ジョヴァンニ・デ・ドンディ(Giovanni Dondi dall’Orologio、1330年頃–1388年)は、医師として教育と診療に従事しながら、天体の運行を歯車で示すアストラリウムを設計した人物である。出身地はヴェネツィア領のキオッジャだが、著作では父ヤコポと同様にパドヴァへの帰属を示した。医学、天文学、自然学、文学は、その活動の別々の余技というより、大学と宮廷を行き来する学者としての仕事を構成していた。1
生涯と仕事#
父の教育と大学での仕事#
最初の医学の師は父ヤコポだった。父の学校には他都市からも学生が集まり、ジョヴァンニはその仲間に詩を送っている。一家は1342年以後にパドヴァへ移った。1354年には父権から独立する法的手続きと医学の学位取得が記録され、同年頃から大学で教え始めたと考えられる。1355年には芸術・医学博士団への所属が確認できる。1
講義の記録は、後世の「時計の天才」という像を具体的な学問の仕事へ戻してくれる。1356–57年にはガレノスの『テグネ』、1359–60年にはアヴィセンナ『医学典範』第1書、1360–61年にはヒポクラテスの『箴言』を講じた。1359–60年の天文学・占星術教育にはサクロボスコ『天球論』が用いられ、1361年2月12日には論理学の教授資格も得ている。これらは当時の医学教育が、身体についての自然学と天体の学問を含む教育体系に置かれていたことを示す。1
1362–65年には新設のパヴィア大学で教えた。大学は1361年4月13日に皇帝カール4世の勅許で成立し、ミラノの領主ガレアッツォ・ヴィスコンティに保護されていた。初期の学生の学位授与に関する記録が、この時期のドンディの活動を明らかにした。彼のパヴィア滞在は、アストラリウムの成立時期を考える際にも関係する。領主がその完成を期待して招いたというベッローニの仮説は、1365年に準備計算が始まったとするプールの年代解釈とは、そのままでは一致しない。12
パヴィア在住中にもパドヴァへ戻り、1363年秋にはヴェネツィアの医師団で討論した。1366年にはパドヴァでの教育に復帰する。1367年9月17日には年俸300フィオリーニ、2年間という条件でフィレンツェに招かれたが、病気のため出発が翌年1月23日まで遅れた。ボローニャでの討論を経て2月から講義を始め、ボッカッチョとも交流した。滞在は長く続かず、1368年11月9日には再びパドヴァで活動していた。1
その後は大学の規則の改革にも関わった。1369年の改革活動に加え、1376年には芸術・医学博士団の規則の新しい編纂に参加した。入学時の教育だけでなく、学位の授与、同僚との討論、教育組織の運営も、その職業生活の一部だった。1
外交とヴィスコンティ宮廷#
ドンディは都市の公務も担った。1370年には、パドヴァとヴェネツィアの戦争が懸念されるなか、ベッルーノの立場を探る使節として派遣された。1372年の開戦後には、パドヴァ側が選んだ5人の仲裁委員の一人となる。父が作った領域図を交渉に提示したところ、ヴェネツィアの主張を支持する結果になり、パドヴァのフランチェスコ・イル・ヴェッキオ・ダ・カッラーラの不興を買ったと、同時代の年代記は伝える。調停は失敗し、戦争に関わる政治的経験は詩作にも及んだ。1
1371年7月4日にはペスト流行のさなかに遺言を作り、ロンバルディアへ移る意向を記した。ただし、この時点でパドヴァとの関係が終わったわけではない。1372年2月25日には同地から、パヴィアの同僚アルベルティーノ・ダ・サルソへ講演の写しを送っている。1375年頃にはローマを訪れたが、パドヴァでの教育は1379年まで続いた。1
1379年のパヴィアへの移住は、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティから息子アッツォーネの診療に招かれたことに関係する。以後も大学で教えたが、給与帳上の地位は通常の教授ではなく、宮廷医師・占星術師であり、ペセンティの評伝は年俸2,000フィオリーニとする。時計の注文だけで支えられた職人という像では、この待遇と仕事の幅を十分に捉えられない。1
私生活にも流行病の影響が及んだ。最初の妻ジョヴァンナ・ダッレ・カルツェは1378年11月以前に亡くなり、1379年7月30日にカテリーナ・ディ・ジェラルド・ダ・テルゴラと再婚した。後の婚姻で生まれた息子ジャン・ガレアッツォは1380年生まれとされる。1383年のペストでは幼い子供2人を失った。家族の被害と並行して、流行下の生活法についても著述している。1
ドンディは1388年10月19日にアッビアテグラッソで亡くなり、ミラノのサン・エウストルジョに埋葬された。死去を1389年のジェノヴァとする伝記もあるが、ベッローニが示した文書に基づくペセンティの評伝はこれを退ける。遺体は後にパドヴァへ移され、父の墓の近くに葬られた。1389年6月22日に未亡人が整えた財産目録の日付と、本人の没年月日は区別する必要がある。目録にはパドヴァ近郊の土地、水車、銀器、衣服、医学・天文学・古典を中心とする110の書目が記載され、診療と宮廷生活を支えた経済的・知的基盤がうかがえる。1
時計を動力にした天体位置の計算#
アストラリウムは、地球を中心とする中世の宇宙論に従い、太陽・月と肉眼で知られた五惑星の位置を時計仕掛けで示す装置である。時刻を刻む機構は計算の入力を供給し、表示側の歯車とリンクは、天文学者が円運動の組合せで記述した天体の見かけの運動へ変換する。これは惑星の実際の軌道形状を小さく作った模型というより、ある時刻の黄道上の位置を読み出す計算器と理解するとよい。11
ペセンティの評伝によれば、ドンディは『Tractatus astrarii』の序文で、カンパヌス・ダ・ノヴァーラの『Theorica planetarum』に従ったと説明する。同書はプトレマイオスの惑星理論と、惑星位置を機械的に求めるエクァトリウムの製作を扱う。各天体を独立した機構で表し、複数の円運動へ分けて計算する考え方が、アストラリウムでは時計の時間入力と結び付いた。必要な日付の配置を求める器具から、時間に沿って表示が進む装置への展開として捉えられる。1Whipple博物館の復元解説は、表示の計算にアルフォンソ天文表を用いたことも挙げる。理論の幾何と、時刻に対応する天体位置を与える数値資料の両方が、機械の設計に関係していた。13
時刻・暦と天体表示をつなぐ構造#
七角形を基本とするアストラリウムは、天体を表示する七つの上部文字盤と、それらを動かす下部の時計機構を組み合わせる。五惑星に太陽と月を加えた七つは、中世の地球中心の天文学で扱う天体の区分であり、地球も惑星として数える現代の太陽系の一覧とは異なる。下部には時刻盤と月の交点に関する表示があり、中央の暦輪は一年に一周する。国際時計博物館の1985年製ピッパ復元の解説では、暦輪は水平に置かれた365歯の輪で、平年に一回転するとされる。14月の交点は月の軌道と太陽の見かけの通り道が交わる方向で、食の起こる条件を扱う表示に関係する。16 17
ミラノの所蔵館と国際時計博物館の復元解説は、暦に月日、聖人名、主日章、昼の長さを示す情報があると説明する。主日章は暦日と日曜日の配置を結び付ける文字である。天体位置だけでなく、都市の日常生活や教会の暦に関係する情報も、共通する時間の進行に沿って読み出す構想だった。17
国際時計博物館の復元は、棒状の軸に設けたパレットとガンギ車が交互に働くヴァージ脱進機を備え、輪形の調速器を用いる。同館は太陽のアストロラーベ型文字盤が真太陽時を、副時刻盤が平均時を示すことも区別している。太陽の位置に従う時刻と、均等に進む時刻を同じものとせず表示する仕組みである。14
動力は、縄でつながれた重錘が下がるときに得られる。ミラノの復元では、その縄が下部の大きな木製胴へ巻き付く。重錘は自分だけでは一定速度で落ちないため、時計としては歯車へ力を伝える仕組みと運動を調節する仕組みが必要になる。天体表示側がどれほど精巧でも、入力となる時計が早く進めば、そこから求める天体位置も時刻に対してずれる。時間を刻む機械と、その時間から位置を計算する機械という二つの役割を区別すると、調整や故障の意味も理解しやすい。11 17
国際時計博物館の復元解説に従うと、上部の配置は次のようになる。金星・火星・木星・土星には共通する円運動の組合せがあり、水星と月はより複雑な仕組みを要する。天文学の「同じ法則を各天体へ当てはめる部分」と「天体ごとの特別な仕組み」を、機械の構成でも見分けられる。14
| 上部の表示 | 主に読み取る内容と機構の違い |
|---|---|
| 太陽と第一運動 | アストロラーベ型の表示。太陽位置と時刻の関係を示す |
| 金星 | 黄道に対する位置。円形輪と周転円の組合せ |
| 水星 | 位置の変化を複数の運動で合成し、非円形輪を含む |
| 月 | 別系統の駆動と非円形輪を含む表示。下部の交点表示と区別する |
| 土星 | 黄道に対する位置。金星・木星・火星と共通する基本原理 |
| 木星 | 黄道に対する位置。同じ構成でも天体に応じた速度と寸法を要する |
| 火星 | 黄道に対する位置。従円と周転円の運動を組み合わせる |
円運動を組み合わせる理由#
地上から見た惑星の進み方には、速さの変化や、背景の星に対して一時的に進む向きが逆になる逆行がある。プトレマイオスの理論では、惑星が載る小円を周転円、その中心が移動する大円を従円として、複数の運動を重ねる。地球の位置、従円の中心、ある点から見て運動が等角速度になるエカントは、それぞれ区別しなければならない。エカントは円そのものの名前ではない。11
水星と月では、一定の速度で回る円形歯車を単純に組み合わせるだけで処理しにくい運動がある。ドンディは輪の形や歯の配置を変えた非円形歯車を用いた。入力側が同じ角度ずつ回っても、出力側が同じ角度ずつ回るとは限らず、位置に応じて角速度を変えられる。これを遊星輪列や溝を滑る部品、腕と組み合わせることで、理論が要求する運動を機械へ移している。非円形輪を用いることは、惑星がケプラーの楕円軌道を運動するという後世の理論を先取りしたという意味ではない。11
水星と月の非円形歯車#
Addomine、Figliolini、Pennestrìによる2018年の再解析では、水星表示は円形歯車、それぞれ24歯を持つ非円形歯車の対、遊星輪列、摺動する腕を組み合わせる。非円形輪の一方を固定し、他方がその周囲を動く仕組みを含み、その先の周転円輪に偏心して取り付けた球と、球の位置を追う腕が黄道目盛に対する水星の位置を示す。複雑さは歯車の数だけによるものではない。どの輪を枠に固定し、どの軸を別の腕とともに移動させるかが、表示の運動を決めている。11
同研究が再構成する月の機構も、円形輪列と非円形輪、リンクと摺動部を組み合わせる。著者らは、非円形輪の輪郭が隣接する円弧から成り、検討した設計位置の一つでは厳密な接線条件を満たさないことを指摘する。そのため、図上の曲線が接して転がる理想状態と、実際に切り出した歯が力を伝える状態は分けて考える必要がある。歯の不均等やヤスリによる仕上げに関する記述も、幾何学を金属の機械へ移すための工夫として読める。11
この解析は、平均角速度がプトレマイオスのモデルと整合することを論じる。一方で、平均値の一致は、回転途中の全位置で誤差がなく、長期間の実機歩度も優秀だったという証明ではない。理論上の表示、歯形と噛み合い、摩擦や遊び、時計側の速度の変動は、それぞれ別の問題である。11
水星を三次元モデルとして再構成したXavier Jufre Garciaの2009年の研究は、こうした役割の違いを可視化している。地球に相当する固定点と、エカントの位置、従円に関わる中心を分け、回転する円板、偏心した部品、周転円を支える腕、溝のある腕へ順に対応させる。惑星を表す点を単独で回すのではなく、その点が載った部品の軸自体を移動させるため、指標の先端は単純な一円とは違う道を進む。作者の図では複数の時点の配置を比較でき、どの部品が惑星位置の変化を担うかを追える。18
ここで表示する位置は、時計の外側の黄道目盛に対する角度である。惑星を載せる小円の回転角だけを読めばよいのではない。地球に対応する位置から惑星模型へ向けた指標が、黄道のどこを指すかを読む。従円、周転円、偏心した中心、表示の指標を別々に説明することが、機械の動きと読者が得る情報を結び付ける。14 18
図を金属へ移す仕事#
アストラリウムの技術史上の価値は、完成品の複雑さだけにはない。『Tractatus astrarii』は、部品の設計と製作、文字盤を合わせる方法、読み方、保守のための指示を伝える文書でもある。機械の図はその外観を記念するだけの絵ではなく、他者が構造を追い、製作や設定を考えるための情報を含む。12 17
部品の規模について、ペセンティは297部品、そのうち歯車とピニオンが107と記す。この107には歯車とピニオンが含まれ、同じ形の大きな歯車だけを107枚使ったという意味ではない。個々の部品の役割と、軸や腕を含む組立関係を合わせて見ることが、数の多さを理解する助けになる。1
非円形歯車では、同じ形の歯を円周へ同じ間隔で並べれば済むわけではない。現代の再解析が示すように、輪郭と噛み合う位置に応じて歯の形や配置を考え、最終的な接触を仕上げなければならない。現代の復元者Guido Drestiも、月の梨形、水星の卵形の輪を作ることが難所であり、それぞれの歯が対応する相手の歯と噛み合うと述べる。これは現代復元の製作者による経験であって、中世の原機の加工精度を測定した結果ではないが、図面の幾何だけでは製作が完結しないことを具体的に示す。11 16
寸法の読み取りにも問題がある。Drestiが挙げる原記述の物差しには、中指、爪、ガチョウの羽、一定の厚さのナイフの背、鶏や鶴の羽といった身近なものが含まれる。これらを現在の寸法へ機械的に一対一で置き換えるのは難しい。部品同士の比率と噛み合いを確かめ、使える材料や工具、組立の順番まで考える必要がある。現代に作られた復元の寸法や材質を、そのまま中世の原機の実測値として扱えない理由でもある。16
Drestiは、Bulloによる『Tractatus astrarii』の訳書を入手し、後にミラノでPippaの復元を見て自分でも製作を志したという。全ての部品を図面に起こし、木製模型で大きさを検討した後、自分の設備で作れる四分の三の縮尺を選んだ。歯切りのための工具を新たに入手し、再利用材と新しい材料を使い分け、完成まで約二年を要したと述べている。本人の工程の説明は、復元とは古い絵をそのまま複写する仕事ではなく、文献の解釈と実際の工作を往復する研究であることを伝える。16
医師としての論証と文学的交流#
ペトラルカとの往復書簡#
詩人フランチェスコ・ペトラルカはドンディの友人であり、診療の相手でもあった。両者の交流は、学識への称賛だけでは終わらない。1370年の書簡には、老年の食事、断食、果物、水をめぐる具体的な意見の対立が残る。ペトラルカは医学の権威に疑問を向け、ドンディは医学の論証と専門家の判断を擁護した。3
ドンディが1370年10月24日にパドヴァから送った返信 Debui nec ignoro は、返事が遅れた理由を患者の訪問が続いたためだと説明して始まる。文人との対話と日常の診療が、同じ人の仕事のなかにあったことが分かる。医学の原理を論じる際には、その分野の熟達者の判断を重んじるべきだと述べ、文法ならプリスキアヌス、幾何学ならアルキメデスやエウクレイデスに耳を傾けることとの比較を用いた。3
食生活の助言にも段階がある。ドンディは長年の習慣を一度に全面変更すべきだとはせず、断食の強さと頻度、果物や水の量を控えめに変えるよう求める。果物や水そのものを一律に悪いと決めつけたわけではなく、年齢、身体の状態、使い方に応じて適否が変わると説明した。その説明の基盤は当時の体液論や身体の熱についての考え方であり、現代の医療知識とは区別される。3
ペトラルカの返書『老年書簡集』第12巻第2書簡は、ベルテとリッツォの校訂では1370年11月17日、アルクァの日付を持つ。彼はドンディのなかに友人と医師という二つの立場を見分け、友人への愛情と医学への反論を両立させる。論争は、両者が単純に仲違いした証拠ではない。ドンディは1374年7月19日にジョヴァンニ・ダッラクイラへペトラルカの死を知らせ、追悼のソネットも残した。31
詩作と古代の遺構への関心#
ドンディの詩とラテン語書簡は、医学と天文学の外に広がる交流を伝える。ペトラルカ、ボッカッチョ、ガスパロ・デ・ブロアスピーニ、フランチェスコ・ディ・ヴァンノッツォらとの関係を通じて、学問、友情、政治、古代への関心が交差した。ジャン・ガレアッツォに宛てたソネットにも、領主と学者の関係が表れる。4
ペトラルカの『カンツォニエーレ』第244篇は、この詩的応酬に関わる作品である。ただし、それをドンディの恋煩いへの返答とする読み方だけがあるわけではない。『リーメ』の校訂者アントニオ・ダニエーレは、ドンディ、ペトラルカ、ガスパロのやり取りを1372–73年のパドヴァとヴェネツィアの戦争に関連づけ、状況に促された詩として解釈した。作品の曖昧さを、特定の私的出来事の確かな記録へ直ちに置き換えることはできない。4
1375年頃のローマ旅行に基づく Iter Romanum には、古代の建築や碑文への関心が現れる。リミニとローマの遺構を訪れ、寸法、柱の数、碑文などを記録した。アストラリウムの設計と同様に、対象を数と形によって把握する態度がここにも見える。記録には誤読もあるため、近代の考古学と同じ方法を備えていたとするより、中世末の測定と古代研究をつなぐ活動として理解する方がよい。1
作品の帰属と写本の筆者は同じ問題ではない。文学作品を伝えるヴェネツィアのマルチャーナ図書館Lat. XIV 223(4340)には他の作者の作品も含まれ、ドンディ本人の自筆本とする説には批判がある。ダニエーレは、ペトラルカの作品がドンディの詩群に区別の不十分なまま挿入されていることなどを検討した。一方、医学書簡を伝えるパドヴァ神学校図書館358では、ドンディの返信の一部を本人筆の可能性が高いとする校訂がある。異なる写本をまとめて「自筆原稿」と呼ぶと、著作の伝わり方を見誤る。43
医学と自然学の著作#
ドンディの医学教育を伝える資料には、ガレノス『テグネ』に関する24の討論問題がある。1356年頃の講義との関係が指摘されるが、それを収めるパルマの写本は1370年に学生トンマーゾ・ダ・クレーマが書き始めたものであり、講義年と現存写本の成立年を同一視できない。学位授与や年度開始に際して行った講演の多くは失われ、題名や別の記録から活動をたどることになる。1
1383年の流行後に書いた De modo vivendi tempore pestilentiali は、感染地域から離れることや空気、食事、生活の整え方を扱った。当時広く共有された大気の腐敗という説明に立つ著作である。温泉論 De fontibus calidis agri Patavini では、パドヴァ近郊の温泉を取り上げ、温水の原因を地下の硫黄だけで説明する見方に疑問を呈した。父の関心を継承しつつ、熱を与える土壌と、本来は冷たい水という区別から説明を組み立てたとされる。時計以外にも、現象を観察し、先行する説明を吟味する仕事があった。1
作品を支えた宮廷と、その後の来歴#
パドヴァからパヴィアへ#
アストラリウムの成立には、大学での天文学教育、医師としての地位、宮廷との関係が重なっていた。ただし、父ヤコポ、パドヴァ大学、カッラーラ家がそれぞれどれほど製作費を負担したかを示す確実な契約は、ここで挙げた資料だけからは分からない。ヴィスコンティ家を後の所有者・庇護者として捉えることと、製作の最初からの注文主と断定することは別である。12
製作年代にも史料の違いがある。フィリップ・ド・メジエールの記述に基づく1348–64年の伝統的年代に対し、プールは写本の天文計算を検討して1365年以後の成立を考え、1998年の論文では完成を1380年頃と表現した。パヴィアへ渡った機械がヴィスコンティの蔵書とともに知られたことは、後世の来歴の中心となるが、「1381年の献上式」が直接記録されているものとして、異なる年代を一つの確定した経過にまとめることはできない。15
その名声は、動いている姿をいつでも見られたことを意味しない。プールは、王侯の訪問と称賛の背後で機械がしばしば停止していたことに注意を促した。壮大な天文学の構想と、歯形、摩擦、組立精度、保守という製作上の問題は、同時に扱う必要がある。5
カール5世とトリアーノ#
16世紀にはアストラリウムの来歴が、皇帝カール5世とクレモナの技師ジャンネッロ・トリアーノの活動と交差する。従来の説明では、1529年または1530年に皇帝へ紹介された機械が損傷しており、トリアーノが別の機械を作ったとされてきた。ただし、修理、復元、新作の区別は単純ではない。7
マリーノ・ヴィガノーは、カルダーノの1544年・1550年刊本と皇帝の伝記作者スナウカールトの記述を用い、トリアーノが1530–37年に旧機を組み直し、その経験から皇帝のための別の時計を作ったという経路を論じる。皇帝による旧機の取得を1529–30年のボローニャ滞在に置き、1538年には手放したと読む点も含め、単に「修理が不可能だったので同じ物を複製した」とまとめるより、史料ごとの出来事と解釈を分ける必要がある。8
また、ドンディの原器、トリアーノの別機、皇帝の他の時計を一括してユステ修道院のコレクションとすることはできない。アントニー・ターナーは1975年の論評で、それらがユステに残り、半島戦争中の1809年に焼失したという物語を、ベディーニとマディソンの研究が退けていると明記した。原器の最終的な処分を、解体や溶解という想像で補う根拠もない。原器が失われたことと、その失われ方が特定できることは別である。7
ドンディからトリアーノへの継承は、それでも技術史上の意味を失わない。現代の研究者ザネッティは、トリアーノの大時計を1550年頃に完成した宇宙模型として位置づけ、古代のアルキメデスと競おうとする技師の目標を、宮廷での社会的地位と結び付けて論じる。ドンディの機械は、後世の全ての天文時計の直接の設計図だったのではなく、学識と製作技術の両方を要する作品の、長く意識された先例だった。9
写本・復元・研究史#
アストラリウムの現物が失われても、製作を説明した Tractatus astrarii が残ったため、研究と復元が可能になった。プールは伝存する12写本をA・B・Cの三つの版に区別し、1904年のトリノ図書館火災で失われた別の1写本にも言及した。著者の本文に最も直接結び付くAと、文章や機構に変更のある他の版を区別することが、復元品の違いを理解する前提になる。5
1960年のヴァティカン図書館刊の版は、パドヴァ大聖堂参事会図書館D39の写真版と転記を含み、後の研究の基礎の一つとなった。1974年の英訳 The Planetarium of Giovanni de Dondi, Citizen of Padua は別の写本群を用いる。プールのA版校訂・仏訳と写真版は1987–88年に刊行され、2003年には Tractatus astrarii として新しい版が出た。題名が似ていても、写真版、転記、翻訳、校訂の対象が同じとは限らない。716
復元も一系統ではない。ルイージ・ピッパの復元はAの図を、アラン・ロイドとスウェイツ・アンド・リード社の復元はCの図と部分的な英訳を用いた。プールが監督したパリ天文台の復元はAの本文の読解から進められた。ピッパによる1963年のミラノの個体と、米国・英国などにあるロイド系の個体は、同じ原器を扱いながら細部が異なる。復元模型をそのまま14世紀の現物写真として受け取らないことが大切である。57
研究史上は、ベディーニとマディソンの1966年の Mechanical Universe が、来歴と文献を集成した重要な研究となった。その後のプールの仕事は、時計の外観や機械的な巧妙さだけでなく、どの天文理論を、どの本文に従って、どう機械化したかを問うものだった。写本D39をドンディ本人の自筆とする古い呼び方も、そのまま受け継ぐことはできない。プールは著者による指示や訂正を受けた写本と、自筆本とを区別している。5
文学と医学の研究も進んでいる。ダニエーレの1990年の『リーメ』と、その後の補論、ベルテとリッツォによる2006年の医学書簡校訂は、ドンディを時計の作者だけではない人物として読む道を開く。近年のミレーナ・ルッソの博士研究は、マルチャーナ写本に伝わる52篇を対象とする再校訂を研究概要で掲げる。詩の数や作者の範囲も、従来の集成を固定した全集と考えるより、写本と帰属の検討に開かれた問題である。4310
現代の復元個体#
復元にも複数の系統がある。ケンブリッジのWhipple博物館にあるHC166はDon Unwinが1984年に製作したもので、館の記録は1974年のBaillie英訳を利用したとする。国際時計博物館のIV-625には、Luigi Pippaが1985年に製作した銘がある。パリ天文台の復元は、Alain SegondsとJean-Pierre Verdetの下で1987–1989年に進められた。各機械を一つの連続した製作事業にまとめず、製作者・年・利用した写本や校訂を確かめることが、展示品から中世の設計を理解するうえでも大切である。13 14 15
年表#
| 年月 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1330年頃 | キオッジャに生まれる。父は医師ヤコポ。1 |
| 1342年以後 | 家族がパドヴァへ移り、父が大学で教える。1 |
| 1344年 | 父によるパドヴァの公共時計の伝承年。息子のアストラリウムとは区別される。1 |
| 1354年1–8月 | 法的独立と医学の学位取得が記録される。同年頃に大学教育を始めたと考えられる。1 |
| 1355年4月 | 芸術・医学博士団への所属が確認できる。1 |
| 1356–57年 | ガレノス『テグネ』を講義。1 |
| 1359–60年 | アヴィセンナ『医学典範』と天文学・占星術の講義。1 |
| 1360–61年 | ヒポクラテス『箴言』を講じる。1 |
| 1361年2月 | 論理学の教授資格を得る。1 |
| 1362–65年 | パヴィア大学で教える。12 |
| 1363年秋 | ヴェネツィアの医師団で討論する。1 |
| 1364年 | メジエールの記述に基づくアストラリウムの伝統的完成年。後の写本研究には異なる年代解釈がある。1 |
| 1365年以後 | プールがアストラリウムの準備計算を置く時期。1 |
| 1366年 | パドヴァでの教育に復帰する。1 |
| 1367年9月 | フィレンツェへ2年間の医学講義に招かれる。1 |
| 1368年1–2月 | 病後に出発し、ボローニャを経てフィレンツェで講義を始める。1 |
| 1368年11月 | パドヴァでの活動が再び確認できる。1 |
| 1369年 | 大学規則の改革に関わる。1 |
| 1370年 | ベッルーノへ外交使節として派遣される。1 |
| 1370年7月13日 | ペトラルカが『老年書簡集』第12巻第1書簡を送る。3 |
| 1370年10月24日 | ドンディが医学を擁護する返信を送る。3 |
| 1370年11月17日 | ペトラルカが第12巻第2書簡を送る。3 |
| 1371年7月 | ペスト流行中に遺言を作り、ロンバルディアへの移住を考える。1 |
| 1372年2月 | パドヴァからパヴィアの同僚へ講演の写しを送る。1 |
| 1372–73年 | 対ヴェネツィア戦争と仲裁に関わる。詩的応酬にもこの状況を読む研究がある。14 |
| 1374年7月19日 | ペトラルカの死をジョヴァンニ・ダッラクイラへ知らせる。1 |
| 1375年頃 | ローマへの旅行。遺構の計測と碑文を Iter Romanum に記録する。1 |
| 1376年 | パドヴァの芸術・医学博士団の規則編纂に参加する。1 |
| 1378年11月以前 | 妻ジョヴァンナが亡くなる。1 |
| 1379年7月 | カテリーナと再婚。同年パヴィアへ移り、ヴィスコンティ家の診療に従事する。1 |
| 1380年 | 息子ジャン・ガレアッツォが生まれる。1 |
| 1380年頃 | プールが1998年の研究で示したアストラリウムの完成時期。5 |
| 1383年とその後 | 子供2人をペストで失い、流行下の生活法など医学の著述に取り組む。1 |
| 1386年4月 | 不在ながらパドヴァでの学位授与の推薦者として名が残る。1 |
| 1388年10月19日 | アッビアテグラッソで死去。1 |
| 1389年6月 | 財産目録が整えられる。没年月日とは区別される。1 |
| 1390年9月 | 後世に伝えられたパドヴァの墓碑の紀年。1 |
| 1529–30年頃 | カール5世とアストラリウムの来歴が交差する。8 |
| 1530–38年頃 | ヴィガノーは同時代記録を基に、トリアーノの修復と旧機の移転をこの時期に読む。8 |
| 1904年 | トリノ図書館火災でアストラリウム論の1写本が失われる。5 |
| 1960年 | パドヴァD39の写真版・転記が刊行される。7 |
| 1963年 | ピッパによるミラノの復元が完成する。1 |
| 1966年 | ベディーニとマディソンの来歴・文献研究が刊行される。7 |
| 1974–75年 | 英訳の刊行とターナーによる批評。7 |
| 1987–89年 | プールの校訂・仏訳・写真版とパリの復元、伝統的没年に基づく没後600年記念事業。1 |
| 1990年 | ダニエーレ校訂の『リーメ』が刊行される。4 |
| 2003年 | プールの Tractatus astrarii がジュネーヴのDrozから刊行される。6 |
| 2006年 | ベルテとリッツォによる医学書簡の校訂・研究が刊行される。3 |
参考文献#
1. Tiziana Pesenti, “DONDI DALL’OROLOGIO, Giovanni”, Dizionario Biografico degli Italiani, 41, 1992。評伝本文・書誌。旧来説と新史料の区別を含む。
2. Annalisa Belloni, “Giovanni Dondi, Albertino da Salso e le origini dello Studio pavese”の大学登録書誌, 1982。パヴィア大学初期の活動を扱う研究。詳細な叙述はペセンティの評伝による。
3. Monica Berté / Silvia Rizzo, “Le Senili mediche”, in Petrarca e la medicina, Messina, CISU, 2006, pp247–379。とくにpp321–337のドンディ返信の校訂、pp338–340のペトラルカ返書と校訂説明。
4. Antonio Daniele, “Del Dondi, del Petrarca e di altri. Qualche ipotesi attributiva”, pp381–402、とくにpp386–388。『リーメ』の校訂と詩的応酬・写本の帰属に関する補論。
5. Emmanuel Poulle, “L’astrarium de Dondi et l’horlogerie planétaire aux XIVe–XVIe siècles”, 1998, pp287–291、とくにpp287–288。写本系統、異なる復元、技術的限界。
6. Giovanni Dondi dall’Orologio / Emmanuel Poulle, Tractatus astrariiのフィンランド国立図書館書誌, Genève, Droz, 2003、ラテン語本文と仏訳、465頁。
7. A. J. Turner, “The Tragicall History of Giovanni De’ Dondi”, Journal for the History of Astronomy, 6(2), 1975, pp126–131。公開されている注4–5・11–13を参照。
8. Marino Viganò, “‘Parente et alieuo del gia messer Janello’. Preliminary notes on Bernardo and Leonardo Turriano”, in Leonardo Turriano ingeniero del rey, Madrid, Fundación Juanelo Turriano, 2010, pp203–227。財団公開PDFのpp9–10・注civ–cvii。
9. Cristiano Zanetti, “The Diverse Agencies of Renaissance Engineers in the Shadow of War”, 2023、著者公開プレプリントp22。
10. Sapienza Università di Roma, Milena Russoの博士研究紹介。Le Rime di Giovanni Dondi dall’Orologio. I sonetti, le ballate e il madrigale di corrispondenza の研究概要。
11. M. Addomine, G. Figliolini, E. Pennestrì, A Landmark in the History of Non-Circular Gears Design: The Mechanical Masterpiece of Dondi’s Astrarium, 著者公開2018-01-11前稿、§4–5・pp7–20。
12. Museo Galileo, Giovanni Dondi, Astrarium, 2009展示目録、PadovaD39 ff12v–13r。
13. Whipple Museum, HC166, Don Unwin1984復元。
14. Musée international d’horlogerie, IV-625, Pippa1985復元。
15. Observatoire de Paris/PSL, Mythical piece, the astrarium is exhibited at the Musée des Arts et Métiers, 2022展示解説。全資料閲覧2026-10-22。
16. Alessandra Viola聞き手、Guido Dresti, Intervista a Guido Dresti / Interview with Guido Dresti, “L’universo ad orologeria / The Clockwork Universe”、全3頁。伊英対訳の本人インタビュー、刊行年月表示なし、閲覧2026-10-22。
17. Museo Nazionale Scienza e Tecnologia Leonardo da Vinci, L’Astrario di Giovanni Dondi, Google Arts & Cultureの同館オンライン展示、復元/構造の解説、閲覧2026-10-22。
18. Xavier Jufre Garcia, “L’astrari de Giovanni di Dondi (1380)”, Actes d’Història de la Ciència i de la Tècnica, Nova Època2(1), 2009, pp147–155、DOI10.2436/20.2006.01.100。水星機構の三次元再構成、特にpp150–152および図1–8、閲覧2026-10-22。