生涯と経歴#
幼少期と修業時代 (1727–1752): フェルディナント・ベルトゥー(1727年3月18日 – 1807年6月20日)は、現在のスイス・ヌーシャテル州ヴァル=ド=トラヴェール地方プランスモンで生まれました1。父は建築家兼大工、母は近隣のクヴェの出身と伝えられます。家族には兄ジャン=アンリら時計職人がいました1。14歳の時に兄ジャン=アンリの下で振り子時計職人の徒弟修業を始め、数学や物理学など科学的素養も身に付けました1。1745年4月に時計師の修業を終えると、さらなる研鑽を積むため18歳でパリへ移住しました1。パリでは一流の時計師たちの工房で働き、非凡な才能を発揮します。伝承によれば、一時ジュリアン・ルロワ(Julien Le Roy)の工房で働き、その息子で後にライバルとなるピエール・ルロワと共に技術を磨いたとも言われます1。この若きベルトゥーの技量は評判を呼び、20代前半にして高い評価を得るようになりました。
パリでの台頭 (1753–1762): パリの時計師ギルドは外部出身者には厳しい制約を課していましたが、ベルトゥーはその才能ゆえ特例的な支援を受けます。1752年、ベルトゥーは自作の均時差時計(時間等式時計)の構造を王立科学アカデミーに提出しました。『百科全書』の「ÉQUATION」項はこの機構を1752年提出のものとし、真太陽時と平均太陽時を示す輪列と、閏年表示を説明しています。366歯の年周車を用い、閏年は毎日1歯ずつ、平年は1か所で2歯をまとめて進めることで、365日と366日の年を機械的に区別しました。年周車上の段付きカムがレバーを動かし、真太陽時の針を平均太陽時に対して進退させます。季節による太陽時の変化を表示する仕組みであり、振り子の周期を振幅にかかわらず一定にする等時性とは異なる課題です2。現代の同名メーカーの歴史解説によると、1753年12月4日、国王顧問会議の特別裁定によって組合規則の例外が認められ、26歳で時計師親方(マスター)の資格を得ました3。ただし、メトロポリタン美術館の研究解説が引用する国王顧問会議文書には同年12月31日という日付があり、特別裁定の日付は資料間で異なります。いずれも1753年の親方就任を伝えています4。王室天文学者シャルル=エティエンヌ・カミュや水路学者ピエール・ブーゲーらアカデミー会員の後押しもあり、若き時計師は正式にパリで工房を構えることが許されたのです5。

図1:1752年頃の均時差長箱時計。時計:フェルディナント・ベルトゥー、ケース:バルタザール・リユータ。写真:Trujillo Juan(配信画像のXMPによる)。所蔵・出典:メトロポリタン美術館、2016.28a–e。利用条件:CC0 1.0 Universal、同館のOpen Access方針。変更:配信画像からの追加加工なし。
親方となったベルトゥーは1755年から、ディドロとダランベール編集の百科全書において時計学関連記事の執筆を委嘱されるなど、学術界でも名声を高めました5。1759年には最初の専門著作 『振り子時計・懐中時計の指導と調整法』 を刊行します。この書物は時計の知識がない一般人向けに正しい時計の扱い方や調整法を解説したもので、ベルトゥーは教育者としても才能を示しました5。同書は18~19世紀を通じて何度も版を重ね各国語に翻訳されるベストセラーとなり、彼の名は広く知れ渡りました5。
経度時計への挑戦 (1760年代): 18世紀半ば、航海中に船の正確な経度(東西位置)を測定することは最大の科学技術上の課題でした。当時イギリスとフランスでは、経度を正確に求める実用的方法に巨額の賞金が懸けられており、天文学的手法と航海用時計(マリン・クロノメーター)による手法の競争が繰り広げられていました6。スイスからパリへ移ったベルトゥーもこの「経度の問題」に強い関心を抱き、航海用精密時計の開発に乗り出します。1760年12月、彼は王立科学アカデミーに 「航海時計の構造原理に関する覚書」 を提出し、自身が設計した最初の試作航海時計(後の第1号機)について説明しました7。この時計は1761年初頭に完成しますが、精度や信頼性の点では改良の余地がありました8。
ベルトゥーの経度時計研究は徐々に本格化します。1763年、彼は二巻本の大著 『時計学試論(エッセイ・シュル・ロルロジュリー)』 を出版しました。この著作は時計学を市民生活・天文学・航海術に関連付けて論じ、実験で確かめられた原理をまとめたもので、専門家のみならず幅広い読者に迎えられます7。同1763年、フランス国王ルイ15世はベルトゥーをロンドンに派遣し、英国人ジョン・ハリソンの製作した有名な第4号航海時計H4を調査させようとしました9。ハリソンは英国で経度法の賞金を目前にしていた経度時計の先駆者であり、1759年完成のH4は当時もっとも精巧な海洋時計でした。日本語版Wikipediaは、カミュやラランドらと渡英したベルトゥーがH4の公開を拒まれ、500ポンドの謝礼と引き換えにH1~H3を見たと伝えています9。一方、メトロポリタン美術館の研究解説は、1763年5月に3台の時計を実見したものの、ハリソン本人には会っていないらしいとします。時計の閲覧と製作者本人への面会は区別されます4。このためベルトゥーはH4の設計を直接には知ることができず期待外れに終わります。しかし英国滞在を通じて最新の時計技術に触れ、1764年2月16日にロンドン王立協会の会員に選出され、国際的評価を得ました。王立協会所蔵の推薦状には1763年5月19日と10月12日の日付がありますが、選出は翌年です。前者はカミュに同行するHarrison時計調査への選任や、時計に関する著作と発明を推薦理由に挙げています10。
1760年代後半、ベルトゥーはフランス国内で航海時計の改良と実用化を目指し、政府高官とも連携します。メトロポリタン美術館の研究図録は、2回目のロンドン訪問を1766年2月とします。同図録ではハリソン本人には会っていないらしいとされ、本人との面会、時計の実見、他の時計師から得た情報を区別しています11。しかしこの訪英中、イギリス経度委員会の手違いによりハリソンの情報が一部漏洩し、時計師トーマス・マッジからH4の構造に関する重要な示唆を得ました4。ベルトゥー自身も1773年の著書で、1766年にマッジから自由脱進機を見せられたと記しています12。さらにベルトゥーは英国の時計職人たちが使用する高度な専用工具類も視察し、自らの研究に取り入れようとしました13。
1766年5月、ベルトゥーはフランス海軍大臣であるプラズラン公(ショワズール伯爵)に覚書を提出し、自身の設計による改良型マリン・クロノメーター第6号機と第8号機の製作計画を提案しました14。彼はこれまでの業績に対する報奨金と、新型機2台の製作資金として合計3,000リーヴルの助成、および「王室・海軍付き機械時計師(航海時計師)」の官職を求め、経度時計の開発に専念したいという意志を示しました14。国王ルイ15世は1766年7月にこの計画を承認し、資金援助と開発許可を与えました14。
こうして製作された航海時計第6号機・第8号機は、1768〜69年の大西洋での試験に供されました。フランス海軍将校フルリューと天文学者ピングレは、フリゲート艦イシス号に2台を搭載し、ロシュフォール周辺からカディス、カナリア諸島、アフリカ西岸、西インド諸島、アゾレス諸島などを経る航海で比較を重ねました。試験には出航前後の陸上比較も含まれ、フルリューの原報は1769年11月22日までの比較と巻上げ停止を記し、試験全体を376日としています。これは海上航行だけの期間とは区別する必要があります15。
時計の役割は出発地の時刻を運ぶことでしたが、実際には既知の港で天測や比較時計と照らして一日あたりの進み遅れ、すなわち歩度を求め、その値で時刻を補正しました。原報の結論によると、第8号機の着岸時の経度誤差は45日間で4分の1度以内で、より短い区間では8分の1度以下となる例もありました。ロシュフォールからカディスまで87日間、中間で歩度を検証しなかった計算では約3分の1度です。一方、第6号機には終盤44日で50角分の誤差となる区間もあり、両機の成績は同一ではありません。試験中の温度変化と大きな横揺れを記録しつつ、フルリューは海上の位置判断と海図修正に役立つ成果と評価しました。観測と計算を収めた公式報告書は1773年に刊行されています15。
試験航海の成功を受け、ベルトゥーは1769年、自身の甥で優秀な若手時計師であったピエール=ルイ・ベルトゥー(ルイ・ベルトゥー) を故郷クヴェからパリに呼び寄せ、弟子兼助手として受け入れます16。ルイは伯父の下で航海時計の製造と保守に携わり、以後フランス海軍のみならずスペイン海軍にもクロノメーターを提供するプロジェクトを支えることになりました16。
王室時計師としての活躍 (1770–1785): 1768–69年の海上試験が収めた成果により、ベルトゥーはついに正式な官職と栄誉を手にします。1770年4月1日付で彼は 「王および海軍付き機械時計師(時計工学者)」 の称号と終身年金を下賜され、フランス海軍のための経度時計製作監督官に任命されました17。フルリューの航海記序論を収めた1787年の『時間計測論』には、1770年に国王が任命状と俸給を与えたことに続き、執筆当時ベルトゥーがフランス王の勘定で新たな12台の航海時計を製作中で、スペイン王からも艦船向け8台を求められたと記されています。二つの王国からの需要を伝える記録であり、同じ王室による20台の一括発注や、1787年時点の新規注文を表すものではありません18。これはフランスにおける航海用クロノメーター量産の幕開けであり、ベルトゥーは多数の遠征航海や測量探検に自らの時計を供給する重責を担うことになりました17。彼は「経度時計(時計式経度測定機)」の需要増大に応えるべく工房の体制を整え、極めて精力的に活動します。その甲斐あって、ベルトゥー製クロノメーターは以後の様々な試験航海や地図作成航海に欠かせない装備として搭載されるようになりました17。
1770年代、ベルトゥーは脱進機の改良を進めました。1771年の改造とされる第3号機への自由脱進機の適用は、その一例です19。1773年の本人の説明では、同機の従来の脱進機は「échappement à cheville」と呼ばれ、地中海での使用後に問題を認識したとされています。新機構では、がんぎ車を止めるデテントを一時的に解放し、てんぷが輪列から離れて振動する時間を設けました。ただし第3号機では、第9号機で得たほど大きな振幅の増加はなく、本人はばねの強さをさらに調整する余地を述べています。実機ごとの成果と限界を併記することが、この改良を理解する鍵です12。
1773年には研究成果を体系化した『海洋時計論(Traité des horloges marines)』を出版しました。理論・構造・製作・試験を四部に分け、実機別の図版、摩擦や潤滑の検討、温度と歩度の比較、製作工具までを示す専門書です12。ハリソンの発明を参考にした航海時計も扱っており、所蔵機関の解説ではとくに第2号機との関係が指摘されています4。
こうした活躍により、ベルトゥーはフランス宮廷と海軍から絶大な信頼を得ました。フルリューの序論抜粋によれば、第6号機は1770年に海軍天文学者ロションへ渡され、東インド航海の経度測定に用いられました。同書は、1771年11月27日付でイル・ド・フランスからベルトゥーへ送られたロションの書簡を引き、期待以上に歩度が規則的だったとの評価を伝えています。この記述は観測者の評価であり、航海全体の誤差を数値で示すものではありません18。第8号機は国王の命令でヴェルダン・ド・ラ・クレンヌ指揮のフリゲート艦フロール号へ搭載され、1771~72年の航海でボルダとピングレも試験に参加しました。フルリューは、国王所有の第8号機はこの航海で検査されたものの、時計の懸賞には応募していなかったと説明しています18。ベルトゥーの1802年の著作は、シャストネ・ピュイセギュールが1784~85年に小型ぜんまい駆動時計2台を携え、サン=ドマング周辺の航路の経度を定めたと記しています20。1785年のラ・ペルーズ探検隊には、錘駆動の第18・19号機、ぜんまい駆動の第25・27・29号機の計5台が渡されました。本人による大臣命令下の納入記録には、1785年6月23日の日付とともにこの5台が記されています21。ラ・ペルーズが指揮した艦はブソール号で、アストロラーブ号の艦長はフルリオ・ド・ラングルでした。第19号機はブソール号にあり、現存するジンバル部品について所蔵目録は同機に属した可能性を示しています。2艦は1788年にヴァニコロ島で遭難しました2022。1791年のダントルカストー捜索航海には、錘駆動の第17・21号機、ぜんまい駆動の第5・28号機の4台が供給されました。手稿は8月6日付の納入として記し、1802年の著作も同じ4台を挙げています2120。
フランス革命前夜の1780年代も、ベルトゥーは旺盛に活動を続けました。Cnamの所蔵目録によると、1782年、国王はベルトゥーから工具・時計製作用計器116点と航海時計4台を購入しました。製作と試験のための具体的な設備を国家が取得した事例です23。しかし経営面では波乱もありました。1775年、ベルトゥーは工房の監督を甥の一人アンリ・ベルトゥーに委ねましたが、事業運営は振るわず1783年にアンリは自殺、工房に6万リーヴルもの負債を残す事態となりました24。その後はもう一人の甥ルイ・ベルトゥー(前述のピエール=ルイ)が1784年から工房の実質的な指揮を執り、規模を縮小しつつも製作を続けます24。ルイは腕利きの時計師でしたが、伯父フェルディナントが自分の貢献を十分評価しないことに終生不満を抱いていたと伝えられます24。作品には「Ferdinand Berthoud」や「Fd. Berthoud」など複数の署名形が伝わります。ただし同じ姓を持つ時計師や工房があり、銘は作品の構造、来歴、番号と併せて読む必要があります。ポール=デュピュイ美術館は、文字盤と機械に「Berthoud à Paris」とある1780年頃の金製時計をフェルディナントへ帰属させています25。なお1780年代後半には、ベルトゥーの工房製クロノメーターがスペイン海軍にも提供され、アレッサンドロ・マラスピーナの世界探検航海(1789–94年)にはベルトゥー製の第10号機・第13号機が搭載されています26。
革命と帝政期、晩年の業績 (1789–1807): 1789年にフランス革命が勃発し旧体制が崩壊すると、多くの王党派技術者が地位を追われましたが、ベルトゥーはその卓越した技術ゆえ新政府下でも重用されました。1793年の本人の手稿には、共和国に属する航海時計・経度時計の所在を、海へ送り出した機械と保管中の機械に分けた一覧が残ります。6月6日付の保管一覧は、ブレストの海軍時計師ヴァンサン・マルタンのもとにある機械、同月に追加送付された2台、ベルトゥー自身が預かる4台を区別します。末尾には7月19日付で大臣へ一覧を送った旨の注記があります。海上向けの一覧には、ラ・ペルーズ、ショワズール=グフィエ、ダントルカストーへの納入と各港向けの機械が記されており、海軍が所有する計器の運用と保管を追える資料です21。また1795年にフランス学士院(旧科学アカデミー)が再編成されると、その会員として迎えられました。ベルトゥーは1790年代にも 『経度時計に関する論考』『経度時計の目録』 など複数の刊行物を発表し続けています。
1794年11月27日(共和暦3年フリメール7日)、国民公会はベルトゥーを引き続き海軍に雇用する法令を採択しました。俸給は時計と工房の設置に要する費用を含めて6,000リーヴルとされ、未払い分も海軍予算から支払うことになりました。また旧政府との契約による3,000リーヴルの年金を承認し、うち1,000リーヴルを本人の死後に妻へ支払う遺族給付としています。ただし年金と俸給の同時受給は認めていません。国民公会は、1791年の官職整理法は、継続的に有用な実務を担う彼には適用されないと判断したのです。この決定は、革命期にも海軍での職務が制度として継続した具体例です27。
19世紀に入るとフランスではナポレオン政権が成立します。1804年、ナポレオン・ボナパルトはベルトゥーをレジオンドヌール勲章シュヴァリエ(騎士) に叙し、その長年の功績を讃えました3。甥ルイ・ベルトゥーは1802年に海軍の機械時計師となりました3。ブレゲの歴史家エマニュエル・ブレゲは、フェルディナントが高齢のため同年に辞任し、ルイが職務を継いだと説明しています。これは個人に与えられる官職の継承としての説明です28。ナポレオンがブレゲ製時計の砂塵による故障に失望してルイを選んだという説は、後世の収集家ブログが伝える逸話であり、任命の直接の理由として確認されたものではありません29。こうした厚遇の中、フェルディナント・ベルトゥーは 『時計による時間計測の歴史(イストワール・ド・ラ・メジュール・デュ・タン)』 を1802年に出版しました30。この大著は時計技術とその歴史を総括したもので、自身の専門知識を惜しみなく注いだ集大成的作品でした。さらに1807年、80歳になっていたベルトゥーは 『経度測定用時計論補遺』 と題する最終著作を発表します。1752年から1807年まで自らが行った主要研究と試作の全貌をまとめた内容で、半世紀に及ぶ研究人生を自ら記録に残したものです31。
1807年6月20日、フェルディナント・ベルトゥーはパリ近郊グロスレの自宅で生涯を閉じました。享年80、子孫はなく、遺体はモンモランシー谷のグロスレ墓地に埋葬されました31。墓所には彼の功績を称える記念碑が建てられています。王政から革命、帝政へと激動期を生き抜いたベルトゥーのキャリアは、その時代と同様に非凡でありました。彼が遺したものは、精密航海時計の分野を中心に膨大な業績と数千ページに及ぶ専門文献、精巧な時計類や工具類など多岐にわたります31。晩年まで創造力は衰えず、「偉大なる時計師の中の一人」と称されるにふさわしい生涯を全うしたのです。
技術的背景と発明・功績#
経度測定の課題と背景: ベルトゥーが取り組んだ航海用クロノメーター開発は、当時の最先端科学技術と深く結びついていました。18世紀、多くの列強諸国は未知の海を航海し新天地を求めていましたが、船が自分の経度(東西方向の位置)を正確に知ることは極めて困難でした。太陽や月・恒星の観測によって経度を計算する天文学的方法(時角法・月距法など)は高度な知識と煩雑な計算を要し、気象条件に左右されるという問題がありました。一方、精密な時計を船に積み、出航地の時刻を保ち、それを船上で天測した現地時刻と比較すれば経度を算出できるというアイデアは17世紀から提唱されていましたが、当時の時計には船の揺れや温度変化による歩度の変化があり、長期間の運用には機構の改良と誤差の評価が必要でした。地球の自転は24時間で360度に相当するため、時差1時間は経度15度、時差1分は15角分に対応します。時計を携行するだけでなく、その進み遅れを把握することが経度測定の精度を左右しました15。英国では1714年に「経度法」が制定され、経度1度以内の精度で航海中に経度を測定できる方法へ巨額の賞金が掲げられます。フランスでもそれに匹敵する懸賞や資金援助が提示され、各国の科学者・職人たちがしのぎを削りました6。こうした背景下、イギリスのジョン・ハリソンは4台の試作海洋時計(H1~H4)を経て1761年にH4で飛躍的精度を達成し、この分野を先んじました。一方フランスでは有名時計師ジュリアン・ルロワの子ピエール・ルロワが1760年代半ばに独自の精密航海時計を開発し、1769年には航海時計と海上での計時法に対して褒賞を受けています4。しかしルロワの試作機は当時一般に共有されず、フランス海軍全体へ実用機を供給するまでには至りませんでした。
こうした先達の成果に続き、ベルトゥーは 「より実用的で頑丈な航海時計」 を作り出した点で際立っています。その発明の多くは、ハリソンやルロワが示した原理を踏まえつつ、それらを量産可能な堅牢設計に昇華させたことに特徴があります32。当時、世界でも実用に耐える海洋クロノメーターを製造できる工房は皆無に等しく、ベルトゥーの工房はその草創期を担いました32。フランスのカルヴァドス県が公開する時間計測史の展示解説は、ベルトゥーが製作した航海時計を約75台としています33。その供給の具体像は、ラ・ペルーズ向けの5台やダントルカストー向けの4台を記す本人の納入一覧にも残っています21。ベルトゥーは、個々の試作機の精度を示す段階から、海軍へ複数の時計を供給し、製作と保守を継続する体制を整えました。納入記録と供給を監督する官職は、その実用化の具体像を伝えています214。
航海時計の脱進機: 脱進機は輪列から調速器へエネルギーを与えながら、歯車が進む時機を制御します。ベルトゥーが自由脱進機に求めたのは、衝撃を与えた後にはてんぷの振動を輪列からできるだけ切り離し、摩擦と油の変化による影響を減らすことでした。本人は1754年にモデルを作ったと回想していますが、初期案には部品の重さ、戻しばねの負荷、衝撃時の確実性といった難点があり、最初の航海時計には使わなかったと説明しています12。
1773年の第4号機と第9号機の説明では、がんぎ車を止めるデテントは軸の両端のピボットで支持され、別のばねで復帰します。これはピボット支持のデテントであり、部品自体を薄いばねで支持する方式とは構造が異なります。第4号機は半秒ごと、第9号機は1秒ごとのてんぷ振動とし、それぞれ2振動でがんぎ車を1歯進めます。第9号機は6歯で、秒針は2秒ごとに進みました。解放部品が戻り方向では逃げ、次の適切な振動で車を解放する仕組みも、図版XIXと本文で説明されています12。
同じ第9号機で旧ルビー脱進機から自由脱進機へ替えた比較では、従来と同じ駆動重錘で振幅が大きくなり、204度の同じ振れに戻すため、従来10リーヴルの重錘から3.5リーヴルを減らせたと本人は記しました。これは当該実機の比較であり、第3号機では同じほどの効果が得られなかったことも記されています。自由振動を妨げない脱進機を作ることと、振れ幅が変わっても周期が一定となる等時性を達成することは、関連しつつ別の設計課題です12。1787年の著書では、この構造を簡単に作れるものへ改める狙いを示しました。第4章の図6・7の説明でいう「détente-ressort」は、デテントの一部そのものを柔軟なばねとし、先端側を変位させます。一方、てんぷ軸の円板には別の細い「levée-ressort」を設け、行きの振動ではデテントを持ち上げてがんぎ車を解放し、戻りではそのばねがたわんで通り過ぎます。本人は、従来のピボット支持のデテントと解放部品に比べ、4つのピボットと接触点の摩擦を減らせると説明しています。同章の図8にはピボット支持を残す案も示し、解放ばねをデテント側に置くと部品が重くなり、押えばねとてんぷへの抵抗が増す点を論じます。異なる支持・解放方法を比較して選ぶ過程が、原理の提示にとどまらない製作上の改良を伝えています34。
第二に、温度変化対策(温度補償) も大きな課題でした。気温の変化は金属製の振動子や振り子棒の長さ・弾性を変え、時計の進み遅れに直結します。ベルトゥーは1760年代後半からこの問題に取り組み、1768年には温度補償機構の一つを発明しました16。彼は振り子時計用にはハリソン兄弟が考案した格子振り子(グリッドアイロン振り子) の原理を取り入れ、黄銅と鋼鉄の膨張差を利用して長さを一定に保とうと試みました。しかしベルトゥー製振り子の設計では金属棒同士の間隔が狭く棒が太すぎたため、ハリソンの原型ほど十分な効果は得られなかったとされています35。とはいえ、ガラス窓付きの振り子室でその複雑な補償振り子を眺められるようにした天文床置き時計(レギュレーター) シリーズは、視覚的な効果で高く評価されました。メトロポリタン美術館の解説は、その外観の魅力と、補償性能がハリソンの原型に及ばなかったことを区別しています4。一方、携帯型クロノメーターではひげゼンマイ付きテンプ(平衡振子) の温度補償が重要でした。個人収集家の歴史ブログAntiquarian Horologyは、ベルトゥーがひげぜんまいの温度補償について特許取得を考えたものの、ジョン・ジェフリーズの先行発明を知ったという逸話を伝えています。ただし、この特許構想を裏付ける申請書や本人の記録は発見されておらず、申請・登録の有無や具体的な権利範囲は確定できません。逸話が述べるのはひげぜんまいの温度補償であり、切り開き二金属てんぷの発明と同一視することもできません36。グリニッジのH4所蔵解説が確認するジェフリーズの仕事は、1753年にハリソンの設計に従って懐中時計を製作したことで、この成功がハリソンを小型時計による経度測定へ向かわせたとされています。同解説だけでは温度補償の発明優先や特許の話までは裏付けられません37。航海時計の具体的な補償方式は機種ごとに異なります。工芸博物館の目録は、第6号機や第8号機の金属棒を組み合わせた補償機構を記録しており、ひげぜんまいの有効長を変える働きと、てんぷの慣性を変える切り開き二金属てんぷを同一視できません。第3号機には後補の変更もあり、現存状態と当初の構造を分けて読む必要があります38。温度補償、脱進機、潤滑と振幅は相互に関係し、1773年の著書も油や摩擦が補償の効き方を変える問題を論じています12。
第三に、駆動源と取り付け方法も機種ごとの目的を反映します。ベルトゥーの航海時計はすべてがぜんまい駆動だったわけではありません。1787年の著書は第8・18・19号機を重錘駆動として説明し、その後の小型化に伴うぜんまい駆動の選択を論じています34。1773年の図版XXも第10号機、図版XXIは「ぜんまい式航海時計第11号機」と題し、駆動系の違いを示します12。
ぜんまいを使う機械では巻きの強さによってトルクが変わります。円すい状のフュゼと鎖を用いれば、ぜんまいが強いときは小さな半径、弱くなると大きな半径へ鎖の作用位置を移し、輪列に伝える力の変化を小さくできます。機械を船に据える際にはジンバルによる姿勢保持も必要でした。1773年の図版XVIIは二方向に回転できる枠と支持部を描いています。姿勢を保つ枠の働きと、衝撃を和らげる支持ばねの働きは分けて理解する必要があります12。
精密加工と工具: 高精度時計の製作には高度な精密加工技術が不可欠でした。ベルトゥーはロンドン訪問時に見た英国製工具に衝撃を受け、自身も国王から資金援助を得て特注工具を揃えています13。1773年の『海洋時計論』は、機種別の構造だけでなく製作作業と試験を独立した部として扱い、部品図と工具の図版を載せています。時計を作り、調整し、試す過程を文献として伝えた点に意義があります12。1782年に国王が購入した工具・計器116点と航海時計4台については、Cnamに製作と試験用の器具・工具一覧が残され、後に博物館の収蔵番号が書き込まれています23。これらを通して、18世紀における精密加工の粋を見ることができます39。
その他の功績: ベルトゥーは航海時計以外にも様々な時計を製作・研究しました。若い頃に製作した時間等式時計(太陽時と平均時を同時表示する時計)は既に触れた通り王立アカデミーのお墨付きを得ています。また長年月の研究で培った理論を基に、天文台据置き型の精密レギュレーター(恒星時時計や振り子時計) も製作しました。彼の長箱型振り子時計のいくつかは豪華な木製ケースに収められ、当時一流の工芸家であったバルタザール・リユータやフィリップ・カフィエリ製作の装飾を伴っています40。これは科学計器であると同時に美術品として宮廷や貴族のサロンを飾ったものです。ベルトゥーはまた懐中時計も手掛けましたが、1770年以降は前述の通り「私的注文の通常時計には関与しない」と宣言し、自身は海軍向けクロノメーター開発に専念しました17。ただし工房維持のため、市販向けの懐中時計やクロック類の製造は弟子たちに行わせています17。彼が残した出版物には、懐中時計用の改良脱進機や簡便な経度測定法(航海用天測暦と組み合わせた計算法)など、実務に資する情報も数多く含まれていました。
ベルトゥーの研究対象は時計学全般に及び、当時議論されていた振り子とテンプの等時性、摩擦と潤滑、真太陽時と平均時の差(均時差)の補正、時計の耐久性などあらゆるテーマを網羅していました24。同業者への評価と知識の伝達は、具体的な出版活動にも表れます。歴史家ロッセラ・バルディによれば、1753年5月の『Journal helvétique』に発表した「Lettre sur l’horlogerie」は、同年パリを訪れたピエール・ジャケ=ドローに献じられたものです。その文章ではフランス時計学の現状を論じ、ヘンリー・サリー、ジュリアン・ルロワ、ピエール・ド・リヴァらの貢献を称えました。専門家だけでなく一般読者にも技術を伝える姿勢を、若い時期から示していた例です41。特筆すべきは、その旺盛な出版活動です。前述の百科全書記事や初期の入門書に始まり、『時計学試論』(1763年)、『海洋時計論』(1773年)と続き、1775年には経度時計による航法の手引き、1787年には試論と海洋時計論の補遺、1792年と1796年に懐中経度時計の製作と使用法に関する論考、1802年に時計計時史、1807年に総まとめの補遺と、生涯で4000ページ以上に及ぶ技術文献を著しました31。これらの著作はフランス語のみならず他言語にも翻訳され、19世紀にかけて技術者・学者たちの貴重な教科書となります。ベルトゥーは自身の知識を公開することを厭わず、むしろ「経験に裏付けられた原理を確立し時計学を進歩させる」ことを使命と考えていた節があります。これは啓蒙時代の科学者らしい姿勢であり、師やライバルであったピエール・ルロワが寡作・寡黙であったのと対照的です17。結果として、ベルトゥーの業績は単なる時計職人の枠を超え、科学的発明家・教育者としての側面をも帯びるに至りました。
作品と顧客・弟子#
主な作品と特徴: ベルトゥーの代表的な作品としては、まず航海用クロノメーター(Horloges marines, Montres marines) の各号機が挙げられます。初号機(No.1)は1761年に完成したものの、性能は完全ではなく後の改良の踏み台となりました14。1760年代半ばに製作されたNo.2とNo.3は振り子ではなくゼンマイ式テンプを用いた携行型で、工芸博物館の目録では第2・第3号機それぞれの構造と来歴が記録されています38。No.6およびNo.8(工芸博物館目録では1767年)は前述の通り海上試験で高精度を示し、フランス海軍初の実用経度時計となりました16。現代の同名メーカーの2025年の周年インタビューでは、第8号機について12か月後の時刻差が1.35分だったと紹介しています。これは同社が精度追求の伝統を説明する際の数値です42。一方、フルリューの原報は、出航前後を含む376日間の試験、港ごとの日歩度、出発時歩度を使う計算と出発・到着の平均歩度を使う計算を分けています。本人の1802年の計時史に再録されたフルリューの結論も、144・214・287日という長い区間の結果には、逆向きの誤差が一部相殺した効果があると説明します。短い区間ごとの比較を併せて評価したのであり、出発時刻との差一つだけで校正を伴う運用を表すことはできません1520。時計の番号は、工芸博物館目録が番号系列の再開始を記録するため、その最大値をそのまま生涯の製作台数へ換算することはできません38。その多くはフランス海軍に納入され、一部はスペイン海軍や他国にも提供されました1626。現在、パリ工芸博物館にはベルトゥーの航海時計が少なくとも15台以上所蔵されており、特に第8号機は国家的重要文化財として展示されています43。
ベルトゥーは据置き型の天文精密時計、レギュレーターにも優れた作品を残しました。メトロポリタン美術館所蔵の1768〜1770年頃の時計(作品番号1982.60.50)は、オーク材に黒檀を張った長いケースと金銅装飾、白いエナメル文字盤、振り子を見せるガラス窓を備えています。時計はベルトゥー、ケースは家具職人バルタザール・リユータの作で、装飾金具はフィリップ2世カフィエリのモデルに基づく可能性があるとされています。帰属が確実な部分と推定される部分を分ける必要があります4。
この個体は、平均太陽時と真太陽時を表示する均時差機構を備えます。暦の円板の裏に取り付けた腎臓形のカムを、ばねで押された腕のピンがなぞり、太陽を象った分針の動きを変えます。暦窓が示すのは月の日付であり、月相や恒星時の表示とは異なります。現物では平均時の分針が欠損し、太陽の針がその位置に置かれています。時の輪列は重錘で動き、グラハム型の直進脱進機と格子振り子で調速します。一方、打鐘輪列はぜんまいで動き、正時と半時を打ちます。美術館は均時差機構と修復状態を個別に記録しており、装飾的な外観と科学計器としての設計の両方を読み取れる作品です4。
懐中時計もいくつか現存しており、細工を凝らした黄金ケースに宝飾が施された作品も見られます。メトロポリタン美術館には、18世紀末の作としてフェルディナント・ベルトゥーへ帰属された金・ローズカットダイヤモンド製の懐中時計(17.101.12)が所蔵されています44。これらは天文学的表示はありませんが、高級時計として宮廷人や富裕層に愛用されたものと思われます。ただしベルトゥー自身は1770年以降、先述のように海軍向け以外の時計製作を弟子に任せていたため、彼自身の手になる懐中時計は限られています17。現存する銘の具体例として、メトロポリタン美術館の長箱型レギュレーター(1982.60.50)について、同館の図録は文字盤の「Ferdinand / Berthoud」と機械背板の「Ferdinand Berthoud AParis」を記録しています11。一方、ポール=デュピュイ美術館の金製時計(Inv.18262)は文字盤と機械に「Berthoud à Paris」とあり、同館は1780年頃のフェルディナント作品として扱っています。金の彫金装飾、青い半透明エナメル、四半時のリピーターを備える個体です。署名の省略形だけで品質や真贋を一律に判定するのでなく、各作品の構造と来歴、所蔵機関による帰属を照合する必要があります25。
顧客と支援者: ベルトゥーの顧客は主に国家機関でした。最大のパトロンは言うまでもなくフランス国王と海軍省です。王室からの厚遇は彼がスイス出身でありながら若くして親方になれた1750年代から始まり、1760年代には科学アカデミー経由で援助金が支給され、1770年以降は正式に官職と年金を受けて研究に没頭しました17。1782年の国王による購入は、工具・計器116点と航海時計4台という資産の範囲が所蔵目録に記されています23。フランス海軍はベルトゥーに対し、経度測定の信頼を時計に託す方針をとり、測量航海のたびに彼のクロノメーターを持たせました。名前の挙がったフルリュー伯やボルダ騎士、ラ・ペルーズ伯、ダントルカストーなどはいずれも海軍将校であり、ベルトゥーの時計の性能を実地に証明した人物です。イタリア出身でスペイン海軍に仕えたアレハンドロ・マラスピーナの遠征にも、ベルトゥーの時計が使われました45。科学史研究者マヌエル・セリェス・ガルシアは、第10号機と第13号機が1783年以降のビセンテ・トフィーニョによるスペイン沿岸測量に用いられ、続いてマラスピーナの遠征へ携行されたと記しています46。スペイン海軍文書館には、カディス天文台の航海時計4台をパリで修理し、うち2台をこの遠征に充てる件の文書群が残ります。その中には1787年11月22日から1788年6月9日までのベルトゥーからホセ・デ・エスピノサへのフランス語書簡4通があり、購入後も製作者による修理と輸送を必要としたことが、所蔵目録から具体的に分かります。1787年11月22日付の本人書簡は、当面送る2台について、清掃・観測・温度補正表の作成に少なくとも2か月を要すると説明し、ルーアンからパリまでは水路で運ぶよう求めています。補正値を得る試験と輸送への配慮が、保守の一部になっていました47。フルリューの序論抜粋は、フランス王向けの新たな12台に加えてスペイン王から艦船用8台の注文があったと記しており、両国王室の需要を具体的に伝えています18。このようにベルトゥーの名声は国境を越えて広がり、スペイン王室・海軍もその成果を享受しました。スペインの調達はベルトゥー一門だけに限られず、セリェスはジョン・アーノルド製第3・5・6号機の購入も記しています。時計の導入を支えたのは、複数の製作者からの調達、天文台での管理、修理を担う人材の育成でした。1788年の修理送付を機に、ベルトゥーはスペイン人研修生の教育を申し出ました。選ばれたカイェタノ・サンチェスには清掃・修理に加えて同種のクロノメーターを自作できる技術を教える計画で、1791年に教育を終えた後も、サンチェスは他のパリの工房、さらにロンドンのエメリー工房で学びました。完成品の供給と保守・製作技術の伝達が結び付いていたのです46。
個人顧客としては、ルイ16世や王妃マリー・アントワネットもベルトゥーの時計を蒐集していた可能性がありますが、文献に明記された例は多くありません。むしろ、王室主催の科学アカデミーが彼の主要な支援母体でした。アカデミーの会員カミュやブーゲー、デュアメル・デュ・モンソー伯などがベルトゥーの技術を高く評価して後援しました514。ロンドン王立協会の会員としての活動も、国際的な科学機関との関係を示します。1763年の推薦状は、カミュと共にハリソン時計の調査へ選ばれたことと、時計の著作・発明を推薦理由に挙げています10。ナポレオンもまた熱心な時計コレクター・愛好家であり、先述の通りベルトゥーおよび甥ルイを顕彰しています2430。ブレゲ社の歴史解説は、ナポレオンがエジプト遠征直前の1798年4月に第38号のリピーター、第178号の暦付き旅行時計、第216号の自動巻きリピーターを購入したと記します。この購入記録と、1802年のルイへの海軍職継承は区別すべき出来事です。顧客としての時計購入だけから、後の官職の選任理由までは導けません4828。
弟子と継承者: ベルトゥーは徒弟制度の中で技術伝承にも尽力しました。甥のルイ・ベルトゥー(1754–1813)は最愛の弟子であり、工房のNo.2として長年働きました。フェルディナントはルイに単独署名を認めるのを渋りましたが、1787年頃からルイ自身の名でクロノメーターに署名することを許可しています24。ルイは伯父以上に才能豊かと評され、19世紀初頭にはその名声が国際的にも高まりました32。現代の同名メーカーの歴史解説によれば、ルイは1802年に海軍の機械時計師、1805年にはパリ天文台と経度局の時計師となりました。一方、同解説が1804年のレジオンドヌール受章者として挙げるのは、学士院会員の伯父フェルディナントです。官職と叙勲は、人物ごとに異なる経歴として捉える必要があります3。しかし残念ながらルイはフェルディナント死去の6年後、1813年に急逝してしまいます。ルイ・ベルトゥーには二人の息子、ジャン=ルイ・ベルトゥー(1793–1880)とシャルル=オーギュスト・ベルトゥー(1798–1876)があり、父ルイの事業を受け継ぎました。フェルディナントは二人にとって大伯父に当たります。現代の同名メーカーの歴史解説は、二人を指導した人物として、父ルイの弟子だったアンリ・モテルを挙げています49。二人はパリと郊外アルジャントゥイユに「ベルトゥー兄弟」という工房を構えて事業を継続しました49。ベルトゥー兄弟は19世紀前半の航海用クロノメーター製造専門会社とも言うべき存在で、その高精度な製品は航海士や科学者から高い評価を受けました49。シャルル=オーギュストは1819年の産業博覧会で銀メダルを受賞し、1823年・1827年にも銀メダル、さらに1834年・1844年・1849年には金メダルを獲得、レジオンドヌール勲章シュヴァリエにも叙されました49。現代の同名メーカーは、1876年に没したシャルル=オーギュストの製作を約350台の航海時計と推計しています。この数字は同社の歴史解説における彼への帰属であり、フェルディナント自身の製作数とは別です50。彼の死をもってベルトゥー家によるクロノメーター製造の伝統は途絶えましたが、その間1世紀以上にわたり三代に亘る名工一家としてフランス航海時計史に名を刻みました49。
影響と現代への遺産#
航海術・科学への貢献: ベルトゥーの時計が航海にもたらしたものは、船上で保持した基準時刻を、天測や船の運動の記録と照合できる具体的な測定手段でした。フルリューは1773年の原報の結論で、時計から得た位置を推測航法と比較し、海流と横流れの効果を評価し、陸地への接近を判断し、海図を修正する助けになったと述べています。さらに西部大西洋の新たな海図を作成したことを挙げ、航海に必要な精度と地理学の改善に役立つと評価しました。これは試験担当者自身による用途と評価の記録であり、時計を積むだけで航海の危険が解消するという意味ではありません15。
この評価を支えたのは、時計単体の精度だけでなく、観測と補正を続ける運用でした。既知の港で歩度を調べ、計算区間ごとの誤差を比較することで、航海後の時刻差だけでは見えない途中の進み遅れを把握できました。第6号機と第8号機の成績にも差があり、同じ製作者の時計を一律に評価することはできません。原報は誤差の相殺を論じたうえで、各期間の位置決定を検討しています15。また、本人が記したラ・ペルーズ向け5台、ダントルカストー向け4台の納入一覧は、実際の遠征隊に複数の機械を供給したことを示します。番号、駆動方式、納入先、保管者を追える記録が、試作品の製作から継続的な海軍用計器の供給へ進んだ過程を伝えています21。
技術の伝達も、完成品の売買だけではありませんでした。1787年の本人書簡は清掃・観測・温度表の作成と輸送方法を指示し、スペイン側の資料を使った研究は、カイェタノ・サンチェスを修理と製作の双方で教育する計画を明らかにしています。時計、観測記録、温度補正、保守を担う人材は、経度測定を支える一連の仕組みでした4746。その後の海軍時計師の官職はルイ、さらに1815年にブレゲへ継承されましたが、官職は個人に与えられ、供給が一社独占だったことを意味しません。エマニュエル・ブレゲの歴史解説は、国家の注文を約束した価格と期限で製作する職責として説明しています28。ベルトゥーの遺産は、このような具体的な製作・試験・供給・教育の記録と、現存する機械を通じて捉えられます。
博物館と歴史研究: ベルトゥーの遺した実物資料は、今日でもその影響を伝えています。Cnam所蔵の購入関係文書の目録は、1782年に国王が工具・計器116点と航海時計4台を購入したこと、1807年にブレストにあったベルトゥーの時計コレクションをConservatoireが取得することについて海軍大臣の許可を得たことを記しています23。同館には現在もベルトゥーの航海時計や作業台、工具一式が所蔵・展示されており、当時の技術水準や製作プロセスを直接見ることができます39。現物、図面、試験記録を合わせて読む研究は、時計の製作史と運用史を結び付けます。20世紀の研究者ルパート・トマス・グールドは英国海軍のLieutenant Commanderで、ハリソンの航海時計の分解・清掃・組立て・試験を記録したノートを遺しました。グリニッジ所蔵のGOU/2は、第3号時計を1924年に分解し、1929~30年に清掃、1931年に組み立てた作業を記録しています。これは20世紀に実機を調べた具体例です51。ベルトゥー自身もその著作が読み継がれ、フランスのみならず各国語版を通じて時計工学の歴史に名を残しています。1984年にはスイス・ラ・ショー=ド=フォン国際時計博物館(MIH)でベルトゥーを扱う展覧会が開催されました。同館の刊行物目録は、カトリーヌ・カルディナル編『Ferdinand Berthoud 1727–1807, Horloger mécanicien du Roi et de la marine』を、展覧会に合わせた刊行物として記録しています。344頁、カラー図版20点、白黒写真148点を備える図録です52。同館友の会の2015年会報も、ジャン=クロード・サブリエが1984年展とその図録へ協力したことを回顧しています53。21世紀に入っても欧米や日本で時計史・科学史の文脈でベルトゥーが言及される機会は多く、その功績は学術的にも再評価が続いています。
現代によみがえる名前: ベルトゥーの名は現在、時計愛好家にとっても特別な響きを持っています。これは近年になって、歴史的時計師の名を冠したブランドが再興されたことによります。スイスの高級時計メーカーであるショパール社共同社長カール=フリードリッヒ・シーフェレ氏は、2006年に「フェルディナン・ベルトゥー」のブランド名を取得し、長年の構想を経て2015年に「クロノメトリー・フェルディナン・ベルトゥー(Chronométrie Ferdinand Berthoud)」を創設しました54。工房は奇しくもベルトゥーの故郷ヴァル=ド=トラヴェールに近いフルーリエ村に置かれ、ちょうど彼の生誕地から5kmほどの場所で現代的な少量生産による時計作りが始まりました55。2015年9月に発表されたファーストモデル「FB 1」は、トゥールビヨンとフュゼ鎖引きを組み合わせた極めて高度な機械式時計で、その設計思想は18世紀のベルトゥーの海洋時計から直接インスピレーションを得たものでした55。開発チームは4年を費やし秘密裏にこの作品を完成させましたが、その努力は時計界から高く評価され、同モデルは翌年のジュネーブ時計グランプリ(GPHG)で最高賞「金の針賞(Aiguille d’Or)」を受賞しています56。メーカーは2025年3月の10周年回顧で、GPHGへの参加5回に対して5賞を得て、そのうち3回がクロノメトリー賞だったと述べています42。受賞作には2019年のFB 1R.6-1、2020年のFB 2RE.2、2023年のFB 3SPCがあり、2022年にはFB 2RSM.2-1がメカニカル・エクセプション賞を受賞しました。異なる表示・動力伝達・調速構成を持つ作品が評価されたことを示す受賞歴です57。
2025年にはクロノメトリー・フェルディナン・ベルトゥー社創立10周年を迎え、限定生産ながら数々の意欲作を発表してきました55。同社の社是は「真正性と精度の追求」であり、各モデルごとに独自の機構アプローチをとりつつも、常に精度向上という共通目的に沿って開発されています56。例えばFB 1.1のFB-T.FCムーブメントは、トゥールビヨンとフュゼ鎖伝達を組み合わせ、メーカー仕様は3Hz、パワーリザーブ53時間、COSC認定です58。一方、FB 2RE.2のFB-RE.FCは、フュゼ鎖伝達に1秒周期のルモントワールを組み合わせ、仕様は2.5Hz、50時間、COSC認定とされています59。フュゼは主ぜんまいの巻きの強さによる変化を小さくし、ルモントワールは小さなエネルギー蓄積部を周期的に補充して脱進機へ送る力を整えるため、両者は異なる働きを担います。機構と仕様はモデルごとに読む必要があります。こうした姿勢は、まさにフェルディナント・ベルトゥー本人が生涯取り組んだ問題——脱進機改良、懸架・素材研究、表示工夫など——に現代技術で再挑戦するものです。実際、同社は社内に小規模な博物館を設けてベルトゥーゆかりの歴史的クロノメーターを収蔵し、18世紀当時の修復も行いながら、その遺産を次世代に継承する努力もしています56。まさに 「生きた遺産」 として、ベルトゥーの名は21世紀の今も脈々と時計界に息づいているのです。
年表#
- 1727年3月18日 – スイス・ヌーシャテル州プランスモン=シュル=クヴェ村に生まれる。\
- 1741年 – 兄ジャン=アンリに師事し、14歳で時計師・振り子時計職人の徒弟修行を開始。科学教育も受ける。\
- 1745年4月13日 – 日本語版Wikipediaはこの日を徒弟修行の終了とする1。18歳で技術研鑽のためパリへ移住。ルロワ工房で働いたとの伝承がある一方、メトロポリタン美術館の研究解説は1745〜52年にサン=ジェルマン=デ=プレの区域で働いたかは記録されておらず、ピエール=ジョゼフ・ド・リヴァのもとにいた可能性も紹介している4。\
- 1752年 – パリ王立科学アカデミーに均時差時計を提出。『百科全書』の本人による機構説明には、真太陽時と平均太陽時の表示、366歯の年周車と閏年の切替機構が記される2。\
- 1753年 – パリの時計師親方となる。現代の同名メーカーの歴史解説は、12月4日付の国王顧問会議裁定により、組合規則の例外として26歳で親方資格を得たと記す3。パリのシテ島界隈で活動する。\
- 1755年 – 百科全書(Encyclopédie) の時計学関連記事執筆を複数依頼される(1751–1772年刊行のディドロとダランベール編『百科全書』の一環)5。\
- 1759年 – 初の著書 『振り子時計と懐中時計の取り扱いと調整法』 を出版。時計素人向けの実用書として大成功を収め、以後19世紀まで版を重ねる5。\
- 1760年12月13日 – 王立科学アカデミーに 「航海用時計の構造原理に関する覚書」 を提出し、試作航海時計第1号機の構想を示す7。\
- 1761年 – 航海時計第1号機を完成。結果は十分でなかったものの航海クロノメーター開発の端緒となる14。\
- 1763年 – 二巻本の大著 『時計学試論(Essai sur l’horlogerie)』 を刊行。時計学を市民生活・天文学・航海術と関連付けて論じた内容が各国語に翻訳され、時計学の標準的参考書となる760。
同年5月、国王の命により渡英し、ジョン・ハリソン製作の第4号航海時計H4を調査しようとするが、ハリソンにH4の公開を拒まれる。代わりにH1–H3の3台を見るに留まる9。同年5月19日と10月12日付の王立協会推薦状が残る10。\ - 1764年 – 2月16日、ロンドン王立協会の会員に選出される10。フランス科学アカデミーの要請で、会員デュアメル・デュ・モンソーとシャップ・ドートロシュ神父がベルトゥー航海時計第3号機を海上試験する。ベルトゥー自身もブレストで立ち会い、フリゲート艦「イロンデル号」での試験航海に参加した60。\
- 1766年2月 – 二度目の渡英。メトロポリタン美術館の研究図録は、ハリソン本人には会っていないらしいとし、マッジからH4について多くを学んだと説明する。本人の1773年著作も、1766年にマッジから自由脱進機を見せられたと記す。本人への面会、実機の閲覧、他の時計師からの情報は区別される1112。\
- 1766年5月7日 – ベルトゥー、フランス海軍大臣プラズラン公爵宛に航海時計第6号機・第8号機の製作計画書を提出。英技術に学んだ新型2台の製作資金3,000リーヴルと、「王室および海軍付き機械時計師」の称号を求め、今後航海時計開発に専念したい意向を示す14。
1766年7月24日 – フランス国王ルイ15世、ベルトゥーによる航海時計2台の製作を公式に認可し、資金援助と官職授与を内諭する14。\ - 1767年 – 航海時計第6号機・第8号機の製作開始。ベルトゥーはハリソン式懐中時計やルロワ式経度時計の利点を研究しつつ、独自の改良設計を進める。\
- 1768〜1769年 – フルリューとピングレが航海時計No.6とNo.8をイシス号で試験。港湾での天測・比較と海上の運用を組み合わせた。原報による試験全体は376日で、1769年11月22日に巻上げを停止した。航海報告は1773年刊行15。\
- 1769年 – ベルトゥー、甥のルイ・ベルトゥー(当時15歳)をスイスからパリに呼び寄せ弟子とする。ルイは以後、伯父の航海時計製作・整備を助け、フランス・スペイン両海軍へのクロノメーター供給を支援する16。\
- 1770年4月1日 – 航海時計No.6・No.8の試験成功により、ベルトゥーは 「王室および海軍付き機械時計師(時計工学技師)」 の称号を正式に与えられる。年金3,000リーヴルが支給され、海軍向けクロノメーター製作総監督に任命される17。フルリューの序論抜粋は1770年の官職と俸給を記し、その執筆当時にフランス王向け12台を製作中、スペイン王からも8台の注文があったと伝える。また第6号機が1770年にロションへ渡り、東インド航海に使用されたと記す18。\
- 1771年 – ベルトゥーによる第3号機の自由脱進機への改造が位置づけられる年19。1773年の本人の説明では第9号機での成果を速い振動の第3号機へ応用したが、振幅増大は第9号機ほどではなく、ばねの調整余地を残した12。
1771~72年、ヴェルダン・ド・ラ・クレンヌ指揮のフロール号で、国王所有の第8号機が試験される。ボルダとピングレも参加した18。\ - 1773年 – 航海時計の全知見をまとめた著書 『海洋時計論(Traité des horloges marines)』 をパリで出版。理論・構造・製造・検定法を詳細に記述し、航海用クロノメーター製作の標準教科書となる19。
同年、フルリュー伯爵の観測記録『国王の命により行われた航海時計試験航海記録』が刊行され、ベルトゥーの航海時計が公式にフランス海軍採用となったことが公表される16。\ - 1775年 – 著書 『経度測定のための時間計測法(Les Longitudes par la mesure du temps)』 を出版。航海におけるクロノメーター利用法(観測と計算による経度算出手順)と必要な航海暦表などを提供。
同年、ベルトゥーは工房監督を甥アンリ・ベルトゥーに委ね、自らは研究に集中する(~1783年)。\ - 1775–1783年 – 工房経営は不振に陥り、アンリ・ベルトゥーは多額の借財を抱えたまま1783年6月29日に自殺。工房の規模を縮小し、甥ルイ・ベルトゥーが製作指揮を引き継ぐ24。\
- 1782年 – Cnamの所蔵目録によれば、国王がベルトゥーから工具・時計製作用計器116点と航海時計4台を購入する23。\
- 1785年 – 大臣命令下の納入記録には、6月23日の日付とともにラ・ペルーズ探検隊へ錘式第18・19号機とぜんまい式第25・27・29号機の5台を渡したことが記される。ラ・ペルーズはブソール号、ド・ラングルはアストロラーブ号を指揮し、8月1日に出航した21203。\
- 1787年 – 著書 『時間計測論 – 海洋時計論および時計学試論の補遺』 を出版。小型経度時計(懐中クロノメーター)や天文時計の製作法などを追補。\
- 1788年 – ブソール号とアストロラーブ号がヴァニコロ島で遭難。ブソール号由来とされるジンバル部品が後に回収され、第18または19号機、特に同艦搭載の第19号機との関連が所蔵目録で検討されている22。\
- 1791年 – ラ・ペルーズ捜索に向かうダントルカストーの遠征隊へ4台を供給。8月6日付の納入記録と1802年の本人著作は、錘式第17・21号機、ぜんまい式第5・28号機を挙げる。遠征の2艦はレシェルシュ号とエスペランス号だった212061。\
- 1792年 – 著書 『経度時計論(Traité des montres à longitudes)』 第1部を刊行(第2部は1796年刊)。懐中型経度時計の構造と、簡便な小型経度時計の使用法について述べる。\
- 1793年 – 共和国所有の航海時計・経度時計を海上向けと保管中に分けた一覧を作成。6月6日付の保管一覧には、7月19日に大臣へ送付した旨の末尾注記がある。機械の番号、駆動方式、納入先、保管者を記した運用・所在の記録である21。\
- 1794年11月27日(共和暦3年フリメール7日) – 国民公会が海軍での継続雇用、費用込み俸給6,000リーヴルと旧政府契約による年金3,000リーヴルを確認。両者の併給を禁じ、本人の死後に妻へ支払う1,000リーヴルの遺族給付を定める27。\
- 1802年 – 大著 『時計による時間計測の歴史(Histoire de la mesure du temps par les horloges)』 を刊行。古代から自分の時代までの時計技術史を総括し、豊富な図版とともに自身の知識を披露したもの30。
同年、甥ルイ・ベルトゥーが海軍時計師に任命される3。\ - 1804年7月17日 – ベルトゥー、再編されたフランス学士院の会員として、ナポレオン皇帝からレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を授与される303。\
- 1807年 – 『経度測定用時計概論補遺』(Supplément au traité des montres à longitudes) を出版。1752年から1807年までの自身の主要研究・製作の概要をまとめた最後の著作31。
1807年6月20日 – 子孫を残さずグロスレにて逝去(満80歳)。同年、ブレストにあったベルトゥーの時計コレクションをConservatoireが取得することについて海軍大臣の許可を得たと、Cnamの所蔵目録は記す23。墓所はグロスレ墓地。\ - 1813年9月18日 – 甥のルイ・ベルトゥーがアルジャントゥイユで没する(享年59)。研究を記した複数の手稿を遺す。一方、生前の1812年には、弟子たちへ行った授業をまとめた『Entretiens sur l’horlogerie à l’usage de la marine』を刊行しており、著作が全て未刊だったわけではない4162。そのクロノメーターは当時の科学者・航海士から高く評価された49。\
- 1819年 – ルイの子シャルル=オーギュスト・ベルトゥー(ベルトゥー兄弟工房)、フランス産業博覧会で銀メダル受賞。以降1823年・1827年も銀、1834年・1844年・1849年に金メダル受賞し、1849年レジオンドヌール勲章受章49。\
- 1876年2月15日 – シャルル=オーギュスト・ベルトゥー、パリで死去(77歳)。現代の同名メーカーは彼の製作を航海時計約350台と推計し、その死をベルトゥー家の航海時計製作の終わりと位置付ける50。\
- 1984年 – ラ・ショー=ド=フォン国際時計博物館(MIH)にて「フェルディナン・ベルトゥー 1727–1807」展開催。カトリーヌ・カルディナル編の展覧会図録『Ferdinand Berthoud 1727–1807, Horloger mécanicien du Roi et de la marine』刊行。MIHの刊行物目録は344頁、カラー図版20点、白黒写真148点と記す5253。\
- 2006年 – スイスの高級時計メーカー、ショパール社が「Ferdinand Berthoud」ブランドの権利を取得54。\
- 2015年9月 – Chronométrie Ferdinand Berthoud社が創設され、現代の高級時計ブランド「フェルディナン・ベルトゥー」として第一作FB 1コレクションを発表。フュゼ鎖やトゥールビヨンを備え、18世紀の精神を受け継ぐタイムピースが誕生する55。\
- 2016年11月 – FB 1クロノメーター、ジュネーブ時計グランプリ(GPHG)で最高賞「金の針(Aiguille d’Or)」を受賞。その後、2019年にFB 1R.6-1、2020年にFB 2RE.2がクロノメトリー賞、2022年にFB 2RSM.2-1がメカニカル・エクセプション賞、2023年にFB 3SPCがクロノメトリー賞を得た5742。\
- 2025年 – Chronométrie Ferdinand Berthoud社、創立10周年を迎える。少量生産の高級機械式時計メーカーとして引き続き存続し、精度追求の姿勢を堅持している55。会長シーフェレは「ベルトゥーの名に恥じぬ真正性と高精度の追求」を掲げ、創業地ヴァル=ド=トラヴェールで技術遺産を守りつつ革新的作品を送り出している5556。\
参考文献#
フェルディナン・ベルトゥーの生い立ちと家族背景フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud「ÉQUATION」、『Encyclopédie』第5巻、1755年。Wikisource転記の「Equation présentée en 1752 … figure 37 A」から平年・閏年の機構、真太陽時輪列の説明まで。https://fr.wikisource.org/wiki/L%E2%80%99Encyclop%C3%A9die/1re_%C3%A9dition/EQUATION (2026年10月21日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud, History, 現代ブランドの歴史解説。1770年任命、Henry/Louis継承、Louis1802年官職とFerdinand1804年受勲。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Clare Vincent and Jan Hendrik Leopold, Longcase astronomical regulator, ca.1768–70, object 1982.60.50, The Metropolitan Museum of Art. 生涯、均時差機構、構造・保存状態と注9・17。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Berthoud公式サイト「History – 1753: Master Watchmaker」 (2026年閲覧). 1753年に26歳でパリの時計師親方に特任された事実と、百科全書への寄稿・1759年の著書出版について記述History | Ferdinand Berthoud\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Berthoud公式サイト「History – 1760: Marine chronometers」 (2026年閲覧). 18世紀当時フランスとイギリスが経度測定法に懸賞を掛けていた状況History | Ferdinand Berthoud\ ↩︎ ↩︎
Berthoud公式サイト「History – 1760: Marine chronometers」より。1760年末に航海時計の構想をアカデミーに提出し、1763年に『時計学試論』を刊行した経緯History | Ferdinand Berthoud\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Antiquarian Horology (ブログ), Ferdinand Berthoud & Pierre-Louis Berthoud (2018). ベルトゥーの第1号航海時計(1761年)は「うまく動作しなかった」旨の記述Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology\ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版(2026年10月22日閲覧). 1763年の渡英でハリソンのH4公開を拒まれた逸話フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。H1–H3は見せたがH4は拒否フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。王立協会外国人会員選出フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Royal Society, Berthoud; Ferdinand, NA7899、推薦状EC/1764/12、推薦状EC/1763/20。公的所蔵目録のフランス語翻刻と選出日。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Clare Vincent、Jan Hendrik Leopold、Elizabeth Sullivan『European Clocks and Watches in the Metropolitan Museum of Art』、2015年、作品42「Astronomical Regulator」、1982.60.50、pp.196・198・201(DIAL/MOVEMENT欄・署名写真、訪英、注9等)。同館刊行図録。 ↩︎ ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud, Traité des horloges marines, Paris, 1773. pp.97–99、316–331、図版XIX–XXI。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Antiquarian Horology (ブログ). ロンドン訪問時に経度委員会の不手際でマッジからH4の秘密を聞き出したくだりと、英国の時計製作用工具を入手しようとした点Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology。\ ↩︎ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1766年プラズラン公への計画書提出内容と、求めた援助・官職の詳細フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Charles-Pierre Claret de Fleurieu, Voyage fait par ordre du roi en 1768 et 1769, Paris, Imprimerie royale, 1773. 第一部pp.190–200、第二部pp.254–256。第二部p.255の列V/VIは第一部p.194脚注の訂正を適用。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1768–1769年フルリュー伯による航海試験の概要と成果、1773年刊行の報告書History | Ferdinand Berthoudフェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。甥ルイをパリに呼び寄せた件フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1770年4月1日付の王室機械時計師任命と年金・注文、以降の海軍遠征への時計提供についてフェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Charles-Pierre Claret de Fleurieu, 航海記序論の抜粋、Ferdinand Berthoud著 De la mesure du temps, 1787, 前付印刷pp.13–16に収録。第8号機のフロール号試験、第6号機とロションの書簡、1770年官職、フランス王・スペイン王の注文。1787年の刊本に再録されたFleurieuの記述。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Berthoud公式サイト「History – 1770: Watchmaker-Mechanic to the King and Navy」より。1771年に枢軸てん輪脱進機を採用、1773年に『海洋時計論』を出版した記述History | Ferdinand Berthoud。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud『Histoire de la mesure du temps par les horloges』第1巻、1802年、pp.335、363、373、§§XLV、LII–LVI。ラ・ペルーズ探検の2艦と搭載時計、シャストネ・ピュイセギュールおよびダントルカストーによる使用。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/07/Histoire_de_la_mesure_du_temps_par_les_horloges.pdf (2026年10月21日閲覧)。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud、手稿『Journal des expériences et des recherches sur les horloges et les montres』、Cnam Ms 73、f.3r、5v–6r。1785年のラ・ペルーズ向け5台、1791年8月6日のダントルカストー向け4台、1793年共和国所有機械の所在一覧。https://cnum.cnam.fr/pgi/redir.php?ident=MS73&onglet=d (2026年10月21日閲覧)。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
La Collection La Pérouse「Monture à la cardan et support」、FAI64021、所蔵先Musée Château de Brest。https://collection-laperouse.fr/fr/monture-%C3%A0-la-cardan-et-support (2026年10月21日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Conservatoire national des arts et métiers、文書目録「Documents concernant l’achat d’instruments d’horlogerie」、cote 10/29、1807–1828年。1782年購入の116点と4台、1807年のBrest所在コレクション取得許可、工具一覧への収蔵番号追記。FranceArchives掲載目録。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Antiquarian Horology (ブログ). 1775年に工房監督を任せた甥アンリが1783年自殺し、多額の負債を残したこと。1784年以降ルイが工房長となり、制作を縮小し外部委託しつつ継続したこと。ルイが伯父に功績を認められず不満を抱いたこと。1802年ナポレオンがルイを海軍時計師に任命し、ブレゲの時計に失望したエピソード(砂で故障、会合遅刻で時計破壊)Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Musée Paul-Dupuy「Montre en or portant la signature: Berthoud à Paris」、Inv.18262、1780年頃。作品帰属、材質と装飾、文字盤・機械の銘、四半時打ち機構。Occitanie Muséesの所蔵記録。 ↩︎ ↩︎
Watchonista, Ferdinand Berthoud FB 1 – Malaspina Edition (2018年). スペインのマラスピーナ探検隊(1789–94年)がフェルディナン・ベルトゥー製航海時計No.10とNo.13を搭載していた事実Ferdinand Berthoud FB 1 – Malaspina Edition | WatchonistaFerdinand Berthoud Chronomètre FB 1 Malaspina Edition。\ ↩︎ ↩︎
「7 frimaire an III (27 novembre 1794)」の国民公会採択法令、Archives parlementaires, tome CII, 2012, p.269, 第I–III条。Persée。 ↩︎ ↩︎
Emmanuel Breguet「Chronométrie de marine et navigation en mer」、『Quai de l’Horloge』第7号、ブレゲ社。1802年のFerdinand辞任とLouisへの継承、1815年のBreguet任命、官職と供給契約。同社の歴史解説(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎ ↩︎
Antiquarian Horology、前掲人物記事、Louisの1802年任命とNapoleonの時計への不満を結び付けた段落。後世の逸話として参照し、任命理由の確定には用いない。 ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1802年に『時計による時間計測の歴史』を出版し、卓越した知識を示した点フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。1804年7月17日にナポレオンから学士院会員としてレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を授与されたことフェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1807年出版の『経度時計概論補遺』のタイトル(仏語・邦訳)と内容概要フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。1984年MIH展図録の書誌情報フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Britannica Online, Ferdinand Berthoud – French horologist (執筆: Jonathan Betts). ベルトゥーの業績は、ピエール・ルロワやジョン・ハリソンが作った精巧だが壊れやすい試作機を基に、より実用的な航海時計を数多く創造した点にあるとの評価Ferdinand Berthoud | Marine Chronometer, Clockmaker, Inventor | Britannica。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Département du Calvados、時間計測史の展示パネル「L’année liturgique」、航海用時計の節。ベルトゥーの航海時計製作数を約75台とする解説。公開展示資料。 ↩︎
Ferdinand Berthoud, De la mesure du temps, 1787. 第1部pp.23–26、47–50。 ↩︎ ↩︎
Metropolitan Museum Longcase astronomical regulator – Ferdinand Berthoud の解説(2026年10月22日閲覧). 1760年代のハリソンH4巡る動向と、1769年ピエール・ルロワが褒賞を得たものの1770年にベルトゥーが王室時計師となり、1773年に年4台の航海時計製作と終身年金を与えられたことClockmaker: Ferdinand Berthoud - Longcase astronomical regulator - French, Paris - The Metropolitan Museum of Art。また1773年の著書でハリソンの影響を認めている点Clockmaker: Ferdinand Berthoud - Longcase astronomical regulator - French, Paris - The Metropolitan Museum of Art。\ ↩︎
Antiquarian Horology「Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud」、温度補償特許構想とJefferysに関する段落。収集家による歴史ブログ(2026年10月22日閲覧)。申請書・特許番号・本人による出典は示されていない。 ↩︎
Royal Museums Greenwich「H4」、ZAA0037、1753年のJohn Jefferys製懐中時計とH4開発の経緯。所蔵解説(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎
Conservatoire national des arts et métiers, Catalogue du musée. Section JB, Horlogerie, 1949, pp.253–259。 ↩︎ ↩︎ ↩︎
Antiquarian Horology (ブログ). ベルトゥー署名の種類(フルネームと略号の違い)や、贋作の存在。ベルトゥーの性格は謙虚だったこと。死後工房内容が工芸博物館に移管され、ベルトゥーの航海時計・工具・作業台が常設展示されていることFerdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology。\ ↩︎ ↩︎
Metropolitan Museum. Longcase astronomical regulator – Ferdinand Berthoud (ca.1768–70). ベルトゥーが1752年に時間等式時計を発表し、王立科学アカデミーに認められた経緯を紹介Clockmaker: Ferdinand Berthoud - Longcase astronomical regulator - French, Paris - The Metropolitan Museum of Art\ ↩︎
Rossella Baldi「L’Art Horloger」、Ferdinand Berthoud、2017年8月22日。「Communiquer avec le public」節、1753年5月の公開書簡の献辞と同業者への評価。署名入り歴史解説(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Chronométrie Ferdinand Berthoud「10th Anniversary」、2025年3月21日、問1・3。https://www.ferdinandberthoud.ch/en/newsletter/newsletter-fb-10th-anniversary.html (2026年10月21日閲覧)。 ↩︎ ↩︎ ↩︎
Antiquarian Horology (ブログ). 1782年ルイ16世がベルトゥー工房を支援し、工房内資産は王室所有となったこと。1807年没後、工房の全内容が工芸博物館に移された件Ferdinand Berthoud & (Pierre) Louis Berthoud – Antiquarian Horology。\ ↩︎
The Metropolitan Museum of Art「Watch」、17.101.12、18世紀末。時計師帰属、金とローズカットダイヤモンド、所蔵番号。作品記録。 ↩︎
Enrique Martínez Ruiz「La presencia española en el Pacífico: de la Ilustración al «desastre»」、『España en Filipinas』、Instituto de Historia y Cultura Naval、Cuaderno monográfico 66、2012、p.169。マラスピーナをイタリア人・スペイン海軍所属とする。公式刊行物PDF(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎
Manuel Sellés García「Navegación e hidrografía」、Manuel Silva Suárez編『Técnica e ingeniería en España II: El Siglo de las Luces. De la ingeniería a la nueva navegación』、Real Academia de Ingeniería / Institución Fernando el Católico / Prensas Universitarias de Zaragoza、2005、p.545。第10・13号機、アーノルド製時計購入、修理とサンチェス育成。出版社公開PDF(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎ ↩︎
Archivo Histórico de la Armada Juan Sebastián de Elcano、AMN 0531 Ms.1565 / 000「Documentos relativos al envío y devolución…」、1787–1789、および同 /001–004「Cuatro cartas de M. Ferdinand Berthoud…」、1787年11月22日–1788年6月9日。文書群目録、書簡4通目録(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Breguet「Purchase of three timepieces by Napoleon before his Egypt campaign」、1798年4月の第38・178・216号購入。同社の歴史解説(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎
Berthoud公式サイト「History – 1813: Three generations of master chronometer-makers」. 1813年ルイ・ベルトゥーの早逝、その息子ジャン=ルイ(1793–1880)とシャルル=オーギュスト(1798–1876)兄弟が事業継続し「ベルトゥー兄弟」を名乗ったこと。兄弟による事業継続と、シャルル=オーギュストの博覧会メダル・レジオンドヌール受章・約350台という製作推計History | Ferdinand Berthoud。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud「Trois générations de maîtres chronométriers」、『Histoire』1813年項、末段。Charles-Augusteの叙勲・死去と約350台の推計。現代メーカーの仏語歴史解説(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Royal Museums Greenwich「Gould, Rupert Thomas, Lieutenant Commander, 1890–1948」、GOU、1923–1946年のノート・関連書簡。所蔵文書群の目録。同館「Notebook containing details on original stripping of Harrison’s No.3 timekeeper, 1924」、GOU/2、1924–1931年。個別ノートの記録。 ↩︎
Musée international d’horlogerie / Institut l’homme et le temps『Éditions』、2014年4月版、PDF2頁「Ouvrages publiés à l’occasion d’expositions」。Catherine Cardinal編、La Chaux-de-Fonds、1984年、344頁、20カラー図版・148白黒写真、刊行物番号9038。MIH刊行物目録(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Association des Amis du Musée international d’horlogerie『Message』第41号、2015年3月、Jean-Claude Sabrier追悼記事、1984年展と図録への協力。友の会会報(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 「フェルディナン・ベルトゥー」はブランド名でもあり、2006年にショパール社が買収した事実、および2015年9月から高級時計を販売している旨フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。出典はForbes記事 (Y-Jean Mun-Delsalle, 2015)。\ ↩︎ ↩︎
Watch I Love, Ten Years Of Chronométrie Ferdinand Berthoud: Retrospective And Outlook For 2025 (2025年3月21日). 2015年にKarl-Friedrich Scheufele氏の主導でChronométrie Ferdinand Berthoudがヴァル=ド=トラヴェールに設立され、18世紀の巨匠ベルトゥーの名が復活したことChronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love。2025年に創立10周年を迎え、ブランドが「真正性と精度追求」の理念を堅持していることChronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love。\ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Watch I Love, 同記事. ベルトゥーの生涯の軌跡(航海クロノメーター開発に生涯を捧げ、No.8クロノメーターが12か月航海で誤差1.35分に留まったこと)が現代クロノメトリーFB社の開発指針になっている点Chronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love。また、クロノメトリーFB社が参加5回のGPHG全てで受賞し、初年度に金の針賞、その後クロノメトリー賞3回を含む計5個のトロフィーを獲得した記録Chronométrie Ferdinand Berthoud: A Watchmaking Legacy - Watch I Love。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
Fondation du Grand Prix d’Horlogerie de Genève『WINNERS 2001–2024』、2023、2022、2020、2019年の受賞欄。https://www2.gphg.org/uploads/WINNERS_2001_24_5082ce8bed.pdf (2026年10月21日閲覧)。 ↩︎ ↩︎
Ferdinand Berthoud, Chronomètre FB 1.1, メーカーの製品仕様。 ↩︎
Ferdinand Berthoud, Chronomètre FB 2RE.2, メーカーの製品仕様。 ↩︎
フェルディナント・ベルトゥー、Wikipedia日本語版。経歴・著作・海上試験の概説。 ↩︎ ↩︎
フェルディナン・ベルトゥー – Wikipedia日本語版. 1785年ラ・ペルーズへの5台貸与と、1788年難破で時計消失フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。1791年ダントルカストーへの4台貸与フェルディナント・ベルトゥー - Wikipedia。\ ↩︎
Louis Berthoud『Entretiens sur l’horlogerie : à l’usage de la marine : adressés aux quatre élèves qui ont été confiés à l’auteur』、Paris、chez l’auteur [imprimerie de P. Didot l’aîné]、1812年、127頁。ETH-Bibliothek Zürich、Rar 2053。所蔵館の書誌記録とデジタル原本(2026年10月22日閲覧)。 ↩︎