ピーター・ヘンラインは、16世紀前半のニュルンベルクで活動した錠前師・時計製作者です。同時代の記述は、彼が身に着けて運べる小さな時計を作り、香料容器の形をしたケースにも時計を収めたことを伝えています。携帯時計の草創期を代表する人物ですが、「世界で最初に懐中時計を発明した一人」と断定するには、先行する時計の記録と現存作品の帰属に問題が残ります。彼の重要性は、小型時計を実際に製作し、都市の贈答や上層市民の生活へ届けた職人として捉えると明確になります。1 2 3
生涯とニュルンベルクの職人社会#
生年、職業、1504年の事件#
Peter Henlein は史料で Peter Hele、Heinlein などとも表記されます。生年は確定せず、1479~1480年頃と1485年頃という推定があります。前者は1509年の親方認定時の年齢を考慮する説、後者はコクレウスが1511年頃の彼を若者として記したことを重く見る説です。親方になる年齢には幅があり、この二つの手掛かりだけで出生年を一つに決めることはできません。幼少期、修業先、師匠についても確定した経歴を復元できる史料は限られます。1 2
確実な記録に現れるのは1504年です。ニュルンベルク市公文書館の研究によれば、9月8日、ヘンラインは二人の仲間とともに、若い錠前師クレメンス・グラーザーが死亡した事件に関わりました。各人の役割を最終的に確定できるわけではありません。ヘンラインはフランシスコ会の修道院、当時の呼称でバールフュッサー修道院へ逃れ、教会の庇護を受けました。市の記録には1504年11月から1508年4月にかけ、遺族との交渉のための通行保証が繰り返し与えられたことが残ります。1
この訴訟の事情は、1547年のノイドルファーの記述を収録した1875年の校訂版にも、市の記録を用いた長い注として掲載されています。そこにはヘンラインを主たる加害者とする初期の文言と、誰が致命的な行為をしたか未証明とする後の判断が併存します。1515年2月26日には、グラーザーの遺族側がヘンラインから裁判で定められた21ライン・グルデンを受け取った旨の記録が紹介されています。庇護・裁判・民事的な清算を一度の出来事にまとめることはできません。3
親方認定、人的関係と晩年#
1509年11月16日、ヘンラインはニュルンベルクの錠前師として親方になりました。当時の時計製作は錠前師の職域と重なっており、これは独立した時計師組合の資格ではありません。精密な金属部品を加工し、ばねや歯車を組み合わせる技能を、時計製作にも生かす職業環境でした。ニュルンベルクは小型金属製品や数学・科学機器の生産地でもあり、その技能と市場が小型時計を支えました。1 2
修道院には機械技術の活動があったこと自体は確かです。市公文書館の研究は、1497年に皇帝マクシミリアンの目覚まし時計が修理のため同修道院へ送られたこと、修道士にオルガンやアストロラーベの製作者がいたことを挙げています。ただしヘンラインがそこで時計製作を学んだのか、自由に実験したのかは不明です。修道院を発明の場所とする物語には、記録から分かることを越えた推測が含まれます。1
共同作業については、ノイドルファーが、聖ヨハネ教会の司祭で数学者のヨハネス・ヴェルナーの助力を得て、ヘンラインが「Theoria planetarum」を16ポンドの重りで動かした、と記しています。一方で二人はブルマンの図板と歯車を参考にしていたとも述べています。これは天体運動を示す装置に関わる証言であり、ヘンラインを孤立した発明家として描くより、数学者・時計職人・記録者の協働の中に位置づける資料です。現存装置をこの記述に確実に結び付けることはできません。3
家族について『新ドイツ人名辞典』は、クニグンデ、マルガレーテ、ヴァルブルクとの三度の婚姻を記しています。晩年には小型時計だけでなく公共の時計にも関わり、1535年に市庁舎事務局の時計を調整する仕事、1541年にリヒテンアウの城の大型時計を製作する仕事が記録されています。1542年にニュルンベルクで没しました。死去は聖ゼーバルト教会の弔鐘の記録で知られますが、記入が期間ごとにまとめられているため、正確な日を一日に固定することは難しく、研究では夏から初秋の範囲で扱われます。1 2
携帯時計はどのように可能になったか#
重りからぜんまいへ#
機械式時計では、動力を蓄える部分、回転を伝える歯車列、その動きを刻む脱進機と調速装置を組み合わせます。重りを動力とする時計には、重りが下降する空間と安定した設置が必要です。巻いた金属ばねがほどける力を利用すれば、その動力源を小さなケースに収められます。ただし、動力の変更だけで直ちに衣服に携帯できる時計になるわけではなく、輪列・支持構造・調速部を含む装置全体の小型化が必要でした。2 4
ぜんまい駆動はヘンラインの独創ではありません。15世紀のフランス・イタリアには、ばねで動く小型の時計の記録があります。ニュルンベルクのゲルマニア国立博物館(GNM)の2014~2015年展も、1435年頃のブルゴーニュ公フィリップ善良公の時計を、携帯時計に先行する技術を考える作品として展示しました。ヘンラインの仕事は、それ以前の機械技術を背景に理解する必要があります。2 5
1511~1512年の証言と「40時間」の意味#
人文主義者ヨハネス・コクレウスの『Brevis Germanie descriptio』は、ヘンラインに関する重要な同時代資料です。献辞は1511年11月26日、刊行は1512年で、この二つの年が文献によって使い分けられています。市公文書館の研究に掲載された記述によると、Peter Hele は少量の鉄で多くの歯車を持つ小時計を作り、重りなしで、どのように向きを変えても、胸元や袋に収めたまま40時間を示し、音を発するものとして賞賛されています。1
これは、その時点で携帯可能な時計が知られていたことを示す証言です。しかし「40時間」は同時代の著者が伝えた性能値であり、現存する特定の時計を測定して得た値ではありません。ディートリヒ・マッテスの2015年の研究は、16世紀前半の現存例の持続時間がおおむね12~15時間であることから、40時間の記述には注意を促しています。またラテン語の音に関する動詞を「打鐘」と読むか、単に時計の作動音と読むかにも議論があり、この一文だけで打鐘機構の構造まで決めることはできません。4
「どの向きでも動く」という証言も、現在の腕時計の耐衝撃性や姿勢差の小ささを実証するものではありません。重りを吊るした固定時計との大きな違いを伝える一方、歩行中も現代的な精度を保ったとまでは意味しません。ウォルターズ美術館の1530年銘の時計については、同館が一巻き12~16時間、時刻の読み取り・表示の水準を約30分単位と説明しています。作品の説明と、コクレウスの一般的な証言を分ける必要があります。6
動力の均等化と発明帰属の限界#
ぜんまいはほどけるにつれて輪列へ与える力が変わるため、小型化には動力の扱いも課題となりました。フュジーは円錐形の部品の作用半径を変えることで、ぜんまいの力の変化を補償する装置です。スタックフリードはばねによる制動を利用する別方式で、背を低くできる利点がありました。しかし、こうした方式の使用例と、それをヘンラインが発明したという主張は別です。マッテスはスタックフリードをヘンラインの発明候補とはしながら、確定できないとしています。フュジーにも15世紀の先例があり、1525年銘のヤコブ・ツェッヒの時計を、その機構の発明そのものとみなすことはできません。4
ヘンラインの功績を特定の部品一つの発明に還元するより、既存の原理を小さな携帯用装置へまとめ、使い手が身に着ける形に仕立てた製作活動として捉える方が、史料に即しています。時計の「携帯化」は動力、寸法、容器、装身の習慣が重なる変化でした。1 3
香料容器と時計作品#
ポマンダー型時計#
ポマンダー、ドイツ語の Bisamapfel・Bisamkopf は、もともと麝香などの香料を入れる透かし彫りの金属容器です。これを時計のケースに転用すると、持ち慣れた装身具に時刻を知る機能を組み込めます。1547年のノイドルファーの記述は、ヘンラインを小さな時計をこの容器に収めた「最初期の人々の一人」としています。「唯一の最初の発明者」とは書かれていません。記述の見出しでは Andreas Heinlein とされていますが、校訂者ロホナーは市の記録を比較して Peter Henlein と同定しています。3
香料容器に由来する形であることと、時計を入れた状態でも香料を放っていたことは同じではありません。ニュルンベルク市公文書館の研究は、小さな容器の空間を時計が占めるため、香料も入れた「香る時計」として理解すべきではないと説明しています。透かしの穴は外観上の特徴ですが、そのすべてを香料のための通気孔と説明することはできません。1
1530年銘のメランヒトンの時計#

図1:メランヒトンに結び付く1530年銘の球形時計、ウォルターズ美術館蔵、58.17。時計作者はヘンラインに帰属。写真:Walters Art Museum、作品名 “Spherical Table Watch (Melanchthon’s Watch)”。出典:Wikimedia Commons個別ファイル、所蔵館。写真のライセンス:CC BY-SA 3.0 Unported。変更なし。写真は同ライセンスで再配布しています。
ボルチモアのウォルターズ美術館が所蔵する球形時計58.17は、底面に宗教改革者フィリップ・メランヒトンの名と1530年の年紀を持ちます。ケースと文字盤は金めっきを施した真鍮、ムーブメントは鉄です。写真では上下に分かれた球形ケース、蝶番、透かし彫りの蓋、単針と文字盤の関係が分かります。アラームも備えますが、目覚ましと定時の打鐘は区別する必要があります。4同館はこれを、知られている中で最も古い年紀入りの時計と説明しています。6
製作者の署名はありませんが、同館は2014年の研究によって、その特徴がヘンラインへの帰属と整合すると判断された、としています。したがって「ヘンラインの署名で確定した作品」ではなく、作品の特徴と歴史的文脈によって彼に帰属される時計です。メランヒトンが注文したのか、贈られたのかについても同館は両方の可能性を示しています。1530年の年紀があること、メランヒトンに結び付くこと、製作者の同定は、それぞれ異なる根拠を持ちます。6
GNMの「ヘンライン時計」と1505年説#
GNMのWI1265は、球形の香料容器型とは異なる、円筒形の箱時計です。ケースは金めっき真鍮、ムーブメントは鉄で、ぜんまいとフュジーを備えます。蓋の内側にはヘンラインの名と1510年を示す銘がありますが、所蔵館はこれを後代の偽銘としています。2013~2014年の調査による現在の所蔵館目録の年代は、機構の型式が16世紀、組み合わせが1850~1895年頃です。古い部品と後世の部品を合わせた作品であって、1510年の完成状態がそのまま残る時計ではありません。7
調査に参加したフラウンホーファー研究所も、マイクロCTで内部を非破壊的に調べ、19世紀の組み合わせであるとした結論を公表しています。これは、古い様式、刻印、古い材料が見つかることだけでは、作品全体の製作年代や作者が決まらないことを示す事例です。8
これとは別に、個人所蔵のポマンダー型時計を1505年のヘンライン作とする説があります。市公文書館の2011年の研究は、その主張と支持する研究者を紹介しつつ、私蔵品であるため第三者の検証が難しく、一般に受け入れられた同定ではないとしています。この1505年説、GNMの1510年偽銘、ウォルターズの1530年銘は、異なる作品の問題です。一方の検査結果を別の時計にそのまま当てはめることも、1505年という主張を無条件に最古の実証年として採用することもできません。1 6 7
大英博物館の銀製天文時計#
作品帰属を進める別の方法は、市の支払記録と現物の材料・重量を突き合わせることです。マッテスは2015年、大英博物館の銀製ケースの天文表示付き時計1888,1201.105をヘンラインに帰属させる研究を発表しました。時計は鉄製ムーブメント、金めっき銀製のケースと文字盤を持ち、時刻に加えて黄道十二宮、月相と月齢を表示します。1525年1月の記録は、時計の仕事の代金をヘンラインへ、銀めっきではなく金めっきを施した銀製ケースの代金を金工師リヒェルへ支払ったと記します。論文は、記載された銀の重量約351グラムと現物のケース等の重量350.4グラムの近さも重視し、1524年末頃の製作とする説を述べています。これは署名による証明とは異なる、文書と実物の照合に基づく研究者の帰属説です。4
顧客、協力者、都市の贈答#
ヘンラインの仕事には、時計の機構だけでなく貴金属ケースを作る金工師、代金を支払う市当局、贈り先の外交関係者が関わりました。1524年には、ニュルンベルク市が彼から金めっきのポマンダー型時計を15グルデンで買った記録があります。貨幣価値を現在の円へ一律に換算するより、作品とケースの材料、複雑さ、用途ごとに代金を読む必要があります。1 2
ここで注意したいのは、市が誰かに時計を贈った記録と、ヘンラインに代金を払った記録が常に同じではないことです。市公文書館の調査では、1521~1523年の贈答記録に製作者名がない例があり、一方、1522~1525年にヘンラインから買った時計でも用途が記されないものがあります。贈り先の名を、そのまま彼の直接の顧客名簿に移すことはできません。メランヒトンと時計の関係も、作品の刻銘と所蔵館の帰属説明のそれぞれに即して扱うべきものです。1 6
金工師リヒェルとの分業を示す1525年の記録は、時計が機構と装飾の双方からなる製品だったことを伝えます。また、1875年の史料校訂版には、枢機卿・選帝侯アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクのために預けられた銅球を、ニュルンベルクのマルティン・プフィンツィングがヘンラインを代理人として回収しようとした記録があります。これは彼が機器に関する人的ネットワークにいたことを示しますが、アルブレヒトへ特定の時計を納品した証拠と同一視すべきではありません。3 4
「ニュルンベルクの卵」と後世の顕彰#
卵形ケースの「ニュルンベルクの卵」をヘンラインの発明品そのものとする説明は、形と年代を混同します。市公文書館の研究によれば、卵形の時計が現れるのは彼の死後、16世紀後半です。小さな時計を意味する語を「小さな卵」と解したことが、後世の結び付けを助けたとされています。球形ポマンダー、背の高い円筒形時計、薄い首掛け時計、卵形時計を同じものとして扱うと、携帯時計の発達の過程が見えなくなります。1
1565年、ニュルンベルクでは時計師のための親方試験の作品や検査担当者が設けられました。ただし時計師はなお錠前師の規則下にあり、「ヘンラインが世界初の時計師ギルドを生んだ」という単純な因果関係にはできません。技術の専門化と職業制度の変化を示す出来事として理解できます。1
ヘンラインの名声には、本人の生前の仕事と、後世の発明家像の二つの層があります。GNMは、ドイツの時計職人たちが彼を職業の始祖として顕彰し、学校、記念碑、映画などにその名を掲げた歴史を説明しています。1905年にはドイツ時計師連盟とニュルンベルク市が「発明400年」を祝い、時計展が開かれ、ヘフナース広場に記念像が建てられました。この祭典で使われた金めっき銀製の記念メダルも同館に残ります。ただし、1505年を発明年とする根拠が確定していたわけではありません。こうした顕彰は時計文化の歴史を知る資料ですが、記念年や肖像が16世紀の作品帰属を証明するわけではありません。5 9
2013~2014年の作品調査と、2014年12月4日から2015年4月12日のGNMの展覧会「ヘンライン時計論争」は、この二つを分けて考える機会となりました。ヘンラインが小型時計の著名な製作者だったことは同時代の証言と支払記録に支えられています。その上で、どの現存時計を誰がいつ作ったのか、彼の独創がどの部品や形にあったのかは、文書・現物・技術分析を一つずつ照合する問題です。未確定の部分を残しても、携帯できる時間の道具を作る仕事に彼が果たした役割は十分に理解できます。3 5 7
年表#
| 年・時期 | 出来事と史料上の位置づけ |
|---|---|
| 15世紀 | ぜんまい式の小型時計がヘンラインに先行。フランス・イタリアの例と現存作品を背景に置く。2 5 |
| 1479~1480年頃/1485年頃 | ニュルンベルクでの生年の二つの推定。正確な年日は不明。1 |
| 1504年9月 | グラーザー死亡事件に関わり、バールフュッサー修道院に庇護を求める。1 3 |
| 1504~1508年 | 遺族との交渉に関連する通行保証の記録。1 |
| 1509年11月16日 | 錠前師の親方に認定。1 |
| 1511年11月/1512年 | コクレウスの献辞/刊行。携帯小時計と40時間という証言。1 |
| 1515年2月26日 | グラーザー遺族側の受領・清算に関する記録。3 |
| 1522年以降 | 市当局から時計製作の支払を受ける。1 2 |
| 1524年 | 金めっきポマンダー型時計の15グルデンの購入記録。1 |
| 1525年1月 | ヘンラインと金工師リヒェルへの別々の支払。大英博物館の時計への帰属説の根拠。4 |
| 1530年 | メランヒトンの名を刻んだ球形時計の年紀。6 |
| 1535年 | 市庁舎事務局の時計調整の仕事。1 |
| 1541年 | リヒテンアウの大型時計の製作を依頼される。1 |
| 1542年 | ニュルンベルクで死去。日付の確定には限界。1 2 |
| 1547年 | ノイドルファーがポマンダー時計と天体装置の製作を記す。3 |
| 1565年 | 時計師独自の親方試験・検査の制度。錠前師の規則下にとどまる。1 |
| 16世紀後半 | ヘンラインの死後に卵形時計が現れる。1 |
| 1875年 | ロホナーがノイドルファーの記述を校訂し、市の史料を用いた注を付す。3 |
| 1905年 | ヘンライン顕彰の記念メダル。発明家像の普及を示す資料。9 |
| 2013~2014年 | GNMのWI1265の調査。16世紀型の機構と19世紀の合成を区別。7 8 |
| 2014~2015年 | GNMの展覧会。ウォルターズの時計について同館は2014年の帰属研究を紹介。5 6 |
| 2015年 | マッテスが大英博物館の時計と1525年の支払記録を結ぶ研究を発表。4 |
史料を読む際の限界#
ヘンラインの活動には同時代の文書がありますが、各文書の時計を現存品と同定するのは容易ではありません。コクレウスの文章は都市と職人を賞賛する記述、ノイドルファーの文章は職人たちの記録、市の帳簿は支出や贈答の管理であり、それぞれ目的が違います。性能の形容、発明への評価、実際の代金を、同一の種類の証拠として扱うべきではありません。1 3
生年・正確な没日・修道院での修業、1505年とされる私蔵時計の年代、特定の補償機構の発明者は、確定できない点を含みます。一方、資料上の限定は、その人物の技術や作品がなかったことの証明でもありません。現存品の無署名や後世の改変を考慮し、個々の帰属と史料が支える範囲を示すことが、ヘンラインの仕事を具体的に知る方法です。1 4 7
参考文献#
- Horst-Dieter Beyerstedt「Peter Henlein, oder: Hat die Stadt Nürnberg ein Jubiläum verschlafen?」『NORICA』7、ニュルンベルク市公文書館、2011年、38~41頁。公開PDF。閲覧:2026年10月23日。
2. Werner Schultheiß「Henlein, Peter」『Neue Deutsche Biographie』8、1969年、534~535頁。Deutsche Biographie。20世紀の技術帰属説を含むため現代の作品調査と区別。閲覧:2026年10月23日。
3. Johann Neudörfer『Nachrichten von Künstlern und Werkleuten』1547年、G. W. K. Lochner校訂『Des Johann Neudörfer … Nachrichten von Künstlern und Werkleuten … aus dem Jahre 1547』、ウィーン、1875年、71~77頁。Warburg Institute公開史料PDF。本文の同時代記述と校訂者の注・史料引用を区別。閲覧:2026年10月23日。
4. Dietrich Matthes「A watch by Peter Henlein in London?」『Antiquarian Horology』36(2)、2015年6月、183~194頁。論文PDF、著者公開情報。閲覧:2026年10月23日。
5. Germanisches Nationalmuseum「Die älteste Taschenuhr der Welt? Der Henlein-Uhrenstreit」、2014~2015年展。所蔵館の展覧会解説。閲覧:2026年10月23日。
6. The Walters Art Museum「Spherical Table Watch (Melanchthon’s Watch)」、作品番号58.17、1530年。所蔵館目録。材質、銘文、帰属、持続時間、来歴。閲覧:2026年10月23日。
7. Germanisches Nationalmuseum「Sogenannte Henlein-Uhr」、WI1265。現行作品目録。作品の型式年代と合成年代、偽銘、寸法、材質。閲覧:2026年10月23日。
8. Fraunhofer IIS・EZRT「Henlein Uhr」。調査実施機関によるCT調査の説明。閲覧:2026年10月23日。
9. Germanisches Nationalmuseum「Henlein-Preismedaille」、1905年。所蔵館目録。閲覧:2026年10月23日。