ジョン・ハリソン(John Harrison、1693–1776)は、イングランドの大工・時計製作者である。海上で正確な時刻を保つことに取り組み、現在H1からH5と呼ばれる時計を製作した。彼の重要性は、経度を求めるという目的に対して、温度、摩擦、動揺、駆動力の変化を一つずつ扱い、陸上用の精密時計とは違う条件でも動く機械を実現した点にある。航海試験で高い精度を示したH4は、その構造を開示し、他の職人が再現できるかを試す段階へ進んだ。成功には弟ジェームズ、息子ウィリアム、時計師や天文学者、試験航海を担った船員たちも関わっている。1 5 13
生涯と経歴#
木工の技術と、初期の振り子時計#
ハリソンはヨークシャーのフォールビーに生まれ、リンカンシャーのバロー・アポン・ハンバーで育った。父ヘンリーも大工で、ノステルの所蔵記録はその技能と家族の移住を伝える。木工を通じて身に付けた材料の扱いは、時計づくりにも生かされた。通常の時計製作の徒弟課程を経た職人としてではなく、自ら時計を研究した人物として、当時の王立協会の授賞演説にも紹介されている。生年は1693年で、ウェストミンスター寺院の記録は同年3月31日の洗礼を伝える。洗礼の日付と出生の日付は区別される。1 2 13 14
1713年、1715年、1717年にさかのぼる初期の木製時計が知られる。その一つ、1717年の署名を持つノステルの時計は、木製の歯車と枠、ツゲ材のピニオン、鋼の軸先、真鍮の軸受を組み合わせている。脱進機はアンカー式で、木を使ったというだけで無給油のグラスホッパー式だったわけではない。現存する機械と後世に取り付けられたケースを分けて見ることも必要である。2 3
1720年代初めのブロックルズビー・パークの塔時計では、木の性質を生かしながら潤滑の問題へ踏み込んだ。アンドルー・キングが序文で自身の修復経験を述べる専門誌記事では、ポール・スミスが機構を説明している。その記述によれば、この時計はグアヤック材の軸受に真鍮の軸先を組み合わせ、初期形のグラスホッパー脱進機を持つ。油の状態が時間とともに変わることを避けるため、摩擦が起きる場所と材料の組合せを変えたのである。アンカー式から改造したという経緯については、同じ研究記事も伝承として扱っており、現物の構成と改造の物語を同じ確度では述べていない。3
続く1725–1728年頃の精密柱時計は、弟ジェームズとの協力によって製作された。後期のグラスホッパー脱進機、格子振り子、巻上げ中の駆動を保つ仕組みなどが組み合わされ、月差1秒という精度がハリソン自身の主張として伝わる。キングは、原機の調査と復元を通じてこの技術を研究した。これらの陸上時計は海時計と別の作品群だが、摩擦と温度を抑えた基準時計を手元に持つことは、海時計の試験にも意味を持った。1 3
経度の課題と、支援者たち#
海で経度を求めるには、現在地の地方時と基準地点の時刻を比べればよい。地球は一日に一回転するため、時刻差1時間は経度15度、4分は1度に相当する。原理は簡潔でも、船の上で基準時刻を何週間も保つ時計を作ることは難しかった。船の動揺、温度変化、油の変質、主ぜんまいの力の変化が、時計の進み遅れを変えてしまうからである。9 10
1714年の経度法は、海上で経度を求める方法に対して最高2万ポンドの報奨を設け、提案や実験を評価する委員を定めた。報奨の段階は経度の誤差に対応していた。最も厳しい条件は、定められた航路で経度の誤差を地理的マイル30マイル以内に収めることである。原理上、時刻差2分は経度角0.5度に相当するが、距離としての誤差には緯度による違いもあり、これをあらゆる航海での一定の日差限度に読み替えることはできない。実用的な方法の実証と、その方法を広く使えるようにすることが制度の課題だった。17
ハリソンは1730年頃、海時計の計画を携えてロンドンを訪れた。グリニッジ天文台のエドモンド・ハレーを通じ、時計師ジョージ・グラハムに相談し、製作のための資金面の支援を受けた。その後も王立協会の関係者や経度委員会の援助が続く。1749年には、精密な時間測定のための機械を製作した業績によりコプリーメダルを授けられた。機械式の方法を支持する人々の中には天文学者もおり、当初から職人と天文学者が一枚岩の対立をしていたわけではない。1 13
望遠鏡製作者ジェームズ・ショートは、家族以外で特に一貫した支援者だった。1752年には温度補償振り子の発明者を論じる論文でハリソンを支持し、後には議会や公衆に事情を伝える活動にも関わった。ハリソンの機械はグラハムの工房や自宅で人々に見せられ、精密機械への関心が高まるロンドンの文化の一部にもなった。技術を作る力に加え、見る人、説明する人、費用を負担する人の存在が、その仕事を支えた。13
H1とリスボン航海#
1730–1735年に製作されたH1は、最初の海上用実験機である。振り子の代わりに二つの連動する棒状の振動子を使い、船の動きに伴う影響を抑えることを狙った。摩擦の小さい脱進機や材料の選択、温度補償の工夫をまとめた、卓上の時計とは大きく姿の違う機械だった。所蔵館は展示状態の機械の寸法を高さ620mm、幅680mm、奥行450mmとしている。これは機械を入れていた大きなガラス入り木箱の寸法とは別である。4

図1:ハリソンの海時計H1。作者:Phantom Photographer、2011年2月24日撮影。出典:Wikimedia Commons個別ファイル。ライセンス:CC BY-SA 3.0 Unported。変更:なし(原画像250×294ピクセル)。
1736年5月、ハリソン本人がH1とともにリスボンへ渡った。往路はセンチュリオン号、復路はオーフォード号である。RMGの解説によれば、帰路に船員がスタート岬と考えた陸地を、時計に基づく位置ではリザード岬と判断し、そちらが正しかった。同館はこの場面で約60マイルの位置のずれが分かったと説明する。時計が航法へ役立つ可能性を示した経験だったが、これで定められた西インド諸島への試験を終えたことにはならなかった。1
1737年6月30日の経度委員会の議事録は、ハリソンがさらに小さな機械を二年以内に作る計画を示し、500ポンドの援助を求めたことを記録する。委員会は航海術に有益となり得ると認め、半分を先に、残りを新機械が指定の艦長へ渡されたことの証明後に支給する構成を決めた。研究を支える仕組みが、次の機械の製作と船上試験に結び付けられていたのである。5
H2とH3――大きな機械で続けた試行#
H2は1737–1739年に作られた。H1より大型で堅牢になり、所蔵館台帳は高さ686mm、重量40kgと記す。二つの振動子へ伝える力を整えるルモントワールを備えた。しかしハリソンは、船の向きの変化に対する振動子の設計上の問題を見いだし、H2を海上試験へ出さなかった。形を丈夫にして駆動力を整えても、振動系そのものが受ける影響を取り除く必要があった。6
1740年に始めたH3には約19年を費やした。H3は二つの大きな円形振動子を使い、複金属帯による温度補償と、ケージに収めた転がり軸受を組み込んだ。複金属帯は二つの金属の熱膨張の違いを曲がりとして利用する。軸受では滑る接触を転がる接触へ置き換えることで摩擦を抑える。こうした個々の工夫は重要だったが、RMGはH3が期待した精度へ届かなかったことも述べる。長い試行の間に、小型の時計へ進む別の道が開かれた。7
ジェフリーズ時計からH4へ#
ハリソンは大きな海時計と並行して懐中時計も研究した。1753年頃にジョン・ジェフリーズが彼の設計に基づいて製作した時計が、その転換を支える作品となった。自分で振動系を工夫するだけでなく、熟練した別の時計師へ製作を依頼する過程があった。RMGのH4の現物台帳は、この時計の成功を経て1755年にH4の製作が始まり、1759年に完成したと説明している。8
H4は銀の二重ケースに収められた、大型の懐中時計に似た海時計である。現物台帳の寸法は全体165×124×28mm、文字盤直径102mm、重量1.45kgで、機械のテンプの直径とは区別される。H1–H3の振動子を縮めたものではなく、高速で大きく振れるテンプとひげぜんまいを中心に設計した。精密な部品、駆動力を整える機構、温度補償、巻上げ中の停止を避ける工夫を、小さな機械の中に組み合わせた点に特徴がある。8 9
H4の技術を読む#
振動数と脱進機#
1767年に経度委員会が刊行した『ハリソン氏のタイムキーパーの原理』は、H4のテンプが一秒に5回のビートを打つと記す。ここでビートは片道の半振動であり、完全な往復は一秒に2.5回、周波数は2.5Hzとなる。前付はテンプ直径を2.2インチと記し、同じ箇所に掲載されたジョン・バードの測定メモでは2¼インチとする。測定値の小さな違いはあるが、当時の懐中時計に比べ大きな振動系を、高い振動数で使ったという設計は読み取れる。9
脱進機はダイヤモンド製のパレットを使うハリソン独自のヴァージ系の構成で、テンプの運動と歯車からの駆動を調整する。ひげぜんまいに触れるピンも、振れ幅と周期の関係を整えるために用いられた。振れ幅が変わっても同じ周期で振れる性質を等時性というが、H4の説明書が記す調整方法やハリソン自身の理論と、あらゆる振れ幅・姿勢で完全な等時性が実証されたこととは区別しなければならない。9
四つのばねと、異なる二つの給力の役割#
説明書は、H4の中で働くばねを四つに分ける。第一は動力源の主ぜんまい、第二はフュジーの内部で巻上げ中の給力を補うばね、第三は短い間隔で巻き直される小ばね、第四がテンプの周期を決めるひげぜんまいである。前の三種のばねの製作者としてMaberleyの名も記されている。完成した時計の署名だけからは見えにくい、部品製作の協力を示す記録である。9
フュジーは、主ぜんまいの力の変化を円錐形の車と鎖の巻き付き方で補う仕組みである。その内部の保持ばねは、利用者が鍵を使って巻いている間も輪列へ力を与え、時計の停止を防ぐ。これに対してルモントワールは、より下流の小ばねを短い間隔で巻き直して、調速部へ渡す力を整える。H4の原説明は毎分8回、すなわち7.5秒ごとの巻直しを記す。二つはともに安定した運転に役立つが、日々の巻上げをまたいで動かすことと、通常運転中の給力を整えることは、別の仕事である。9
ルモントワールの巻直しの際には、フライがその速度を抑える。短い周期で繰り返す動作そのものも制御しなければ、時計へ急激な力を加えてしまう。H4を理解するうえでは、高精度のテンプだけでなく、そのテンプを動かし続ける力の経路まで見ることが必要になる。9
温度補償、軸受、取扱い#
H4の温度補償には、真鍮と鋼の薄板を複数箇所で鋲留めした複金属片が使われる。温度が変わると二つの金属の膨張の違いによって片が曲がり、自由端に取り付けたピンがひげぜんまいの有効長を変える。これは、後世の割りテンプでテンプ自体の慣性を変える温度補償とは異なる。説明書には寒い場所と火の近くで温度計を添えて調整する手順もある。9
ルビーの軸穴やダイヤモンドの端石、パレットは摩擦と摩耗への対策だった。ただし、宝石を使うことは油が要らないことを意味しない。H4の説明書はパレットと軸穴への少量の注油を指示している。初期の木製時計で追求した無給油の構成と、小型のH4で用いた材料と保守の方法は分けて考えるべきである。9
同じ説明書は、船の左右の傾斜に応じて時計を収めた箱の姿勢を調整することや、テンプの面内で急に回転させないことも指示する。時計が船上でよく動くことは、取扱いの条件がすべて消えたことではない。精度を支えたのは機構の設計、製作精度、調整、そして運用を合わせた仕組みだった。9
航海試験と、原理の公開#
ジャマイカ試験と歩度の補正#
1761年、息子ウィリアムがH4をデプトフォード号でジャマイカへ運び、1762年に帰国した。この試験の結果については、出航前に定めた歩度を使って補正した後に、約5秒の誤差だったと伝わる。ここでいう歩度は時計が一日にどれだけ進む、あるいは遅れるかという値である。文字盤が基準時計から実際に離れた秒数と、既知の歩度を差し引いて経度へ換算する誤差は同じ量ではない。1 10 20
ハリソンは1767年の反論書でもこの区別を強調した。毎日一定の量だけ進む時計であっても、その量を事前に知り安定していれば、航海日数に応じて補正して使える。重要なのは文字盤の表示を一切補正しないことではなく、時計の性質を把握して基準時刻を再現することだった。10
1762年8月17日の委員会は、ポーツマスとジャマイカの観測および報告を検討し、既存の試験だけでは海上の経度を確定するのに十分ではないと判断した。一方でH4を公共に有用な発明と認め、計2500ポンドを与えると決議した。1500ポンドを先に、残り1000ポンドを再試験からの帰還後に支払う構成で、将来の報奨の一部として扱い、時計は公共の財産になると定めた。追加試験と評価条件をめぐる争いはあっても、委員会が時計の価値を一切認めなかったわけではない。5
バルバドス試験――時計と天文観測を照合する#
1764年にはH4がターター号でバルバドスへ運ばれた。この試験では、時計が示す経度を判断するために、ポーツマスとバルバドスの経度差を天文観測から求める必要があった。1764年9月18日の委員会は、太陽の等高度観測、木星衛星の食、恒星・惑星の掩蔽などの記録を使う計算の手順を定めた。時計の性能を確かめる仕事の中にも、天文学者と精密観測器械が組み込まれていた。5
1765年1月19日の議事録には、四人の計算者が求めた結果が並ぶ。観測と計算の扱いによって、時計の経度誤差を時刻へ直した値にも差が生じた。5
| 計算者 | 時計の誤差欄に記された値 |
|---|---|
| ジョン・キャンベル | 41.5秒 |
| ジョン・ベヴィス | 33⅔秒 |
| ジョージ・ウィッチェル | 47.3秒 |
| ジェームズ・ショート | 34½秒 |
この四値を単純平均すると約39.24秒になる。これは表の値から行った算術であり、航海中に時計の表示を一回読んだ値ではない。グールドの1923年の研究書には38.4秒という数値も記されるが、この議事録の表とは値のまとめ方を同一視できない。いずれの場合も、H4が最も厳しい報奨の精度条件を十分に満たしたという委員会の判断は、1765年2月9日の議事録に明記されている。5 20
グールドは、1764年3月28日にポーツマスを出航し、5月14–17日にバルバドスで観測したと記す。出航から最初の現地観測までは47日であり、この往路での比較と、英国へ戻った後の比較は別の評価である。さらに同書は、156日を経てポーツマスの時計と比較した結果について、一日1秒進むという歩度を差し引いた後では54秒進み、出航前に申告した温度による歩度の違いも考慮すると15秒遅れになると記す。これらは補正の条件が違う値であり、一つの普遍的な「日差」を表す数字ではない。20
精度の実証と、他の職人が作れる方法#
1765年2月9日、委員会はH4が1714年法の最も厳しい経度の限界に対して十分その内側に入ったことを全会一致で認めた。同時に、原理と製法を開示し、別の同種時計を製作して一般の航海へ役立てられるかを確かめることを求めた。一台が好成績を残すことと、製作技術が共有され実際の船へ広がることは、制度上も技術上も別の課題だった。5
ハリソン父子は機構を説明し、分解を伴う実演も行った。1767年の『原理』には、委員会の命令による刊行であること、父子の提出した説明、検査や編集に関わった人々、図版が含まれる。この本全体をハリソン一人が書いた自著とするのは正確ではないが、H4の構造を伝える中心的な一次資料である。9
一方、グリニッジでの試験をめぐって父子とマスケリンの対立が深まった。ハリソンの1767年の『反論』は、引渡し時の歩度設定、時計と温度計の熱条件、氷点付近や垂直姿勢での評価などを具体的な争点として挙げる。これは発明者が何を問題視したかを知る一次資料である。ただし、対立する当事者の主張だけから、検査担当者が故意に時計を傷めた、あるいは不正に成績を下げたと結論することはできない。10
H5、国王の試験、議会の追加報奨#
父子の次の時計H5には「John Harrison & Son London 1770 No. 2」の署名がある。H4に近い構成の銀製二重ケースの時計で、7.5秒ごとのルモントワール、駆動保持、宝石軸受、複金属帯を持つ。ケースの刻印年代は1768–1769年とされ、ケースの製作、機械の署名、後の試験をそれぞれ区別できる作品である。11
1772年、H5はジョージ3世のリッチモンドの天文台で試験された。国王による関心と支援は議会への働き掛けに結び付いたが、経度委員会が定める試験と同じ手続きで行われたものではない。1773年4月24日の委員会には、ウィリアムが、父はもう一台を作れる状態にないこと、費用や時間、報奨の不確実さを理由にさらに試験へ進む意思がないことを述べた記録がある。父子の疲弊と制度側の条件の隔たりが、ここに具体的に表れる。5 11 20
1773年7月3日の議事録は、下院がハリソンに対し、すでに受け取った額に加えて8750ポンドを上限とする追加の報奨・奨励を決めたことを記録する。13 Geo. III c.77の第29条にも、時計とその原理を明らかにした業績に対する追加の支払いが定められた。従来の報奨金、研究費、航海や実験の費用を一括して一つの「賞金」と数えると、どの仕事に何が支払われたのかを取り違える。ここで決着したのは長年の仕事に対する追加支給であり、1714年の最高額を一回で受け取る出来事ではなかった。5 17
ハリソンは1776年3月24日に死去し、ロンドンのセント・ジョン・アット・ハムステッド教会墓地に葬られた。14
技術の継承と、現在から見た位置#
K1と、航海時計が広がるための条件#
ラーカム・ケンドールは1766年に経度委員会からH4の複製を依頼され、1769年にK1を完成させた。RMGの作品解説は、K1がクックの第二回世界周航で試され、良好に働いたことを記す。発明者の時計が成功した後、別の製作者が構造を理解して作り、その時計が長い実用航海で試される。K1はその工程を具体的に示す作品である。12
しかしH4型の精密機構をそのまま数多く作ることには費用と技量の問題があった。後にはアーノルドやアーンショウが機構を簡素化し、デテント脱進機や温度補償テンプを改良して、航海時計が広がる道を開いた。RMGはアーンショウの功績を、簡単で低廉な時計を航海用計器として実用にした点に置いている。H4のダイヤモンド・パレット式ヴァージと、後世のばね式デテントは、同じ機構の別名ではない。解決したい問題を受け継ぎながら、その解き方も変わったのである。18
フランスでもピエール・ルロワとフェルディナンド・ベルトゥーが航海時計を開発した。パリ工芸博物館の解説は、ベルトゥーのNo.2、No.6、No.8と、1766年のルロワの時計を、それぞれの現物に対応させて説明する。ルロワの時計では、互いに逆方向へ巻いた二本のひげぜんまいで等時性を求め、水銀の移動を温度補償に利用したとされる。1769年の科学アカデミーの賞も同じ資料に記される。H4でひげぜんまいの有効長を変える方式と同じではなく、海上で時を保つという共通の課題へ複数の構成から取り組んだ歴史である。22
月距法も、時計の登場で直ちに不要になったわけではない。1765年2月9日の議事録には、月と天体の角距離を用いて船位を判断した船員たちの証言と、計算を助ける航海暦の刊行を求める声がある。H4の試験を評価するための経度決定も天文観測に支えられた。時計、天体観測、計算表は競争しながら併用され、航海で基準を確かめる手段を増やしていった。5
材料、摩擦、温度という問い#
格子振り子では、膨張量が異なる金属の棒を組み合わせ、温度が変わっても振り子の実効長が変わりにくくなるようにする。複金属帯では、二枚の金属の膨張差を曲がりへ変える。いずれも温度を一定に保つ代わりに、温度が変わることを利用して機械の変化を打ち消そうとする設計である。ただし格子状の棒の組合せと、鋲留めした帯の曲がりは違う構成である。3 7 9
グアヤック材の軸受やグラスホッパー脱進機、ケージ入り転がり軸受も、摩擦の起き方自体を変える工夫だった。ハリソンの仕事は、精密さを部品の仕上げだけで求めず、材料と接触の形、動力の与え方、温度への応答を一緒に設計した例として読むことができる。RMGはH3の複金属帯とケージ軸受を今日にも使われる重要な発明として紹介するが、現代の個々の温度制御装置や軸受がすべてH3から直接伝わったとまでは示していない。3 7
修復、記念、実験による読み直し#
H1–H4は、その後に保管と修復の歴史を持つ。RMGの所蔵目録には、ルパート・T・グールドによるH2・H3の1923–1924年の作業、H3の1930–1931年の組立て、H1の1932–1933年の再構成などの作業ノートがある。1933年3月11日の『Nature』の同時代記事は、H1の再稼働により四機が再び動く状態になったことを報じた。現在見られる姿は、十八世紀の製作だけでなく、後世の調査と修復にも支えられている。15 16
2006年3月24日には、ウェストミンスター寺院にハリソンの記念石が設けられた。真鍮とステンレス鋼の帯が名前を貫き、その場所の経度を刻む構成で、複金属の技術と経度測定の仕事を記念する。ただし寺院は彼の埋葬場所ではない。14
物語としての広がりを示すのが、デイヴァ・ソベルの『Longitude』である。著者自身の紹介によれば、1995年の初刊後に多くの言語へ翻訳され、1998年にはウィリアム・J・H・アンドルーズとの共著による図解版も刊行された。ハリソンの名を広めた文化的な受容と、原機や当時の記録から個々の事実を検証する作業は、相互に関係しながら異なる役割を持つ。21
また、ハリソンの後年の振り子時計論を現代の材料で読み直す研究もある。2015年1月6日、マーティン・バージェスの「Clock B」をグリニッジで100日間試験する取り組みが始まった。記録したロリー・マケヴォイは、電波時刻による比較に加え、温度、湿度、気圧やGPSなどを使って継続的に測定する計画を記している。これはH4の性能値を測り直した試験ではなく、別の陸上用振り子時計とハリソンの理論を検討する実験である。19
時刻誤差を、位置の誤差へ換算する#
時刻差1秒は経度15秒角に相当する。海里を緯度の1分に対応させる近似なら、赤道上で約0.25海里、約463mとなる。緯度が高くなると、同じ経度角に対応する東西の距離は小さくなる。従って、463mをどの海域でも同じ位置誤差として使うことはできない。10
さらに一日の歩度と、何週間か経過した後の積算誤差は別である。一定の歩度を補正して使う場合と、温度や姿勢で歩度が変わる場合でも意味が違う。海時計が運んだ基準時刻は、現地の観測によって初めて経度へ結び付く。現代の時刻標準や衛星測位と結び付けて考えるときも、この原理上の共通性と、各時代の機器・制度の違いを保つ必要がある。9 10
詳細な年表#
| 年月 | 出来事と、その位置付け |
|---|---|
| 1693年 | ヨークシャーのフォールビーに生まれる。3月31日の洗礼記録が伝わる。14 |
| 1713年 | 初期の木製柱時計を製作。1715年、1717年の作品も知られる。2 3 |
| 1722年頃 | ブロックルズビー・パークの塔時計。木製輪列、グアヤック材と真鍮、初期のグラスホッパー構成が研究対象になる。3 |
| 1725–1728年頃 | ジェームズと精密柱時計を製作。格子振り子、後期のグラスホッパー脱進機、駆動保持などを組み合わせる。3 |
| 1730年頃 | ロンドンでハレー、グラハムらの支援につながる。海時計H1の製作へ進む。1 13 |
| 1735年 | H1完成。時計を見た人々や王立協会関係者の支援を得る。4 13 |
| 1736年5月 | H1とともにリスボン航路を往復。センチュリオン号とオーフォード号で試験する。1 |
| 1737年6月30日 | 委員会が次の機械のため計500ポンドの援助を決議。先半額と船への引渡し後の半額に分ける。5 |
| 1737–1739年 | H2を製作。後に振動子の問題を見いだし海上試験へは出さない。6 |
| 1740–1759年頃 | H3に取り組む。円形振動子、複金属帯、ケージ入り軸受を用いる。7 |
| 1749年 | 王立協会のコプリーメダルを受賞。13 |
| 1752年 | ショートが温度補償振り子の発明を論じ、ハリソンを支持する。13 |
| 1753年頃 | ジェフリーズがハリソンの設計に基づく懐中時計を製作。8 |
| 1755年 | H4の製作開始。8 |
| 1759年 | H4完成。8 |
| 1761–1762年 | ウィリアムがH4をジャマイカ航路へ運ぶ。既知の歩度による補正を伴って結果を評価する。1 10 |
| 1762年8月17日 | 委員会が再試験と2500ポンドの支給を決議。5 |
| 1764年 | H4のバルバドス試験。9月18日の委員会が観測記録の計算手順を定め、帰還後の1000ポンド支払いも決議。5 |
| 1765年1月19日 | 四人の計算者の結果を委員会が開封し、誤差の表を議事録へ記す。5 |
| 1765年2月9日 | 最も厳しい精度条件を満たしたと認め、原理・製法の開示と再現を求める。5 |
| 1765–1766年 | 原理の説明と時計の引渡し、グリニッジでの検査をめぐる時期。後にハリソンが試験条件へ異議を述べる。1 9 10 |
| 1766年 | 経度委員会がケンドールへH4の複製を依頼。12 |
| 1767年 | 経度委員会が『原理』を刊行。ハリソンの『反論』第二版も刊行される。9 10 |
| 1769年 | ケンドールがK1を完成。12 |
| 1770年 | H5の機械に父子の署名と年が記される。11 |
| 1772年 | H5を国王のリッチモンド天文台で試験。K1はクックの第二回世界周航で使われる。11 12 20 |
| 1773年4月24日 | 委員会でウィリアムが父の状態と追加試験へ進まない理由を説明。5 |
| 1773年 | 議会による8750ポンドを上限とする追加報奨。7月3日の委員会がその決着を記録。5 17 |
| 1776年3月24日 | 死去。セント・ジョン・アット・ハムステッド教会墓地に葬られる。14 |
| 1923年 | グールドが『The Marine Chronometer』を出版。H2・H3などの修復記録も残す。15 20 |
| 1932–1933年 | グールドによるH1再構成。1933年の同時代記事が再稼働を報じる。15 16 |
| 2006年3月24日 | ウェストミンスター寺院に記念石を設置。14 |
| 2015年1月6日 | グリニッジで、後年の振り子時計論を検討するClock Bの公式100日試験が始まる。19 |
参考文献#
以下のWeb資料の確認日は2026年10月23日。『原理』の原画像と本文、『反論』の公開転記、委員会議事録の公式転記と該当原画像、所蔵館の現物台帳を区別して参照した。
Royal Museums Greenwich, “Longitude found — the story of Harrison’s timekeepers”。生涯・支援・試験と作品の概要。
National Trust Collections, “Harrison Clock”, 959830.1。1717年の時計の構成、署名、来歴。
Paul Smith、Andrew King(序文), “Building a Harrison Wooden Longcase”, Horological Journal, 2024年9月, pp.363–367。原機の修復者と再製作者による技術・研究記録。
Royal Museums Greenwich, “H1”, ZAA0034。
Cambridge University Library, 経度委員会議事録 RGO 14/5。1737年6月30日、1762年8月17日、1764年9月18日、1765年1月19日・2月9日・2月23日、1773年4月24日・7月3日。該当箇所は公式TEI転記でも閲覧できる。1765年1月の誤差表は原資料p.70。
Royal Museums Greenwich, “H2”, ZAA0035。
Royal Museums Greenwich, “H3”, ZAA0036。
Royal Museums Greenwich, “H4”, ZAA0037。
Commissioners of Longitude, The Principles of Mr. Harrison’s Time-Keeper, with Plates of the Same, London, 1767。前付pp.v–xvii、機構説明pp.19–31。振動数p.xiv、四つのばねと注油pp.xv–xvi、複金属片p.xii、ルモントワールp.19。
John Harrison, Remarks on a Pamphlet Lately Published by the Rev. Mr. Maskelyne…, 第2版, 1767。pp.1–34の公開転記。歩度補正pp.2–3、試験条件pp.6–15。対立当事者による反論として参照。
Science Museum Group, “Marine Timekeeper known as ‘H5’ by John Harrison and Son 1770”, L2015-3480。機構と署名、ケース年代、国王の試験。
Royal Museums Greenwich / University of Cambridge, “K1”, ZAA0038。委嘱、完成、クック航海での使用を説明する所蔵館資料。
Jim Bennett, “James Short and John Harrison: personal genius and public knowledge”, Science Museum Group Journal, Autumn 2014, DOI:10.15180/140209。支援者、公開、製作技術の伝達をめぐる原研究。
Westminster Abbey, “John Harrison”。洗礼、死亡、埋葬地と2006年の記念石。
Royal Museums Greenwich, Gould作業ノート GOU/4 と関連する修復記録。1932–1933年のH1再構成等を記録した所蔵目録。ノート本文の読了を意味しない。
“Harrison’s First Marine Timekeeper”, Nature 131, p.355, 1933年3月11日, DOI:10.1038/131355b0。公開要約・再録部分を参照。
“Transcripts of the Longitude Acts”。1714年法と13 Geo. III c.77 §29の歴史資料転記。1773年追加報奨は同時代の議事録5とも照合。
Royal Museums Greenwich, “Thomas Earnshaw, 1749–1829”, BHC2674。航海クロノメーターの簡素化と普及についての所蔵館解説。
Rory McEvoy, “Harrison decoded: towards a perfect pendulum clock”, Antiquarian Horological Society, 2015年1月17日。Clock Bの試験担当者による報告。
R. T. Gould, The Marine Chronometer: Its History and Development, J. D. Potter, 1923, pp.50–60, 66–69。航海試験の数値・技術説明を参照。原資料の異なる評価量をまとめないため、議事録と併読。
Dava Sobel, “Longitude”。著者自身による初刊年、翻訳、1998年図解版の紹介。書籍本文の読了を意味しない。
Musée des arts et métiers / Cnam, La mesure du temps, Le Petit Journal, pp.6–7。ベルトゥーの所蔵作品とルロワ1766年時計Inv.01395の解説。