理論を実物の時計へ変えたパリの時計師#
イザーク・ティュレ(Isaac Thuret、1630年頃–1706年)は、ルイ14世時代のパリで活動した時計師である。文献ではIsaac II Thuretとも呼ばれ、息子のジャック・ティュレ(Jacques Thuret、1669–1738年)と区別される。振り子時計、天文観測用時計、携帯時計を製作し、クリスティアーン・ホイヘンスの調時機構を実際に動く精密機械へ仕上げた。1 2
1675年のひげゼンマイをめぐるホイヘンスとの争いは有名だが、それだけでは仕事の広がりを捉えられない。博物館には、ぜんまい動力の振り子時計、異なる動力伝達方式の携帯時計、家具職人と協働した装飾時計が残る。科学者に供給する観測機器と、宮廷社会で使われる工芸品を、同じ工房が担っていたのである。3 4 5 6
生涯と協働の形成#
出自とパリでの活動#
Reinier Plompの研究によれば、ティュレはサンリス出身で、プロテスタントの背景を持つ。幼少期の教育や、誰のもとで何年間徒弟修業をしたかは、確認できる資料から詳しく追えない。ホイヘンスとの関係も、理論家が無名の職人を一から育てたという単純な師弟関係ではない。1662年のホイヘンス家の通信では、父コンスタンティンがティュレの時計を高く評価し、クリスティアーンがその構造を知りたがっている。既に比較対象となる製品を作る時計師だった。7
1663–1664年には、ハーグからパリへ送られたクロード・パスカルの時計の修理を引き受けた。輸送損傷や不調を現地で直す技術は、時計の国際的な販売と科学者間の贈答を支えた。1665年にはジャン・シャプランが仲介し、航海用時計の製造と販売についてホイヘンスとの交渉が進んだ。7
同年5月のホイヘンスの草稿は、発明と製造を結ぶ経済条件を具体的に示す。特権の移転について、一時金、年額、時計ごとの支払いという選択肢を挙げ、個別支払いの場合は航海用1台につき3ルイ金貨、通常用は2ルイ金貨を提案した。年払い案では6年、時計ごとの支払い案でも6年とし、後者はティュレ本人に限って、期間内に死去すれば権利が戻るという条件である。これは成立した契約の証明ではなく、交渉時の案であるが、協働が技術上の問題だけでなく、販売、対価、権利行使を含んでいたことが分かる。8
王室、科学アカデミー、天文台#
ティュレは王室に仕えるとともに、科学アカデミーとパリ天文台の時計に関わった。Musées Occitanieの人物解説は、1684年の王室時計師、1686年のルーヴル宮内の住居を記す。一方、Plompが調べた会計記録では、アカデミー向けの仕事は1669年以降、天文台・アカデミーの振り子時計の保守は1672年にも現れる。後年の称号の年を、そのまま科学機関との最初の接点とすることはできない。2 7
王室とのつながりは家族の職業関係にも及んだ。娘シュザンヌは王家の子どもの素描教師シャルル=フランソワ・ド・シルヴェストルと結婚し、息子ジャックは意匠家ジャン・ベランの娘ルイーズと結婚した。時計の機械、ケース、室内装飾を結び付ける人的な環境である。ただし父と息子の作品は署名だけで常に判別できるわけではなく、後述のMet所蔵品のように帰属が併記される例がある。7 6
1706年に死去した。後継のジャックも王室時計師として活動したため、1706年以後の「Thuret」銘の時計を父の作品として扱うことはできない。父の生涯、父子の工房、後継者の仕事を分けることが作品理解の前提になる。1 6
振り子時計と天文学#
動力、調速、巻上げを分けて考える#
時計には針を動かす動力と、その進み方を一定にする調速器が必要である。重錘や主ぜんまいは動力源であり、振り子やひげゼンマイ付きテンプは調速器である。脱進機は歯車の進みを一刻ずつ制御し、失われるエネルギーを振動子へ補う。ティュレのぜんまい動力の振り子時計を、「ひげゼンマイの時計」と読み替えることはできない。3 4
科学博物館群(Science Museum Group)の1954-458は、1665–1670年、パリ製の置時計である。高さ420mm、幅276mm、奥行120mmで、資料はぜんまい動力、振り子、ヴァージ脱進機を記す。文字盤のVIの下に「I Thuret A Paris」の銘がある。振り子時計が科学者の机上の案に留まらず、家庭や室内で使える比較的小さな製品になっていたことを示す。3
巻上げ中にも時計へ力を送り続ける工夫や、駆動力の変動を小さくする工夫も課題だった。ティュレとホイヘンスは1660年代にルモントワールを含む機構について議論している。ただし、巻上げ時に動力を途切れさせない仕組みと、一定間隔で小さな動力源を補充する仕組みは、目的と構成を区別すべきである。後世の同じ用語だけから、両者の時計が同一構造だったとは言えない。7 9
秒を読む時計#
ライデンのボーアハーフェ博物館には、1670年頃のティュレ製天文時計が伝わる。時・分・秒を読むための表示を備え、ホイヘンスの所有品だったという伝承がある。Metの解説は、現存する最古の天文用レギュレーターとして紹介する。ここでの重要点は古さの順位だけではない。天文学者が望遠鏡をのぞきながら、振り子の刻みを数えて天体の通過時刻を記録できる時計だったことにある。10 11
博物館の研究者Hans Hooijmaijersは、この時計の振り子を秒振り子として説明し、振り子を吊るす糸の左右にサイクロイド曲線の案内部を置く構造を紹介する。円弧を描く単純な振り子は、振幅が大きいと周期が長くなる。案内部に糸を沿わせて有効長を変え、重りの軌道を調整することが、ホイヘンスの等時性の理論を機械へ移す方法だった。秒振り子の「1秒」は片道の刻みであり、往復全体は約2秒となる。11
1672–1673年のジャン・リシェのカイエンヌ遠征でも、ティュレの時計が使われた。Plompがリシェの報告を参照して説明するのは、秒と半秒を刻む2台である。振り子の周期が重力に左右されることは、船の揺れという実務的な問題とは別に、異なる緯度へ同じ時刻を運ぶ際の根本的な制約となった。精密時計は天体観測の道具であると同時に、場所による物理条件の違いを調べる道具でもあった。7
1675年のひげゼンマイと帰属争い#
振り子に代わる振動子#
携帯時計を振り子で調速するのは難しい。時計そのものの移動や姿勢変化が、重力を利用する振り子の運動を妨げるためである。ひげゼンマイは、テンプ軸側と固定側に両端を留めた細いばねで、テンプが回転すると巻き込みと解けを繰り返し、元の位置へ戻す力を生む。動力源の主ぜんまいとは役割が違う。12 4
ホイヘンスの日誌によれば、1675年1月22日、彼はティュレに案を秘密として伝え、その場で最初の模型を作らせた。翌23日には、ティュレが自分用に作った別の模型を見せ、24–25日にも携帯時計で試した。1月31日には、発明の栄誉への参加を望むティュレに対し、ホイヘンスは製作上の技量は認めるものの、発明者としての分担は認めない態度を示した。12
ただし、この日誌は対立の一方の当事者の記録である。ホイヘンス自身が2月1日に日誌を書き始めたと記しており、1月の各項目をすべて当日の中立な記録として読むことはできない。Richard de Grijsは、作動する時計へ変える際の職人の知的な貢献を重視し、ティュレを単なる指示の実行者とみなす見方を批判する。この評価は後世の研究上の解釈であり、残る資料だけから各細部の発案者を完全に割り振れるわけではない。9 12
特権、撤回書簡、製造許可#
1675年2月15日付の王の特権文書は、螺旋状ばねでテンプを調速する新方式の時計について、ホイヘンスに20年間の製造・販売の排他的権利を与える内容である。小型の懐中時計と、大型化して陸海の経度測定へ使う可能性の双方を挙げ、許可品を識別する標章も認める。これは当時の王権による特権であり、現代の特許制度の手続きと同一ではない。また文書中の性能や用途は申請・許諾時の説明であって、海上で必要な精度を達成したという試験結果ではない。13
9月10日、ティュレはホイヘンスに書簡を送り、新しい携帯時計の案を彼から伝えられ、最初の模型もその説明に従って作ったと認めた。同時に、自分が最近作った振り子時計では、振り子を吊るす糸に代えて直線状のばねを使っており、これが自分を発明者とする噂の原因かもしれないと説明する。テンプ用の螺旋ばねと、振り子支持用の直線ばねは別の装置である。14
9月21日付の許可文では、ホイヘンスはコルベール夫人の推薦により、ティュレが自分の名で製造・販売することを認め、定めた標章の表示を条件とした。したがって対立を「この時点で永久に協働が終わった」とまとめるのは適切ではない。発明者としての帰属をホイヘンスに置きつつ、ティュレによる製造と商売を続ける仕組みが作られた。15
注文者と用途は、イギリスとの往復書簡から具体的に見える。11月18日付として校訂されたブランカー(William Brouncker)の書簡は、ヨーク公(後のジェームズ2世)へ渡す金製の第2の時計を求める。公が使った先の時計は気に入られていたものの、ときどき止まり、分針もなかったという。改良品に求められたのは新機構の名声だけでなく、止まらずに動き、分まで読めることだった。18
11月21日のオルデンバーグ宛書簡も、同じ注文の流れを示し、両者の関係が続いた具体的な証拠である。ホイヘンスは送る時計をティュレ製と明記し、撤回と謝罪を受けて再び彼を用いることに支障はないと述べる。価格は25ルイ金貨で、2日間調べて満足した一方、振り子時計と同じ精度を期待するのは無理だとも記した。小さなばねの有効長を変える歩度調整と、脱進の左右をそろえる別の操作についても説明している。発明の発表と、販売できる時計の調整・評価が、同じ書簡に並んでいる。16
さらに日誌末尾でホイヘンスは、1676年7月1日にパリを離れた際、議会への登録のための働きかけや、その後に予想される訴訟を避け、すべての時計師にこの発明を使う自由を与えたと記す。1675年の特権文書の発給、実施に必要な登録、独占を続ける意思は別々の問題であり、文書の20年間をそのまま実効的な独占期間とみなすことはできない。12
現存作品が示す技術と工芸#
携帯時計の構造は一種類ではない#
ポール=デュピュイ美術館のInv.18237は、1680年頃の直径54mmのオニオン型時計で、「Tvret à Paris」と署名される。金鍍金した真鍮ケースに黒と赤の漆を施し、時表示はエナメルの区画に置く。機械は鎖付きフュジーとひげゼンマイを備える。フュジーは、主ぜんまいの巻きがほどけるにつれて変わる力を、鎖が掛かる円錐の半径の変化で補う装置である。5
これに対し、ルーヴル美術館のOA7038は1685–1700年の作とされ、目録は明確にフュジーのない構造を記す。ヴァージ系の脱進機、ひげゼンマイ付きテンプ、透かし彫りの円形受を持ち、機械に「AParis Thuret」と署名がある。鋼のケースに金の鋲でモノグラムと文様を作り、文字盤には一本の鋼の針を備える。両館の作品は、ひげゼンマイの採用がただちに一つの定型構造へ統一されたわけではないことを示す。4
Plompが実物を調査した1675–1680年頃の「Thuret A Paris」銘の時計は、海上用と解釈される別の試みである。直径16.8cm、奥行8.3cmの円筒形ケースを自在に動く球状の支持で吊り、時・分・秒を別々に表示する。テンプとヴァージの間に歯車を介す「ピルエット」と呼ばれる構成を持つ。Plompの実物説明ではテンプの直径は4.9cm、3日巻きで、主ぜんまいで駆動し、フュジーとルモントワールは持たない。
中間歯車は、テンプが大きな角度をゆっくり回転しても、ヴァージ側の回転角を小さく保つためにある。歯車を挟まない直結式と、同じ構造ではない。Plompは、ホイヘンスがゆっくりした振動と少ない衝撃による精度向上を期待したと解釈する一方、この余分な伝達が摩擦源にもなると指摘する。大型化と複雑化が、そのまま高精度を保証するわけではなかった。ただしホイヘンス自身の発注だったかは直接の証拠がなく、船上で経度測定に十分な成績を得た時計と断定することもできない。7
家具と一体になった時計#

図1:1690年頃の台座付き時計(Met、58.53a–c)。機械はイザーク・ティュレ作の可能性が高いが、息子ジャックの可能性も残る。ケースはジャン・ベランの意匠に基づくアンドレ=シャルル・ブールへの帰属。撮影・提供:メトロポリタン美術館(撮影者個人名不詳)、Rogers Fund, 1958。出典:Wikimedia Commons個別ファイル、所蔵館。採用条件:CC0 1.0。変更:なし。
Metの時計は、オーク材を基礎に鼈甲、彫刻した真鍮、ピューターを象嵌し、金鍍金したブロンズで装う。機械は8日巻きで「J. Thuret」と署名されるが、同館は父イザークの可能性をより高く見る一方、息子ジャックも併記する。王冠や太陽神の意匠はルイ14世の時代を示しても、この時計を王が所有したという来歴の証明にはならない。6
プティ・パレの壁掛け時計ODUT1863も、機械と装飾の結合を示す。1675–1706年のパリ製として登録され、文字盤と機械背面にティュレの銘を持つ。木、鼈甲、金鍍金ブロンズを使い、海の神々と植物文様で飾る。時計師の署名があっても、ケースの木工、象嵌、彫刻、鍍金のすべてを一人が行ったという意味ではない。17
年表#
| 年・時期 | 出来事と資料上の位置付け |
|---|---|
| 1630年頃 | 誕生。Plompはサンリス出身とする。1 7 |
| 1662年 | ホイヘンス家の通信に時計への高い評価が現れる。7 |
| 1663–1664年 | ハーグからパリへ送られた時計を修理する。7 |
| 1665年5月 | ホイヘンスが特権移転と製造対価の条件案を記す。8 |
| 1665–1670年 | 科学博物館群所蔵のぜんまい動力振り子時計の年代。3 |
| 1669年以降 | アカデミー向けの仕事が会計記録に現れる。7 |
| 1670年頃 | ボーアハーフェ博物館に伝わる天文時計の年代。10 |
| 1672–1673年 | リシェのカイエンヌ遠征で時計が使用される。7 |
| 1675年1月22日 | ホイヘンスの日誌が最初の模型の製作を記す。12 |
| 1675年2月15日 | ホイヘンスの新方式に20年間の王の特権が与えられる。13 |
| 1675年9月10日・21日 | ティュレの帰属承認書簡と、ホイヘンスの製造・販売許可。14 15 |
| 1675年11月21日 | ホイヘンスがティュレ製時計の発送と再雇用を記す。16 |
| 1676年7月1日 | ホイヘンスはパリ退去に際し全時計師の自由な実施を認めたと日誌末尾で記す。12 |
| 1680年頃 | ポール=デュピュイ美術館所蔵のオニオン型時計の年代。5 |
| 1686年 | Musées Occitanieはルーヴル宮内の住居を記す。2 |
| 1685–1700年 | ルーヴルOA7038の製作年代。4 |
| 1706年 | 死去。1 |
| 1916年 | ポール・ガルニエの寄贈によりOA7038がルーヴルへ入る。4 |
| 1999年 | Plompが海上用と解釈する時計の実物研究を発表。2008年に再録。7 |
| 2018年 | de Grijsが職人の知的貢献という観点から協働を再評価する。9 |
時計史における位置#
ティュレの仕事は、理論を金属、ばね、歯車、軸受の機械へ変換する部分にある。発明の帰属を認める書簡が残ることと、製作者に設計・試作・調整上の創意がなかったことは同じではない。逆に、職人の貢献を重視することから、ひげゼンマイの発明者をティュレ一人に置き換えることもできない。9 14
確実な資料をつなぐと、彼は初期の振り子時計の修理・製造から天文観測用時計へ、さらにひげゼンマイ付きの携帯時計へと活動を広げた。現存作品は科学機器と装飾工芸の双方を含み、機構も一様ではない。ホイヘンスとの協働は、アイデアの提示、実物の製作、権利の交渉、販売、性能評価までを含む過程だった。後世の航海用クロノメーターへ直結する完成品ではなく、その成立に必要な問題を具体的な時計で試した時代の製作者として位置付けられる。3 4 7
参考文献#
各Web資料の閲覧日:2026年10月23日。作品の帰属・年代は所蔵館の記載に従う。
DBNL, Isaac Thuret — auteursgegevens。生没年と書簡一覧。
Musées Occitanie, Isaac Thuret。人物・職歴解説。
Science Museum Group, Spring-driven Bracket Clock by Isaac Thuret, 1954-458。
Musée du Louvre, Montre ronde, OA7038、目録更新2023年6月12日。
Musée Paul-Dupuy / Musées Occitanie, Montre oignon, de Turet à Paris, Inv.18237。
The Metropolitan Museum of Art, Clock with pedestal, 58.53a–c。Daniëlle Kisluk-Grosheideの2010年解説と所蔵品データ。
Reinier Plomp, “A Longitude Timekeeper by Isaac Thuret with the Balance Spring Invented by Christiaan Huygens,” Annals of Science 56(4), 1999, pp.379–394。Ole Rømer博物館『Meddelelser』2008年再録、pp.15–35を参照。
Christiaan Huygens, No.1409, à [Thuret], mai 1665, Oeuvres complètes, V, 1893, pp.358–359。草稿。
Richard de Grijs, Isaac Thuret: celebrated craftsman denied intellectual credit, 2018、特にpp.2–9。
Clare Vincent, European Clocks in the Seventeenth and Eighteenth Centuries, The Metropolitan Museum of Art, 2003。
Hans Hooijmaijers / Museum Boerhaave, De klokken van Christiaan Huygens, Cultuurwijzer, 2004年12月20日。博物館解説の保存版。
Christiaan Huygens, No.2008, 1675–1676, Oeuvres complètes, VII, 1897, pp.408–416。模型製作と帰属争いの日誌。
No.2011, Colbert à Christiaan Huygens, 15 février 1675, 同VII, pp.419–420。新方式の時計に関する王の特権。
Isaac Thuret, No.2055, à Christiaan Huygens, 10 septembre 1675, 同VII, p.499。
Christiaan Huygens, No.2055a, à Thuret, 21 septembre 1675, 同VIII, 1899, p.561。
Christiaan Huygens, No.2078, à H. Oldenburg, 21 novembre 1675, 同VII, pp.542–543。
Paris Musées / Petit Palais, Cartel, ODUT1863。
William Brouncker, No.2073, à Christiaan Huygens, 18 novembre 1675, 同VII, pp.533–534。本文末の英暦日付は11月8日。校訂版に仏訳と英原文を収録。