ルイ=クレマン・ブレゲ ― 時計工房から電信と時刻配信へ

ルイ=クレマン・ブレゲ#

ルイ=クレマン・ブレゲ(Louis-Clément Breguet、1804年12月22日–1883年10月27日)は、パリで活動した時計師、精密機械製作者、物理実験家である。創業者アブラアン=ルイ・ブレゲの孫で、父アントワーヌ=ルイから1833年に家業を継いだ。航海用クロノメーターや天文用の計数器を扱う技術を、温度の自動記録、光の速さを調べる装置、電信機、都市の時刻配信へ広げた。1 2 3

時計史における彼の仕事は、精度のよい時計を一台作ることだけではない。離れた場所に同じ時刻を示させるには、どこで時間を刻み、どの機械を電気で動かし、通信が一度途切れたらどう復帰させるかを決める必要がある。彼の電気時計の説明には、その設計上の選択が具体的に現れている。4

名前と世代を区別する#

原語の資料にはLouis François Clément、Louis-François-Clément、Louis Clément François、単にLouis Breguetという表記がある。フランス国立図書館の典拠は、パリの再製戸籍と死亡証書を根拠として1804年12月22日生、1883年10月27日没とする。航空機を製作した孫のルイ=シャルル・ブレゲ(1880–1955年)とは別人である。1 2

世代人物本記事との関係
祖父アブラアン=ルイ(1747–1823年)時計工房の創業者
父アントワーヌ=ルイ(1776–1858年)1823年に家業を継ぎ、1833年に息子へ譲る
本人ルイ=クレマン(1804–1883年)時計と科学機器・電気機器の事業を展開
子アントワーヌ(1851–1882年)電気・電話部門で父と協働
孫ルイ=シャルル(1880–1955年)後年の航空機製作者

工房の製品に「Breguet」とあるだけでは、家族の誰が発案し、設計し、部品を製作したかまでは決まらない。以下でも、会社の継承、作品の販売、本人の発明、協力者の仕事を分けて扱う。2 3

職人としての教育と工房の継承#

科学機器史家パオロ・ブレンニによれば、ルイは少年期をヌーシャテルで過ごし、フランスへ戻って父の厳格な指導を受けた。ヴェルサイユでの修業を経て1824年にジュネーヴへ行き、1827年にパリへ帰ると、航海用クロノメーターの製作を担当した。アラゴの助言を受け、理工科学校の講義にも通って物理と数学の知識を補ったという。これは正規課程の卒業を意味する記述ではない。3

1833年、父から事業を引き継いだルイは、ルイ・ラシユール、会計担当のトレドとともにBreguet neveu et Cieを構成した。家業には熟練した職人集団と科学者との関係があり、彼は時計製造を工房長に任せながら、物理学の機器や電気装置を加えていった。厳しい修業の逸話を伝える追悼文は人物を顕彰する性格も強く、勤務時間などの細部をそのまま客観的な労務記録とはみなせない。2 3

時計作品と顧客#

No.5015――販売を発明と混同しない#

1833年7月3日にアバーコーン侯爵へ売られたNo.5015は、鍵を差し込む代わりに、吊り環側の小さなボタンで巻上げと針合わせを行う懐中時計である。クリスティーズの現物記録には、金ケース、銀色の偏心した時刻表示、日付、レバー脱進機、温度補償テンプ、ケース側面の日付修正ボタンが記載されている。機械は金色に仕上げた真鍮を用い、ケース直径は34mmとされる。5

この時計はルイ=クレマンの事業継承直後の販売例だが、無鍵巻きそのものを彼一人の発明とすることはできない。所蔵者側の2013年発表は、祖父の寄与、父による完成・商品化、ルイ=クレマンによる販売を三世代に分ける。販売先と日付は競売記録とも一致するが、後者もブレゲ社の記録に依拠しているため、二つの独立した工房原帳を読めたことにはならない。5 6

サンパティーク時計――親時計に預けて合わせる#

サンパティークは、懐中時計を置時計の受け部に載せると、親時計の機械作用によって時刻を合わせる構想で、出発点は祖父の仕事にある。国立マルメゾン・コンピエーニュ城博物館の作品解説は、ルイ=クレマンが1833年に巻上げ機能を加えたとする。7

同目録が扱うNo.48(フランスのモビリエ・ナショナル所蔵、GML1302)は、ルイ=フィリップ王が1836年に購入した品として記録される。金と銀、エナメルを用い、シリンダー脱進機とギヨシェ彫りの文字盤を持つ。ただし同じ解説は、この個体には巻上げ機構が見えず、改良型との同定を推定にとどめる。したがって、ルイが改良した系列の説明と、この現存品に実装された機能は同一視できない。7

点を残す計数器No.611#

Antiquorumが2005年に扱ったNo.611は、1847年製、1849年9月6日に農商務大臣へ販売された「新型の点打ち計数器」とされる。金色の真鍮の筒型ケース、秒の目盛、60分・12時間の積算表示を持ち、側面のボタンでインクを付けた針を作動させる。現物解説は、シリンダー脱進機、真鍮のテンプ、平ひげも記す。8

この種の装置は、時計の針を眺めて数値を書き取る代わりに、観測した瞬間を文字盤上の点として残す。ブレゲ家には祖父以来の計数器の系譜があり、ルイはその改良を天文観測と物理測定へつないだ。No.611の記録は工房製品の具体例であって、点打ち式クロノグラフ全体の発明を彼に帰属させる証拠ではない。2 8

時計で観測を記録する#

1840年7月6日の科学アカデミー議事録は、Breguet filsが提示した「テルモメトログラフ」、すなわち温度の自動記録計を説明する。金属温度計の針を、時計機構で毎時一度だけ紙の目盛へ押し付け、温度に対応する点を記録する。直後に針を解放し、次の時刻には紙の位置が変わって別の同心円上に記録が残る。24時間で24個の点を作り、紙を日ごとに交換する方式だった。9

重要なのは、温度を感じる部分と、いつ記録するかを決める部分の分担である。金属の熱膨張が温度を針の位置へ変え、時計が一定の間隔でその位置を紙へ写す。追悼文は、祖父の金属温度計と点打ちの考案をルイが組み合わせたと説明する。温度計自体を孫の新発明とするのは適切でない。2 9

誘導コイルと光学実験を支える工作#

マッソンとの誘導研究#

1841年、アントワーヌ・マッソンとBreguet filsは電磁誘導に関する研究を発表した。同年の科学アカデミーへの著者抄録には、電流を開閉する際の作用、重ねたコイル間の作用、真空中での放電などの実験が記される。そこに含まれる静電気的な理論解釈は、当時の説明として読む必要がある。10

現代の言葉で中心原理を述べれば、一方の回路の電流を変化させ、磁気的な作用を通じて別の回路に一時的な電圧を生じさせる装置である。ルイ自身も1862年の手引書でマッソンとの共同製作を述べ、その後のド・ラ・リーヴ、フィゾーらの改良とルームコルフの製作を区別する。「ルームコルフのコイル」を完成形までルイ一人が作った、と読み替えるべきではない。4

回転鏡と歯車の精度#

アラゴが空気中と水中の光の進み方を比較する実験を構想した際、鏡を高速で回し、その回転を把握する機械が必要になった。ルイは高精度な歯車を用いた装置を製作した。1886年の追悼文は、三枚の鏡をそれぞれ毎秒2,000回以上回した装置と、鏡を取り外した軸で毎秒9,000回に達した試験を別々に記している。後者を鏡付きの運転性能として扱うことはできない。2

フィゾーとブレゲの共同実験に対し、フーコーには製作者フロマンが協力した。科学者の着想に応じ、鏡や回転部を製作する職人の役割を区別して見ると、時計工房の技術が物理学へ入る経路が分かる。歯車の精度は、針を滑らかに回すためだけでなく、短い時間の差を観測できる装置を成立させるためにも必要だった。2

電信機――電気で脱進機を制御する#

1845年のパリ–ルーアン線に関わったルイは、電信行政のアルフォンス・フォワと結び付き、腕木式の光学電信から電気式への移行を担った。フォワ=ブレゲ式の二本の指示針は、既存の信号の読み方を使えるようにしたものである。1862年の手引書では二組の機構を独立させ、各針の八つの位置を組み合わせて64通りの信号を作ると説明する。2 4

文字を直接示すダイヤル電信機では、送り手が文字盤上のハンドルを回し、回路の開閉を伝える。受信機は電磁石の可動部分と脱進機を結び、時計仕掛けの輪列を段階的に進めて、相手側の針を対応する文字へ動かす。電気の役目は、すべての歯車を力任せに駆動することではなく、蓄えた機械エネルギーをどの段階で解放するか制御することにあった。4

ルイの1862年第4版『電気電信手引書』は、電池などの基礎、電信装置、架空・地下・海底の回線、電気時計や鉄道信号を一冊で扱う。装置の発明だけでなく、電源の維持、回線、操作の方法まで説明する点に、実務用の機器製作者としての視点がある。4

都市の時計を同じ時刻にする#

毎分の電流で進む子時計#

リヨンの設備について、本人の1862年の手引書は、県庁の親時計が街路のガス灯内に置かれた24台の時計を動かしたと記す。一方、1886年の追悼文は1856年の設備を「72文字盤」とする。時計と文字盤という数え方の違いがあり、確認した記述だけで両者を一つの台数へ換算することはできない。2 4

手引書の小型子時計では、親時計が毎分、向きを交互に反転させた電流を送る。電磁石と磁化した鋼の可動片が往復し、二つの爪が交互に60歯のラチェットを一歯ずつ進める。分針は60回の信号で一周する。こうした子時計は自分の振子で一分を測らず、届いた信号を数えて時刻を表示する。4

大きな針を動かす場合、電磁石だけでは力が足りないため、巻き上げた時計の輪列に駆動を任せ、電気は脱進機の解放を受け持つ。本人は屋外の針をガラスで覆い、風で逆行するのを防ぐ必要にも触れる。電気化しても、針の負荷や屋外環境という機械側の条件はなくならない。4

自走する時計を合わせ直す#

信号を数える方式には弱点がある。親時計、電池、配線のいずれかが止まれば子時計も止まり、信号を一度逃しただけでも、その分の遅れは自動的には取り戻せない。ルイが1857年の発表を参照して説明した別方式は、それぞれの時計を通常の振子と輪列で走らせ、正午と午夜の電気信号で針を12時へ戻すものだった。4

この場合、通信は時計の日常の駆動を全面的には担わない。一度の信号が届かなくても時計は自走し、次の時刻合わせが正常に働けばずれを修正できる。ただし、親時計に合わせた表示であることと、時計自体の歩度がよいことは別問題である。4

方式各地点で時間を刻むもの電気の主な役割信号が欠けた場合
毎分駆動の子時計原則として親時計表示を一段ずつ進める取りこぼした進みは残る
自走時計の時刻合わせ各時計の振子と輪列決まった時刻に針を合わせる時計は走り続け、次の正常な合わせ直しを待つ

1876年のパリの仕事について、追悼文は、ルヴェリエの課題に応え、天文台の基準時刻を市内16か所の「時刻センター」へ一秒の範囲で再現する計画を記す。同じ記述はフーコー、ヴェリテ、ウォルフの先行する着想・実装も挙げている。都市の時刻網は一人の独創だけでなく、観測、時計製作、電気回線、公共運用の接続によって成立した。2

音叉時計No.1150と協力者ニオデ#

ラ・ショー=ド=フォンの国際時計博物館(MIH)は、1868年の卓上音叉時計No.1150、収蔵番号IV-337をルイ=クレマンの作品として収蔵する。四面をガラスで囲むニッケルめっきの真鍮ケースに、二つの香箱、輪列、脱進機を備える。調速器は長さ250mmの鋼製音叉で、所蔵館は振動数を100Hzと記す。Hzは一秒あたりの完全な往復振動の回数を表す。11

ここでは音叉の一方の腕が脱進機に接し、輪列から力を受けて振動を続ける。電気信号で各地の子時計を進める装置とは異なり、音叉自体を時計の時間基準にした機械である。高い振動数だけで歩度のよさを保証することはできず、接触の摩擦、加える力、材料や環境の条件も問題になる。11 12

また、1866年12月10日にニオデ=ブレゲが発表した原報は、本人の一人称でこの種の機械を説明している。輪列と音叉が脱進機を介して互いに作用し、光学的な方法で自由振動する別の音叉と比較したという。最初の試作は毎秒100の「単振動」、すなわち50往復、その後には毎秒200の単振動の音叉も試したと記す。前者を100Hzと訳して、MIHの1868年の個体にそのまま当てはめることはできない。12

MIHは1866年の特許No.73414をルイ=クレマン名義とする。2015年公開の後続特許も、この古い特許を機械式音叉時計の先行例として挙げるが、出願月日はMIHの10月20日と後続特許の10月26日で一致しない。特許名義、ニオデの実験報告、現存機の仕様は、それぞれ違う種類の証拠である。古い特許の原本に基づく請求範囲や、すべての部品の考案者までは確定できない。11 12 13

晩年と二つの事業の継承#

時計部門はエドワード・ブラウンへ引き継がれ、電気機器の事業は別の道を進んだ。ブレンニは時計部門の譲渡を1867年とする。一方、ブレゲ家の回顧を収録した2009年の専門誌は、譲渡の後、時計部門が1870年にケ・ド・ロルロージュを完全に去ったと記す。譲渡と所在地の移転は区別する必要があり、この二つの年を直ちに相矛盾する契約日とみなすことはできない。3 14

晩年の工房には、マレーの脈波記録装置、イヴォン・ヴィラルソーの望遠鏡駆動用調速機など、他の研究者の考案を具体化する仕事もあった。アントワーヌやアルフレッド・ニオデも事業を支え、電話はこの次世代の重要な活動となった。父ルイの名を冠する工房の実績を、すべて父個人が設計した装置として列挙することはできない。2 3

1874年3月30日には科学アカデミーの自由会員に選ばれた。当日の『ラ・ナチュール』の報告は、投票者56人のうち42票を得たと記録する。1878年にレジオン・ドヌールのオフィシエとなり、息子アントワーヌを1882年に失った後、1883年10月27日にパリで没した。1886年の追悼文は、彼を科学者に協力する製作者として顕彰している。1 2 15

年表#

年月出来事
1804年12月22日パリに生まれる。1
少年期–1820年代ヌーシャテル、ヴェルサイユ、ジュネーヴで教育・修業。1824年ジュネーヴ、1827年パリ帰還とする研究がある。3
1823年祖父が没し、父が家業を継ぐ。2
1833年父から事業を継承。7月3日、No.5015をアバーコーン侯爵へ販売。5 6
1840年7月6日時計仕掛けの温度記録計がアカデミーへ提示される。9
1841年マッソンとの誘導研究を発表。10
1840年代アラゴの光学実験を支える高速回転装置を製作。2
1845年パリ–ルーアンの電気電信線に関わる。2
1856年リヨンの電気時計網を設けたと追悼文が記す。2
1857年11月23日自走時計の遠隔時刻合わせに関する発表。本人の手引書が参照する。4
1862年『電気電信手引書』第4版を刊行。4
1866年機械式音叉時計の特許No.73414。12月10日、ニオデ=ブレゲが音叉を用いた時計を報告。11 12
1867年ブレンニによれば、時計製造部門がブラウンへ譲渡される。3
1868年現在MIHにある音叉時計No.1150の年代。11
1870年回顧によれば、譲渡後の時計部門がケ・ド・ロルロージュを完全に去る。14
1874年3月30日科学アカデミー自由会員に選出。15
1876年パリの時刻センターを基準時計へ合わせる仕事。2
1878年レジオン・ドヌールのオフィシエ。2
1882年息子アントワーヌが没する。3
1883年10月27日パリで没する。1
1886年7月5日ド・ジョンキエールが科学アカデミーで生涯と業績を回顧。2
2013年11月No.5015がブレゲの博物館コレクションへ入ったことを所蔵者側が公表。6
2015年機械式音叉の後続特許が1866年のブレゲ特許を先行例として記載。13
2026年11月確認MIHがNo.1150の仕様を公開し、国立博物館の目録がNo.48の機能同定の留保を示している。7 11

位置付けと確認範囲#

ルイ=クレマンの仕事には、精密な輪列を作ること、観測の瞬間を機械へ記録すること、遠隔地の機械を電気信号で制御することがつながっている。機械が自分で時を刻むのか、別の時計の信号を数えるのかという違いは、リヨンの子時計、時刻合わせ装置、機械式音叉時計を比較すると明瞭になる。4 11 12

経度局への任命年は、追悼文・機器史研究の1843年、国立図書館典拠の補佐職1845年など、職名を含めて記述が一致しない。確実な在籍と、厳密な任命年月・資格は分けて考える必要がある。工房の総製作数、各部品の担当者、個体ごとの修復・歩度試験、特許No.73414の原本の全図面・請求範囲は、ここで確認した公開資料からは確定できない。1 2 3

参考文献#

閲覧日はすべて2026年11月7日。

  1. Bibliothèque nationale de France, « Bréguet, Louis (1804–1883) », 典拠FRBNF15563432、2025年更新。生没日・異名・戸籍出典・経度局補佐職。

2. Ernest de Jonquières, « Notice sur la vie et les travaux de Louis-François-Clément Bréguet », Comptes rendus de l’Académie des sciences, t.103, 1886年7月5日、pp.5–14。原巻のデジタル複製。同時代の追悼・顕彰という性格に留意。

3. Paolo Brenni, “19th Century French Scientific Instrument Makers, XII: Louis Clément François Breguet and Antoine Louis Breguet”, Bulletin of the Scientific Instrument Society, No.50, 1996年、pp.19–24。家族・修業・工房の分業・科学機器と事業継承。後世の機器史研究。

4. L. Bréguet, Manuel de télégraphie électrique, 4e éd., Paris: L. Hachette, 1862年。CNUM、12SAR101。序文pp.V–VI、誘導pp.69–70、文字式電信pp.79–89、二針式pp.131–138、電気時計pp.217–229。著者自身による装置と運用の説明。

5. Christie’s, Breguet No.5015, sold on 3 July 1833 to the Marquis d’Abercorn, 2013年。現物仕様、1833年のNotice No.1376とブレゲ社記録を紹介する競売資料。

6. Swatch Group, « Breguet fait l’acquisition de 3 nouvelles montres anciennes », 2013年11月19日。所蔵者側の発表。No.5015の三世代の役割を区別。

7. Claudette Joannis / Réunion des musées nationaux, « Montre de gousset “sympathique” du roi Louis-Philippe », 2010年初出、後年追記あり。GML1302 / M.M.40.47.449。仕様・来歴・巻上げ機構についての留保。

8. Antiquorum, Breguet Neuveux & Compagnie, No.611, Compteur de pointage nouveau modèle, Geneva, 2005年5月15日、lot190。現物解説と製作・販売の記録。

9. Académie des sciences, « M. Breguet fils présente un thermométrographe de son invention », Comptes rendus, t.11, 1840年7月6日、p.24。原巻のデジタル複製。毎時の記録方法を原文で確認。

10. Antoine Masson et Breguet fils, « Mémoire sur l’induction. Extrait par les auteurs », Comptes rendus, t.13, 1841年、pp.426–427。原巻のデジタル複製。研究の著者抄録。後の電磁気学の理論と区別。

11. Musée international d’horlogerie, « Pendule à diapason », IV-337、1868年、No.1150。現存機の材質・寸法・機構・振動数・特許番号。

12. Niaudet-Breguet, « Application du diapason à l’horlogerie », Comptes rendus, t.63, 1866年12月10日、pp.991–992。原巻のデジタル複製。試作機・光学比較・単振動と往復振動の区別。

13. Dominique Renaud, « Mécanisme d’horlogerie muni d’un résonateur diapason », CH709755A2、2015年12月15日公開、特に[0004]–[0007]。後続特許の先行技術説明であり、1866年特許原本の代用ではない。

14. Fons Vanden Berghen, « Louis Breguet et ses appareils télégraphiques », Les Cahiers de la FNARH, No.111, 2009年、pp.14–25、特にp.16。沿革部分はClaude Breguetの1983年の回顧の抜粋。独立した別伝記とは数えない。

15. Stanislas Meunier, « Académie des sciences — Séance du 30 mars 1874 », La Nature, 1874年、pp.286–287。選挙の同時代報告。