時計の指示を経度へ結び付けた天文学者#
ジョン・クロズリー(John Crosley、1762–1817年)は、グリニッジ王立天文台の助手、航海に同行する天文観測者、航海暦の計算者として働いたイギリスの数学者である。John Crossleyという綴りも史料に現れる。精密な海洋時計を運用し、その誤差を天測から求め、航海後には観測を再計算する仕事を担った。1 2
とりわけマシュー・フリンダースの探査では、出航から喜望峰までの観測と時計の検査を担当した。病気で離船した後も、オーストラリア沿岸の経度を確定する計算に関わった。フリンダースの1814年の航海記は、経度委員会が月距などの再計算をクロズリーへ委ねたと明記している。3

図1:ジョン・クロズリーの肖像。原画:Samuel Drummond、彫版:Henry Meyer。画像提供:Wellcome Library, London / Wellcome Images(V0001360)。出典:Wikimedia Commonsの個別ファイル、Wellcome Collection。ライセンス:CC BY 4.0。変更:縮小のみ、トリミング・色調変更なし。
グリニッジと航海暦の計算#
助手としての勤務#
クロズリーはヨークシャー出身とされ、1789年7月16日から1792年4月1日まで、ネヴィル・マスケリンの助手としてグリニッジで働いた。1798年7月21日から9月22日にも短期間復帰している。幼少期の教育や時計製作の徒弟経験を、この職歴だけから補うことはできない。1
天文台の助手と、航海暦『Nautical Almanac』の数表を作る計算者は、関連するが同じ仕事ではない。前者には観測、後者には理論や観測値を用いた計算と照合があった。クロズリーは両方に携わり、航海にも配置された。その活動を、天文台の中だけで完結した経歴として描くと、時計と測量を結ぶ役割が見えなくなる。1 4
ヒッチンズとの往復書簡#
マスケリンの事務ノートには「Mr John Crosley」の頁があり、1799年6月に計算用の表や航海暦、記入用の印刷様式を渡したこと、その後の計算の受領と差戻しが記録される。1801年6月の記入は、ヒッチンズが月の位置に大きな誤りを見つけ、再計算を求めたことも残す。同ノートの一般指示では二人の計算者と照合者を分けており、数表は計算と独立した照合を経て作られた。12
航海暦の計算を検査したMalachy Hitchinsからクロズリーへの書簡は、計算作業がどのように進められたかを示す。Carolyn Kennettが紹介する1799年8月6日付の手紙には、間違いの発見を認める言葉とともに、別の数値の訂正、10月分の計算を早く送るよう求める指示がある。同論文は1799–1800年の助言と訂正のやり取りを説明している。4
これは、完成した数表の背後に、計算を担当する人と、その結果を照合する人の往復作業があったことを示す。手紙に誤りの指摘があることと、その人物の仕事全体が不正確だったという評価は区別しなければならない。クロズリーは、海上で数表を使う側に立った経験も持つ計算者だった。4
北太平洋航海と船難#
ヴァンクーヴァー隊との合流計画#
1793年12月7日、クロズリーは経度委員会の観測者に任命された。北太平洋のGeorge Vancouverの探査へ合流する計画だったが、実際にはWilliam Robert Broughtonが指揮するProvidenceで活動した。ブロートンの1797年4月1日付書簡は、VancouverのDiscoveryがすでに帰国へ向かったと知り、クロズリーを自分の船に留めて天文観測を続けさせた経緯を記す。任務の当初の宛先と、実際に観測した船の指揮者を区別する必要がある。5
本人の観測簿は、1794年10月9日にPortsmouthでWilliam Baylyから時計4台を受領したことを記す。Earnshawの携帯時計No.1・No.2と箱型No.248、Arnoldの箱型No.56であり、グリニッジ平均時からの誤差と日歩度が付されていた。クロズリーはこれらをProvidenceへ運び、船長室の隔壁に固定した。陸上では水銀の人工地平線と太陽高度から時刻を求め、各時計の読みを比較している。10
Providenceは1797年5月16日に難破した。宮古島市の文化財資料では、難破地点を宮古島沖の八重干瀬と説明している。13クロズリーは1798年にイギリスへ戻り、船難で失った器具や書籍などに関する請求を経度委員会へ提出した。1798年11月30日の本人書簡には任命日が記され、その活動が長い支払い・補償の交渉につながったことが分かる。1 5
個人の器具と公的な装備#
請求書簡に添えた損失品の一覧には、Earnshaw製の箱型時計No.248と銀製携帯時計No.1522などが挙げられる。これは本人が損失を申告した一覧であり、別の航海で受領した経度委員会の装備総数や、最終的に認められた支払額そのものではない。5
観測者には、持ち込んだ時計や書籍を管理し、使い方と測定結果を記録する責任があった。一方、その仕事には私物の損失や、船難後の帰国費用も伴った。クロズリーの史料は、海洋時計の実用化が、機械の製作だけでなく、現場で働く観測者の器具と生活にも依存したことを具体的に伝える。5
Investigatorでの時計運用#
経度を求める基準#
地球の一回転を24時間とすれば、時刻差1時間は経度15度に当たる。同じ時刻尺度に揃えた地方時とグリニッジ時との差を角度へ換算するのが、時計による経度測定の基本である。海洋時計が基準地点の時刻を運び、天測がその場所の地方時を与える。一方、月距法では月と太陽・恒星の角距離を暦の値と比較してグリニッジ時を求め、地方時と突き合わせる。二つの方法を比較することで、時計だけに依存しない検査ができた。3 6
二つの系統から集まった時計#
1801年7月18日に出航したInvestigatorには、経度委員会がクロズリーへ託した装備と、海軍がフリンダースへ支給した装備があった。航海記の準備章には次の番号が記されている。2
| 時計 | 史料上の役割 |
|---|---|
| Thomas Earnshaw No.543、No.520 | クロズリーが持ち込んだ海洋時計。喜望峰で歩度を測定 |
| John Arnold No.176、No.82 | 同じ装備群に含まれた時計。No.82は喜望峰で歩度が不規則になった |
| Earnshaw watch No.465 | クロズリーの私有時計。離船の際に持ち帰った |
| Arnold watch No.1736 | 海軍がフリンダースへ支給。小艇・河川などへの携帯を予定 |
これらの携帯・船上用時計とは別に、陸上で観測の基準を作る振子式の天文時計もあった。船が揺れる海上で振子を基準にし続けるのではなく、寄港地で観測所を設け、そこで船上時計の歩度を調べた。6
喜望峰で歩度を求める#
クロズリーは喜望峰で、1801年10月21日から27日の間に行った3日分の太陽の等高度観測から時計の歩度を求めた。六分儀と水銀の人工地平線を使う方法である。太陽が午前と午後に同じ高度となる観測を組み合わせて地方時を求め、時計の読みと比較する。測定を日を隔てて繰り返すことで、ある瞬間の進み・遅れと、一日あたりにそれがどれだけ増減するかを分けて調べられる。7
フリンダースは11月1日の観測でその測定を延長した。原版41頁の表では、No.543はグリニッジ平均時より14分35.33秒遅れ、一日に5.33秒遅れる。No.520は34分16.62秒遅れ、一日に15.84秒遅れる。表の時刻差と歩度は別の量であり、14分以上遅れた表示だけを見て、時計として使えないとは判断できない。把握した歩度による補正が可能だからである。ただし航海中に歩度そのものが変われば、その見積りには誤差が積み重なる。7
No.82は最後の日に歩度が急変し、持続すると見込める値を決められなかった。精密な機械という評判や製作者名だけでなく、実際に比較し測定した結果から、運用の可否を判断していたのである。7
離船と装備の引渡し#
クロズリーはMadeiraからの航程で体調を崩し、喜望峰の陸上で数日休んだ後も、探査を続けることを断念した。1801年10–11月の出来事であり、オーストラリアでの測量に同行し続けたわけではない。経度委員会から供与された器具はフリンダースへ預け、観測指示の写しも渡した。7
私有のEarnshaw No.465とTroughtonの反射円No.74は持ち帰った。フリンダースは、専門家と有用な器具を同時に失ったことを惜しむ。残った観測は艦長と弟Samuel Ward Flindersらが引き受けたが、艦の指揮と測量を兼ねる者に、専門の天文学者と同じ時間を割くことは難しかった。7 6
クロズリー自身がのちに提出した請求書簡によれば、喜望峰からはHindostanで1803年3月5日に出航し、5月27日にSt Helensへ戻った。療養・滞在の期間と、探査船を離れた時期を分けて読む必要がある。帰英後にはマスケリンへ観測を提出したと述べる。5
航海後の再計算#
1814年3月3日の経度委員会宛書簡で、クロズリーはフリンダースの観測の再計算をすべて終え、2年半以上を費やしたと報告した。報酬がまだ確定していないとして、その検討も求めている。これは本人による完了報告であり、委員会の支払い決定を示す書類ではない。11
見かけの角距離を整える#
クロズリーの仕事は、時計の時刻を読むだけではなかった。1814年の航海記付録は、彼がJoseph Mendoza de Riosの1809年版の表と計算法を用いて月距を再計算したと記す。地表から見た月と太陽・恒星の角距離には、大気差、月の視差、見かけの半径などが関わり、そのままでは暦の距離と比較できない。観測時の気温と気圧、測定した天体の組合せも計算に必要だった。3
航海暦は月距を3時間間隔で示すが、月の運動はその間を一様には進まない。再計算では前後の値から1時間ごとの距離を求め、観測の時刻に対応させた。さらに、観測地点が海図上の基準点と異なる場合には、時計から得る経度差によって同じ地点へ揃えた。時計は、天測と天測の間の時刻を運び、違う場所で得た観測を結び付ける道具でもあった。3
暦自体の誤差を検討する#
暦に載った月と太陽の理論位置も、誤差のない基準ではない。王室天文官John Pondがグリニッジの実観測による誤差表の利用を認め、クロズリーは、それが経度へ及ぼす影響を計算した。月と太陽を観測した組合せと、月と恒星を観測した組合せでは、適用する誤差も違う。グリニッジの月観測の間隔が開き、前後の誤差が不規則な場合には、単純な比例配分に限界があった。3
この再計算を経た月距の結果で時計を規正し、海図の経度は時計の結果から構成された。航海の現場で記録を残しておくことが、帰国後に基準表の誤差まで遡って吟味する条件になった。こうした仕事が、乗船を途中で断念した観測者と、オーストラリア沿岸の完成した海図を結び付けている。3
数学会と残された記録#
クロズリーはSpitalfields Mathematical Societyの会長も務めた。肖像の銘文には「13 Years President」と刻まれる。一方、会長の在任期間については1805年を起点とする研究・略伝もあり、肖像の数字だけから連続した就任年を逆算するのは難しい。StewartとWeindlingの研究は長年の会員であったことを示し、1817年10月4日の議事録抜粋を参照している。1 8 9
1817年に没したクロズリーの仕事は、航海の主役の名前だけを追うと見落としやすい。残る書簡、観測表、計算の記録、肖像は、器具を管理する人、観測する人、計算を直す人の姿を伝えている。時計を作る技術と、その時計から位置を知る技術の間に、彼の実務があった。3 4 5
年表#
| 年月 | 出来事 | 根拠 |
|---|---|---|
| 1762年 | ヨークシャーに生まれるとされる | 1 |
| 1789年7月–1792年4月 | グリニッジでマスケリンの助手として勤務 | 1 |
| 1793年12月7日 | 経度委員会の観測者に任命 | 5 |
| 1794年10月 | BaylyからEarnshaw3台・Arnold1台の時計を受領 | 10 |
| 1797年4月 | ブロートンがクロズリーの同行と観測について委員会へ報告 | 5 |
| 1797年5月 | Providenceが難破 | 1 5 |
| 1798年7–9月 | 帰英後にグリニッジの助手へ短期復帰 | 1 |
| 1798年11月 | 任命日や損失を記した請求書簡を提出 | 5 |
| 1799–1800年 | ヒッチンズから計算の訂正と助言を受ける | 4 |
| 1801年7月 | Investigatorの天文学者として出航 | 2 |
| 1801年10–11月 | 喜望峰で時計歩度を測定し、病気により探査から離脱 | 7 |
| 1803年3–5月 | 本人の請求書簡によれば喜望峰から帰英 | 5 |
| 1814年3月 | 観測再計算の完了と2年半超の作業を委員会へ報告 | 11 |
| 1814年 | 再計算の役割を明記したフリンダースの航海記が刊行 | 3 |
| 1817年 | 死去 | 1 |
| 2017年 | ヒッチンズとの計算書簡を紹介する研究、Investigatorの経度測定を分析する研究が刊行 | 4 6 |
参考文献#
- Graham Dolan, People: John Crosley。勤務日・生没年・経歴。2026年10月20日閲覧。
2. Matthew Flinders, A Voyage to Terra Australis, I, 1814, Book I, Chapter I, pp.14–16。原著転記。2026年10月20日閲覧。
3. Flinders, 同書I, Appendix, pp.255–261。原著転記。2026年10月20日閲覧。
4. Carolyn Kennett, “An 18th-century astronomical hub in west Cornwall,” The Antiquarian Astronomer 11, 2017, pp.45–54、とくにp.51 Fig.8と§5.5。掲載号。2026年10月20日閲覧。
5. Cambridge University Library, Board of Longitude Papers, RGO 14/1, correspondence concerning John Crosley, fols.157–178。史料画像。1797年4月1日Broughton書簡、1798年11月30日Crosley書簡、損失品一覧、1803年の帰英を述べる請求書簡171r–173rを参照。2026年10月20日閲覧。
6. Kenneth Morgan, “Finding longitude: The Investigator expedition, 1801–1803,” The International Journal of Maritime History 29(4), 2017, pp.771–787、とくにpp.775–779, 785。著者所属大学公開版。2026年10月20日閲覧。
7. Flinders, 同書I, Book I, Chapter II, pp.39–41。原著転記。41頁の数値は原版画像と照合。2026年10月20日閲覧。
8. Larry Stewart and Paul Weindling, “Philosophical threads: natural philosophy and public experiment among the weavers of Spitalfields”, The British Journal for the History of Science, 1995, note 15。2026年10月20日閲覧。
9. Wellcome Collection, John Crosley. Stipple engraving by H. Meyer after S. Drummond., V0001360, 2215i。所蔵情報API。2026年10月20日閲覧。
10. John Crosley, Astronomical Observations on board HMS Providence, Cambridge University Library, RGO14/67, fols.82r–83v。観測簿原画像。時計4台の受領・設置・比較。2026年10月20日閲覧。
11. John Crosley, 1814年3月3日経度委員会宛書簡、Cambridge University Library, RGO14/68, fol.67r。原書簡画像。2026年10月20日閲覧。
12. Nevil Maskelyneほか、航海暦の事務ノート、Cambridge University Library, RGO4/324、20r(Mr John Crosley、1799–1801年等の作業記録)、36r–37r(計算者と照合者への一般指示)。本人担当頁、一般指示。1813年等の追記をマスケリン自筆としない。2026年10月20日閲覧。
13. 宮古島市、文化財案内「八重干瀬に沈んだプロビデンス号」、21頁。市公開PDF。2020年10月18日の水中文化遺産公開事業にも言及。2026年10月20日閲覧。