ヨスト・ビュルギ(Jost Bürgi)

ヨスト・ビュルギ(Jost Bürgi)

ヨスト・ビュルギ(1552–1632)は、スイスに生まれ、カッセルとプラハの宮廷で活動した時計師・器械製作者・数学者である。観測のための時計、天体の動きを示す模型、角距離や地上の距離を測る器械を作る一方、天文学に必要な多桁の計算を簡単にする方法も探った。現在残る時計や測量器械と、正弦値の算法、代数学稿、1620年の級数表を合わせて見ると、精密な物を作る仕事と数を扱う仕事が、一つの宮廷の現場で結び付いていたことが分かる。13 14

カッセルとプラハでの生涯#

記録に現れる前の修業#

ビュルギは1552年2月28日、トッゲンブルク地方のリヒテンシュタイグに生まれた。父リェンツは錠前職人だったと考えられている。1579年にカッセル宮廷へ雇われるまでの経歴は乏しく、どこで時計・器械の製作技能を得たのかは確定していない。ストラスブールの数学者コンラート・ダシーポディウスとの関係や、大聖堂の天文時計製作に接した可能性は研究で論じられるが、各都市を巡った順序や修業期間が史料で連続して分かるわけではない。13 14

この不明な前半生と、後に見せる高度な技能の落差が、独学者としてのビュルギ像を印象づける。ただし大学教育を受けた記録が乏しいことは、職人の修業や同業者との交流まで無かったことを意味しない。Waldvogelも、ストラスブール説のほかシャフハウゼンで技能を得た可能性を紹介しつつ、確かな来歴として扱うことを避けている。14

ヘッセン方伯の観測事業#

1579年7月25日に宮廷時計師へ任命されたビュルギはヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世の時計師・天文家として活動した。天文学に深い関心を持つ方伯は1560年に常設の観測施設を設けていた。ビュルギは時計や天球儀を製作・整備し、クリストフ・ロートマンらとともに天体観測にも参加した。13 14 19

角度を細かく刻んだ器械だけでは、観測の精度は決まらない。天体をいつ観測したかという時間の記録も要る。一方、観測値から位置を計算するには三角関数表と多桁の乗除算が必要だった。時計を安定して動かす課題と、計算を手早く確実に進める課題が、同じ仕事の中にあったのである。ビュルギの時計と数表は、この二つの要求に応えるものとして理解できる。1 9 14

1592年、ビュルギはプラハのルドルフ2世に天球儀を披露した。同年にヴィルヘルム4世が亡くなった後も、その子モーリッツの庇護の下でカッセルに勤めた。1594年の小型天球儀など、現在の博物館に伝わる精巧な作品は、この宮廷時代の技能をよく示している。11 14 15

ビュルギがラテン語を習得しなかったことも、知識の伝わり方を考える鍵になる。MacTutorは、1586–1587年にカッセルで働いたニコラウス・ライマース・ウルススが、ビュルギのためコペルニクスの主著をドイツ語に訳し、その写本が伝わると説明する。学問の言語へ直接通じていなくても、翻訳と同僚の助けによって理論を知り、それを器械へ移す道があった。18

皇帝の工房とケプラー#

1604年12月23日、ビュルギはプラハでルドルフ2世の皇帝時計師となった。19 ここでヨハネス・ケプラーと親しく交流した。ケプラーはビュルギを観測者・機械製作者・数学者として高く評価し、数学上の発見を文書にまとめるよう促した。二人の関係は、君主と受注者の関係とも、単に学者が職人へ仕事を命じる関係とも異なり、技術と計算について知識を交換する同僚の関係だった。13 15

その交流を示す一つが、ケプラーの校訂を経て伝わる代数学稿「コッス」である。ビュルギが1620年に印刷した級数表とは別の著作で、正弦表を構成するために代数学を利用する仕事が記される。ケプラーの惑星運動法則は、第1・第2法則が1609年、第3法則が1619年に公表された。二人が数学を論じたことと、特定の法則がビュルギの表から直接導かれたと証明することは区別される。10 16

ブレーマーは師をルドルフ2世、マティアス、フェルディナント2世に仕えた皇帝時計師と記す。5 ビュルギはプラハとの関係を保ちながらカッセルにも滞在し、1631年にカッセルへ戻り、1632年1月31日に没した。義弟で弟子でもあったベンヤミン・ブレーマーは、後に三角器械の説明書を公刊し、師の器械と数学上の仕事を伝える重要な証人となった。5 13 15

観測用時計――音と表示を分けて読む#

ビュルギの観測時計の工夫を示すのが、カッセルに残るクロスビート脱進機とぜんまい式中間巻を備えた時計(APK U43)である。所蔵館はビュルギへの帰属作品とし、製作年代を1590年以前、または1600年以前という幅を伴って記載している。作者の署名がある時計と同じ確度で年代を一点に固定することはできない。1

クロスビートは、歯で連結された二つの腕を反対方向へ振動させる機構である。中間巻は1時間ごとに作動し、ぜんまいの解け方のうち同じ範囲を使い続ける。大きく巻かれたときから解けきるまでをそのまま使う場合に比べ、駆動状態の変化を小さくする工夫と理解できる。1

時計の精度と、文字盤が何を表示するかは別の問題である。所蔵館が紹介する16世紀の観測記録には、ロートマンらが1分より細かい時間間隔を測り、二重の調速腕を持つ時計については分針も秒針もなく、音を聞いて分の端数を数えたと記す。館はこの説明がU43によく合い、振動周期1秒を示唆するとしている。機械の音を数える方法も、当時の時計を観測に使う重要な技術だった。1

1586年4月14日には、ヴィルヘルム4世がティコ・ブラーエ宛の書簡でビュルギの時計を紹介した。MacTutorの解説は、この時計について分表示と秒の計測、一日1分未満の誤差を伝える。書簡が取り上げる時計の記録と、分針・秒針のない時計に合うU43の記録は、それぞれの資料に帰属させて読む必要がある。宮廷の外へ性能の情報を伝える書簡と、現存品の機構比較が、当時の時計を知る二つの手掛かりになっている。1 18

太陽と月の平均運動・真運動を示す1591年の時計#

カッセルの月異常時計(APK U24)は1591年、ビュルギとハンス・ヤコブ・エムクによる作品で、金めっき真鍮・鉄・彫刻銀を用い、蓋を閉じた高さ11cm、縦横15.5cmの小さな卓上時計である。所蔵館はその主機能を太陽と月の平均運動と真運動の差の表示と説明する。2

ここでいう平均運動とは、天体が一定の速さで動くと仮定した計算上の運動であり、真運動は観測される不均一な動きに対応する。一定に進む時計の歯車から不均一な天体運動を表現するには、複数の周期を機械の中で合成する必要があった。U24ではコペルニクスの二重周転円による月理論を使い、異なる速さと方向の円運動を遊星歯車と差動遊星歯車で組み合わせる、と館の目録は説明する。2

これはコペルニクスの月の理論を具体的な歯車の運動へ翻訳した事例である。月の位置の不均一さを、異なる円運動の合成によって表す16世紀の理論と精密工芸の接点を見ることができる。2 3

三角器械――遠方を相似な三角形へ縮める#

測量器にもビュルギの幾何学が表れている。オックスフォード科学史博物館の署名入り三角器械(所蔵番号54181、1600年頃)は、基線側の腕の長さ324mm、金めっき真鍮製で、元の所有者Alberto Marchoniの名を刻む。目録は射程測定用の器械として紹介し、腕の裏面に異なる材質の砲弾の大きさと重量に対応する目盛があると記す。4

使い方の要点は、現地で測った基線を器械上へ縮尺どおりに移し、その両端から目標を照準することである。地上の三角形と器械の腕が作る三角形が相似になるため、腕上の目盛から距離を読み取れる。難しい数値の三角関数計算を、形と縮尺を使う操作へ置き換える器械である。4

ビュルギの師弟・親族関係にあったベンヤミン・ブレーマーの器械説明書は、2本の等長の真鍮定規、可動スライダーに取り付ける第3の長い定規、固定ねじ、等間隔目盛、照準器という構成を述べる。1684年再版の読者序文には、ルドルフ2世が1602年に特権を与えたと記されている。同じ序文は、それより前に説明図版の準備があったことも回顧している。図版の準備と特権の付与は異なる出来事として記される。5

ETH図書館の略伝は特許年を1592年とする一方、ブレーマーの序文は1602年と記す。特許状自体は今回の探索では発見できていないため、両者の相違を最終的に解消するにはその文書の確認が必要である。ここでの1602年という説明は、年を明記するブレーマーの証言に帰属する。15 現代の特許と同じ保護範囲を想定したり、文書を見ずに請求内容を再構成したりはできない。同時代にはダンフリーやツブラーらの類似器械もあり、ビュルギ一人が三角測量の原理そのものを発明したとすることとも区別される。4 5

ドレスデンの実験時計#

ドレスデンの数学物理学サロンに伝わる実験時計は、木製ケースに収めた高さ50.8cmの時計で、同じ中心に時針と分針を置き、時打ちと中間巻を備える。ChandlerとVincentの研究は、その真鍮製ムーブメントと、羽の付いた天使の頭をかたどる錘を端に持つ二本の交差腕を紹介する。装飾された錘も調速部の一部として働く。19

同研究は、このドレスデン時計とウィーンの水晶時計を別個の作品として扱う。ドレスデン時計には1625年頃という年代案があるものの、その案に証拠が示されていないことも指摘しており、製作年は確定しない。19

ストックホルムの渾天儀付き天文時計#

北方民族博物館(Nordiska museet)の渾天儀付き天文時計(NM301.573)は、高さ88.3cm、金めっきした真鍮・青銅と黒檀の台を組み合わせた大きな作品である。下部の横置き卓上時計の上へ、天球を輪で表す渾天儀を載せる。博物館のBursellによる解説は、ビュルギが設計・製作した可能性がきわめて高いとし、金工にアイゼンホイトの署名があることを記す。製作年は不明で、グレゴリオ暦導入の1582年からアイゼンホイト没年の1603年までの間とする。21

卓上時計には49星座を彫った星図と、ユリウス暦・グレゴリオ暦の二重の暦環を置く。解説によると、元来は星図と暦が1年で一周し、その上の真鍮の網目状表示が反対向きに1日で一周した。時計は四半時と正時を打ち、時刻・日付・星の位置を示した。上の渾天儀には太陽や月の運動を表す部分も組み込まれたが、解説時点ですでに連結部や月を表す部品が失われている。21

同解説は、プラハの皇帝コレクションにあった時計とこの個体が同じである可能性を述べる。1695年にはストックホルム王宮にあり、1697年の火災で大きく損傷した。19世紀半ばに歴史博物館へ移り、1930年代にNordiska museetへ寄託された。1980年のミュンヘンの時計展に際して修復を受けたという来歴も伝える。宮廷の模型が火災・収集・修復を経て残った例である。21

級数表の働き――赤い数を足すと黒い数が掛かる#

1620年の『算術および幾何学の級数表』は、等差的に増える赤い数と等比的に増える黒い数を対応させる。Roegelによる原表の解析では、赤数0に黒数100000000、赤数10に100010000が対応し、赤数が10増えるたび黒数は1.0001倍される。現代の記法で赤数をr、黒数をbとすれば、丸めを別として b=10^8×1.0001^(r/10) である。6

たとえば黒数を10^8で割った値を考えると、赤数10は1.0001、赤数20は1.00020001、赤数30は1.000300030001に対応する。したがって最初の二つを掛けるときは、赤数10と20を足して30にし、対応する黒数を読めばよい。これは表の原理を示す現代の計算例であり、原表の整数丸めまで再現した転記ではない。除算では赤数を引き、累乗では掛け、根では割るという対応が成り立つ。表を使う際は黒数の桁の尺度と補間も扱う必要がある。6

ウィーンの惑星時計と水晶時計#

ウィーン美術史博物館の惑星時計(Kunstkammer 846)は、ビュルギへの帰属作品として1605年頃、プラハ製とされる。金めっき銅合金、彩色銀、水晶、ガラス、鉄を用いた高さ39.3cmの卓上時計である。上部の大きな文字盤では、中央の固定された太陽のまわりに、水星・金星・火星・木星・土星を表す五つの指針が回る。館はこれを太陽中心の惑星系を機械で表現した最初の時計と評価し、ケプラーとの相談にも言及する。3 7

この作品は、中央の太陽と五つの惑星の配置を動く指針で表現している。その表示は、プラハ宮廷で新しい宇宙像を機械の動きへ移した具体例である。3 7

同館の水晶時計(Kunstkammer 1116)は1622–1627年頃のプラハ製で、機構内にビュルギの署名を二つ残す。館は現存最古の秒表示を持つ時計と説明する。金めっき銅合金・銀・水晶を使うこの作品は、ビュルギへの帰属にとどまる観測時計U43と比較するうえでも重要である。ChandlerとVincentは、水晶時計には四半時打ちと15分ごとの中間巻、月齢・月相表示があり、外側の水晶ケースの中に動く水晶の天球を収め、その内側に青焼き鋼の渾天儀を置くと説明する。二本の腕の代わりに二つのテンプを使う改変型のクロスビートを備える点も、観測時計との違いである。19 1 8

正弦算法――足し算の反復から数表を作る#

天体の角距離から位置を求める計算には正弦などの三角関数の数表が要る。ビュルギのクンストヴェーク(Artificium)は、角を等分したときの正弦値を一組まとめて近似する算法である。Waldvogelの現代的説明では、列の一番下の値を半分にして下から上へ足し上げ、次にその結果を上から下へ足し上げる。この往復を繰り返し、最後に列の各値を最下段の値で割って、90度の正弦が1になるよう尺度をそろえる。9

原理を見るため、30度・60度・90度に対応する仮の列を4・7・8とする現代の説明例をたどろう。最下段8の半分4から上へ進むと4、11、15となり、上から並べた中間列は15・11・4である。これを上から累積すると15・26・30が得られる。もう一往復で56・97・112となり、その次には209・362・418となる。最下段で割った60度の近似は7/8=0.875から26/30、97/112、362/418へと進み、約0.8660254へ近づく。掛け算の負担が少ない累積加算から、高精度の数表を組み立てられる点がこの算法の特徴である。9

これは正弦値を作る方法であり、赤い数と黒い数で乗算を簡単にする1620年の級数表とは役割が異なる。『天文学の基礎』に記された算法と、伝承される2角秒刻みの大規模正弦表も、写本・計算法・完成表のそれぞれを区別して扱う必要がある。5 9

代数学稿「コッス」#

ビュルギの代数学稿は慣例的に「コッス」(Coss)と呼ばれ、1596–1603年頃に成立し、ケプラーの校訂へ渡ったと考えられている。Moosbruggerによる校訂研究の再検討では、直径2の円で60度の弧を五等分した弧の弦を求める問題を、1=5x−5x³+x⁵という方程式で扱う。xは12度の弧の弦に対応する。ビュルギは一つの方程式が複数の解を持つことも、同じ弦が異なる弧に対応し、さらに一周を加えても弦の長さが変わらないという円の幾何に結び付けて説明した。10

時計師の数学は、数値を速く算出するための手順だけではなかった。この例では、正弦表の構成を助ける代数学と、その解が幾何学の何を表すかという問いが接している。ケプラーが校訂した代数学稿と、1620年に印刷された級数表は別の著作である。10

天球儀と六分儀#

星座を彫刻した金色の球と、目盛環・三脚を備えるビュルギの1594年天球儀

図1:1594年の機械式天球儀(チューリッヒ、スイス国立博物館蔵)。撮影:Horology(天球儀製作:ヨスト・ビュルギ)。出典:Wikimedia Commonsの個別ファイルページ。ライセンス:CC BY-SA 3.0 Unported。変更:なし。

チューリッヒのスイス国立博物館が紹介する1594年の天球儀は、金めっきされた真鍮の小さな作品である。Waldvogelは球の直径142mm、全高255mmとし、天球の運動と太陽の運動を表示して時刻を示す時計仕掛けとして解説する。大きな観測器械だけでなく、手元に置ける立体模型へ天体の規則的な運動を凝縮した仕事だった。11 14

プラハ国立技術博物館の六分儀(所蔵番号17195)は、1600年頃のビュルギの作品として研究されている。シュヴェイダの所蔵研究によると、二本の端の腕と二本の支えで本体を作り、半径1122mmの円弧と二つの照準器を用いて、任意の平面で天体間の角距離を測れる。読取補助によって1角分まで測定できたとされる。屋外では石のブロックへ固定し、ほかでは木部を持つ軽い鍛造の架台へ収めた。木製の支持台と、角度を測る器械の本体は別の部分である。20

この六分儀は、同館にあるハーベルメルの別個体(所蔵番号24551)と区別される。館はケプラーの観測利用を紹介し、シュヴェイダも利用の可能性を記す。時計が測るのは時間、六分儀が測るのは角距離であり、両者を製作する技能が同じ宮廷天文学の現場で求められた。12 20

現存する天球儀の広がり#

ビュルギの時計仕掛けの天球儀は、チューリッヒ以外にも伝わる。Dekkerの天球儀研究の個体一覧は、次の作品を区別して収録する。球径は同研究での記載値で、チューリッヒの寸法が14cmに丸められていることも分かる。22

研究一覧の作品・所蔵先同一覧の製作年代球径
パリ、工芸博物館(CNAM)1582年23cm
ワイマール、アンナ・アマーリア図書館1585年頃23cm
カッセルI1585年頃23cm
カッセルII1594年頃23cm
チューリッヒ、スイス国立博物館1594年14cm

パリの個体(所蔵番号07490)について、工芸博物館が寄稿するLionel Dufauxの解説はビュルギとアイゼンホイトの共同作品とし、回転する星座の球と、閏年に対応する永久暦を説明する。科学アカデミーの旧蔵を経て、19世紀半ばに博物館へ入ったという。この解説の年代は1580年で、Dekker一覧の1582年と差がある。個体の技術と来歴を説明するとともに、年代は資料ごとの記載として示す。23

技術と数学を伝えた人々#

ヴィルヘルム4世は、観測事業に必要な時計と器械を求めた最初の主要な庇護者だった。モーリッツは父の死後もビュルギを支え、ルドルフ2世は天球儀の製作者を宮廷へ迎えた。こうした雇用と収集の環境が、実用的な観測時計と華麗な天文模型の双方を作る条件になった。13 14 15

作品は共同作業の成果でもあった。1591年の月異常時計にはハンス・ヤコブ・エムクの名が並ぶ。ブレーマーの説明書は、図版を金細工師・彫版師アントニオ・アイゼンホイトに依頼した経緯を述べる。器械の設計、金属加工、彫刻、図を通した説明は、異なる技能を要する仕事だった。2 5

数学史の側でも伝達の道筋は一つではない。1620年の級数表は、1614年に印刷されたネイピアの対数表に後れた。ビュルギがいつその発想に達したかについては、HLSなどが1588年頃からの独立発見を記す一方、Roegelは当時の証言を正弦計算の簡略化に関するものと読み、級数表の成立を1605–1610年頃と考える。印刷年と発見年、別種の計算術を一つにまとめず、証言の解釈に幅がある問題として読む必要がある。6 13

ケプラーは1627年の『ルドルフ表』で、ビュルギがネイピアの刊行より何年も前に対数へ達していたと証言し、成果を広く公にしなかったことを批判した。これは当時の評価を知る証言だが、発見年を1588年に確定するものではない。Roegelもこの証言を検討したうえで、より早い年代を示す証拠の読み方に留保を置いている。6 18

級数表の伝わり方にも、後世の研究の積み重ねがある。Roegelは、ケストナーが1776年のローヴィッツ蔵書売立で得た資料中にビュルギの表を見いだし、ブレーマーの記述を手掛かりに著者を認めた経緯を述べる。1847年にはルドルフ・ヴォルフがミュンヘンの本を再び見いだした。表そのものの所在を調べ、残る数字を再計算する仕事によって、発見の評判とは別に計算の内容と質を検証できるようになった。6 14

ブレーマーが述べる2角秒刻みの正弦表と、正弦算法を記した『天文学の基礎』の写本も異なる。完成した巨大な表そのものの実態は、現存する直接証拠だけでは十分分からない。算法の書かれた写本は2013年にヴロツワフで再発見され、現代の研究によって累積和の反復法として解読・検証されている。失われた表を惜しむだけでなく、残った手順を再現して性能を確かめられる点に、現在の研究の強みがある。5 9 10

ChandlerとVincentは、1953年のハンス・フォン・ベルテレによる現存時計の機構研究を、クロスビート脱進機の意義が再び認識される契機として挙げる。残った物を調べる時計史と、数表・写本を読む数学史が、ともにビュルギの仕事を再構成している。19

ビュルギの名前は月のクレーターByrgiusにも残る。USGSが公開する国際天文学連合の地名台帳は、由来をスイスの時計師Bürgi(1552–1632)とし、承認年を1935年と記録する。名を記念すること以上に、現在の博物館や研究者が時計の帰属、器械の操作、計算表の正確さを調べ続けていることが、その仕事を具体的に伝えている。17

年表#

年主な出来事
15522月28日、リヒテンシュタイグに生まれる。13
1579ヴィルヘルム4世のカッセル宮廷へ時計師・天文家として雇われる。13 14
15864月14日、ヴィルヘルム4世がティコ宛書簡で時計を紹介したと伝わる。18
1591月異常時計U24を製作。エムクとの共同作品として伝わる。2
1592プラハのルドルフ2世に天球儀を披露。ヴィルヘルム4世の死後、モーリッツに仕える。14 15
1594現在スイス国立博物館に伝わる小型天球儀を製作。11
1596–1603頃代数学稿「コッス」をまとめ、ケプラーの校訂へ渡す。10
1602ブレーマーの証言によれば、三角器械に皇帝の特権が与えられる。5
1604プラハでルドルフ2世の皇帝時計師となる。13
1605頃ウィーンに伝わる惑星時計の推定製作年代。7
1614ネイピアの対数表が印刷される。6 14
1620ビュルギの級数表がプラハで印刷される。6 14
1622–1627頃署名入りのウィーン水晶時計の推定製作年代。8
1627ケプラーが『ルドルフ表』でビュルギの対数の先行を証言する。6
1631カッセルへ帰還。15
16321月31日、カッセルで没。13 15
1648ブレーマーの三角器械説明書が公刊される。5 15
1776ケストナーが、後にビュルギの表を見いだす資料群を売立で入手。6
1847ヴォルフがミュンヘンの級数表を再発見。6 14
1935月面クレーターByrgiusの名がIAUに承認される。17
1973ケプラー校訂による「コッス」の現代校訂が刊行される。10 13
2013『天文学の基礎』写本の再発見により正弦算法の再検討が進む。9

参考文献#

以下のオンライン資料の閲覧日は2026年10月23日。古刊本の再版年、研究の刊行年、所蔵記録の項目を区別して示す。

  1. Hessen Kassel Heritage, クロスビート精密時計 APK U43

2. Hessen Kassel Heritage, 月異常時計 APK U24

3. KHM「自然の時」展、第I章

4. Oxford, Epact: Triangulation Instrument, inv54181

5. Benjamin Bramer, Apollonius Cattus, 1684版第三部、A3r–v(1648年献辞を含む)

6. Denis Roegel, Bürgi’s Progress Tabulen (1620): logarithmic tables without logarithms, rev2013、pp8–13

7. KHM, So-called Viennese Planetary Clock, inv846

8. KHM, So-called Viennese Crystal Clock, inv1116

9. Jörg Waldvogel, Jost Bürgi’s Artificium of 1586 in modern view, March2016、pp2–3

10. Damian Moosbrugger, A clockmaker’s mathematics, Archive for History of Exact Sciences79,8 (2025)

11. Landesmuseum Zürich, Sammlung im Westflügel、1594年天球儀の解説

12. Národní technické muzeum, 三つの所蔵品の国の文化財指定、六分儀の解説

13. Erwin Neuenschwander, Bürgi, Jost, Historisches Lexikon der Schweiz (2005更新)

14. Jörg Waldvogel, Jost Bürgi and the Discovery of the Logarithms, ETH report2012-43、pp3–4・8

15. ETH-Bibliothek, Jost Bürgi (1552–1632)、生涯と所蔵文献案内

16. BAdW Kepler works project, The Planetary Laws

17. USGS/IAU Gazetteer of Planetary Nomenclature, Byrgius, Feature943

18. J. J. O’Connor・E. F. Robertson, Jost Bürgi, MacTutor History of Mathematics(2010年5月更新)、1586年書簡・Ursus独訳・1627年証言の解説

19. Bruce Chandler・Clare Vincent, A Rock Crystal Watch with a Cross-Beat Escapement, The Metropolitan Museum Journal15 (1980)、pp194–196の図3–6、付録pp200–201

20. Antonín Švejda, Přístroje a pomůcky z Klementina ve sbírce Národního technického muzea, Acta Universitatis Carolinae – Historia Universitatis Carolinae Pragensis57(2), 2017〔2018刊〕、表p111・本文pp112–114

21. Barbro Bursell, Något makalöst! Nordiska museets astronomiska ur med armillarsfär, Nordiska museet〔1987年資料〕、全2頁

22. Elly Dekker, Globes in Renaissance Europe, The History of Cartography, vol.3, part1, ch.6、付録pp167–169、no.120・126・127・149・150

23. Lionel Dufaux/Musée des arts et métiers, Sphère céleste, dite sphère de Bürgi, inv.07490(Google Arts & Culture掲載の所蔵館解説)