マシュー・フリンダース

マシュー・フリンダース

時計を海図へ結び付けた航海士#

マシュー・フリンダース(Matthew Flinders、1774年3月16日–1814年7月19日)は、イギリス海軍の航海士、海洋測量者である。1801–1803年のHMS Investigatorの探査でオーストラリア沿岸を測り、大陸を一周した。彼の時計史上の仕事は、海洋時計の製作ではなく、その歩度を調べ、天文観測と突き合わせ、沿岸測量の経度と海図に利用したことにある。1 2 3

精密な時計を積めば、その指示が常に正しい位置を教えるわけではない。時計が毎日どれだけ進むか、遅れるか、その変化をどこまで把握できるかが経度測定を左右する。フリンダースの航海記は、機械への信頼と、観測による検査、航海後の補正が併存していたことを具体的に示す。4 5

生涯と探査の経歴#

教育と海軍での経験#

フリンダースはリンカンシャーのDoningtonに生まれた。父は外科医Matthew Flinders、母はSusannah Wardである。Doningtonの学校とHorblingの教区牧師のもとで学び、1789年に海軍へ入った。1791年にはWilliam Blighのタヒチ航海に参加し、1794年にはBellerophonで海戦を経験した。1795年、Relianceに乗ってPort Jacksonへ向かい、船医George Bassとの沿岸探査を始めた。1

小艇によるBotany Bay、Georges River、Illawarra方面の調査に続き、1798–1799年にはBassとNorfolkでVan Diemen’s Land、現在のタスマニアを一周し、本土との間に海峡があることを確かめた。1800年に帰国し、1801年に『Observations on the Coasts of Van Diemen’s Land, on Bass’s Strait and its Islands, and on Part of the Coasts of New South Wales』を刊行した。これらの経験と出版が、より広い探査を担う基盤となった。1 2

Investigatorの準備と測量#

Joseph Banksの支援と海軍省の命令のもと、フリンダースはInvestigatorを指揮した。本人の記録によれば1801年1月に指揮を引き継ぎ、2月16日にcommanderへ昇進した。船は334トンで、修理、船底の銅張り、予備舵、水の積載量の増加など、長期探査に向けた準備を行った。Banksは図書を、海軍水路部のAlexander Dalrympleは海図や情報を提供した。時計と六分儀だけで完結する探査ではなく、艦船、物資、先行海図、出版、科学者の活動を支える制度の一部だった。3

同年4月にAnn Chappellと結婚したが、妻の同行は認められなかった。7月18日に出航し、喜望峰を経てオーストラリアの南西端へ達した。南岸の湾や島を調べ、1802年4月8日にはNicolas Baudinのフランス探査船Géographeと出会った。南岸の調査を終えた後、5月9日にPort Jacksonへ入港した。1 6

7月に再び出航した探査には、GarigalのBungareeも加わった。彼は訪問先の先住民との接触に重要な文化的・外交的役割を果たした。沿岸の測量には、船を安全に運ぶ仕事だけでなく、土地を知る人々との関係を築く仕事も必要だった。探査船はQueensland沿岸、Torres Strait、Gulf of Carpentariaへ進んだが、船材の腐朽と漏水のため全沿岸の精密測量を続けられなくなった。西岸を回って1803年6月9日にPort Jacksonへ帰り、大陸一周を終えた。西岸を含め、全航程を同じ密度で測ったわけではない。2 7

船難、モーリシャスでの拘留、帰国#

新しい探査船を求めて帰国するため、フリンダースはPorpoiseへ移った。1803年8月の船難後には小艇でPort Jacksonへ戻り、救助を手配した。続いてCumberlandでイギリスへ向かったが、船の状態が悪く、12月17日にフランス領モーリシャスへ寄港して拘留された。英仏の戦争再開、旅券がInvestigatorの名義だったこと、総督Charles Decaenとの対立が背景にある。2

拘留は1810年まで続いたが、全期間が閉鎖された監房生活だったわけではない。本人の航海記は、1805年8月にWilhems PlainsのMadame D’Arifatの農園へ移る許可を得た経緯を記している。観測、計算、航海記録の整理を続けた一方、拘留の評価を読む際には、本人による自己弁護と戦時のフランス側の判断を区別する必要がある。8

1810年に帰国し、海図と『A Voyage to Terra Australis』の刊行準備に力を注いだ。航海叙述2巻と図版・地図のアトラスは1814年7月に刊行された。同月19日に40歳で死去した。死亡日は18日とする公的解説もあるが、再発見された棺の鉛製銘板には19日と刻まれている。9 10

観測と計算を担った人々#

Investigatorの天文学者John Crosleyは、グリニッジ天文台の助手を務めた経験を持ち、経度委員会から機器を携えて参加した。喜望峰で病気のため離脱した後、フリンダースは艦長、測量者に加えて天文観測の責任も担った。弟のSamuel Ward Flindersは士官として観測と計算を助けた。Capeでは陸上の天文台とテントを管理したが、風で舞う砂が機器に害を与えるなど、観測環境にも制約があった。3 4

航海終了後の計算にもCrosleyが関わった。経度委員会は月距などの観測の再計算を彼へ委ねた。フリンダースの付録は、帰国後に得られるグリニッジの実観測を利用し、暦に載る月・太陽の理論位置の誤差まで検討したことを説明する。王室天文官John Pondから観測資料の利用を許され、Crosleyが経度への影響を計算した。航海中の観測者、時計製作者、暦の作成者、帰国後の計算者を一人の功績にまとめることはできない。5

時計装備と具体的な運用#

箱型時計と携帯時計#

本人の装備記録には次の番号が現れる。箱型4台という分類は航海史研究とも一致するが、私物の携帯時計や小艇用の時計を含めるかによって総数は変わる。3 11

装備役割と史料上の位置
Earnshaw No. 543、No. 520船の経度測定に用いる箱型時計。南岸の付録表VIIは両者の歩度と補正を示す
Arnold No. 176、No. 82Crosleyが持ち込んだ箱型時計。No. 82はCapeで急な歩度変化を起こした
Earnshaw watch No. 465Crosleyの私物。彼の離脱時に探査隊の装備から外れた
Arnold watch No. 1736海軍からフリンダースへ支給。河川や小艇による測量のための携帯時計

No. 1736は、携帯したときと箱に固定したときで歩度が違った。フリンダースはCapeで5日間ポケットに入れて調べ、固定時より遅れが小さかったと記す。時計の番号や製作者だけで性能を決めず、実際の使用条件で調べていたことが分かる。4

岸上天文台の調整時計#

箱型や携帯型の海洋時計とは別に、岸上観測のための振子式調整時計もあった。Powerhouseの収蔵番号94/15/1は1791年製のEarnshawの恒星時調整時計で、Vancouverの探査後、Investigatorへ支給されたと記録される。航海中の一部の寄港地でテント天文台に据え、観測と船上時計の検査に用いた。22

船上で常時振子を動かして航海時刻を運ぶ機器ではなく、上陸して観測の基準を作る装置だった。現存機には1932年以後に作られた振子の複製が付いているため、現在の部品の姿を1801年当時の状態と同一視することはできない。22

Capeでの基準測定#

Crosleyは1801年10月に六分儀と水銀の人工地平線を使い、太陽の等高度観測から時計の歩度を求めた。フリンダースは11月1日の観測でこれを延長した。地方平均時と地点の経度を基準に、グリニッジ平均時からの時計の遅れ量と、一日あたりの遅れを区別して記録している。原版41頁ではSimon’s Bayの経度に相当する時間を1時間13分40.47秒と置いている。これは表VIIの東経18度25分7秒に対応する。4

No. 543は日差5.33秒の遅れ、No. 520は15.84秒の遅れだった。日差がゼロに近いことだけが実用性の条件ではない。一定の日差を把握して補正できれば、時刻を運ぶ時計として使える。問題は、その日差が航海中に変わり、陸上で求めた値が保たれなくなる場合である。4 5

No. 520も不変の基準ではない#

1802年11月、Inspection Hill付近では岸上の六分儀と人工地平線によって歩度を測った。フリンダースは直前の航程でNo. 543よりNo. 520を信頼し、Torres Straitを含む一部の海図にはNo. 520の経度を採用した。しかし同じ章で、No. 520の遅れが一日18.79–25.39秒へ変わり、以前と同じ信頼を置けなくなったとも記している。12

これは、良い時計と悪い時計を一度選別すれば終わる話ではない。複数の時計を比較し、天文観測で検査し、信頼の置き方を更新する必要があった。後世の現物解説でNo. 520だけを称賛すると、この運用上の判断が見えにくくなる。

経度、月距、歩度補正の技術#

時刻差を経度へ変える#

地方平均太陽時とグリニッジ平均太陽時を同じ時刻尺度で比較すると、その差を経度へ換算できる。東経を正に取れば、説明式は次のようになる。

\[ \lambda = 15\frac{\mathrm{度}}{\mathrm{時間}}(t_{\mathrm{local}}-t_{\mathrm{Greenwich}}) \]

地球の一回転を24時間とする換算なので、時刻の1秒は経度の15角秒に対応する。ここでtは時間単位の平均太陽時、λは経度角である。恒星時や真太陽時の値を補正せず混ぜる式ではなく、日付と東西の取り方もそろえる必要がある。地表の距離へ換算する場合は緯度によって変わり、この角度換算だけから一定の距離誤差を保証できない。5

時計は基準地点の時刻を持ち運ぶ。しかし基準地点から長く離れるほど、歩度の見積り違いが時刻の累積誤差になる。月と太陽・恒星の角距離を測る月距法は、時計とは別の方法でグリニッジ時刻を求め、地点の経度を検査する手段だった。

月距観測の補正#

南岸の付録は、Ramsdenの9インチ六分儀とTroughtonの8インチ六分儀3台を挙げる。船上では手持ち、陸上では多くの場合台座を使った。観測した見かけの角距離は、そのまま暦の値と比較できない。大気差、月の視差、太陽・月の視半径などを扱い、CrosleyはMendoza de Riosの表と計算法を用いて再計算した。気温と気圧の記録、使用した暦や表の精度も結果に関わった。5

複数回の観測をまとめることは偶然のばらつきを減らすが、同じ表や機器に由来する誤差を自動的に消すわけではない。フリンダースが月距の精度について述べる期待値は、本人の観測と計算の条件に結び付いた評価として読む必要がある。

航海後に行った歩度変化の補正#

巻1付録表VIIは、1801年11月1日のCapeから1802年5月9日のPort Jacksonまで、Earnshaw No. 543とNo. 520の歩度と経度誤差を示す。フリンダースは、前の基準点から次の基準点までの間に、歩度が徐々に一様に変わったと仮定した。5

前後の平均歩度をr₀、r₁、航程の日数をNとし、遅れを正とする。歩度の単位を秒/日とすると、一日ごとの変化量はa = (r₁ − r₀) / N秒/日²となる。原著が示す等差数列による累積補正角の大きさは、n日後について

\[ \Delta\lambda = 15\,a\,\frac{n(n+1)}{2}\quad\text{角秒} \]

である。15は時刻秒から角秒への換算、nは日単位の経過日数である。原著の離散的な日次加算を表した式で、連続時間の積分式と同一ではない。aの符号と時計が進む・遅れる方向に応じて補正方向を決める。5

CapeからKing George’s Soundまでの表の例では、両時計の平均の遅れは10.585秒/日から11.590秒/日へ変わり、航程43.7日で1.005秒/日増えた。一日ごとの変化量は約0.0230秒/日²である。表の日数を原著の式へ入れると、経度補正は約337角秒、すなわち約5分37秒となる。出発時の歩度だけで得た到着経度の東への誤差13分55.8秒は、歩度変化の補正後には8分18.8秒へ減った。表の小数の日数も含めて原著の算式を評価した例であり、現代の連続モデルによる独立した精度検証ではない。5

それでも到着点の月距経度と一致しない場合、フリンダースは残差をsupplemental errorと呼び、航程全体へ日割りで配った。これは月距側を完全とみなして時計側へ残差を割り当てる便宜的な扱いであり、本人も時計と月距の双方が完全とは限らないと認めている。どの日に誤差が生じたかを確定できないための処置であって、時計の不規則変化だけを測定した量ではない。5

到着後に得た歩度と、帰国後の天文再計算を用いるので、この全手順を航海中の即時の位置決定と同一視できない。航海時の暫定的な判断を、海図の刊行前に再検討する方法である。King George’s Sound、Port Lincoln、Port Jacksonの月距経度とCapeの位置が、南岸の経度を組み立てる基準になった。5

フランス側との比較#

Louis Freycinetの1815年『Navigation et Géographie』も、Bernierが上陸天文台で時計の歩度を規正したことを記す。天文観測と時計の組合せは、フリンダースだけの独自方式ではなかった。6

同書425–426頁では、フリンダースの1798年のPort DalrympleやFurneaux諸島の測量を参照しながら、経度を別の基準点へ結び直し、複数の観測からどの値を採るかを論じる。英仏の結果の違いには、観測そのものに加えて、基準点と採用・平均の仕方が関わる。フランス書の経度はパリ子午線を基準とするため、グリニッジ基準の数値と直接比較できない。6

現存するEarnshaw No. 520#

外装と機構を区別する#

Powerhouseは収蔵番号H3940を、1801年にロンドンのThomas Earnshawが製作した箱型海洋時計No. 520として登録している。木箱内に真鍮のジンバル支持を備え、独立した秒表示を持つ。ジンバルは船の傾きに対して時計の姿勢を保つための支持であり、航海中の衝撃や加速度をすべて除く装置ではない。13

同館はEarnshawの脱進機と補償テンプを備えると説明する。比較対象となるScience Museum GroupのEarnshaw No. 724は、ばねデテント脱進機、二腕の補償テンプ、鋼のひげぜんまいを持つと記録されている。ただし、別番号の作品の詳細をそのままNo. 520の内部仕様に転用することはできない。13 14

Earnshaw式ばねデテントの働きは、2018年の機械工学研究がモデルとして説明している。ガンギ車はデテントの止め石で停止する。テンプ側の解放用部品が通過ばねを押してデテントを退かせると、歯が解放され、テンプへ衝撃を与える。デテントは戻って次の歯を止める。逆向きの振れでは通過ばねだけがたわみ、車を再解放しないため、一往復に一度の衝撃となる。振動の大部分でテンプを輪列の拘束から離すことが、歩度を安定させる狙いである。21

温度補償を力学の側から見ると、テンプの慣性モーメントとひげぜんまいのねじり剛性の釣合いが周期を決める。小振幅の線形振動に限れば、周期は慣性モーメントの平方根に比例し、剛性の平方根に反比例する。補償テンプは温度に伴うこの関係の変化を抑えるための仕組みである。これは原理の説明であり、No. 520の材料定数や実測温度曲線から算出した結果ではない。21

デテントを板ばねで支持する方式は、その部分の枢軸と注油を不要にする。ただし時計全体を無注油にするという意味ではない。研究の模型寸法や摩擦係数を、No. 520の実測値として使うこともできない。補償テンプは温度変化への対策だが、No. 520の現物の温度曲線や金属組成が確認できないため、材料の加工工程や残留誤差を数値で断定することはできない。21

これらの機構は、振動をなるべく自由に保ちながら駆動し、温度による歩度変化を抑える課題に応えた。発明の優先権についてはArnoldとの争いがあり、Royal Museums Greenwichは、経度委員会が1804年にEarnshawとJohn Roger Arnoldの双方へ脱進機模型を注文したことと、帰属の議論が続くことを説明している。No. 520の使用者であるフリンダースを、これらの時計機構の発明者として扱う根拠はない。15

返還、収蔵、再同定#

No. 520の現代的な意味は、当時の測量記録と具体的な機械を結び付けることにある。Powerhouseが転載するThomas Toothの1981年研究によれば、1805年にAkenがイギリスへ持ち帰り、同年12月にグリニッジへ渡された。その後の来歴には大きな空白があり、1937年にシドニーの博物館が購入、1976年にInvestigatorの時計として識別された。13

識別は文字盤の520だけでなく、裏側の2865という第二番号を調べて進められた。1943年に別の「520」が海軍へ売り込まれた記録もあり、Toothは番号の誤読を可能性として述べている。空白期の所有者の移動や購入経路まで確定したわけではない。現物の寸法・材料の記録と、後世の来歴研究の推論を区別して読む必要がある。13

羅針盤の自差と磁気研究#

経度を時計で定めても、海岸や岬の方位を測る羅針盤に船自身の影響があれば、測量全体の誤差は残る。フリンダースは1801年の航海初期から、羅針盤を船内の別の位置へ移した際の読みに差があることを比較し、船首方位や地磁気の条件との関係を調べた。地球の磁北と真北の差である偏差と、船内の鉄などによる自差を、同じ一つの量として扱うことはできない。4

1812年のJames Inman宛書簡では、船内の複数の磁気作用が合成されるという理解と、その影響が相殺されるneutral stationsを探して羅針盤を置く案を説明する。同年のBanks宛書簡では説明の配布と各艦からの観測収集にも触れる。これは本人が観測条件と機器配置を改める取り組みであり、手紙の自己評価だけから、全艦で誤差が除かれたと結論づけることはできない。19

後世の航海教本でフリンダース・バー(Flinders bar)と呼ばれる装置は、船内の垂直な軟鉄に生じる誘導磁化の影響を補償する軟鉄棒である。永久磁化に対する磁石と役割を分け、磁気緯度・伏角が変わる航海でも補償の条件を合わせる。NGAの2024年版教本は、複数の鉄片と非磁性のスペーサーを管に入れて長さを調整する構成も示す。20

ただし、1812年の書簡にこの現代型装置の完成設計が記されているわけではない。船首方位・羅針盤位置別の観測という本人の仕事と、後世に彼の名を持つ補償器の標準構成は、成立時期を分けて理解する必要がある。

著作、海図、後世の評価#

フリンダースの代表成果は、時計の製作シリーズではなく、探査の観測記録、沿岸海図、1801年と1814年の著作である。海軍、経度委員会、機器製作者、観測者がそれぞれ担った仕事を、航海記の技術付録で追える点が時計史にも重要である。顧客向けに時計を製作した人物としての工房、注文主、製作本数は、この経歴の調査対象には当たらない。3 5 9

英仏の探査は地名と優先権を巡る政治的な競争でもあった。Freycinetは1815年の序文で、FlindersやJames Grantが先に見た海岸の功績に触れつつ、フランス側の探査の独立性を述べる。後世の一方的な盗用の物語だけでなく、観測の共有、先行資料への評価、刊行時期の差を原資料ごとに検討する必要がある。6

失われたと思われていた墓は、HS2建設に先立つ発掘で見つかり、2019年1月に公表された。棺の鉛製銘板が同定を可能にした。2024年7月13日には故郷DoningtonのSt Mary and Holy Rood教会へ再埋葬された。2025年にはフリンダース大学とHistory Trust of South Australiaによる展覧会で銘板や関連遺品が公開され、Bungareeの貢献も紹介された。現代の記念と展示は、単独の英雄像から探査に関わった人々へ視野を広げる契機にもなる。10 16 17 18

年表#

年月出来事根拠
1774年3月16日Doningtonに生まれる1 10
1789年海軍に入る1
1791年Blighのタヒチ航海へ参加1
1794年6月Bellerophonで海戦を経験1
1795年RelianceでPort Jacksonへ向かい、Bassと沿岸探査を始める1
1798–1799年BassとNorfolkでタスマニアを一周2
1800年イギリスへ戻る1
1801年1–2月Investigatorの指揮を引き継ぎ、2月16日にcommanderへ昇進3
1801年4月Ann Chappellと結婚1
1801年7月18日イギリスから探査へ出航4
1801年10–11月Capeで時計歩度を調べ、Crosleyが離脱4
1802年4月8日南岸でBaudinの探査船と出会う6
1802年5月9日南岸測量後、Port Jacksonへ到着5
1802年7月Bungareeを含む探査隊で北へ出航2
1802年11月CarpentariaでEarnshaw両時計の歩度と経度を再検討12
1803年6月9日大陸一周後、Port Jacksonへ帰着2 7
1803年8–12月Porpoise船難、救助手配、Cumberlandでの帰国航海、モーリシャスで拘留2
1805年8月Wilhems Plainsへ居住を移す許可を得る8
1805年12月Toothの来歴研究によればNo. 520がグリニッジへ返還13
1810年拘留を解かれ、同年秋にイギリスへ帰国10
1814年7月『A Voyage to Terra Australis』とアトラスを刊行9
1814年7月19日死去。棺銘は19日を示す10
1937年現在のPowerhouse所蔵No. 520を博物館が購入13
1976年ToothがNo. 520をInvestigatorの時計として識別13
2019年1月HS2発掘による墓の発見が公表される16
2024年7月13日Doningtonへ再埋葬17
2025年1–2月フリンダース大学の展覧会で銘板・遺品とBungareeの貢献を紹介18

史料を読む際の限界#

航海記の歩度表は、観測条件と補正の仮定を含む記録である。数値が細かく印刷されていても、海図の絶対精度を同じ桁数まで保証するものではない。刊行済みの海図を評価するための後処理と、航海中に使えた情報の範囲を分ける必要がある。

No. 520の1805–1937年の来歴には空白がある。製作者の別作品の部品記録だけでは、この時計の部品の変更や修復履歴は確定できない。また、1814年7月の刊行日と死亡日には現代の公的解説間でも違いがある。本記事の死亡日は棺銘に基づくが、刊行日は月単位で示している。9 10 13

参考文献#

各資料の閲覧日は2026年10月8日。原著のオンライン転記は、原著本文と転記の正確さを分けて扱う。

  1. H. M. Cooper「Flinders, Matthew (1774–1814)」『Australian Dictionary of Biography』第1巻、1966年。生涯、教育、経歴。 本文。

2. National Museum of Australia「Flinders circumnavigates Australia」、2026年3月25日更新。探査の概要、Bungaree、拘留。 本文。

3. Matthew Flinders『A Voyage to Terra Australis』巻1、Book I, Chapter I、1814年。指揮の開始、準備、装備リスト。 原著転記。

4. Flinders、同巻1、Book I, Chapter II。出航、Capeの観測、Crosleyの離脱、時計の誤差と歩度。原版40–41頁の画像も照合。 原著転記。

5. Flinders、同巻1、Appendix「Account of the observations by which the Longitudes of places on the south coast of Terra Australis have been settled」、冒頭の計算手順、268頁の表VII、269頁の末尾の説明。表と式は原版画像を照合。 原著転記、原版画像を含む巻1。

6. Louis Freycinet『Voyage de découvertes aux terres Australes: Navigation et Géographie』、Paris, Imprimerie Royale、1815年。序文viii、8、11、425–426頁。 原版PDF。

7. Flinders、同巻2、Book II, Chapter X。帰着後の船の検査、総督の提案、Porpoiseへの移乗。 原著転記。

8. Flinders、同巻2、Book III, Chapter V。1805年8月の居住移動許可、拘留中の観測。 原著転記。

9. State Library of South Australia「Matthew Flinders — Published accounts」。1814年の出版物の構成、刊行日についての解説。 本文。

10. Royal Museums Greenwich「Captain Matthew Flinders, 1774–1814」、PAF3511。仮釈放誓約の複製、肖像、棺銘の転記。 収蔵資料。

11. Kenneth Morgan「Finding longitude: The Investigator expedition, 1801–1803」『The International Journal of Maritime History』29(4)、2017年、771–787頁、DOI:10.1177/0843871417725688。装備と観測体制、特に776–777頁。 著者公開稿PDF。

12. Flinders、同巻2、Book II, Chapter VI。Inspection Hillの観測、No. 543とNo. 520の信頼の再評価。 原著転記。

13. Powerhouse「Matthew Flinders marine chronometer」、H3940。現物記録、Thomas Tooth『The Earnshaw Chronometer』(1981年)からの来歴研究転載。 収蔵資料。

14. Science Museum Group「Marine chronometer by Thomas Earnshaw」、L2015-4053、Clockmakers’ Museum No. 1148。No. 724、裏番号3195の比較資料。 収蔵資料。

15. Royal Museums Greenwich「Model of Earnshaw’s escapement」、ZAA0123、1804年製。経度委員会の模型注文と発明帰属。 収蔵資料。

16. HS2「Remains of Cpt. Matthew Flinders discovered at HS2 Euston site」、2019年1月25日。発掘当事者による同定と埋葬記録の報告。 本文。

17. Australian Department of Defence「Captain Matthew Flinders finally returns home」、2024年7月18日。7月13日の再埋葬。 本文。

18. Flinders University「Explorer Matthew Flinders coffin plate showcased for the first time in Australia in city campus exhibition」、2025年1月、2頁。展示物とBungareeの紹介。 広報PDF。

19. Matthew Flinders、Private Letters, vol. 3、S1/57、NSW州立図書館。1812年5月10日、9月23日Inman宛(169、185–186頁)、10月1日Banks宛(186–187頁)。 書簡転記。

20. National Geospatial-Intelligence Agency『The American Practical Navigator』第1巻、2024年版、Chapter 9, §920、170–171頁、図920b。現代の磁気羅針盤補償器の説明。 公的教本PDF。

21. Ivana Cvetković, Miša Stojićević, Branislav Popkonstantinović「Modeling, Motion Study, and Computer Simulation of Thomas Earnshaw’s Chronometer Detent Escapement Mechanism」『Modeling and Computer Simulation』、2018年11月5日、DOI:10.5772/intechopen.79939。§§1–2の機構説明、§4のモデル条件。 研究本文。

22. Powerhouse「Long case clock by Thomas Earnshaw」、94/15/1、1791年製。Investigatorでの岸上使用、振子の後世の交換。 収蔵資料。