生涯と経歴 #
ジョヴァンニ・デ・ドンド(Giovanni de Dondi, または Giovanni Dondi dall’Orologio)は14世紀イタリアの医師・天文学者・機械技師です ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。彼は約1330年頃にヴェネツィア共和国領のキオッジャで生まれました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。父は著名な医師で天文学者のヤコポ・デ・ドンドで、パドヴァのカピタニアート宮殿塔に大掛かりな天文時計を製作した人物です(1344年) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。ジョヴァンニは幼少期より父のもとで天文学や時計製作に親しみ、1348年から父と共にパドヴァで生活し始めます ( ジョバンニ・デ・ドンディ - Wikipedia)。同年、彼は自らの代表作となる天文時計「アストラリウム(Astrarium)」の設計・製作に着手しました ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
1350年代には、ジョヴァンニはパドヴァ大学で天文学・医学を講じ、複数の学部(医学・占星術・哲学・論理学)に所属する教授として活躍しました ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。1356年には医師資格を持つ学者として最初期の講義「Tegni(テグネ、ガレノス医学論綱)」に関する質疑録をまとめています ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。1361年までパドヴァ大学で教鞭を執り、この年に彼の指導学生の学位取得記録が残るのが、パドヴァでの最初期の教職の最後の証拠となっています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
1362年~1365年には、新設されたパヴィア大学(当時神聖ローマ皇帝カール4世の創設)の教授として招聘され、ガレアッツォ・ヴィスコンティ(ミラノ公)の庇護下で教鞭を執りました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。この間もしばしばパドヴァに戻り、1363年秋にはヴェネツィアの医師会で討論会を行っています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1366年にパドヴァへ本格的に帰還して大学教授職を再開し、1367年にはフィレンツェ大学から医学教授として2年間(年俸300フィオリーニという破格の待遇)の招請を受けました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。体調不良により赴任が遅れましたが1368年初頭にボローニャ経由でフィレンツェに移り、同地で文豪ボッカッチョと親交を結んでいます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。しかし1369年末までにパドヴァへ戻り、大学の教務改革にも携わりました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
1370年、ジョヴァンニはパドヴァとヴェネツィアの間に戦争の兆しがあった際に、調停に向けた外交使節としてベッルーノに派遣されました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1371年にはパドヴァ政庁の命でヴェネツィア共和国への特使(大使)も務めています ( ジョバンニ・デ・ドンディ - Wikipedia)。しかし1372年に両都市はついに開戦し、ジョヴァンニは5人の停戦仲裁委員の一人に選ばれました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。仲裁交渉では国境地図を提示しましたが、それがヴェネツィア側の主張を裏付ける結果となり、パドヴァ領主フランチェスコ・イル・ヴェッキオ・ダ・カッラーラの不興を買ったと伝えられます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。休戦工作が失敗すると、ジョヴァンニは戦争再開を正当化する詩文(ソネット「Se la gran Babilonia fu superba」)を作るなど政治面でも活動しました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
同1370年頃から、パドヴァ近郊アルクァに隠棲していた詩人ペトラルカの主治医・友人となったことも特筆されます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ペトラルカは医師嫌いで有名でしたが、ジョヴァンニの高い見識と友情は深く評価し、書簡を交わしています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ジョヴァンニはペトラルカの勧めを受けて自らの恋煩いを詠んだ詩を送り、ペトラルカがソネットCCXLIVでそれに応答するなど、人文主義者との交流もありました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ペトラルカは1374年に没し、ジョヴァンニは友の死を嘆く追悼詩を書き残しています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
1371年にペストが北イタリアで流行すると、ジョヴァンニは「ロンバルディア方面へ移住したい」と遺言を残しますが ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)、実際には一時パヴィアに滞在したのち1372年初頭までにパドヴァへ戻りました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1375年にはローマを訪問し古代遺跡を見聞(この旅行記は後に「Iter Romanum」として記録)しています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1376年にはパドヴァ大学の芸術・医学部の新たな学則の編纂委員を務めました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
1378年、最初の妻ジョヴァンナ・ダッレ・カルツェを亡くし ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)、翌1379年7月にカテリーナ・ディ・ジェラルド・ダ・テルゴラと再婚しました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。同年、ミラノの新たな君主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティから宮廷医師に招聘されます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。これは当時ジャン・ガレアッツォの息子アッツォーネの治療を託されたのが契機でした ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ジョヴァンニは1379年にパヴィアへ家族とともに移住し、以後没年までヴィスコンティ家に仕えています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。パヴィアでは大学教授としてではなく、公爵宮廷付きの医師兼占星術師という扱いで年間2,000フィオリーニもの俸給を受け取りました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。この額は当時の一般教授給与を遥かに超える破格の待遇であり、ヴィスコンティ家が彼を科学者・技術者として厚遇したことを物語ります。
ジョヴァンニはパヴィア在住中も古巣パドヴァとの繋がりを保ち、時に学位審査に名を連ねたり書簡を交わしたりしていました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1380年には息子が生まれ、恩主にちなみ「ジャン・ガレアッツォ」と名付けています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1383年には北イタリアで再びペストが発生し、幼い息子2人を失う不幸に見舞われました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。この経験から彼はペスト流行下での生活心得を説く小著『ペストの時代における生活法(De modo vivendi tempore pestilentiali)』を記しています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
1381年、ジョヴァンニは長年の労作であったアストラリウムを完成させ、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティに献上しました ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。この精巧な天文時計はパヴィア城館の図書室に据えられ、以降も貴重品として保管されます ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。ジョヴァンニ自身は引き続きパヴィア大学などで学問活動を行い、1388年10月19日にミラノ近郊のアッビアテグラッソで死去しました ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。享年はおよそ58歳(生年1330頃説の場合)でした。遺体はミラノ市内のサン・エウストルジョ聖堂に葬られ ( ジョバンニ・デ・ドンディ - Wikipedia)、後に故郷パドヴァのドゥオーモ付属洗礼堂外壁に父ヤコポの墓と並んで改葬されています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。死後に作成された彼の遺産目録によれば、パドヴァ近郊に100を超える農地(campi)や水車小屋を所有し、多数の銀器や高級衣服、約110冊もの蔵書を遺しており、巨万の富と幅広い知識を備えた人物だったことが窺えます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
年表 #
- 1330年頃 – ヴェネツィア共和国キオッジャにて誕生。父ヤコポ・デ・ドンドは著名な医師・天文家 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1344年 – 父ヤコポがパドヴァの宮殿塔に公共天文時計を製作(デ・ドンド一家のあだ名「時計師(dall’Orologio)」の由来) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
- 1348年 – 父と共にパドヴァに居住し、ジョヴァンニが天文時計「アストラリウム」の製作に着手 ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。同年欧州で黒死病流行。
- 1348–1364年 – アストラリウムの設計・組立に従事(後述) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。16年間の歳月をかけ1364年に一応の完成 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1350年代前半 – パドヴァ大学で教授資格を得て天文学・医学を講義 ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。皇帝カール4世の侍医を務めたとの伝承もある ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
- 1356年 – 医学講義集「Quaestiones super Tegni」(ガレノス医学教本の問題集)を作成 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1361年 – パドヴァ大学で論理学教授資格を取得 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。同年がパドヴァにおける最初期の教授活動の最終記録 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1362–1365年 – パヴィア大学教授(天文・医学)。ミラノ公ガレアッツォ・ヴィスコンティの招聘で新設大学に赴任 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1363年 – ヴェネツィアを訪問し医師会で討論会に参加 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1366年 – パドヴァ大学教授職に復帰 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1367年 – 親友ジョヴァンニ・ダッラクイラの医学博士号授与を主催。同年9月、フィレンツェ大学から2年間の客員教授に任命(年俸300フィオリーニ) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1368年 – フィレンツェで医学講義を開始(途中ボローニャで公開討論も開催)。詩人ジョヴァンニ・ボッカッチョと交流 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。年末までにパドヴァへ帰還 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1369年 – パドヴァの医師団に復帰し、大学学則改革委員に就任 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1370年 – ベッルーノへ外交使節として派遣(対ヴェネツィア戦争回避の事前調停) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。アルクァの詩人フランチェスコ・ペトラルカの主治医・相談相手となる ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1371年 – パドヴァ政府のヴェネツィア大使に任命 ( ジョバンニ・デ・ドンディ - Wikipedia)。ペスト流行下で遺言を書き、「ロンバルディア(ミラノ公国)へ移る」と記す ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1372年 – ヴェネツィアとパドヴァの戦争勃発。ジョヴァンニは停戦仲裁委員に選出されるが調停失敗 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ヴェネツィアに有利な証拠提示で領主の不興を買う ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1373–1374年 – パドヴァとハンガリー王国が同盟し戦争再開。ペトラルカとの間で医学と人生観をめぐる往復書簡を交わす ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1374年7月ペトラルカ死去、ジョヴァンニは追悼詩を記す ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1375年 – ローマ巡礼旅行(後に「Iter Romanum」として記録) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1376年 – パドヴァ大学医学部の新規定編纂に参与 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1378年 – 妻ジョヴァンナ死去 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1379年 – カテリーナと再婚 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ミラノのジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティから宮廷医師に招聘されパヴィアへ転居 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。パヴィア大学でも教鞭を執るが、主な肩書は宮廷医師・占星術師(年俸2,000フィオリーニ) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。長男ジャン・ガレアッツォ誕生(名はミラノ公にちなむ) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1380–1383年 – パヴィア宮廷で科学者・外交官として活躍。1381年、16年越しのアストラリウムが完成し、ミラノ公に献上 ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。1382年にはパヴィア城内のヴィスコンティ宮で暮らした ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。1383年のペストで幼子2人を失い、ペスト対策の著作を執筆 ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
- 1388年 – 10月19日、ミラノ近郊アッビアテグラッソにて没 ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。サン・エウストルジョ聖堂(ミラノ)に埋葬 ( ジョバンニ・デ・ドンディ - Wikipedia)。
- 1390年 – 遺体がパドヴァへ改葬され、父ヤコポの墓の隣に安置される ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
アストラリウムの発明と技術的特徴 #
( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons)ジョヴァンニ・デ・ドンドのアストラリウム(再現模型): 7つの正面パネルを持つ独立台座型の機械で、高さ約1メートルの真鍮製枠に収まっている ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。下部には重錘駆動の機械式時計(脱進機)があり、上部には天体の運行を示す複数の文字盤が配置されている。この装置は当時知られていた太陽・月・5惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の位置と運行、および時刻と暦を表示する非常に複雑な機構であり、**107個の可動部品(歯車とピニオン)**から構成されていた ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。ヨーロッパ初期の機械式時計が発明されてからわずか半世紀余りで、このような高度な天文機械を実現したことから、ジョヴァンニ・デ・ドンドは「時計設計の先駆者」として記憶されています ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
設計と構造: アストラリウムは縦に二段構造となっており、下部セクションに時刻と暦を司る機構、上部セクションに天体運行を示す7つの文字盤があります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。土台は7本の装飾的な獣脚(獅子の足のような形状)の上に据えられた七角形の枠組みで、堅固な真鍮(銅合金)製です ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。下部中央には時計駆動部(脱進機付きの基本輪列)があり、24時間表示の時刻盤と大型のカレンダー円筒(暦ドラム)を回転させます ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。時刻盤は外周に24等分の時刻目盛と10分刻みの細分目盛を持ち、平均太陽時(恒常時間制の1日24時間)を表示しました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。この時刻盤は盤側ではなく盤そのものが反時計回りに回転し、固定された指標に対して時刻を示す仕組みです ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。また誤差調整のため、時刻盤の輪列に12歯のピニオンを一時的に噛み外すことで10分単位でリセットできる調節機構も備わっていました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。時刻盤の両脇には緯度45°(パドヴァと同緯度)における日出・日没時刻を各日付ごとに示す「オリエンス表(tabula orientii)」が固定板として取り付けられ、暦日に応じて太陽の出入り時刻を読み取れるよう工夫されています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
下部カレンダー機構: 下部には直径約40cmの大型の暦表示円筒が水平に設置され、これが年間カレンダーと連動して上部の各天体文字盤を駆動しました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。円筒外周には365日の区画があり、各日に対応して(1)昼の長さ、(2)主日章(曜日サイクルによる記号)、(3)その日に該当する聖人祝日名、(4)月日が記されています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。偶数月と奇数月で地の色を金箔と銀箔で塗り分け、文字は赤と青のエナメルで交互に彩色するなど、美術工芸品としても凝った装飾が施されました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。なお暦はユリウス暦の平年(365日)に基づくため閏年の扱いはなく、4年に一度は丸一日機械を止めて調整せねばならないとジョヴァンニ自身が注記しています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
上部の天体文字盤: アストラリウム上部には七つの文字盤が設けられ、それぞれ当時の宇宙論における諸天体の運行を表示しました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。パドヴァ写本での配置順によれば、上部正面に**「第一運動(Primum Mobile)と太陽」の文字盤**、続いて金星、水星、月、土星、木星、火星の順に各面に文字盤が配置されています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。第一運動とは天動説における天球の最外層(恒星天)の自転を指し、太陽の年周運動もこれと結び付けられていました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。第一運動/太陽の文字盤は、一種の機械式アストロラーベとして設計されています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。南極投影法で描かれた固定の星図盤(文字盤)に、恒星球と太陽の位置を表すレーテ(回転する透かし盤)が組み合わされ、恒星時による1日1回転で回転しました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。この恒星盤(レーテ)は365歯を持ち、6回転で24時間(1回転=4時間)となる小歯車(61歯)によって駆動されました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。その結果、太陽を含むレーテは恒星日に同期した回転(1恒星日あたり360°×366/365の角度)を行い、1回転が恒星日365/366≒1.0027日となる巧妙な比率が実現されています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。もっとも地球公転による厳密なずれ(恒星年と暦年の差)は残るため、時折機械を止めて補正する必要があることも記されていました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
各惑星(および月)の文字盤も、それぞれ天動説の周転円理論(プトレマイオスのエピサイクル説)を機械的に再現するよう設計されています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。文字盤ごとに固定の黄道目盛盤と離心円(エカント)が描かれ、その上を周転円(エピサイクル)が回転し、その上に小さな天体(惑星)模型が取り付けられる構造です ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。さらに惑星を載せた周転円の中心(従円の中心)が、黄道中心の周囲を公転(従円運動)する様子も再現されました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。つまり各文字盤では惑星の周転運動と従円運動の双方が指針によって示され、例えば黄道中心からずれた地点を中心に周転円が回転することで、軌道の離心や動径の長短といった不均一運動を表現しています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。特に水星や月のように当時の理論でも複雑な軌道要素を持つ天体については、複数の特殊な歯車を組み合わせる複雑な輪列でその不規則運動を近似しました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
例えば水星の文字盤では、半径の異なる2枚の楕円歯車(各24歯、歯間隔も不均等な特殊形状)が噛み合うことで水星の速歩変化(二重離心の効果)を再現し、年回転する歯車(63歯の内歯車と20歯ピニオンの組み合わせ)を通じて水星指示器を駆動しました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。この結果、水星の指針は1年で黄道十二宮を約37宮24度(= 2周+37度)進む設定となり、理論値37宮24度43分23秒にかなり近い値を実現しています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。月の文字盤にも月の遠近距離による見かけ速度変化を表現するための複雑機構が組み込まれています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。さらに月の下には「ドラゴン(竜)」と呼ばれる**月交点(昇交点・降交点)**位置を示す追加文字盤があり、太陽と月の位置関係から食の起こる日付を計算できるようになっていました ( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons) ( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons)。
機械加工と精度: ジョヴァンニ・デ・ドンドは、このアストラリウムをすべて自身の手で製作したと述べています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。使用した素材は主に真鍮を含む銅合金で、鉄製ネジは用いず、全パーツは300本以上のテーパー付き留め釘やクサビで固定され、一部はろう付けされています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。歯車は大小様々で、107個の歯車・ピニオンすべて形状を工夫し鍛造・切削で作成されています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。多くの歯は三角形断面ですが、一部は丸みを帯びた先端形状とし、さらには楕円に近い輪歯も組み込まれました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。これら楕円歯車や不等間隔の歯を持つ歯車は、惑星の不均一運動を可能な限り正確に再現するためのもので、後世のカム機構や可変速比ギアの先駆けとも言える発明的工夫です ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。こうした精緻な設計を行うにあたり、ジョヴァンニは当時最新かつ最精度の天文データであった**アルフォンソ天文表(1272年頃編纂)**を参照しました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。その結果、各惑星の配置はプトレマイオス理論と観測にほぼ矛盾しない精度に仕上がっており、まさに「機械仕掛けの宇宙模型」と呼ぶに相応しい出来栄えでした ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
脱進機と時間制御: この機械の心臓部である時計部分は、14世紀当時一般的だった揺り盤式(フォリオット)脱進機に相当する機構で制御されました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons)。具体的には水平に設置された**大歯車(365歯)が年周運動(1年で1回転)するよう調速され、その歯車に噛む垂直配置の歯車列(60歯・72歯の輪歯)を通じて各表示盤を動かしています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。記録によれば、揺動するバランス(平衡調速装置)の鼓動は2秒に1回(=片振り1秒)となるよう設計されていたとのことです ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。歯車列の歯数構成も解析されており、例えば120歯の第一車に80歯・12羽根ピニオンの第二車、そこから27歯・10羽根ピニオンの脱進車へ力が伝わる3輪構成で2秒周期を実現していたと推定されています ( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons)。出力側には24歯車と20歯車+12羽根ピニオンによる減速を経て時刻盤(144歯)**を駆動し、24時間での1回転を実現していました ( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons)。この一連の調速・駆動系は「volgi e svolgi」(巻き上げ・繰り下げ)と呼ばれる重錘と巻き胴による動力で駆動され、当時最新の時計工学を凝縮したものだったといえます ( File:Astrario Dondi 05869 01 dia - Museo scienza e tecnologia Milano.jpg - Wikimedia Commons)。
以上のように、ジョヴァンニ・デ・ドンドのアストラリウムは当時存在した宇宙(天動説)モデルを完全機械化した希有な例でした ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。彼自身、「この機械の発想は13世紀のカンパヌス・ノヴァーラが著した『惑星理論(Theorica planetarum)』のエカトリウム(天体計算盤)の巧妙な設計に触発された」と述べています ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。まさにアストラリウムは、アラビア・イスラム世界から継承されたアストロラーベやエカトリウム(計算アナログ装置)の伝統と、西欧で急速に発達した機械式時計技術とを融合させた画期的な発明でした ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ジョヴァンニはこの機械の詳細を『アストラリウム(またはプラネタリウム)論』として克明に記述し、歯車や文字盤の図面も添えています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。この書物は現存する最古級の機械時計の詳細な技術記録であり、わずか数年前に書かれたイングランドのリチャード・オブ・ウォーリンフォードによる天文時計記録(St. Albans修道院時計、1327–1344年)と並ぶ貴重な資料です ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
( image)アストラリウムの文字盤設計図(ヴェネラ盤): ジョヴァンニ・デ・ドンド自身が著した『アストラリウム論(Tractatus astrarii)』原典写本より、金星の文字盤を示すページ(Padova, Biblioteca Capitolare, Ms. D.39, 12v) ( File:Giovanni Dondi dell’Orologio dial of Venus.jpg - Wikimedia Commons)。外周に黄道目盛が描かれ、内側に周転円(緑色)が回転する構造が示されている。各ページにはこのように複数の彩色図とラテン語の解説が記され、歯車歯数や天体の速度比まで具体的に説明されている ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。この詳密な文書のおかげで、後世の学者や時計師たちは実物が失われた後もアストラリウムを再現・研究することが可能となりました ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
14世紀当時の技術的背景とアストラリウムの影響 #
ジョヴァンニ・デ・ドンドの活躍した14世紀中葉は、機械式時計の黎明期でした。13世紀末から14世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは従来の水運式時計に代わり重錘と歯車による“クロック”が各地で登場し始めます。機械式時計の肝となる**ガンギ車(脱進機)**の発明時期は正確には不明ですが、1320年代までに各地の教会や都市に塔時計が出現した記録があります ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。例えば、ローマ教皇庁があったアヴィニョンやイタリアのミラノ、ヴェネツィア、イングランドの修道院などで鐘打ち時計が導入され、時間を定期的に自動で知らせる技術が広まりました。
しかし初期の時計は時刻を音声(鐘)で伝えるもので、文字盤を備えるものや複雑な天文表示を行うものは稀でした。1330年代には、イングランドの聖アルバンス修道院長リチャード・オブ・ウォーリンフォードが月や太陽の運行も示す天文時計を設計・製作していますが、その記録は断片的で現物も現存しません ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。その点、ジョヴァンニ・デ・ドンドのアストラリウム(1348–1364年製作)は、わずか機械式時計発明から60年あまり後に登場したにもかかわらず、当時知られる全ての天体要素を一つの時計に統合した点で飛び抜けた存在でした ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
アストラリウム以前にも中世ヨーロッパではアストロラーベ(星図盤)やプラネタリウム(天球儀的装置)、エカトリウム(周転円を使った計算器)といった天文学教育・占星術用の器具が用いられていました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。これらは主に手動操作で天体位置を求めるアナログ計算機でしたが、ジョヴァンニはそれらの理念を「時計仕掛けで連続自動駆動させる」ことに挑戦したのです ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。彼はプトレマイオスの宇宙モデル(均天球+周転円理論)の完全機械化を目指し、必要な全パラメータを歯車比に変換するという画期的設計を成し遂げました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。これは現代的に見れば、特定の数値関数を歯車比によってアナログ計算する機械式コンピューターとも言えるものです。
当時の技術的背景として重要なのは、歯車製造技術と金属加工精度の向上です。中世ヨーロッパの金属加工は、12~13世紀にイスラム圏から伝わった技法も吸収して発展していました。機械式時計では歯車の精密な噛み合わせが不可欠ですが、ジョヴァンニは歯車歯数を厳密に計算し、公差を工夫することで複雑機構の実現に成功しました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。例えば歯先形状の工夫や楕円歯車の導入など、14世紀当時としては非常に高度な加工をこなし、必要な精度を確保しています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。こうした技術的試みは当時まだ一般的でなく、アストラリウムは同時代人にとってまさに**「驚異の機械」**でした ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。
ジョヴァンニの機械は教育的・科学的影響も大きく、同世代から熱烈な称賛を受けました。1388年にはパヴィアの学者ジョヴァンニ・マンツィーニが彼に宛てた書簡で「これほど精妙で見事な細工は他のいかなる名工の手にも及ばない」と激賞しています ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。また、十字軍に参加したフィリップ・ド・メジエール(キプロス王宮の元書記官)は1389年の著書『老巡礼の夢』でアストラリウム完成年を1364年と記し、その偉業を称えました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。彼の噂は遠方にも届き、神聖ローマ皇帝カール4世やミラノ公らがジョヴァンニに好意を寄せた背景ともなっています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
アストラリウムが14世紀当時に与えた直接的影響としては、公共大型時計の高機能化があります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。各地の都市や宮廷はこの機械に刺激され、より多くの天文要素を備えた時計塔や据え置き時計を求めるようになりました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。事実、パドヴァやヴェネツィア、ミラノなどではその後15世紀にかけて次々と天文時計塔(時計台)が建設され、太陽・月・星座や暦を表示する仕掛けが組み込まれていきます。ジョヴァンニ自身、父の代からパドヴァで進められていた公共時計事業に影響を与えており、天文時計の都市インフラ化の先駆者の一人でした ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
またアストラリウムの精緻な記録は、後の科学者たちにも大きな示唆を与えました。例えばレギオモンタヌス(15世紀の天文学者)は1463年にパヴィア大学の講義でこの機械を実見したことに触れ ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)、「自分も同様の装置をニュルンベルクの工房で製作中だ」と1474年に述べています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。これはジョヴァンニの遺した技術が約一世紀後にも最先端の手本であったことを示しています。実際、レギオモンタヌスは惑星運行のアナログ計算機(機械式プラネタリウム)を構想し、歯車仕掛けの天文装置を計画していましたが、彼の夭折により完成はしませんでした。しかし彼の弟子達や後代の技師たちはこの系譜を引き継ぎ、16世紀以降には各地でルネサンス的な天文時計やプラネタリウム模型が作られるようになります。
総じて、ジョヴァンニ・デ・ドンドのアストラリウムは、14世紀ヨーロッパにおける科学と技術の融合を象徴する成果でした。それは当時の技術水準を極限まで押し上げ、人々に天文学への興味と機械工学の可能性を強く印象付けたのです ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ペトラルカはその遺言(とされる文書)でジョヴァンニの天文知識を称賛したと伝えられ、ミラノ公や学者たちも競って彼の機械を目にし賞賛しました ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。14世紀の技術的背景を踏まえると、ジョヴァンニの発明は一世代先を行く革新であり、中世からルネサンスへの架け橋となった成果と評価できます。
アストラリウムの後世および現代への影響 #
ジョヴァンニ・デ・ドンドの発明は、直接的には同時代から15世紀にかけての天文時計の潮流を生み出しましたが、長期的にも科学技術史に重要な足跡を残しました。彼のアストラリウムは「世界初のアナログ計算機の一つ」「最古のプラネタリウム時計」としてしばしば言及されます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。現代の視点からその影響を整理すると、以下のような点が挙げられます。
機械式プラネタリウムの先駆: アストラリウムは、後のオラリー(orrery)と呼ばれる太陽系模型装置の原型とみなせます。18世紀に流行したオラリーは太陽を中心に惑星が回る模型ですが、ジョヴァンニのものは地球中心とはいえ同様に複数の惑星運動を一括して表示しました。これは複雑な天文現象をギアトレインで再現するというアイデアの嚆矢であり、天文学教育用機器や博物館展示のプラネタリウム装置の源流といえます。
時計技術への貢献: ジョヴァンニの技法は時計製造の発展にも寄与しました。彼が記録した非円形ギアや可変速機構の概念は、産業革命期まで待たずして中世末期~ルネサンス期の技術者に注目されました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。歯車で非線形の動きを表現する手法は、その後カラクリや自動機械にも応用され、ひいては近代の計算機械(例えば微分機械や天体計算機)に通じる発想を提供しました。また107個もの精密歯車を組み上げた経験は、15世紀以降に現れる巨大天文時計(ストラスブール大聖堂天文時計やプラハ天文時計など)の設計にも影響した可能性があります。実際、**プラハの天文時計(1410年完成)**やミラノ大聖堂の天文時計などは太陽・月・恒星の位置表示を組み込んでおり、デ・ドンド以降の技師たちが複雑機構へ挑戦する動機づけとなったと考えられます(もっともプラハ時計の直接の設計者はジョヴァンニの著作を参照した証拠はありませんが、技術的連続性は指摘されています)。
科学計算と模型の融合: デ・ドンドのアストラリウムは、科学理論(プトレマイオス理論)を具体的な機械モデルに落とし込んだ点で、科学における実験装置・教育模型の先駆けでした ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。現代でいえば、コンピュータシミュレーションやプラネタリウム・ソフトウェアで行うことを、彼は純粋に歯車仕掛けで実現したのです。これは科学理論を視覚化・運動化することで、人々の理解を助けるという科学コミュニケーションの役割も果たしました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。彼自身「人々が天文学と占星術の概念を理解する一助としたい」と記しています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。こうした姿勢は現代の科学博物館の展示理念にも通じるものであり、科学と工芸と教育の融合という観点から、ジョヴァンニの試みは現代にも新鮮な示唆を与えます。
文化的・美術的影響: アストラリウムは単なる科学機械ではなく、美しく装飾された芸術作品でもありました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。その存在は14~15世紀の文化人にも強い印象を与え、詩作や文学にも影を落としています。15世紀の人文主義者ピエール・カンディード・デチェンブリオ(Uberto Decembrioの子)はミラノで実物を見て感嘆し、数学者で天文学者のレギオモンタヌスは前述のように製作を試み、ルネサンス期の建築家ブラマンテもそのスケッチを残したと伝えられます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。一方、レオナルド・ダ・ヴィンチが写本に描いた「金星盤の素描」(Codex L:92v)については、かつてジョヴァンニの機械を模写したものと信じられてきましたが、現在では関連が否定されています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。いずれにせよ、この天文時計は**「宇宙の縮図」**として後世の芸術家や思想家にインスピレーションを与え、宇宙観や技術観を象徴する存在となりました。
現代での復元と検証: アストラリウムの詳細な図面と記録は現代の研究者を魅了し、1950年代以降いくつもの復元プロジェクトが行われています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。特に1960年代にイギリスの時計会社トウェイツ・アンド・リード社の技師ピーター・ハワードが7台の精巧なレプリカを製作し、一台はワシントンD.C.のスミソニアン博物館(米国技術史博物館)に収蔵されました ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。もう一台はミラノの国立科学技術博物館にルイージ・ピッパ技師が再現したモデルとして展示されています ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)(上掲の写真もそのミラノの模型です)。さらに1980年代には国際ブリュジーネ研究センターの主導で、フランス・パリ天文台にて実物大の精密復元が行われ、1989年のジョヴァンニ・デ・ドンド生誕約600年記念行事で披露されました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。これら復元作業により、文書から読み取れなかった細部や機械の動作上の課題が検証され、学術的にも多くの知見が得られています。現代の時計職人や歴史研究者にとって、ジョヴァンニのアストラリウムは機械式時計の黎明に咲いた奇跡として、その完成度と美しさで今なお輝きを放っています。
その他の業績と作品 #
ジョヴァンニ・デ・ドンドはアストラリウム以外にも多方面で才能を発揮しました。まず医学分野では、彼はパドヴァおよびパヴィア大学で長年医学教授を務めただけでなく、当時の医療知識に関する著作も残しています。現存するものとしては**『ペストの時代における生活法』(1370年代) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)があり、これは黒死病流行期における養生指導を簡潔にまとめた実用書です。彼は同書でペスト原因を当時主流の瘴気説(大気の腐敗)で説明し、感染地からの退避を第一に、難しければ悪臭風の回避や衛生保持、香薬の使用などを勧めています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。また温泉療法**にも興味を示し、パドヴァ近郊の温泉と製塩法についての小論『パドヴァ平野の温泉に関する考察』(1370年代)も記しました ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。これは父ヤコポが書いた温泉塩析出法の覚書とともに1553年にヴェネツィアで刊行されています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
哲学・文芸面では、彼は大学で論理学・哲学も教えた知識人であり、自らラテン語詩文やイタリア語ソネットも残しました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ペトラルカやボッカッチョとの交友から人文主義的教養も身につけ、科学と人文の橋渡し役でもありました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。彼の書簡や講義録の多くは散逸しましたが、1780年代に曾孫にあたるフランチェスコ・シピオーネ・ドンディが彼のボローニャ討論の断片を伝えていたり、近代以降の学芸員が大学講義題目の写しを残していたりします ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
また、父ヤコポが建造したパドヴァの天文公共時計(完成1344年)もジョヴァンニの業績と混同されがちですが、こちらは父の功績とされています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ヤコポの時計はパドヴァ市街の塔に設置され、太陽・月・惑星・日時計などを備えた先駆的な公共時計でした。しかし18~19世紀にヤコポとジョヴァンニの功績混同が起こり、一時ヤコポの製作を否定しアストラリウムだけがドンディ家の名声を築いたという説も唱えられました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。現在は同時代資料からヤコポの製作がほぼ確実視されていますが、ジョヴァンニ自身は父の時計について著述で触れておらず、彼がどの程度関与したかは不明です ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
ジョヴァンニの代表的な作品は何と言ってもアストラリウムとその詳細記録『Tractatus astrarii』ですが、この他に名前が伝わるものとして、大学での講義集「Sermones(講話集)」や「Quaestiones(設問集)」、それにガレノス医学に関する注釈書(1383年頃)などがあります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。講話集29編(1356–1388年)はタイトルのみ知られ本文は現存せず ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)、Quaestiones 24題はパドヴァでの若年期(1356年頃)の討議をまとめパルマ図書館写本に残っています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。1383年にパヴィアでペスト流行中に著したガレノス医学書の注解(小論)は、翌年パドヴァの医学教授陣に献呈されました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。これらの学術的著作は彼の**「医学者ジョヴァンニ」**としての側面を伝え、機械技師としてのみならず博学の医師・自然哲学者であったことを示しています。
パトロン(依頼者・支援者)とその交流 #
ジョヴァンニ・デ・ドンドの才能は各時代の権力者たちの目にも留まり、多くの支援を受けました。まずパドヴァの領主カッラーラ家が挙げられます。パドヴァ在住当時、ジョヴァンニはカッラーラ朝のもと大学教授や外交官に任じられています。特にフランチェスコ・イル・ヴェッキオ・ダ・カッラーラは、ジョヴァンニを自領の知識人代表として外交交渉に送り出すほど信頼していました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。一方で前述のように1372年の仲裁交渉では微妙な軋轢も生じましたが、戦時にもジョヴァンニを諮問していることから、最後まで重要なブレーンとして遇していたことがわかります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
アストラリウム製作中の1348–1364年に直接のパトロンがいたかは記録に残っていません。彼自身の好奇心と情熱による自主研究として始めた可能性がありますが、制作には莫大な時間と資金が必要だったはずです。当時彼は大学給与や医師収入があったとはいえ、大規模機械の製作には工房や材料費が不可欠です。推測にすぎませんが、おそらく父ヤコポやパドヴァ大学、あるいはカッラーラ家から間接的な援助を受けていた可能性があります。実際、近年の研究者A.ベッローニは、1360年代前半にジョヴァンニがパヴィアへ招聘された背景に「ガレアッツォ・ヴィスコンティが彼にパヴィア城の目玉となる天文時計の完成を期待した」可能性を指摘しています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。ガレアッツォ・ヴィスコンティ(当時のミラノ副領主でパヴィア太守)は1361年創設のパヴィア大学に出資しつつ、優秀な占星術師や技術者を囲い込もうとしていた節があります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。この仮説が正しければ、ジョヴァンニは1362–65年のパヴィア滞在中にヴィスコンティ家の援助でアストラリウムの開発を進め、後にパドヴァへ戻ってからも完成を目指したことになります。もっとも、ジョヴァンニのアストラリウム完成年については前述の通り議論があり、1364年説と1381年説があります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。いずれにせよ、ミラノのヴィスコンティ家はジョヴァンニ最大の庇護者となり、彼の傑作を最終的に手にすることになりました。
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(ミラノ公, 1351–1402年)はジョヴァンニを宮廷医師・占星術師として迎え入れただけでなく、アストラリウムを宮廷の至宝として収蔵しました ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。ジョヴァンニが1381年にパヴィア城で公に献上したこの機械は、公爵自らが建設した壮麗な城館内の図書室に飾られました ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。以後約100年以上にわたり、ヴィスコンティ家およびその後継のスフォルツァ家によって保管・維持されます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。スフォルツァ家の公爵たちはこの「天の運行を示す驚異の時計」に興味を示し、修理や管理を技術者に命じていたことが記録に残っています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。しかし15世紀末にはついに故障が相次いで稼働不能となり、ミラノ近郊ロザーテ城の一室に半ば放置される状態になってしまいました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世, 1500–1558年)が1529年にイタリア遠征でミラノを訪れた際、この旧式化したアストラリウムを目にしています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。カール5世は大の時計蒐集家で、「時計仕掛けの驚異」を愛好した皇帝でした。彼はミラノ公国で朽ちかけていたこの機械に興味を示し、自身の宮廷技師で天才時計師のジャン・パオロ(ジャネロ)・トリアーノに修復を命じました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。しかしトリアーノは現物の損傷が激しいと判断し、修理ではなく新たな複製品の製作を提案します ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。こうして完成したコピー品は皇帝に献上され、1550年代にカール5世が退位してスペイン・ユステ修道院に隠棲した際にも携行されたと伝説的に語られました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。実際には皇帝没後もその複製機はスペイン宮廷に残され、19世紀初頭の半島戦争(1808–1809年)で破壊されたともいわれます ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。一方、ミラノに残されたオリジナルのアストラリウムは、その後消息が途絶えました。おそらく解体され部品が散逸したか、金属資源として溶解処分された可能性が高いと考えられています ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。
このように、ジョヴァンニ・デ・ドンドの作品は当時の権力者たちに愛玩・保護され、時代を超えて伝えられようとしましたが、最終的に現物は失われました。しかし詳細な文書と図が残ったこと、そして複製品が16世紀に作られたことにより、その存在は歴史に刻まれ続けました。パトロンたち—パドヴァのカッラーラ家、ミラノのヴィスコンティ/スフォルツァ家、ハプスブルク帝国の皇帝—の支援と興味がなければ、これほど長く語り継がれることもなかったでしょう。ジョヴァンニ自身もまた、医師・外交官として彼らに仕えながら、自身の科学的情熱を理解し後押ししてくれるパトロンを得たことで、その才能を大いに開花させることができたのです。
研究史と文献(多言語資料) #
ジョヴァンニ・デ・ドンドと彼のアストラリウムは、近代以降多くの学術研究の対象となってきました。その記録が比較的豊富に残り、機械復元も可能であったため、科学史・技術史の分野で注目され続けています。以下に主要な研究文献や資料(多言語)を紹介します。
イタリア語文献: イタリアの百科事典 Dizionario Biografico degli Italiani 第41巻(1992年)には、ティツィアーナ・ペセンティによるジョヴァンニ・ドンディの詳細な評伝があります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia)。同記事は最新の史料研究に基づき、彼の生涯年譜や家族関係、アストラリウムの構造、遺産目録まで網羅しています。また1969年にパドヴァで刊行された伝記集 Giovanni Dondi dall’Orologio, medico, scienziato e letterato も、彼の医学者・文人としての側面に焦点を当てた論考を含んでいます ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
英語文献: 英語圏では1960年代以降、シルヴィオ・ベディーニとフランシス・マディソンによる包括的研究が有名です。彼らは1966年に論文「Mechanical Universe: The Astrarium of Giovanni de’ Dondi」を発表し ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)、アストラリウムの歴史と先行装置、伝存写本の一覧、詳細な文献目録を提示しました ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。同論文(米国哲学協会 Transactions, New Series 56(5))にはレオナルド・ダ・ヴィンチの素描との比較検証も含まれており、20世紀半ばまでの研究成果をまとめた決定版と評されています ( File:Leonardo da Vinci dial of Venus.jpg - Wikimedia Commons) ( File:Leonardo da Vinci dial of Venus.jpg - Wikimedia Commons)。また1930年代には時計史研究家G.H.ベイリーがホロロジカル・ジャーナル誌に「ジョヴァンニ・デ・ドンディと1364年のプラネタリウム時計」という記事を寄稿し ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)、戦前からその存在が時計師の間で知られていたことがわかります。現代の英語資料としては、Encyclopedia.comに収録された**「科学伝記事典」**の記事があり、執筆者フランシス・マディソンによるコンパクトなまとめとなっています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。この中ではレギオモンタヌスの言及やジャン・トリアーノの複製製作など、後世への影響まで触れられています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
フランス語文献: フランスの科学史家エマニュエル・プール(Emmanuel Poulle)は、ジョヴァンニ父子の全作品の校訂版 Opera omnia Jacobi et Johannis de Dondis を手掛けました。特に1987–88年に発表された『ヨハネス・デ・ドンディのアストラリウム』(2巻本)は、パドヴァ写本D.39のカラーファクシミリとフランス語訳、詳細な注釈を備えた労作です ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。プールはまた、先述の1364年完成年を再検討し1365–1381年製作説を提唱した研究者でもあります ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。彼はジョヴァンニの文中に現れる天文データが1365年分に集中していることや、1365年に時計設計の予備計算を開始したと解釈できることから、この説を唱えました ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani)。この議論は専門家の間で続いていますが、少なくとも1381年に献上されたことは確実であるため「16年間」という製作期間自体は支持されています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。
その他の資料: 中世科学史の巨匠ジョルジュ・サルトンやリン・ソーンドイクもジョヴァンニ・デ・ドンディに言及しています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。サルトンの『科学史序説』第3巻(1948年)やソーンドイクの『魔術と実験科学の歴史』第3巻(1934年)では、中世の時計技術の文脈でデ・ドンディ父子が評価されています ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)。また近年ではデジタル技術を用いて写本を公開する動きもあり、パドヴァ写本D.39の画像がオンラインで閲覧可能になっています(例えばIMSSフィレンツェのBrunelleschiプロジェクト) ( File:Giovanni Dondi dell’Orologio dial of Venus.jpg - Wikimedia Commons) ( File:Giovanni Dondi dell’Orologio dial of Venus.jpg - Wikimedia Commons)。日本語では大規模な専門研究は多くありませんが、一般向け文献でジョヴァンニ・デ・ドンディの名が紹介されることも増えてきました。例えば『時計の歴史』関連書籍や科学雑誌で、アストラリウムが「最古の天文時計」として言及されています。
以上のように、ジョヴァンニ・デ・ドンディに関する研究は国際的にも長い蓄積があり、工学史・天文学史・医学史など様々な観点から論じられています。多言語の資料を参照することで、彼の人物像と発明品に対する理解がより深まるでしょう。その革新的精神と技術的偉業は、7世紀近くを経た今日でもなお私たちを驚嘆させ続けています。
参考文献(Sources): ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( ジョバンニ・デ・ドンディ - Wikipedia) ( Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Astrarium of Giovanni Dondi dall’Orologio - Wikipedia) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni - Enciclopedia - Treccani) ( Dondi, Giovanni | Encyclopedia.com)