フレデリック・デント#
フレデリック・デント(Frederick Dent、旧姓Rippon、1808–1860年と後世の資料に記される)は、ロンドンの時計師である。若いころガラス製ひげぜんまいの実験に協力し、後にはエドワード・ジョン・デントの工房と、ウェストミンスター宮殿の大時計の製作を引き継いだ。大時計は1854年に完成し、塔で動き始めたのは1859年である。設計者のエドマンド・ベケット・デニソン、受注したエドワード、完成を担ったフレデリックはそれぞれ別の人物である。1 2 3 4
リッポンからデントへ#
後世の時計資料は、フレデリックが1822年にベンジャミン・ルイス・ヴリアミーのもとで徒弟となり、1831年に時計師組合の自由市民資格を得たとする。父リチャード・リッポンは時計のムーブメントを作り、母エリザベスは後にエドワード・ジョン・デントと結婚した。フレデリックはその継子である。資料館の目録はフレデリック・ウィリアム・デントと記すが、工房の署名には単にFrederick Dentも使われる。1 4
1830年代、ジョン・ロジャー・アーノルドとエドワード・ジョン・デントは共同事業を営んだ。時計史研究者Bulstrodeは、1833年にフレデリック・リッポンがデントとともにガラス製の円筒形ばねを作ったと記す。共同研究の署名と、製作に関わった人の名前を合わせて読むと、工房の技術は一人の発明家だけで成立したものではないことが見える。9
1853年にエドワードが亡くなると、その遺言の条件に従いフレデリックと兄弟リチャードはDent姓を用いた。ロンドンの公文書館の目録によれば、フレデリックは61 Strandと34 Royal Exchangeの店舗、塔時計、航海用時計と羅針儀の事業を継いだ。Cockspur Streetの事業はリチャードへ分かれた。製品の「Dent」という銘だけでは、二つの事業や、それぞれの時期の製作者を決められない。1
ガラスばねの実験#
機械時計のテンプはひげぜんまいに引き戻されながら振動する。金属ばねは温度によって弾性が変化し、時計の進み遅れにも影響する。アーノルドとデントの1836年原稿は、金属に代わる材料としてガラスを試し、温度変化に対する歩度の変化を比較した。Royal Societyの資料目録は、ガラスばねの時計を船上とグリニッジ天文台で試した記録が原稿に含まれると説明する。5
材料を換えても問題がすべて解決したわけではない。後世の資料研究は、ガラスばねを使った時計が長期にわたって進む傾向を示したと論じている。ガラスばねの製作に協力したリッポンの仕事は、材料の選択、成形、時計全体の調整を切り分けて考える実験の一部だった。ただし研究の記述から個々の工程を誰が担当したかまでは特定できない。9
大時計を完成させる#
設計と製作の分担#
ウェストミンスターの塔時計について、天文台長ジョージ・エアリーは時を打つ際に1秒以内の精度を求めた。1852年にエドワード・デントが、デニソンの設計による製作を任された。翌年エドワードが死去した後、契約を継ぐことには異論も生じたが、フレデリックが工場と事業を引き継いで仕事を続けた。デニソン自身の1857年の著書は、フレデリックを大時計の製作者として明示し、同名の別店舗との混同を避けている。ただし設計者自身による当事者の説明として読む必要がある。2 3
議会の説明では機構は1854年に完成し、建物の完成を待って1859年に塔へ設置された。5月31日に時刻を刻み始め、大鐘が初めて時を打ったのは7月11日である。大鐘の愛称「ビッグ・ベン」は時計機構や塔にも広く使われるが、時計の製作と鐘の鋳造は別の仕事だった。2 6
振り子と大きな針の間#
塔の外にある大きな針は風などの力を受ける。その負荷が輪列を通じて直接振り子に伝わると、時計の基準となる振動が乱れうる。デニソンの二重三脚重力脱進機では、輪列が小さな腕を持ち上げ、腕が重力によって振り子へ力を与える。針を動かす側の負荷の変化から振り子を隔てる工夫である。1854年の機構完成後にもデニソンは脱進機を改良した。機構の発明をフレデリック単独のものとすることはできない。2 3
時計の枠には1854年にフレデリックがデニソンの設計から製作し、1859年に設置したことを示す銘がある。工房の完成と塔への据付を別の年として読むための手掛かりである。7
工房の広がりと継承#
大時計以外にも、フレデリックの時期の工房は観測や王室のための時計に関わった。時計専門誌は、グリニッジ天文台の通過観測用クロノグラフ、エディンバラ天文台の標準時計、1857年のバルモラル城の四面塔時計を挙げる。これらは工房の仕事の範囲を示すが、すべての部品を本人が手作業したという意味ではない。8
デニソンは1857年の序文で、気泡のない液体羅針儀の発明をフレデリックに帰属させている。この同時代の証言は時計以外への活動を示すが、ここから特許の請求範囲や全ての船舶への採用を推定することはできない。3
フレデリックは1860年に死去した。ロンドンの公文書館は、その後は母エリザベスと義兄弟が事業を継ぎ、後に妹アメリアが加わりE. Dent & Co.となった経緯を記録している。1859年の大時計の運転開始後も、デントの名前は後継事業に残った。名前の継続と、特定の作品を誰がいつ作ったかは区別して読む必要がある。1 8
年表#
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1808 | 後世の時計資料が出生年として記す。4 |
| 1822–1831 | ヴリアミーへの徒弟入りと時計師組合の資格取得が伝えられる。4 |
| 1836 | Arnold & Dentのガラスばね原稿にRipponへの謝辞が記される。5 |
| 1853 | エドワード・ジョン・デントの死後、Dent姓を用い工房の一部と大時計の製作を継ぐ。1 3 |
| 1854 | ウェストミンスターの大時計の機構が完成する。2 |
| 1857 | 専門誌によればバルモラル城の塔時計を製作する。8 |
| 1859 | 大時計が塔で運転を開始する。6 |
| 1860以後 | フレデリック死去。事業は家族と後継会社に引き継がれる。1 |
参考文献#
London Archives, “E Dent and Company Limited”, 会社記録目録、閲覧2026年10月29日。
UK Parliament, “Big Ben’s Great Clock celebrates its 160th Birthday”, 2019年、閲覧2026年10月29日。
Edmund Beckett Denison, Clocks and Locks, 1857年、序文p. x、時計の記述、閲覧2026年10月29日。
Richard Redding Antiques, “Dent of London, A Victorian Gilt-Brass Striking Giant Carriage Clock”, 閲覧2026年10月29日。
John Roger Arnold and Edward John Dent, “On the application of glass as a substitute for metal balance-springs in chronometers”, Royal Society AP/20/3, 1836年原稿、閲覧2026年10月29日。
UK Parliament, “Constructing the most accurate clock in the world”, 閲覧2026年10月29日。
Pendulum Publications, “Who made the Big Ben clock at Westminster Palace”, 時計枠の銘の転記、閲覧2026年10月29日。
Ken Kessler, “Towering Plans”, International Watch, 2007年4月、pp.119–120、閲覧2026年10月29日。
Jamie L. R. Bulstrode, “Riotous assemblage and the materials of regulation”, pp. 3–4、閲覧2026年10月29日。