生涯と経歴の詳細 #
出生と幼少期: ヨスト・ビュルギは1552年2月28日、スイスのザンクト・ガレン州トッゲンブルク地方のリヒテンシュタイグ村に生まれました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( ヨスト・ビュルギ - Wikipedia)(※一部資料では1558年生まれともされています)。当時この村は宗教改革でプロテスタントとカトリックに二分されており、ビュルギ家はプロテスタントでした ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。父祖は錠前職人で村の役人も務めており、ビュルギは初等教育で読み書きと算術の基礎を学びましたが、それ以上の formal な教育機会はありませんでした ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。学問や技術を志したビュルギは故郷を離れる決意をし、金属加工や精密機器製作の徒弟修行についたと考えられています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。詳細な記録は残っていませんが、当時時計製作で名高かったニュルンベルク、アウクスブルク、クレモナなどで技能を磨いた可能性があります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1570年代前半にはストラスブールに滞在し、大聖堂の天文時計製作(設計者は数学者コンラート・ダシーポディウス)に関わったハブレヒト兄弟に同行していた形跡があります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギはラテン語を習得しないままでしたが、このストラスブールでの経験により高い数学・天文学の知識を身につけたと推測されています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
ヘッセン=カッセル伯国での活躍: 1579年7月25日、ヘッセン=カッセル方伯(ランドグラフ)ヴィルヘルム4世は、当時「同時代で最も優れた器械職人」と評判だったビュルギを宮廷の時計師として招聘しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギはカッセルに移り、宮廷時計師および測定器械製作者として天文台に勤務します。ヴィルヘルム4世自身が優れた天文学者であり、コペルニクスの地動説を検証するために近代的な天文台を建設していた背景があります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギの任務は精密な六分儀や天球儀、そして当時としては極めて高精度の時計を製作し、天体観測に供することでした ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1580年代、ビュルギは画期的な機械式時計を完成させます。それは世界で初めて分針を備え、秒を計測できる時計で、1日の誤差が1分未満という驚異的な精度を誇りました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1586年4月14日付のヴィルヘルム4世から天文学者ティコ・ブラーエへの書簡には、この新型時計が紹介されており、その秒表示の様子について「適度にゆっくりした歌の最短音符ほどの長さが1秒であり、ビュルギの発明した振り子(バランス)は各拍が1秒に相当する」と記されています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。この発明によって機械式時計は初めて天文観測に耐える精度を実現し、望遠鏡の照準線を星が横切る時間を計測して星の位置を割り出すことが可能になりました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ヴィルヘルム4世はビュルギの才能に大いに満足し、ティコ・ブラーエ宛の手紙の中で彼を「第二のアルキメデス」と称賛しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( Jost Bürgi - Wikipedia)。当時の一般的なルネサンス期の時計は、1日で20~30分もの進み遅れが生じる不安定なものでしたが、ビュルギの時計はこれを飛躍的に改善したのです ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
ビュルギは宮廷天文官クリストフ・ロートマンと協力して観測に当たり、ロートマンが退任した1590年以降は宮廷数学者および天文学者の公式な地位に就きました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギはその多才さから、後年スネッリウス(ウィレブロード・スネル)によって「卓越した時計職人であり、有能な天文学者であり、優れた数学者でもある。当時としては類のない才能の持ち主」と評されています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。私生活では、カッセル近郊フェルスベルクの牧師ダフィト・ブレーマーの娘と結婚しましたが子供はなく、1591年に義父ブレーマーが他界すると、ビュルギは義弟(妻の幼い弟)である3歳のベンヤミン・ブレーマーを養子として引き取りました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギはこの養子に数学と天文学を手ほどきし、後にベンヤミンは一流の科学者となっています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1591年、ビュルギはヘリオセントリック(地動説)に基づく機械式の天文時計を完成させました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。当時、地動説を唱えることは宗教的に危険を伴いましたが、ビュルギは同僚のニコラウス・ライマース(ライマー=ウルススとも呼ばれる)がラテン語で書かれたコペルニクスの著作『天球の回転について』をドイツ語に翻訳してくれたおかげで(「グラーツ写本」として現存)、ラテン語を解さずとも最新の天文学理論を理解し、この大胆な天文時計を設計できたのです ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
1592年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世がビュルギに機械仕掛けの天球儀(メカニカル・グローブ)の製作を依頼します ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。2月に依頼を受けたビュルギは同年7月4日、自らプラハ城(フラッチャニー城)に出向いて皇帝に天球儀を献上し、拝謁しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。この直後の1592年8月に雇い主であったヴィルヘルム4世が亡くなりますが、後を継いだ息子のモーリッツも父同様にビュルギの才能を重用し、以前と同じ条件で彼を雇用しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。また1592年には、ビュルギは三角測量法に基づく新型の測量器具を発明し、その特許を取得しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。その後もビュルギはカッセルとプラハを行き来し、1596年と1604年には再びプラハを訪問しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
プラハ宮廷での活動: 1600年前後、皇帝ルドルフ2世は多数の科学者や芸術家をプラハに集め宮廷を学芸の中心地としていました。1599年にはティコ・ブラーエが帝室数学者(宮廷天文官)に任命され、ヨハネス・ケプラーがその助手となっています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ティコは1601年に亡くなり、後任の帝室数学者にケプラーが就任しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。こうした中、モーリッツ方伯の許可を得てビュルギもプラハ宮廷に移籍することになります。1604年12月、ビュルギは皇帝付きの時計技師および数学者に正式に任命され、プラハ城内の作業所と2名の助手が与えられました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。プラハではケプラーと緊密に協力し、ケプラーは後に「自分は代数学(コッス)をビュルギから教わった」と述懐しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギが数学者として培った計算技術はケプラーの天文計算に大いに役立ち、ケプラーが惑星運動の第3法則(調和法則)を発見する際にも、対数の概念に着想を得た形跡があります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギとケプラーが天文計算の効率化について議論を重ねていたことが、ケプラーの着想の背景にあったと考えられています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。プラハ在住中の1611年、ビュルギは最初の妻に先立たれましたが、同年にカタリーナ・ブラウンと再婚しました(子供はなし) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1612年に皇帝ルドルフ2世が崩御した後も、ビュルギは後継のマティアス帝に仕え引き続きプラハで活動しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギは在プラハ期間中もしばしば古巣カッセルに帰郷しており、晩年の1631年ついにプラハを引き払いカッセルに戻ります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1632年1月31日、ヨスト・ビュルギはカッセルで79歳で死去しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。墓碑そのものは現存していませんが、埋葬地のニーダーツヴェーレン墓地には「ヘッセン方伯と皇帝の時計師にして数学者ヨスト・ビュルギここに眠る。1552年2月28日スイスのリヒテンシュタイグ生まれ、1632年1月31日カッセル没。計測機器と天球儀の独創的な設計者にして16世紀でもっとも精密な時計の製作者、対数の発明者」と刻まれた銘板が設置されています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
ビュルギの発明(特に時計) #
機械式時計の革新: ビュルギ最大の功績の一つは、機械式時計の精度と設計を飛躍的に向上させたことです。彼の1580年代の時計には、それまで存在しなかった秒表示と分表示が導入されており、独創的な「クロスビート脱進機」(二重振り子式脱進機)と「ルモントワール」(一定力装置)という2つの新機構を備えていました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。クロスビート脱進機は2つの調速振子の相互作用によって歩度を安定させ、ルモントワールは歯車列とは独立した小型の重りやぜんまいで調速機構に常に一定の力を伝達する仕組みです ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。これらの発明により、16世紀当時の時計の精度は「桁違い(orders of magnitude)」に向上し、初めて機械式時計が科学的観測に使える道具となりました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。実際、ビュルギの開発した時計は1日あたりの誤差が約数十秒程度と、それ以前の時計(誤差数十分)とは比較にならない正確さでした ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。この高精度時計は、星が子午線を通過する瞬間を秒単位で計測することを可能にし、天体の位置観測の信頼性を飛躍的に高めました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
( image)ビュルギが1580年代に開発した天文時計(1591年完成、ヘッセン方伯ヴィルヘルム4世の依頼による「方程式時計」)は、当時最先端の技術が結集した傑作でした ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock) ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。この時計は複雑な歯車機構により地球の公転による時間差(均時差、いわゆる方程式時差)を表示し、太陽時と平均時の差異を示す機能を備えていました。また複数の文字盤には天文暦に基づく指標が配置され、太陽や月、惑星の位置や位相を示すことができました。さらにケースや文字盤は金銀細工で華麗に装飾されており、芸術品としても鑑賞に堪えるものでした ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity) ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。このようにビュルギの時計は、科学計測機器であると同時に工芸芸術品でもあったのです。
対数の発明: ビュルギはまた、数学計算を飛躍的に効率化する対数の概念を独自に発明しています。彼は天文計算を簡便にするため、1580年代後半(おそらく1588年頃)にはすでに独自の「級数表」を考案し始めました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。これは後に「算術および幾何学の級数表 (Arithmetische und Geometrische Progress Tabulen)」として1620年に出版される対数(正確には逆対数)表で、スコットランドのジョン・ネイピアが1614年に発表した対数とは別個に生み出されたものです ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ビュルギの対数表は、例えば等比数列に対応する等差数列を並べることで乗除算を加減算に帰着させるというアイデアに基づいており、その手法はネイピアのものとは異なっていました ( Jost Bürgi - Wikipedia) ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ネイピアの対数が出版された頃にはビュルギは宮廷の職務に忙殺されており、自ら進んで成果を公表することがなかったため、対数の発明者としての名声はネイピアに譲る形になりました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。しかしケプラーはビュルギの功績をよく知っており、後に自著『ルドルフ表』(1627年)の序文で「Justus Byrgius(ビュルギ)はジョン・ネイピアの体系が現れるはるか以前にこれら対数に到達していた。しかし怠惰で口の重い彼は、自らの子(=発明)を公衆の利益のために育てることなく、生まれるや放置してしまったのだ」と記しています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。この辛辣な言葉は、ビュルギが職人気質で秘密主義的であったために、自分の発明をすぐには公表しなかったことを示唆しています(実際、彼の対数表の原稿はケプラーが筆写を手伝ってようやく出版に漕ぎつけています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ))。
その他の発明と工夫: ビュルギは他にも様々な革新的アイデアを生み出しました。1592年に特許を得た測量器具は、三角測量の原理を用いて遠距離の測定を可能にする装置で、従来の視距測量法に比べ画期的な精度と効率をもたらしました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。また彼は天文学計算のための正弦表(サイン数表)も作成しています。1586年頃までに任意の精度で正弦値を計算できる独自のアルゴリズムを編み出し、その一つを「クンストヴェーク(Kunstweg、芸術的手法)」と名付けました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。彼の正弦表「カノン・シヌウム (Canon Sinuum)」は2秒刻みで8桁精度を謳う非常に精密なもので、ケプラーから「世界で最も正確なサイン表」と称賛されました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。この表そのものは未出版のまま散逸したため現存しませんが、彼はその計算法をまとめた『Fundamentum Astronomiae(天文学の基礎)』という書物を1592年に皇帝ルドルフ2世に献呈しています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。このことから、ビュルギが対数発明以前から数表計算の高度な手法を駆使し、天文計算の効率化に情熱を注いでいたことがわかります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。さらに、ビュルギは代数学の基礎に関する解説書も著しています。当時代数学は「コッス (Coss)」と呼ばれていましたが、ビュルギは自らの計算法や十進小数の扱い方について手稿をまとめており、その写しが親友ケプラーによって残されています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。このようにビュルギは、時計や機械装置のみならず計算技法や数学書の分野でも独創的な発明・工夫を行った人物でした。
当時の技術的背景や影響 #
16世紀後半の技術背景: ビュルギが活躍した16世紀後半から17世紀初頭は、科学と技術が大きく進展した時代でした。天文学ではコペルニクスの地動説(1543年)以来、正確な天体観測による検証が求められ、ティコ・ブラーエのように肉眼で極限まで精密な観測を行う天文学者が現れていました。一方で観測機器の面では、専用の天文台建築や精密機械の導入が始まったばかりでした。ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世はヨーロッパで最初期の恒星観測専用天文台を建設し ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )、ティコ・ブラーエもデンマークのウラニボリ天文台で大型の六分儀や天球儀を用いていました。しかし時間計測は依然課題で、当時の時計は振動子(テンプまたはフオリオ)が安定せず、一日に数十分もの誤差が生じるのが普通でした ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。このため観測の際には水時計や砂時計でおおよその時間を測る程度で、恒星の精密な通過時刻を測定することは困難でした。こうした中、ビュルギの発明した高精度時計は天文学におけるタイムキーピングの概念を一変させました。均時差(方程式時差)の表示を組み込んだ彼の天文時計(いわゆる「方程式時計」)は、日照時間の季節変化や地球軌道の離心率による太陽時の不均一さを補正し、恒星時や平均太陽時との対応を示すことができました ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。これは日時計頼みだった従来の時刻測定法に革命をもたらし、真に連続で均一な時間尺度を提供する装置として画期的でした。
ビュルギの技術革新は同時代の科学者たちに強い影響を与えました。ティコ・ブラーエはビュルギの精密時計の存在を知り、その性能に驚嘆しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。また、ビュルギがカッセル天文台で製作した精密機器の数々(六分儀、地球儀、時計など)は、当時の最先端研究を下支えし、観測精度を高めました。ビュルギの仕えていたヴィルヘルム4世の恒星観測成果はティコにも匹敵する精度であったとされますが、その背景にはビュルギ製作の器具の貢献がありました。
プラハ宮廷では、ビュルギはヨハネス・ケプラーと密接に協力し合いました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ケプラーは当初数学に長けていませんでしたが、ビュルギから代数学や高度な計算法を学び ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )、その後の惑星運動法則の発見に活かしていきました。特にケプラーの第三法則(1609年公表)は、ケプラー自身が「対数について思索していた際に得た着想」と述べているように ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )、ビュルギが供した対数の知見がヒントになった可能性があります。ルドルフ2世の宮廷は錬金術師や科学者が多数集った「驚異の宮廷」でしたが、その中でもビュルギは職人肌の数学者として独自の地位を占め、ケプラーら学者と職人的知識を橋渡しする存在でした。彼はラテン語文献に直接アクセスできないハンデを持ちながらも、同僚の助けで知識を吸収し、自らの発明を現場の計測や計算に適用していきました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。この職人的実践知と学問的理論の融合こそ、当時の技術革新に大きな推進力を与えた要因でした。ビュルギの場合、それが高精度時計や対数表といった形で結実し、周囲の科学者に影響を及ぼしたのです。
しかし、ビュルギの成果が直ちに広く知られたわけではありません。彼は「書物の学者」というより「職人学者」タイプで、自身の発明を公表することに消極的でした ( Jost Bürgi - Wikipedia)。対数の発明がその典型例で、彼が長年個人的に用いていた計算法は、ケプラーの強い説得によってようやく1620年に出版されました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。その頃には既にネイピアの対数が欧州中に広まっており ( Jost Bürgi - Wikipedia)、ビュルギ自身の評価は限定的でした。ケプラーが前述のように彼のことを「怠惰で無口」と評したのは、その発明を公開しない性格を揶揄したものです ( Jost Bürgi - Wikipedia)。とはいえ、同時代の知識人の間ではビュルギの名は知れ渡っており、スネッリウスや後代のライプニッツも彼の業績に言及しています。総じて、ビュルギは実務から生まれる創意工夫で技術革新を牽引しつつ、学術史に埋もれがちな職人技術者として独特の足跡を残した人物といえます。
ビュルギの発明が現代に与えた影響 #
ビュルギの遺した発明や技術は、直接・間接に現代まで影響を及ぼしています。
精密時計と時間計測: ビュルギの時計技術は、その後の時間計測の飛躍的発展の礎となりました。彼が考案した脱進機(クロスビート)や一定力装置(ルモントワール)の概念は、のちに振り子時計(1656年、ホイヘンスによる発明)や温度補償振り子、クロノメーター(18世紀、ハリソンの航海用時計)といった高精度時計に受け継がれていきます。特にルモントワールは、現在の機械式高級時計でも採用例がある技術で、テンプに一定トルクを供給することで歩度を安定させる原理は現代の時計工学にも通じます ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ビュルギが示した「時計を科学計測に用いる」という発想は、時間を精密に測定する科学(時間学、時間標準)の黎明となりました。今日の原子時計やGPS衛星の精密時刻計測に至る時間科学の系譜を辿れば、その原点の一つにビュルギの革新的時計が位置付けられます。
対数と計算技術: ビュルギがネイピアとは独立に発明した対数概念は、その後の科学計算を飛躍的に効率化しました。対数によって乗算は加算に、除算は減算に置き換えられ、多桁の数値計算の負担が劇的に軽減されたのです ( Jost Bürgi - Wikipedia)。17世紀後半から20世紀半ばまで、対数表と対数尺(スライド・ルール)は科学者・技術者の標準的な計算道具となり、天文学、測量、航海、工学などあらゆる分野で重宝されました。ビュルギ自身の対数表は当時広範な普及を逃したものの、彼の着想は確実に時代を先取りするものでした。19世紀フランスで行われた天文暦表“大地測量用対数表 (Tables du cadastre)”の作成事業では、有限差分による表計算が駆使されましたが、ビュルギはすでに16世紀の段階で差分を用いて正弦値の計算表を構築しており ( Jost Bürgi - Wikipedia)、その先見性がうかがえます。対数は現代においても数学の基本概念であり、指数関数的増加を扱う科学(地震のマグニチュードや音のデシベル尺度など)に不可欠です。そうした概念の源流として、ビュルギの業績は位置付けられます。
科学機器と模型: ビュルギが製作した精密な天球儀や天文時計は、科学教育と博物学の伝統にも影響を残しました。彼の天球儀は単なる模型に留まらず、内部に時計仕掛けを組み込むことで天体運行を再現する精巧なプラネタリウム装置となっていました ( Celestial globe: An ingenious timekeeper made in Switzerland)。このような機械仕掛けの天文模型は、後のオッターリー(18世紀の太陽系模型)や近代プラネタリウムの発想に通じるものです。今日、ビュルギの現存する作品は各地の博物館に収蔵され、時計技術史や科学史の観点から研究・展示されています。例えばチューリッヒのスイス国立博物館に所蔵されている1594年製作の機械式天球儀は、グレゴリオ暦(1582年制定)を組み込んだ当時最新の設計であり、ルドルフ2世への献上品として制作されたものです ( Celestial globe: An ingenious timekeeper made in Switzerland)。これらの現物は精密機械工学や芸術性の点でも卓越しており、1983年にはビュルギの天球儀がスイスで記念切手の図柄にも採用されました ( Stamp: Celestial globe of Jost Bürgi (1552-1632) mathematician, ast …)。ビュルギへの評価は、1982年に没後350年を記念して発行されたメダルや、月のクレーター「バーギウス (Byrgius)」にその名が冠される形でも表れています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。これは現代においても彼の功績が国際的に認知されている証と言えるでしょう。
総じて、ヨスト・ビュルギの発明と業績は、精密測時技術の発展と計算科学の進歩に歴史的役割を果たしました。それらは直接には後世の発明家たちに引き継がれ、間接的には現代の科学技術基盤を形作る一部となっています。
関連する文献や資料 #
ヨスト・ビュルギに関する情報は、以下のような文献や資料で詳しく研究・紹介されています。
伝記事典・総合資料: 『科学伝記事典 (Dictionary of Scientific Biography)』や『ブリタニカ百科事典』にはビュルギの略伝と業績の解説があります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。またスイス歴史事典(HLS)にはエルヴィン・ノイエンシュヴァンダーによるビュルギの項目が収録されており ( Jost Bürgi - Wikipedia)、英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語でオンライン参照が可能です。19世紀の伝記としてはモーリッツ・カントールがビュルギについてまとめた記事があります ( Jost Bürgi - Wikipedia)。
専門的研究書: ビュルギの専門的な研究としては、ルートヴィヒ・エヒスリン(オクスリン)による伝記『Jost Bürgi』(2001年) ( Jost Bürgi - Wikipedia)や、マティアス・リスト&フォルカー・ビアラス編『ヨスト・ビュルギのコッス(代数学)—ヨハネス・ケプラー編集による稿本』(1973年)があります ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。後者はビュルギの代数学手稿をケプラーが筆写・編集した資料について分析したもので、16世紀末の代数学史の一端を明らかにしています。また、ハインツ・ロッフェルによる論文「ヨスト・ビュルギの数学的業績」(1982年)では、ビュルギの数学上の貢献を詳細に論じています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。さらに、エーメ・ブロインズの論文「対数の歴史について: ビュルギ、ネイピア、ブリッグス他」(1980年) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )は、ビュルギの対数発明をネイピアらと比較検討したもので、発明の独立性や手法の違いを議論しています。
歴史記事・論文: 天文学史家オーウェン・ジンジャリッチは「カッセルのヨスト・ビュルギ」(1980年)という短報を書いており、カッセルにおけるビュルギの活動について紹介しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。また、ヨスト・ビュルギが「秒」を発明したことにちなみ、スイス物理学会の機関誌にはフリッツ・スタウダハーによる一般向け記事「ヨスト・ビュルギは秒だけでなく…を発明した」(2005年)も掲載されました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。日本語では、千葉大学の数学史教材『忘れられない数学』においてビュルギの対数発見がネイピアと独立であったことが言及されています ( 「対数」に、もう一度興味・関心を持ってみませんか(その1))。
一次資料: ビュルギ自身の著作としては、前述の『算術および幾何学の級数表(Progress Tabulen)』(1620年、ケプラー序文付き) ( Jost Bürgi - Wikipedia)や、写本として残る『Fundamentum Astronomiae』(1592年)があります。また、彼が関与した書簡も技術史の貴重な資料です。例えば1586年4月14日付のヴィルヘルム4世からティコ・ブラーエへの書簡にはビュルギの精密時計についての記述が残されています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ケプラーとビュルギの交流は、ケプラーの書簡集や日記などからもうかがうことができます。こうした一次史料は、後世の研究者によって分析され、ビュルギの人となりや発明の詳細を伝えています。
以上の文献や資料は、ビュルギの生涯と功績を理解する上で有用です。特に近年では国際的な技術史研究の中でビュルギ再評価の動きもあり、英語・独語圏を中心に論文や書籍が相次いでいます。彼の多彩な才能(時計職人・天文学者・数学者としての顔)は分野横断的な研究対象となっており、現代でもなお興味深い歴史的人物として脚光を浴びています。
技術革新の評価 #
ヨスト・ビュルギは、16〜17世紀における技術革新の象徴的存在と言えます。その革新性は以下の点で評価されます。
クロスディシプリナリー(学際的)な才能: ビュルギは時計製作という職人的技能と、数学・天文学という学問知識を兼ね備えていました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。当時、学問と工芸は分断されがちでしたが、ビュルギはその両者を結びつけ、新たなソリューションを生み出しました。高度な数学理論を実際の機械装置に組み込み(例:地動説モデルの天文時計 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ))、逆に観測・計算上の課題を解決するために新たな数学手法を考案する(例:対数やクンストヴェーク算法 ( Jost Bürgi - Wikipedia))という具合に、相互補完的なイノベーションを起こしています。このようなユニークな才能は同時代でも類を見ず、「機械のアルキメデス」と称されました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
時計技術の飛躍: ビュルギの発明した時計機構(脱進機・ルモントワール)は、それまでの機械式時計の精度を飛躍的に高めました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。これは単に一技術者の改良という域を超え、時間計測のパラダイムシフトにつながるものです。ビュルギ以前の時計はおおよその時を知る道具でしたが、彼以後の時計は科学実験や航海術に不可欠な計測器へと進化していきます。彼のアイデアは直接にはホイヘンスやハリソンら後発の発明家に継承され、現代にまで連なる精密計時技術の歴史を形作りました。
計算法の革新: ビュルギが編み出した計算法(対数表、正弦表計算、十進法の活用)は、近代以降の計算科学に先鞭をつけるものでした。特に対数の概念は、その後の300年間にわたり**「計算労力の削減装置」**として科学技術計算の主役を担いました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。彼の業績は、計算そのものに革新を起こしたという点で技術史上特筆されます。コンピュータが登場する遥か以前に、アイデア一つで計算効率を大幅向上させた例として、ビュルギの対数発明はイノベーションの好例と言えるでしょう。
科学思想への貢献: ビュルギは理論的な論文は残しませんでしたが、その発明品や計算表が裏付けたデータは、ケプラーなど当時最先端の科学者の理論構築を支えました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ケプラーの第三法則や対数の一般化など、17世紀初頭に生まれた科学的成果の陰には、ビュルギのもたらした新技術の刺激がありました。こうした間接的な思想貢献も、技術革新者としてのビュルギの評価を高めるポイントです。
創造性と独立発明: ビュルギは孤高の発明家でもありました。ジョン・ネイピアと同時期に全く別のアプローチで対数に到達したこと ( Jost Bürgi - Wikipedia)、高度な数学教育なしに独力で高度な数値計算法を編み出したこと ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( Jost Bürgi - Wikipedia)など、その創造性は驚嘆に値します。彼の方法論(例えば差分を用いた計算など)は同時代には類がなく、まさに独立発明の連続でした。これは「職人の勘」と「数学的思考」の双方を兼ね備えたビュルギならではの強みであり、技術革新に不可欠な創造性の体現と言えます。
以上の点から、ヨスト・ビュルギの技術革新は単なる一分野の進歩ではなく、機械工学・計算科学・天文学といった複数領域に横断的なインパクトを与えたものとして評価できます。彼の業績は、その後の科学技術の発展史に埋め込まれ、今なお賞賛と研究の対象となっています。
作品 #
ヨスト・ビュルギの残した主な作品(製作物および著作)には以下のようなものがあります。
- 精密天球儀(機械式天球儀): 彼が製作した天球儀は複数現存しており、その多くは内部に時計機構を組み込んだ特別なものです。代表例として1594年にカッセルで製作された機械仕掛けの天球儀が挙げられます ( File:JostBurgi-MechanisedCelestialGlobe1594.jpg - Wikipedia)。これは神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に献上されたもので、現在チューリッヒのスイス国立博物館に所蔵されています ( File:JostBurgi-MechanisedCelestialGlobe1594.jpg - Wikipedia)。直径約30cmほどの球体に黄道帯や星座が描かれ、内部の歯車によって天体の動きを再現する仕組みです。この他、パリの工芸博物館、カッセルのオランジュリー宮(2点、1580–1595年作)、ワイマールのアンナ・アマーリア図書館などにもビュルギ作の天球儀が所蔵されています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。
( File:JostBurgi-MechanisedCelestialGlobe1594.jpg - Wikipedia)ビュルギが製作した1594年の機械式天球儀(チューリッヒ国立博物館蔵)。金メッキが施された真鍮製で、黄道十二宮や星座図が精密に刻まれている ( File:JostBurgi-MechanisedCelestialGlobe1594.jpg - Wikipedia)。内部には時計仕掛けが組み込まれ、太陽や月の運行をシミュレートできる。皇帝ルドルフ2世の命により製作されたもので、新しく施行されたグレゴリオ暦も反映されている。ビュルギの天球儀は実用的な天文計算装置であると同時に、美術工芸品としても高度な完成度を示す。
天文時計・置時計: ビュルギの時計作品として有名なのが、**方程式時計(Equation Clock)**とも称される1591年完成の天文置時計です ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock)。これはヘッセン方伯ヴィルヘルム4世の依頼で製作されたもので、一日の長さの季節変化(均時差)を表示する複雑機構を備えています。箱型のケースに天文学的表示盤と時刻表示盤が組み合わされ、月相や曜日、恒星時なども示すことができました ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。この時計は現在カッセルの天文物理学キャビネットに所蔵されており、一部がニューヨークのメトロポリタン美術館に貸与展示されたこともあります ( Jost Bürgi | Equation Clock | German, Kassel | The Metropolitan Museum of Art) ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock)。他にも、ウィーン美術史博物館やドレスデンのマティアス・プフィーシャー・サロン(数学物理サロン)には、ビュルギ作の時計が収蔵されています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。中でもドレスデンの「水晶天球時計 (Bergkristalluhr)」は水晶でできた天球儀を組み込んだ珍しい時計で、ウィーン所蔵の「惑星運行時計 (Planetenlaufuhr)」は太陽系の惑星運行モデルを内蔵した精巧な作品です ( Jost Bürgi - Wikipedia)。
天文学観測機器: ビュルギは天文観測用の機器も多数製作しました。ケプラーの依頼で作られた六分儀がプラハ国立工科博物館に現存しており、木製フレームに精密な目盛りが刻まれています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。また、月の運行異常模型時計 (Mond-Anomalien-Uhr) と呼ばれる、月の軌道の不規則性(近地点・遠地点での速度変化)を機械的に再現する装置も作られています。この模型時計はカッセルのオランジュリー館に現存しており、当時としては極めて先進的な天文学的モデルでした ( Jost Bürgi - Wikipedia)。1585年にはアーミラリー天球儀付きの天文時計を製作しており、これは現在ストックホルムの北方民族博物館に保存されています ( Jost Bürgi - Wikipedia)(同作には金細工師アントニウス・アイゼンホイトも協力)。
数学著作・表: ビュルギの著作として重要なのが、先述の対数表『算術および幾何学の級数表 (Arithmetische und Geometrische Progreß Tabulen)』です ( Jost Bürgi - Wikipedia)。これは1611年頃にケプラーの勧めでまとめられ、1620年にプラハで出版されました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ドイツ語で書かれたこの書は、1から10万までの数に対応する比例数列の表で、対数そのものの概念説明よりも計算実用に焦点を当てた内容でした ( Jost Bürgi - Wikipedia) ( Jost Bürgi - Wikipedia)。他に出版には至りませんでしたが、『Fundamentum Astronomiae』(1592年献呈、ラテン語名ながら内容はドイツ語と推測)では自らの正弦表計算法を説明し、コペルニクスの理論に基づく恒星位置計算の手順を示しています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。また、ビュルギがまとめた**代数学の手稿(コッス)**は散逸しましたが、その一部はケプラーが書き写したコピーとして残存し、1856年にダンツィヒで断片的に出版されています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。これにはビュルギの用いた数値計算法や十進小数の処理法が含まれており、16世紀後半におけるドイツ圏の代数学水準を知る上で貴重です。
以上のように、ヨスト・ビュルギの作品群は時計・測定機器と数学書という形で多岐にわたります。その多くは技術と芸術の融合ともいえる高度な職人技術に支えられており、現代では博物館や図書館でその実物や写本を見ることができます ( Jost Bürgi - Wikipedia) ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ビュルギの作品は、実用性と美術性、そして理論性を兼ね備えたルネサンス後期の産物として高く評価されています。
顧客・パトロン #
ヨスト・ビュルギの才能は王侯貴族や著名な科学者たちから認められ、彼らがビュルギの主な顧客(パトロン)となりました。
ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世 (Wilhelm IV, Landgraf von Hessen-Kassel): 1579年にビュルギを宮廷時計師として招聘し、以後約25年にわたり庇護しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ヴィルヘルム4世は自身が一流の天文学者であり、ビュルギに天文観測機器や天文時計の製作を数多く依頼しています。1585年完成のアーミラリー天文時計や1591年完成の方程式時計は、ヴィルヘルム4世の依頼によるものです ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity) ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock)。ビュルギはヴィルヘルム4世から「アルキメデスの如き革新の才を持つ男」と賞賛され ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )、その死後も息子のモーリッツ方伯に引き続き仕えました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
神聖ローマ皇帝ルドルフ2世 (Rudolf II): ルドルフ2世は美術・科学の保護者として知られ、ビュルギにも関心を寄せました。1592年、皇帝は自らのコレクションのためにビュルギに機械式天球儀の製作を命じ ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )、ビュルギはプラハに赴いて皇帝に作品を披露しています ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。その後もルドルフ2世はビュルギを高く評価し、1604年末には彼を正式に宮廷時計師・数学者として雇用しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。プラハ宮廷ではルドルフ2世自らがしばしばビュルギの作業場を訪れ、その製作物や計算について興味を示したと伝えられています(宮廷記録より)。ビュルギが作成した時計や地球儀の一部は、ルドルフ2世の収集品として皇帝の美術品コレクション(後のウィーン美術史博物館所蔵品群)に加わりました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。
皇帝マティアス (Matthias) および神聖ローマ帝国宮廷: 1612年にルドルフ2世が没した後、継承したマティアス皇帝もビュルギを引き続き宮廷に留めました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。もっともビュルギ自身は高齢となっていたため、1610年代後半以降はプラハとカッセルを往復しつつ半引退状態で過ごしたようです。それでも宮廷からの給与は生涯支給され、晩年まで帝室付き技師として遇されました。
ヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler): ケプラーは公式にはビュルギの「顧客」ではありませんが、彼自身がビュルギの知識の受益者でした。プラハ宮廷で同僚となったケプラーは、観測機器の調整や製作でビュルギの助けを借りています。またケプラーの依頼でビュルギが六分儀を製作した記録も残っています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。さらにケプラーにとってビュルギは数学教師とも言うべき存在で、ビュルギから代数や新しい計算法を学んだことで、ケプラーの計算業務は飛躍的に効率化しました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ケプラーはある意味、ビュルギの知識と技能の「顧客」だったと言えるでしょう。
その他のパトロン・依頼者: 上記以外に、ストラスブール大聖堂の天文時計製作(設計者ダシーポディウス、依頼者はストラスブール市当局)に参画した際は、そのプロジェクト自体がビュルギの顧客と言えます ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。また、カッセルでの活動中には各地の貴族や学者がビュルギの評判を聞き訪問しており、小型の精密機器や時計を購入したとの記録もあります(スイス・トッゲンブルク郷土誌による) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ただし具体的な名前は不明なものも多く、主要な顧客としてはやはり彼を宮廷に招聘した君主(ヘッセン方伯と神聖ローマ皇帝)が挙げられます。
以上のように、ヨスト・ビュルギは当時の権力者や著名科学者たちから直接支援・依頼を受けることで、その才能を発揮しました。彼の顧客たちは彼に高い報酬と環境を提供し、その見返りとして彼らは当時最高水準の科学器械や知見を手に入れることができたのです。
作品の特徴 #
ヨスト・ビュルギの作品(製作物や著作)には、いくつか共通する特徴が見られます。
精密さと実用性: ビュルギの機械装置は、当時として群を抜く精密さを備えていました。時計であれば秒単位の計測精度を持ち、天球儀であれば数分角レベルで恒星の位置を示すことが可能でした ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics ) ( Jost Bürgi - Wikipedia)。これは彼の作品が単なる展示物ではなく、実用的な計測器であったことを意味します。事実、彼の時計は天文観測に利用され、天球儀は暦の計算に利用されました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。また測量器具も現場での距離測定に威力を発揮しました。精密さと実用性の追求こそ、ビュルギ作品の根幹にあります。
創意工夫と複雑性: ビュルギの作品には独創的なアイデアが随所に盛り込まれ、構造が非常に複雑です。例えば方程式時計には複数の差動歯車やカム機構が組み合わされ、太陽時と平均時の差(均時差)を算出する高度な設計がなされています ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。天球儀内部の歯車系も、地球の歳差運動や月の運行まで再現できるよう緻密に構成されていました。これらはビュルギが試行錯誤の末に編み出した機巧の妙であり、当時の水準を遥かに超える複雑さでした。こうした創意工夫の積み重ねが、彼の作品の性能を支えています。
芸術性と職人技: ビュルギの作った機械は、その機能だけでなく見た目の美しさにも優れています。金銀細工や銅板の彫刻、象嵌や彩色といった装飾が施され、宝飾品さながらの華麗さです ( Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity)。これは彼が単独でなく、優れた工芸職人(例:金細工師ハンス・ヤコブ・エムク)と協働して制作を行ったことによります ( Jost Bürgi | Equation Clock | German, Kassel | The Metropolitan Museum of Art)。ビュルギの作品は工学的創造物であると同時に、ルネサンス期宮廷文化の中で珍重された美術工芸品でもありました。この芸術性の高さが作品に付加価値を与え、依頼主である貴族達を満足させたのです。
理論との結びつき: ビュルギの機械装置には、当時最新の科学理論が反映されています。1591年の天文時計はコペルニクスの地動説を基に設計され、太陽を中心に据えた惑星表示を行いました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。天球儀にも新しいグレゴリオ暦の要素が取り入れられています ( Celestial globe: An ingenious timekeeper made in Switzerland)。このように、彼の作品は科学理論と直結しており、観測や計算の理論的要求を具現化するものでした。同時代の多くの工芸品が伝統や装飾性を重んじたのに対し、ビュルギの作品は理論に裏付けられた機能美を備えていた点で特徴的です。
文書化と伝達性: ビュルギの著作物(対数表や数学手稿)は、理論そのものより計算法の伝授に力点が置かれています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。これは彼の実用志向を示すとともに、彼の知識が口伝や写本という形で伝えられたことを意味します。例えば対数表には「対数関数」の明確な定義はなく、代わりに数表の使い方(演算の手順)が示されています ( Jost Bürgi - Wikipedia)。代数学手稿も、具体的な数値例やアルゴリズムの説明が中心でした ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ビュルギの作品の特徴として、ノウハウ重視の記述と、それを直接弟子や同僚に教える形で知識継承した点が挙げられます。このため彼の業績は当時印刷物として大々的に流布しませんでしたが、逆に限定されたサークル内では高度な技術が共有され、その後ケプラーらに引き継がれました。
以上のように、ヨスト・ビュルギの作品は精密さ・創造性・美しさ・理論性といった多面的な特徴を備えていました。それらは当時の宮廷文化と科学実践を結びつける存在として異彩を放ち、今日に伝わる現物からも当時の卓越した技術水準を窺い知ることができます。
その他の業績や重要情報 #
上記に挙げた以外にも、ヨスト・ビュルギに関する興味深い業績や情報がいくつかあります。
代数学への寄与: ビュルギは16世紀ドイツにおける代数学の発展にも密かに寄与しました。当時、「コッス (Coss)」と呼ばれた代数学はルドルフ・シュティフェルやクリストファー・クラヴィウスらによって発展途上にありましたが、ビュルギは自身の計算経験から十進小数の扱いや数値解法に独自の工夫をしていました ( Jost Bürgi - Wikipedia)。彼の残した手稿には高次方程式の数値解を逐次的に近似計算する方法などが含まれていたと推測され、これらは後のNewton-Raphson法のような手法を先取りしていた可能性もあります(もっとも現存資料が乏しいため詳細は不明です)。ケプラーがビュルギから学んだ代数学の知識は、ケプラー自身の『天地の調和』(1619年)や対数論文に反映されているとも言われます。
教育者としての側面: ビュルギは公式な教育職には就きませんでしたが、身近な人物に高度な教育を施しました。前述の養子ベンヤミン・ブレーマーはその一例で、彼は後に数学者・建築家となり、ヘッセン=カッセル公国の土木建築に貢献しています。ケプラーもまたビュルギから多大な影響を受けた「弟子」の一人でした ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。その他にも、カッセル天文台で同僚だった天文学者たち(クリストフ・ロートマンやニコラウス・ライマースら)はビュルギとの交流から刺激を受けています。特にライマースはビュルギのためにコペルニクスの著書を独訳するという形で知を共有し、ビュルギの学習を助けました ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギの周囲には知的サロンのような環境が生まれ、相互啓発が行われていた様子が窺えます。
名声と後世の評価: ビュルギは存命中、その名声は限られた宮廷人と科学者の間に留まりました。対数の発明に関しても、ネイピアが有名になる一方でビュルギは「知る人ぞ知る存在」でした。しかし後世、科学技術史の見直しに伴い、ビュルギの再評価が進みました。ドイツやスイスでは郷土の偉人として紹介されることも増え、1932年(没後300年)や1982年(没後350年)には記念行事が行われました。1982年にはスイス連邦工科大学などでビュルギ展が開催され、専門家によるシンポジウムも行われています。また、月面のクレーターにラテン名「Byrgius」と命名されたのは1935年のことで、これは天文学者ヒューレが提案したものです ( Jost Bürgi - Wikipedia)。このクレーター名は国際天文学連合にも正式承認され、地図上にビュルギの名をとどめています。
エピソード: ビュルギにまつわる逸話として、ケプラーが苦心していたある計算課題をビュルギが即座に解いてみせたという話があります(ケプラーの手紙より伝わる伝説)。ケプラーが火星軌道の計算に難渋していた際、ビュルギは自作の対数表を用いて短時間で計算してみせ、ケプラーを感嘆させたと言われます。ケプラーは「彼(ビュルギ)は我々が一冊の本を書く間に、驚くべき速さで計算を終えてしまう」と記しています(真偽は不明ですが、ビュルギの計算力を物語る逸話です)。また、ビュルギはその寡黙さから宮廷内では「沈黙の職人」と渾名されていたとも言われますが、彼の残した洗練された作品が何より雄弁に語っていると言えるでしょう。
以上、ヨスト・ビュルギは科学革命前夜のヨーロッパで活躍し、様々な分野に独自の足跡を残した偉才でした。彼の生涯は必ずしも華々しいものではありませんでしたが、その業績は歴史に埋もれることなく、現代の我々に技術と創造の大切さを伝えています。
参考文献 #
- Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics)
- ヨスト・ビュルギ - Wikipedia)
- Jost Bürgi - Wikipedia
- Jost Bürgi & Hans Jacob Emck’s Equation Clock by Mary Elizabeth Podles | Touchstone: A Journal of Mere Christianity
- Celestial globe: An ingenious timekeeper made in Switzerland
- Stamp: Celestial globe of Jost Bürgi (1552-1632) mathematician, ast …
- File:JostBurgi-MechanisedCelestialGlobe1594.jpg - Wikipedia
- Jost Bürgi | Equation Clock | German, Kassel | The Metropolitan Museum of Art
- Jost Bürgi - Wikipedia
- Jost Bürgi - Wikipedia
- Jost Bürgi - Wikipedia
ヨスト・ビュルギ年表 #
1552年2月28日 – スイス、トッゲンブルク地方のリヒテンシュタイグに生まれる ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )(家族はプロテスタント系)。
1560年代後半 – 初等教育を受けた後、各地で時計職人・器械職人として徒弟修行を積む(ニュルンベルク、アウクスブルク等で修行した可能性) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
1570~1574年頃 – ストラスブールに滞在し、大聖堂の天文時計製作プロジェクトに関与。数学者コンラート・ダシーポディウスや時計職人ハブレヒト兄弟のもとで技術と数学・天文学を習得 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
1579年7月25日 – ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世から招聘を受け、カッセル宮廷の時計師(および科学機器製作者)に就任 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。宮廷天文台で観測機器の製作と天体観測補助を開始。
1584年 – カッセル天文台に数学者クリストフ・ロートマンが加わる(~1590年)。ビュルギはロートマンと協働し、観測精度向上に努める。
1586年4月14日 – ヴィルヘルム4世がティコ・ブラーエ宛の書簡で、ビュルギ製作の新型時計(分針・秒針付き、日誤差1分未満)を紹介 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。この時計は世界初の高精度天文時計として注目される。
1587年 – 同僚のニコラウス・ライマース(ウルスス)がコペルニクス『天球の回転について』をラテン語からドイツ語に翻訳し、ビュルギに提供 ( Jost Bürgi - Wikipedia)。ビュルギはラテン語を解さずとも地動説の詳細を学ぶ機会を得る。
1588年頃 – 天文計算を簡略化するため、独自に対数類似の**「級数表」**の作成を始める(一般にビュルギの対数発明年とされる) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。またこの頃までに正弦値計算の独自算法(クンストヴェーク)を確立 ( Jost Bürgi - Wikipedia)。
1590年 – ロートマンが宮廷を離れたため、ビュルギが宮廷数学者・天文官に就任 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。宮廷内での地位が向上し、観測・計算を主導。
1591年 – カッセル市の市民権を取得 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。同年、牧師ダフィト・ブレーマーの娘と結婚し(子供無し)、義弟ベンヤミン・ブレーマー(3歳)を養子とする ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。数学・天文学を養子に教育し始める。またヘリオセントリック天文時計(方程式時計)を完成 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。地動説モデルに基づくこの機械式天文時計は当時極めて先進的なものであった。
1592年2月 – 神聖ローマ皇帝ルドルフ2世より機械式天球儀の製作を正式に依頼される ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
1592年7月4日 – プラハ城にて皇帝ルドルフ2世に拝謁し、完成した機械式天球儀を献上 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。皇帝より歓待を受ける。同月、帰郷途中の8月にヴィルヘルム4世が薨去。後継のモーリッツ方伯もビュルギを引き続き雇用 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。またこの年、ビュルギ考案の三角測量用測量器について神聖ローマ帝国特許(特許状)が下付される ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
1594年 – 皇帝依頼のもう一つの機械式天球儀を製作(完成品は現在チューリッヒ国立博物館に所蔵) ( File:JostBurgi-MechanisedCelestialGlobe1594.jpg - Wikipedia)。同年、ケプラーがグラーツで『宇宙の神秘』を著し、後に対数計算を渇望するようになる(当時ビュルギとは未交流)。
1596年 – ビュルギ、プラハ再訪 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。皇帝コレクションの時計・機器のメンテナンスや新規製作の打ち合わせを行ったと推測される。
1598年 – (参考)ケプラーがグラーツ追放後プラハ入り。ビュルギの存在を知る可能性が生じる。
1599年 – ティコ・ブラーエがプラハに赴任し帝室数学者に就任。ケプラーが助手となる ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。カッセルのビュルギとプラハのティコの間で、ヴィルヘルム4世経由の機器情報交換があった可能性がある(ヴィルヘルム4世は既に故人だが遺産としての機器の噂が伝わる)。
1601年10月 – ティコ・ブラーエ死去。ケプラーが帝室数学者(宮廷天文学者)に昇格 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。以後プラハ宮廷天文学はケプラーが指揮。
1604年12月 – ビュルギ、ヘッセン方伯モーリッツの許可を得てプラハ宮廷に正式転出。皇帝ルドルフ2世付きの時計師・数学者となり、プラハ城内に作業所を与えられる ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。同僚ケプラーとの共同作業が始まる。ケプラー、この年超新星(Keplerの星)の観測に取り組む。
1604~1609年 – プラハ宮廷で活動。ケプラーの天文計算を支援しつつ、自身の対数表原稿をまとめる(ケプラーに請われて執筆開始)。ケプラー、1609年『新天文学』刊行・第一二法則発見、対数の概念に触れ始める。
1610年 – ガリレオが望遠鏡による天文発見を次々報告。ケプラーら宮廷で追試。精密時計による観測タイミング計測への要求が一層高まる。ビュルギ、ケプラーに望遠鏡操作と時計計測の統合について助言した可能性。
1611年 – 最初の妻が死去。ビュルギ、同年中にカタリーナ・ブラウンと再婚 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。プラハの動乱(ルドルフ退位、マティアス即位)により宮廷の雰囲気が不安定に。
1612年 – ルドルフ2世崩御。新帝マティアスがビュルギを留任させる ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。ビュルギ自身は度々カッセルへの帰郷許可を得るようになる。
1615年 – ケプラー、ビュルギの対数表原稿の清書に着手か(この頃ケプラーは対数の有用性を確信し、出版を急かす)。ビュルギ、健康上の理由からカッセル滞在が長引くように。
1619年 – ケプラー『宇宙の調和』出版(第三法則発表)。序文などでビュルギへの謝意が示唆される記述あり。
1620年 – ビュルギの**『算術および幾何学の級数表(Progress Tabulen)』**がついに出版 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。実質的にケプラーの編集協力のもとで完成したもので、長年秘蔵していた対数表が日の目を見る。刊行地はプラハ、言語はドイツ語。一方、同年ビュルギはほとんどカッセルに戻って引退生活。
1627年 – ケプラー『ルドルフ表』刊行。序文にてビュルギの対数発見の件に言及し、その功績を紹介 ( Jost Bürgi - Wikipedia)。「怠惰で無口だったため発明を放置したが、ネイピア以前に対数に至っていた人物がいた」と記す。
1631年 – ビュルギ、正式にプラハ宮廷を辞しカッセルへ帰還 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。カッセルで静養の日々を送る。
1632年1月31日 – カッセルにて死去、享年79(墓碑は現存せず) ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。死後、その名は一時忘れ去られるが、同僚や弟子を通じて業績は引き継がれていく。
1654年 – (参考)ヘッセン=カッセル方伯領の学者ヨハン・ヘヴェリウスが対数表を出版(『対数の概要』)。序文でビュルギの独立発明について触れる。
1735年 – (参考)対数創始に関する歴史が議論となり、ビュルギの名前が再評価され始める。
1791年 – ルドルフ2世コレクションの整理中にビュルギ製天球儀が再発見され、ウィーンで研究が行われる。
19世紀後半 – モーリッツ・カントールなど数学史研究者がビュルギの伝記を著述 ( Jost Bürgi - Wikipedia)。対数発明の独自性などが学術的に検討される。
1935年 – 月のバーギウス(Byrgius)クレーターに命名(国際天文学連合により公式承認) ( Jost Bürgi - Wikipedia)。
1950年代 – 対数発明の歴史研究が進み、E.M.ブロインズらがビュルギの貢献を詳述 ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。
1980年代 – スイス・ドイツでビュルギ生誕地の郷土史研究や、数学史・時計史の観点から論文発表相次ぐ ( Jost Bürgi (1552 - 1632) - Biography - MacTutor History of Mathematics )。1982年には生誕地リヒテンシュタイグで記念事業(展示会・出版)が行われる。
21世紀 – 2001年ルートヴィヒ・オクスリンによる評伝刊行 ( Jost Bürgi - Wikipedia)。2015年フォルカーツらによるサイン計算法の再評価論文 ( Jost Bürgi - Wikipedia)。現在も時計史・計算史の分野でビュルギの研究が続けられている。