ピエール・ジャケ・ドロー(Pierre Jaquet-Droz、1721–1790年)は、スイスのラ・ショー=ド=フォンで音楽時計や自動人形を製作した時計師である。羽ペンで文章を書く少年、鉛筆で絵を描く少年、実際のオルガンを弾く少女という三体の自動人形は、息子アンリ=ルイと協力者ジャン=フレデリック・レショーらとの共同作業から生まれた。現在もヌーシャテル美術歴史博物館が所蔵するこれらの作品には、時計の小型機構、人間の身振りを組み立てる技術、見世物としての演出が集まっている。1 2 3 4
ジャケ・ドローの仕事は人形の製作だけではない。笛や鐘を鳴らす置時計、鳴き鳥を収めた小箱、金やエナメルで飾った懐中時計を、職人と商人の広いネットワークを通じて送り出した。父、息子、レショーそれぞれの役割と、18世紀の工房、現代の同名ブランドを区別すると、その仕事の独創性と事業の実像が見えてくる。1
生涯と工房の形成#
学業、家族、時計製作への道#
ピエールは1721年7月28日、ラ・ショー=ド=フォンに生まれた。神学の道を志した時期があり、バーゼルで古典語、哲学、数学、物理学につながる教育を受け、1740年にはヌーシャテルで聖職者を目指す学生として記録されている。時計師としての初期活動は1747年の地方記録に現れ、1749年には大型時計に熟達した職人として言及された。1 5
時計製作は地域の家族や工房のつながりの中にあった。ジャケ・ドロー家はロベール家、サンド家と婚姻や仕事を通じて結ばれ、義父アブラム=ルイ・サンドは時計ケースの製作にも携わった。ピエールがジョシュエ・ロベールに師事したという伝記上の説明はあるが、Sandrine Girardierの研究では、それを確定する徒弟契約等は確認されていない。周囲の複数の職人から学び得る環境と、一人の師からの直系の伝授とは分けて考える必要がある。1
現代ブランドが掲げる起点年は1738年である。一方、Girardierはこの年を工房創設年とする文書上の根拠を確認できず、学業記録との関係にも注意を促している。1738年はブランドの公式沿革に示される年として知られるが、本人の職業活動を具体的に追える記録とは精度が異なる。1 6
1750年にマリアンヌ・サンドと結婚し、ジュリー、アンリ=ルイ、シャルロットの三人の子をもうけた。妻と末娘シャルロットは1755年に亡くなった。息子アンリ=ルイは1752年10月13日生まれで、1767年からナンシーのアベ・ド・セルヴァンのもとで数学、物理、音楽、素描を学んだ。こうした教育は、機構を設計するだけでなく、演奏、意匠、顧客との応対を伴う工房の活動につながった。1 7
ジャン=フレデリック・レショー(1746–1824年)は近隣の家の出身で、ピエールのもとで時計・機械製作を学んだ。Girardierが示す書簡には1764年から工房にいたとする記録がある。血縁上の息子であるアンリ=ルイと、職人として育ったレショーは、やがて製作と事業運営の双方を担う協力者となった。1 8
1758年のスペイン旅行#
ヌーシャテルの知事ジョージ・キースの紹介は、ピエールが国外に販路を開く契機となった。1758年4月4日、義父サンドと職人ジャック・ジェヴリルを伴い、六台の複雑な時計を販売する計画でスペインへ出発した。一行は5月22日にマドリードへ着き、貴族ドン・ハシント・ホベルの援助を受けた。1
旅の経過はサンドの日誌に詳しい。時計の運搬には車両の選択、梱包、通関、到着後の調整が必要で、王への披露まで数か月を要した。Girardierの分析によれば、9月初めにビリャビシオサでフェルナンド6世に実際に示したのは、オルガン付きの長柱時計、人物が打鐘する時計、羊飼いの時計の三台である。六台の販売計画と、特定の披露で示した台数は同じではない。1
1758年9月5日付のピエールからホベルへの書簡は、国王が時計を繰り返し動かし、音楽家ファリネッリらからも賞賛を受けたと報告する。この手紙はサンドの日誌に転記されており、製作者自身が成功を伝える一次的な証言となっている。現代の公式沿革は持参時計の買い上げと2,000ピストールの支払いを記すが、国王の反応についてはこの当事者報告と後世の物語を区別することが大切である。1 6
この旅行で扱われたのは王への売り込みだけではない。滞在中には時計の修理やケースの補修、音楽機構の仕事も行っている。技術を見せること、実物を調整すること、注文を得ることが、一つの商業活動を構成していた。1
自動人形は誰が、どのように作ったのか#
共同製作を記録する1774年の証言#
三体の人型自動人形は1768年から1774年にかけてラ・ショー=ド=フォンで製作され、1774年には当地で公開された。当時の展示には、現在の三体に加え、牧人や動物が動く風景装置「ラ・グロット」も含まれていた。人形を観客に見せることは、機械の能力を紹介すると同時に、工房の評判と人脈を広げる機会でもあった。1 9
共同作業の様子を伝える重要な資料が、1774年10月の法的な証言記録である。Girardierが全文転記したこの記録には、レショー、アンリ・ユグナン、ジャン=バティスト・グリゼ、シャルル・アンベール=ドローの四職人が挙げられる。レショーは、1772年9月以降、父から息子へ雇用上の管理が移り、息子から給与と食事を受けて仕事をしたと述べている。1
その証言は、完成に至る段階も具体的に伝える。1772年の時点で音楽人形には指や腰の関節、腕とピン付き円筒の組合せがあったが、頭、目、胸部の運動はまだ備わっていなかった。笛、ふいご等は同年11月に別の職人へ注文されたという。作品全体の構想、部品の加工、音の仕組み、動作の追加は、時間をかけて組み合わされていったのである。1
この記録は全ての部品の発明者を決める設計台帳ではない。しかし、父一人が完成品を作り上げたという理解より、父子とレショー、さらに複数の専門職人が参加する工房として捉えるための確かな手掛かりを与える。1
1774年秋から人形たちは国外へ運ばれ、同年11月にはパリのオテル・ド・リュベールで展示された。Girardierが引用する1775年2月の記録は、マリー・アントワネット王妃にも披露されたことを伝える。同年末にはロンドンのコヴェント・ガーデンでも「Spectacle Mécanique」として公開された。王侯の庇護を求める一方、有料の公開展示も事業を支えたのである。1
筆記人形――文字を選ぶ仕組みと線を書く仕組み#
「筆記人形」(L’Écrivain、所蔵番号AA2)は、小さな腰掛けに座り、マホガニーの机で羽ペンを使う少年である。所蔵館は1768年に製作が始まり、ピエールがレショーの協力を得て作ったと説明する。高さは76cm。選んだ文章を最大40文字まで書けることが、固定された一つの文章だけを再生する装置との違いである。2

筆記人形。撮影:Rama。出典:Wikimedia Commonsの個別ファイルページ。ライセンス:CC BY-SA 2.0 France。変更なし。
書字には、何を書くかという文字列の選択と、各文字をどう描くかという運動の制御が必要になる。カムは、外形の凹凸を追うレバーに動きを与える部材である。歯車のように歯を噛み合わせて回転を伝える部材とは、役割が異なる。2 10
Philip Morrisonの1973年の技術解説は、同軸上の三組各40個のカムと、別の輪の周囲に置かれた40個の設定部材を区別している。三つのカムからレバーへ伝わる動きが筆の軌跡や筆圧を作り、設定輪は、次に使う文字に応じて軸の高さを変える。文字の形を収めた機構と、文章中の文字順を指定する機構を分けることで、同じ人形に異なる文章を書かせられる。10
右手が書字を行い、紙を載せた台は一文字ごとに移動する。羽ペンをインクに浸し、余分なインクを振り落とす動作や、書いている場所へ向ける視線も加えられている。文字を並べる能力だけでなく、筆記する人間らしく見せる演出が作品の一部なのである。1 2
Girardierの説明では40文字には空白も含まれる。行数は所蔵館の個別目録が3行、2012年の共同展覧会資料が4行とし、資料によって説明が異なる。共通しているのは、あらかじめ設定した有限の文字列を、機械的な選択と運動によって紙へ出力するという特徴である。「プログラム可能」と評されるゆえんはここにあり、文章の意味を理解したり、汎用的な計算を行ったりする機械だという意味ではない。1 2 9 10
画家人形――固定した紙へ手を動かす#
「画家人形」(Le Dessinateur、AA3)は、アンリ=ルイがレショーの協力を得て1772〜1774年に製作した。筆記人形と同じく高さ76cmの少年だが、紙は固定され、その上を手が動いて線を描く。作画の途中に鉛筆の粉を吹き払う仕草もある。3
所蔵館は交換できるカムを三組と数え、描ける図柄を四種類挙げている。犬と「Mon Toutou」の文字、ルイ15世の肖像は同じカムの組に含まれ、ほかに英国王ジョージ3世とシャーロット王妃、蝶に牽かれるアモルがある。線を作るカムの形を交換すれば作品が変わる一方、その都度自由な画像を認識して描き直すものではない。書字人形の文字列選択とは、変更できる内容と仕組みが違う。3
現在描ける四図柄が、展示史を通じて唯一の絵だったわけではない。Girardierは、1775年の王妃への披露を伝える記録と、後に紹介されたルイ16世・マリー・アントワネットの肖像を挙げる。観客や王位の変化に合わせてカムを作り替えた可能性も、画家人形の歴史の一部として論じられている。1
音楽人形――指が実際に鍵盤を押す#
「音楽人形」(La Musicienne、AA1)はアンリ=ルイの設計による、高さ137cmの少女像である。指がオルガンの鍵盤を実際に押し、ふいごから送られた空気が管を鳴らす。所蔵館によると管は二つのレジスターに属する計48本で、五曲を演奏する。レジスターはオルガンの音色を構成する管の系統を表し、単なる管の置き方を示す語ではない。4
演奏中には胸が呼吸しているように動き、曲が終わると座ったまま礼をする。眼、頭、胸の演技と、鍵盤を通じて実際に音を出す演奏動作が組み合わされる。所蔵館は、音楽を学んだアンリ=ルイが曲も作った可能性を示すが、設計者の同定と作曲者についての推定は区別している。4
風景装置「ラ・グロット」#
三体と並んで展示されたラ・グロットは、人型ではなく、岩山、庭、建物、牧人、家畜などからなる動く風景だった。1774年の『L’Année littéraire』の記述には、驢馬で粉ひき場へ向かう農夫、犬、笛を吹く牧人、ギターを弾く女性などが現れる。音と動作を順序立て、一つの情景に仕立てる装置だったことが分かる。1
この装置は現存する三体のようには残っていない。Girardierは当時の記述、図像、製作証言を突き合わせてその姿を検討している。ジャケ・ドロー工房の自動機械は、人体の再現だけでなく、複数の人物や動物を連動させる小さな劇場にも及んでいた。1
時計、鳴き鳥、装飾の技術#
音を作る仕組みを小型化する#
置時計に人形や音楽を組み込むには、時刻を刻む部分と、鐘、笛、人形を動かす部分を協調させる必要がある。工房の時計には、時や四半刻を告げる打鐘、要求に応じたリピーター、カリヨン、笛による音楽、鳥の動作など、異なる機能が組み合わされた。装飾の豊かさだけでなく、何が時刻表示で、何が演奏や動作を担うのかを見分けると、作品の構成を理解しやすい。1
鳥の声を作る機構にも違いがある。セリネットは、複数の小さな笛を機械的に演奏する仕組みで、ピン付き円筒の配置が演奏の順序を定める。これに対して、ジャコブ・フリザールに帰属される滑動ピストン式の笛は、一本の管の中のピストンを動かして音程を変える。Girardierは、ピストンと送風用ふいごをそれぞれ制御する二系統のカムを説明している。多数の笛を並べる方法とは異なる構成が、複雑な鳴き声の表現と小型化に役立った。1
鳴き鳥は時計、鳥籠、嗅ぎ煙草入れなどに収められた。嗅ぎ煙草入れは、煙草を収める用途に加え、金属加工、エナメル、宝石、音、鳥の動作を一つにする贅沢な器物でもあった。ただし、全ての鳥籠に時計機能がないわけではない。四半刻を打つ鳥籠も残されており、器物の名前だけで機能を決めることはできない。1
現存作品から見る構成と材質#
Girardierが掲載する所蔵館の作品記録には、次のような具体例がある。年代は目録の推定に従い、署名作と帰属作を区別した。1
| 作品・所蔵番号 | 年代・署名等 | 機構・材質の特徴 |
|---|---|---|
| ル・ロックル時計博物館 MHL1 | 1760〜1775年頃。「P. Jaquet Droz a La Chaux de Fonds en Suisse」署名 | 四半刻打鐘、6曲のセリネット、7曲のカリヨン、鳴き鳥。木、鼈甲、鍍金青銅。鳥はカリヨン演奏に伴って動く |
| ゼーヴェン自動演奏楽器博物館 MMA71883 | 1780年頃。「Pierre Jaquet Droz, La Chaux de Fonds」署名 | 8曲のカリヨンと、音楽に合わせて拍子をとる人形。木の化粧張り、青銅、鍍金青銅 |
| 同館 MMA71670 | 1790年頃、ジャケ・ドロー帰属 | 3羽の鳥、7曲のセリネット、四半刻打鐘。鍍金真鍮、エナメル、ガラス。コンスタンティノープル向けとされる |
| バイヤー時計博物館 4374.68 | 1780年頃。「Jaquet Droz London」署名 | 吊環側を押してカリヨンを作動させる携帯時計。円筒脱進機、真珠、エナメル |
| パテック フィリップ ミュージアム S-173 | 1785年頃。「Jaquet Droz London」署名 | 鳴き鳥付き嗅ぎ煙草入れ。金、真珠、エナメル、金属の小片を封じるパイヨン装飾。中国市場向け |
木や鼈甲を用いる大きな時計と、金や真珠で飾る携帯用の小品では、構造も装飾の役割も異なる。ケースや小箱の表面には、彫金、ギヨシェ、宝石留め、エナメルの細密画などが用いられた。Girardierが示すレショーの書簡は、同じ主題でも絵や装飾に違いをつけ、注文に応じて意匠を調整していたことを伝える。1
時計機構の面では、レピーヌ式の薄型構成、独立秒、自動巻きなど、同時代の技術が採用された。1794年10月31日、レショーがベルリンのヨルダン兄弟に宛てた書簡は、レピーヌ式、独立秒のある時計、自動巻き用の錘を備える時計を扱うと列挙する。これは父の死後の工房の販売内容を示す資料であり、全てをピエール個人の発明に帰するものではない。1
ロンドン、ジュネーブ、中国を結ぶ事業#
職人と商人の分業#
アンリ=ルイとレショーは1774年にロンドンの工房を開いた。ロンドンは時計や宝飾品の生産と国際貿易の中心地で、ジェームズ・コックスらの商業網を通じて中国市場とつながった。1783年以降はアンリ=ルイがスイスへ移り、ヘンリー・メイヤーデットがロンドンの事業を担うようになる。1 7 8
ジュネーブでの活動は1784年頃からレショーとの協業として展開した。そこでは、時計師、ケース職人、彫金師、宝石職人、エナメル師、画家らの分業を活用し、注文に合う機構と意匠を組み合わせた。銘に「London」とあっても、それだけで全工程がロンドンで行われたとはいえない。製造、仕上げ、署名、販売の拠点が一致しないことは、この事業の国際性を理解するうえで重要である。1
アンリ=ルイは1785年にジュネーブの市民となり、1786年には芸術協会に加わった。レショーも1787年から同協会で活動した。製品の販売だけでなく、技術教育や公共の利益に関わる機械の検討に参加し、機械の技能を地域社会の中で役立てようとした。1 7
出荷の数量と顧客をどう読むか#
中国市場はとくに大きな販路だった。現代ブランドは、約10年間に600点以上を中国へ輸出したと説明する。一方、Girardierの帳簿研究は、記録の残る範囲と重複を慎重に区別している。同研究が1784〜1808年の一定の帳簿から集計した出荷は685点で、内訳は携帯時計481点、置時計61点、鳥籠15点、嗅ぎ煙草入れ80点、香水瓶28点、指輪20点である。この685点は全世界の全期間の総製作数でも、全て中国への出荷でもない。1 6
さらに別の帳簿を加えると1,226点に見えるが、修理や手直し後の再発送、同じ品の重複記帳を除ききれず、研究はこれを確定した総数としていない。ある数字が「製作数」「出荷数」「販売数」のどれを表すのか、どの年と帳簿を数えたのかによって意味が変わる。1
帳簿に現れる相手には、ジェームズ・コックス商会、ジャン・デュヴァル商会、コックス・ビール&ローランなどの商人がいる。商人への出荷は、宮廷や都市の富裕層へ届く流通の一段階である。乾隆帝や清朝宮廷との関係は現代の公式史にも大きく取り上げられるが、商人の名前があるだけで君主本人の直接注文が確認できるわけではない。1 6
顧客とのつながりは、王侯だけに限られない。レショーの支払記録には、亡きアンリ=ルイの肖像を時計No.63のケースに取り付け、恩師ド・セルヴァンに贈るための仕事も現れる。個人の記念品、商人の仕入れ、王宮への売り込みという異なる関係を通じて、工房の仕事は成り立っていた。1
負債、父子の死、レショーによる継続#
1790年前後、コックス側の経営破綻と中国向け代金の未回収は大きな打撃となった。Girardierが帳簿とレショーの書簡から示す未収金は4,570ポンド・スターリングで、最終的に回収できたのは約4分の1だった。これは損失の具体的な姿を伝えるが、工房がその時点で直ちに消滅したという意味ではない。1
ピエールは1790年11月28日にビエンヌで亡くなった。69歳だった。胸の病を抱えていたアンリ=ルイも、療養のために向かったナポリで1791年11月15日に亡くなった。レショーは残された製品の販売、未完成品の処理、債権の回収と新たな注文を並行して担うことになる。1 5 7
1793年の書簡でレショーは、1792年9月から清算に残った完成品と仕掛品を引き受けたと述べる。1796年4月18日には、自分の名で時計、宝飾品、機械の製作と商業を行う会社をジュネーブに登録した。革命と戦争は輸送、支払い、富裕層の需要に影響し、商人や市場の変更を迫ったが、彼はなお事業の継続を試みた。注文は次第に減少し、工房の活動は1811年に停止する。1 8
作品の保存と現代ブランド#
人形を動かし、伝える#
自動人形はヨーロッパでの巡回展示や所有者の変遷を経て、1909年5月1日にヌーシャテル市へ寄贈され、同市の美術歴史博物館が所蔵するに至った。現物が残ることで、文字を選ぶ仕組み、音楽を実際に奏でる仕組み、観客へ働きかける身振りを、記述だけでなく機械そのものから学べる。9
保存は、18世紀の状態から一切手を加えずに動かし続けることではない。2026年10月26日に確認した館の案内では、筆記人形は部品の不具合と技術上の問題で作動できず、展示を継続しながら修理を進めている。画家人形と音楽人形の実演は続けられている。通常の実演案内と、その時点での作品の状態を併せて知る必要がある。9
名称と意匠を参照する現在の企業#
現在のMontres Jaquet-Droz SAと、18世紀の人物および工房は区別される。Swatch Groupは2000年4月25日、既存のMontres Jaquet-Drozの株式をCupola Venture Partners 1 Ltd.とスイスの少数株主から取得したと発表した。2000年は同グループによる買収年であり、ピエールの工房が同一の法人としてそこまで連続したことを意味しない。11
Girardierは、現代のブランド史が18世紀の名声と2000年の買収を結び付ける一方、その間の断絶や20世紀の別の事業を十分に描いていないと論じている。歴史的な作品が意匠や着想の参照先になることと、企業や職人集団が途切れず存続することは、別の問題である。1
公式沿革によれば、現代ブランドは2002年に「Grande Seconde」を発表した。18世紀の懐中時計に着想を得て、上側の時分表示と下側の大きな秒表示を重ねた意匠を用いる。2010年にはラ・ショー=ド=フォンの新工房へ移り、2011年には細密画、彫刻、彫金、パイヨン・エナメル等を扱うAteliers d’Artを発展させた。2012年の「Bird Repeater」は、鳴き鳥や自動機械という主題を腕時計に展開した製品である。6
「A Disruptive Legacy」と題する公式戦略では、高付加価値の芸術的な時計と自動機械に重点を置くこと、個別仕様や一点物を充実させること、新素材や技術を使うことが示されている。時計に添える芸術的な展示装置を、場合によっては自動機械そのものにする構想も含む。新たな意匠の先例としては、機構を見せる「Grande Seconde Skelet-One」を挙げている。さらに、職人と顧客を直接結び、製作や受け取りの体験を個別化する方針も掲げる。これらは現在の企業が発表する商品・顧客戦略として理解できる。12
歴史上のジャケ・ドロー工房も、機構と装飾を組み合わせ、相手や市場に合わせて製品を調整した。しかし、個々の作品、書簡、帳簿が教えるのは、複数の職人の技能と商業上の判断が結び付いた実践である。そこに、現代ブランドの自己説明だけでは捉えきれない、18世紀の時計と機械芸術の豊かな歴史がある。1
年表#
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1721年7月28日 | ピエールがラ・ショー=ド=フォンに生まれる。1 5 |
| 1739〜1740年頃 | バーゼルで学び、1740年にはヌーシャテルの聖職者養成につながる学生記録に現れる。1 |
| 1747年・1749年 | 地方記録に時計師として現れ、1749年には大型時計に熟達した人物と記される。1 |
| 1750年 | マリアンヌ・サンドと結婚。時計ケースを製作する義父サンドとも結び付く。1 |
| 1752年10月13日 | 息子アンリ=ルイが生まれる。1 7 |
| 1755年 | 妻と末娘シャルロットが亡くなる。1 |
| 1758年4月〜9月 | 六台の時計を販売する計画でスペインへ旅し、9月初めに国王へ三台を披露。9月5日の本人書簡が成功を報告する。1 |
| 1764年頃 | レショーがピエールの工房で働き始めたとする書簡記録。1 |
| 1767〜1769年 | アンリ=ルイがナンシーで数学、音楽、素描等を学ぶ。1 7 |
| 1768年 | 筆記人形の製作が始まる。2 |
| 1772年9月以降 | 後の証言によれば、複数の職人が父から息子の雇用・指揮下へ移る。1 |
| 1772〜1774年 | アンリ=ルイとレショーが画家人形を製作する。3 |
| 1774年 | 人型三体とラ・グロットを地元で公開。10月には製作と雇用の経緯を証言する記録が作られる。同年にロンドン工房が開かれる。1 7 8 |
| 1774年11月〜1775年 | パリで公開展示。1775年の記録は王妃への披露を伝え、同年末にはロンドンで公開する。1 |
| 1783〜1784年頃 | アンリ=ルイがジュネーブへ移り、レショーとの事業を展開。ロンドン側はメイヤーデットが担う。1 |
| 1785年・1786年 | アンリ=ルイがジュネーブ市民となり、翌年に同市芸術協会へ加わる。1 7 |
| 1787年 | レショーもジュネーブ芸術協会に加わる。1 |
| 1790年前後 | コックス側の破綻と未収金が事業へ打撃を与える。1 |
| 1790年11月28日 | ピエールがビエンヌで死去。1 5 |
| 1791年11月15日 | アンリ=ルイがナポリで死去。レショーが製品と事業の処理・継続を担う。1 7 |
| 1794年10月31日 | レショーがヨルダン兄弟への書簡で、扱う複雑時計や装飾の選択肢を説明。1 |
| 1796年4月18日 | レショーが自己名義の製作・商業会社を登録。1 |
| 1811年 | レショーの工房の活動が停止する。1 |
| 1909年5月1日 | 三体の自動人形がヌーシャテル市へ寄贈される。9 |
| 2000年4月25日 | Swatch GroupがMontres Jaquet-Droz株式取得を発表。11 |
| 2002年 | 現代ブランドがGrande Secondeを発表。6 |
| 2010〜2012年 | 新工房、Ateliers d’Artの展開、Bird Repeaterの発表が続く。6 |
| 2026年10月確認 | 筆記人形は故障により展示のみ。画家・音楽人形の実演は継続。9 |
参考文献#
- Sandrine Girardier, L’entreprise Jaquet-Droz. Entre merveilles de spectacle, mécaniques luxueuses et machines utiles, 1758–1811, Éditions Alphil–Presses universitaires suisses, 2020, DOI: 10.33055/ALPHIL.03137。公開PDF。とくにpp.17–23(生涯)、95–97(ブランド史)、116–123・129–133(自動人形、共同製作、展示)、192・199–210(作品と技術)、218–220(帳簿集計)、279–280(分業と会社)、320–327(スペイン旅行)、364–370(商業と負債)、420(終業)。pp.543–545は1774年10月の証言記録の全文転記、pp.547以降は1774年の『L’Année littéraire』記事の転記。原手稿そのものではなく、刊行された転記・分析を用いた。閲覧:2026年10月26〜27日。
2. Musée d’art et d’histoire de Neuchâtel, Automate “L’Écrivain”, AA2。作者、製作開始、40文字、紙送り、寸法・材質の所蔵記録。閲覧:2026年10月26日。
3. Musée d’art et d’histoire de Neuchâtel, Automate “Le Dessinateur”, AA3。作者、1772〜1774年、固定した紙、三組の交換カムと四図柄の所蔵記録。閲覧:2026年10月26日。
4. Musée d’art et d’histoire de Neuchâtel, Automate “La Musicienne”, AA1。設計者、実際の演奏、48管・二レジスター、五曲、寸法・材質の所蔵記録。閲覧:2026年10月26日。
5. Anne Jeanneret-de Rougemont, “Jaquet-Droz, Pierre”, Dictionnaire historique de la Suisse, version du 12 juillet 2005。生涯に関する歴史事典。閲覧:2026年10月26日。
6. Jaquet Droz, “The extraordinary history of Jaquet Droz”。メーカーの公式沿革。18世紀の起点・数量・評価に関する自己説明と、2002年以後の製品・工房の沿革を区別して参照。閲覧:2026年10月26〜27日。
7. Myriam Volorio Perriard, “Jaquet-Droz, Henri-Louis”, Dictionnaire historique de la Suisse, version du 12 juillet 2005。教育、ロンドン、ジュネーブ、芸術協会、生没の歴史事典。閲覧:2026年10月26日。
8. Jacques Barrelet, “Leschot, Jean-Frédéric”, Dictionnaire historique de la Suisse, version du 20 juillet 2006。修業、共同事業、自己名義会社の歴史事典。閲覧:2026年10月26日。
9. Musée d’art et d’histoire de Neuchâtel, “Automates Jaquet-Droz”。共同製作、1909年5月1日の寄贈、実演、筆記人形の作動不良についての告知。状態確認:2026年10月26日。併せて、三館共同展覧会 Automates & merveilles, 2012, 公式プレス資料PDF, 印刷p.8(PDF6頁)の筆記人形40字・4行の説明を参照。PDF該当頁閲覧:2026年10月27日。
10. Philip Morrison, “The Mind of the Machine”, Technology Review, January 1973, p.16。筆記人形の文字運動用カムと設定輪を説明する技術論説。18世紀の設計書や現物の新規測定値とは区別して用いた。閲覧:2026年10月26日。
11. Swatch Group, “Acquisition of Montres Jaquet-Droz”, 25 April 2000。株式取得を発表した当事者資料。閲覧:2026年10月26日。
12. Jaquet Droz, “A Disruptive Legacy — Jaquet Droz strategic vision 8.0”。現在の企業による製品、個別仕様、新素材、顧客体験についての戦略説明。閲覧:2026年10月26〜27日。