1880)とシャルル=オーギュスト(1798–1876)兄弟が事業継続し「ベルトゥー兄弟」を名乗ったこと。兄弟は航海時計製造で高評を得て、多数の博覧会メダルやレジオン・ドヌール受章、~1876年までに約350台を生産したこと4445。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  24. フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 「フェルディナン・ベルトゥー」はブランド名でもあり、2006年にショパール社が買収した事実、および2015年9月から高級時計を販売している旨46。出典はForbes記事 (Y-Jean Mun-Delsalle, 2015)。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  25. Watch I Love, Ten Years Of Chronométrie Ferdinand Berthoud: Retrospective And Outlook For 2025 (2025年3月21日). 2015年にKarl-Friedrich Scheufele氏の主導でChronométrie Ferdinand Berthoudがヴァル=ド=トラヴェールに設立され、18世紀の巨匠ベルトゥーの名が復活したこと47。2025年に創立10周年を迎え、ブランドが「真正性と精度追求」の理念を堅持していること48。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  26. Watch I Love, 同記事. ベルトゥーの生涯の軌跡(航海クロノメーター開発に生涯を捧げ、No.8クロノメーターが12か月航海で誤差1.35分に留まったこと)が現代クロノメトリーFB社の開発指針になっている点49。また、クロノメトリーFB社が参加5回のGPHG全てで受賞し、初年度に金の針賞、その後クロノメトリー賞3回を含む計5個のトロフィーを獲得した記録50。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  27. Clockmaker: Ferdinand Berthoud - Longcase astronomical regulator - French, Paris - The Metropolitan Museum of Art ↩︎

  28. Clockmaker: Ferdinand Berthoud - Longcase astronomical regulator - French, Paris - The Metropolitan Museum of Art ↩︎

  29. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎ ↩︎

  30. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  31. Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology ↩︎ ↩︎

  32. Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology ↩︎

  33. Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology ↩︎

  34. Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology ↩︎

  35. Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology ↩︎

  36. Ferdinand Berthoud FB 1 – Malaspina Edition | Watchonista ↩︎

  37. Ferdinand Berthoud Chronomètre FB 1 Malaspina Edition ↩︎

  38. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  39. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  40. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  41. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  42. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  43. Ferdinand Berthoud | Marine Chronometer, Clockmaker, Inventor | Britannica ↩︎

  44. History | Ferdinand Berthoud ↩︎

  45. History | Ferdinand Berthoud ↩︎

  46. フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia ↩︎

  47. Chronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love ↩︎

  48. Chronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love ↩︎

  49. Chronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love ↩︎

  50. Chronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love ↩︎