はじめに#
ピエール・ル・ロワ(Pierre Le Roy、1717–1785年)は、パリで活動した時計師です。海上で基準時刻を保つ時計の研究に取り組み、テンプの自由な振動、ひげゼンマイの等時性、温度変化の補償を一つの機械に組み合わせました。1766年に国王へ提示した海時計と、その設計理由を詳しく記した1770年刊の論文は、航海用クロノメーターの成立を考えるうえで重要な資料です。12
ル・ロワの仕事の特徴は、単に時計の進み遅れを小さくすることにとどまりません。なぜ振幅が変わると時刻が狂うのか、歯車からの力や摩擦を振動子へどこまで伝えるべきか、温度でひげの働きが変わったとき何を動かして補償するのかを分けて考えました。同時に、そのような機構を船上へ運び、観測で歩度を確かめ、衝撃や湿気の中で使うという問題にも向き合っています。13
彼の大型海時計、航海で試された小型時計、後世の博物館や競売目録に記録された携帯時計は、それぞれ構造と資料の条件が異なります。これらを区別すると、三つの発明という概略だけでは見えない、実験と改良の過程が分かります。
生涯と研究の展開#
パリの時計師一家から海上計時へ#
ル・ロワは1717年にパリで生まれました。父ジュリアン・ル・ロワ(Julien Le Roy、1686–1759年)は王に仕えた著名な時計師で、ピエールはこの時計製作の家に属します。Sotheby’sの作品解説は、ピエールの親方資格取得を1737年としています。これは後世の作品研究に基づく経歴であり、幼少期の教育の細部や工房内の担当までを記録するものではありません。28
父と息子、さらに同じPierre Le Royという名を持つ時計師の区別は、作品を見るときにも必要です。例えばルーヴル美術館の懐中時計OA8345は、作者を「Le Roy, Pierre(Tours, 1687)」と記載しています。この作者表示を、パリで1717年に生まれた本項の人物へそのまま置き換えることはできません。一方、息子が父の名を刻むムーブメントを用いたとする作品もあり、署名だけで製作者や製作年のすべてが決まるわけではありません。69
1748年の脱進機案については、ル・ロワ本人が1770年の論文で振り返り、アカデミーの刊行物に記録された先行案と、新しい海時計に採用した機構との違いを説明しています。CNAMの時計目録は、1754年にも海時計の計画をアカデミーへ封書で提出したと記します。海上計時の研究は1766年の完成機だけに突然現れたものではなく、先行する試作と考察を伴っていました。12
初期の機械について、時計史家R・T・グールドは1923年の著書で、ル・ロワが後に引用した証言を紹介しています。それによれば、1756年12月には針金でテンプを支えた海時計が示され、1763年には高さ3フィートの海時計、翌年にはその半分の大きさの機械が製作されました。この寸法はグールドが記す初期機の高さであり、1766年の時計やテンプの直径を表すものではありません。1756年機についても、グールドは脱進機の形式を確定しきらない表現を用いています。4
1759年に父が死去した後も、ピエールは王室と結び付くパリの時計師として活動しました。1770年の本人論文には王の時計師という肩書きが掲げられています。ただし、工房の継承、王室の住居や資格、個々の注文は異なる事実です。肩書きだけから特定の国王や貴族への納品一覧を作ることはできません。12
1766年の提示、1768年の航海、1769年の受賞#
1766年8月5日、ル・ロワは新しい海時計をルイ15世へ提示しました。後に刊行された論文の表題はこの日を明記し、海上で時間を測る最良の方法についてアカデミーの二重賞(prix double)を得たことも記しています。1769年の受賞はCNAM目録や後世の時計史でも重要な転機として扱われます。「二重賞」という語を、時計の製作賞と測定法の賞という二部門への受賞に分けて解釈する根拠は、この表題だけからは得られません。124
海上試験は一度だけではありません。CNAM目録は1767年、1768年、1771–72年の試験を区別しています。中でも1768年の記録は、航海に参加した天文学者ジャン=ドミニク・カッシーニ、すなわちカッシーニ4世の『1768年に国王の命によって行われた航海』によって詳細を追うことができます。試験した二台は、先に作られた時計をA、後の時計をSと呼び分けています。23
この航海は、完成した時計を載せて最後に誤差を読むだけの試験ではありませんでした。出港地ル・アーヴルで時刻と歩度を決め、寄港地で天文観測と比較し、航海中には二台の相対的な進み遅れ、気温、船の動きを記録しました。カッシーニは、経度が十分確定していないサン=ピエール島では歩度の確認を中心とし、経度の比較にはカディスとブレストの既知の位置を用いています。観測地点の確かさも、時計の性能評価を左右していたのです。3
携帯時計と晩年#
ル・ロワは大型海時計と並行して、通常の懐中時計に近い大きさで精密な時刻を運ぶ方法も考えました。1770年論文の付録では、携帯時計は小さいため大型機と同じ資源をすべて使うことは難しいと認めたうえで、等時性、温度補償、摩擦を小さくした脱進機による改良を論じています。小型時計を大型機の縮小版として扱わない姿勢は、本人の説明にも見られます。1
1771–72年のフロール号の航海には、AとSのほかに、彼の小型時計「プティット・ロンド」(petite ronde)が搭載されました。担当者の記録によれば、ル・ロワはこれを単なる試作とし、他の二台と同じ成績を期待するものではなく、賞の競争にも参加させないと書面で伝えています。その後の停止を、受賞競争で大型時計に敗れた結果と読むのは適切ではありません。5
小型時計の改良については、本人の論文を引用する競売目録、所蔵館の説明、後に再構成された作品の記録が伝わります。これらは携帯型海時計への試みを具体化する一方、1771年の試験機から現存品までの連続した来歴をすべて確定するものではありません。作品ごとの違いは後に詳しく述べます。
CNAM目録は、ル・ロワが1773年頃に第一線から退いたとしています。1785年に死去しました。競争相手への処遇に失望したという物語は後世の評価にしばしば現れますが、それだけで引退の原因や本人の心情を決めることはできません。24
ル・ロワ一家には学術活動を行った兄弟もいました。フランス科学アカデミーの歴代会員を調べたマンドロンの著書に載るジャン=バティスト・ル・ロワと、海時計の論文を提出したピエールとは区別が必要です。また王立協会が編纂した会員名簿では、ジャン=バティストの選出は1773年、シャルルは1770年と記されています。本人の時計が学術機関で審査されたことと、本人がその機関の会員であることは同じではありません。1011
経度を求める時計には何が必要だったか#
海上で経度を求めるには、船のいる場所の時刻と、基準となる地点の時刻を比較する方法があります。地球の一回転を24時間で考えれば、時刻差1時間が経度15度、時刻差1分が15分角に相当します。船上で求めた地方時に対し、出港地などの基準時刻を保つ時計があれば、その差を経度へ換算できます。ル・ロワは論文の冒頭で、天体観測だけでは天候などによって必要な観測が得られない場面があることも論じ、時刻を保持する機械の役割を説明しました。1
問題は、振り子時計をそのまま船へ載せても同じ働きを期待できないことです。振り子は重力に依存し、支持部の運動や姿勢の変化を受けます。テンプとひげゼンマイを使う振動子は別の可能性を与えますが、携帯時計にも振幅、摩擦、温度、姿勢、衝撃による歩度変化がありました。ル・ロワはこれらを独立した誤差要因として整理したうえで、一つずつ機構へ対策を施しています。1
ここで、時計が毎日まったく進みも遅れもしないことと、進み遅れの割合が安定していることを区別する必要があります。既知の一定歩度なら、経過時間に応じて補正できます。しかし歩度そのものが航海中に変われば、時計が示す値から基準時刻を復元することが難しくなります。フロール号の担当者も、平均時との完全な一致ではなく、等しい期間に同じだけ進み遅れすることを求めると明記しています。5
このため、時計の設計だけで経度測定の全工程が完結したわけではありません。出港前の歩度決定、寄港地での天文観測、気温の記録、時計同士の比較、残存温度誤差の補正が組み合わされていました。海時計は、観測で決めた時刻を、次に確かな観測ができる場所まで保持する道具でもあったのです。35
1766年海時計の技術#
振動子を自由にする脱進機#
機械式時計の脱進機は、歯車の回転を振動子に従って区切ると同時に、振動で失われたエネルギーを補います。ところが、歯車がテンプに長い間触れていれば、動力や摩擦の変化も振動へ伝わります。ル・ロワは、ひげだけで振動させたテンプが等時性に近づいていても、脱進機を組み合わせることでその性質を損ねては意味がないと考えました。1
1770年論文の図IIIと本文では、歯車を止める保持部品と、テンプへ給力する部分を区別しています。テンプに伴って動く二つのピンが保持部品を段階的に動かし、歯車を解放したところで歯がテンプ側のパレットへ力を渡します。本人のいう二振動、すなわち往復一周期につき一回の給力で、作用を中立位置付近の短い区間へ限る構造です。テンプが動いている大部分の時間には、脱進車の歯の摩擦が直接作用しません。1
この「自由」は、抵抗が一切ないという意味ではありません。解放のためにはテンプ側の部品が保持部品を動かし、給力の瞬間には歯と接触します。軸受、空気、ひげの取付部などの影響も残ります。重要なのは、歯車の力を振動の全区間へ持ち込まず、振動子が自身の性質によって動ける区間を長くしたことです。1
1748年の先行案と1766年機も同一構造ではありません。ル・ロワは先行案の保持部品がばねによって戻るのに対し、後の機構では異なる構成を採ったことを説明しています。したがって、後世のばねデテントをそのまま描けばル・ロワの実機の説明になるわけではありません。「デテント」は歯車を保持・解放する部品に関わる語であり、時計全体の懸架や、テンプの重量を支える針金とも区別されます。12
後世の航海用クロノメーターにも、振動子をできるだけ自由にし、短い給力によって運転を保つ原理が見られます。ただしCNAM目録は、ル・ロワ機と後の機構との原理上の重要な関係を評価する一方、後の製作者の時計がこの現物から直接派生したと単純に説明してはいません。共通する解決原理と、誰が誰の設計を受け継いだかという伝播の問題は分けて考える必要があります。2
ひげの長さと等時性#
等時性とは、振動の大きさが変わっても周期が変わらない性質です。時計の振幅は、動力の変化、摩擦、船の動揺などで変わり得ます。振幅が変わるたびに周期も変わるなら、歯車の回転を刻む基準そのものが動いてしまいます。ル・ロワが問題にしたのは、平均的に合うよう調速するだけでなく、振幅の違いに対して周期を安定させることでした。1
本人はひげの長さを変える実験で、ある長さを境として、大振幅と小振幅の進み遅れの関係が逆になると述べます。短くすると大きな振動の方が速くなり、長くすると小さな振動の方が速くなるという観察です。その間に、両者の時間が近づく長さを求めました。単にばねを強くして速くする、弱くして遅くするという平均周期の調整とは、狙っている性質が異なります。1
この研究では、ひげの端をどのように取り付けるかも関わります。海時計は相反する二本のひげを備え、その取付部も、ばねの働きを不必要に拘束しないよう考慮されています。二本という外観だけではなく、振動の自由を得た状態を保ったまま時計を調整することが設計上の一貫した課題でした。本人は調速についても、選んだひげの長さを変えずに行うことを重視しています。12
もっとも、本人が説明する取付点の規則を、そのまますべてのひげの完全な等時性を保証する必要十分条件と読むことはできません。CNAM目録はこの点に留保を付けています。ル・ロワの実験による発見と、その後のひげ理論による説明を同一視せず、本人がどの条件を変え、何を観測して選択したかを見ることが重要です。2
等時性と自由な脱進機は、別々の功績を並べただけの関係ではありません。ひげの振動が大きさに左右されにくくなっても、脱進機が振動の途中で強い摩擦を与えれば、その長所が失われます。反対に、脱進機を切り離しても、ひげ自体の振幅依存性が大きければ、船上の外乱による振幅の変化は歩度へ現れます。ル・ロワの論文は、この二つを一組の設計問題として扱っています。1
液体を移して温度を補償する#
温度が変わると、テンプの寸法だけでなく、ひげゼンマイの寸法と弾性も変わります。ル・ロワは、温かいと遅れ、冷えると進む携帯時計の性質について、それぞれの原因を分けて検討しました。海時計の補償では、ひげの有効長を温度に応じて動かす代わりに、回転する質量の配置を変える方針を採っています。1
1770年論文の本文pp41–43と図Vに示されるのは、酒精と水銀を入れた二本の曲がったガラス管です。温度が上がると酒精が膨張し、水銀をテンプの外周側から回転軸に近い側へ動かします。回転軸から遠い場所の質量を内側へ移せば、回転の変化に対する慣性が小さくなり、ひげの働きが弱まることで生じる遅れを補う方向に作用します。二本を組み合わせることには、テンプ上の質量の偏りを抑える意味もありました。1
この装置で変えるのは、温度が与える影響そのものではなく、それと反対方向に働く別の効果です。ひげの等時性を得るために選んだ長さを維持しながら、テンプ側の慣性を変えて歩度変化を相殺しようとしました。本人が補償方式を選ぶ理由には、温度と等時性を別々に調整しやすくするというつながりがあります。1
ル・ロワは二金属式の補償テンプも実際に試しています。本文pp55–57では、銅と鋼を組み合わせた半円形の部品によって温度変化を補う試みを説明します。しかし、十分な堅固さ、均衡、加熱後の形状や歩度の安定に満足できず、液体を用いる方式を選んだと述べています。二金属を考案しなかったということでも、完成した海時計が後世の切りテンプと同じ二金属環を備えていたということでもありません。1
加熱の後に材料の状態が変われば、元の温度へ戻しても同じ歩度に戻るとは限りません。本人は、想定する最も高い温度をあらかじめ経験させる必要も論じました。この記述には、材料の熱膨張率だけでなく、加工・加熱の履歴や経時的な安定性までが時計の性能に関わるという認識が現れています。理想的な補償原理と、実物の材料でその働きを繰り返し再現する課題は同じではなかったのです。1
軸受、動力、箱と懸架#
テンプの摩擦は、脱進機だけで生じるものではありません。大きなテンプの重量を細い軸先で支えれば、支持部の条件も歩度へ影響します。ル・ロワの海時計では細い針金による支持とローラーを組み合わせ、テンプ軸の摩擦を減らしました。相反する二本のひげ、支持部、脱進機は、振動をできるだけ自由に保つために組み合わされています。12
本人が記す大型海時計には、動力ゼンマイの力を均すフュジーも、別の動力を間欠的に巻き上げて輪列末端へ力を渡すルモントワールもありません。本人は、それらが部品と調整を増やし、故障の危険や修理の難しさを招くと論じます。これはすべてのル・ロワ時計に共通する仕様ではなく、後の小型時計の説明とは異なります。巻上げ中の運転を保つ仕組みと、駆動力を間欠的に再供給して均す仕組みも別のものです。1
本人は、強力で等時性を備えた振動子を選んだため、この機械にフュジーは不要だと考えました。フュジーを付ければ、鎖の破断の可能性に加え、巻上げ中も時計を動かすため別の装置が要ると指摘しています。また、ゼンマイの力が変わる間の歩度を観察すれば、大振幅と小振幅の等時性を利用者も確認できると述べます。動力を均すことを唯一の道とせず、力が変わっても周期の変わりにくい振動子を目指した設計です。1
支持部については、針金を外し、テンプの軸先を磨いた焼入れ鋼の板で支えた実験も記しています。本人によれば、三日後には板がくぼみ、振幅と時計の精度が損なわれ、めのうを用いても同様の問題が生じました。この実験は本人の報告ですが、低摩擦の支持を選ぶ理由を具体的に示します。大きなテンプを選べば外乱に対する強さを得られる一方、その重量を支える接触部の摩擦と摩耗にも対処しなければならなかったのです。1
船の動揺への対策は、時計を入れる箱と支持にも及びました。1770年論文の本文pp48–49と図版には、傾きを許す支持と柔らかい緩衝によって、時計へ伝わる急な運動を和らげる考えが示されています。ケースと箱は、衝撃だけでなく、さび、短時間の激しい温度変化、船内での不意の事故から機械を守る役割も与えられました。1
現存するCNAM所蔵1395番の大きなジンバル枠は、目録によれば後から加えられたものです。したがって、現在の外観全部を1766年当初の姿とすることはできません。しかし、それは当初の時計に動揺を逃がす懸架がなかったことを意味しません。本人の設計説明にある懸架と、後に付された現物の枠を区別することで、当初の工夫と保存・改変の履歴の両方を理解できます。12
航海試験が示した性能と限界#
カッシーニによる1768年の試験#
カッシーニはル・アーヴルを出る前に、時計を平均時へ完全に一致させる調整を終える時間がなかったと記しています。その代わり、基準となる時刻と歩度を十分に確かめることを重視しました。出発時の表示のずれ、毎日の一定した進み遅れ、航海中に生じる歩度の変化を区別するためです。3
サン=ピエール島では、島の経度が十分確かでないため、時計が示した値をそのまま経度の正解と比較することはできませんでした。カッシーニはそこで歩度が出港時と同じかを検査し、カディスとブレストで既知の経度との比較を行います。二台の日々の比較だけでなく、外部の天文観測を組み合わせて時計を評価した点が、この試験の重要な部分です。3
報告には全161日間を通した場合と、途中の観測に基づいて区間ごとに扱った場合の評価があります。とくにカディスからブレストまでの40日間については、Aの経度誤差を8分の1度、Sを2分の1度としています。この数値は、その区間と起算条件を伴う値です。全航海を通して一台が同じ誤差を保ったという意味でも、ハリソンH4と同時・同条件で対決した結果でもありません。3
カッシーニは気温、湿気、船の運動と歩度の関係にも注意を払い、二台の一致が失われた時期と戻った時期を記録しました。海時計の価値を一つの「最高精度」の数字へ圧縮するより、どの条件なら安定し、どの条件で変化したかを追う方が、機械の実力をよく表します。3
フロール号の1771–72年試験#
ヴェルダン・ド・ラ・クレンヌ、ボルダ、パングレによる航海記録では、ル・ロワのAとS、ベルトゥーのNo.8、小型のプティット・ロンドが区別されています。1771年10月10日から26日までの16日間の比較は、No.8が22.25秒進み、Aが34.25秒遅れ、Sが23.7秒進み、小型時計が13秒遅れたと記録します。これはその期間の進遅量であり、そのまま全航海にわたる歩度の安定度の順位にはなりません。5
航海には、機械補償を施した時計にも残る温度誤差の表が持ち込まれました。ル・ロワとベルトゥーの双方が表を渡し、担当者は気温に応じた補正に使っています。温度補償機構を備えることと、全温度域で誤差がゼロになることは異なり、実運用には観測と計算による補正も必要でした。5
プティット・ロンドは1772年1月13日に停止し、その後20日、26日、28日にも停止を重ねました。担当者は、ゴレ島で停泊している間の停止であり、激しい波による船の動きに直接帰せられるものではないと述べます。ここから分かるのは、この試作機の運転の限界です。後の改良機や現存小型時計すべてが同じ性能だったと一般化することはできません。5
大型時計にも事故がありました。1772年3月17日、固定が十分でなかった箱が落下し、Aでは補償管が破損、Sも衝撃を受けます。報告は事故以前のAについて、6週間で経度誤差3分の2度よりよい成績を示したと評価しています。Sの後半の歩度変化についても、担当者はこの衝撃の影響を検討しました。事故後の値を、そのまま無損傷時の通常性能へ置き換えることはできません。5
Sについて担当者は、6週間当たりの経度誤差がおおむね2分の1度よりよく、一度の例外では4分の3度となったと要約し、その例外が事故に関係する可能性を挙げています。これは条件付きの評価であり、事故原因の完全な実証や、あらゆる航海条件で同じ精度を保証する記述ではありません。5
巻末の総括では、ル・ロワのSとベルトゥーのNo.8の双方が期待に応え、適切な予防措置のもとでは経度測定に信頼できるとしています。Aもおおむね同様としながら、事故によって長期の試験が妨げられた点を挙げます。両製作者の時計の一致だけで結論を出したのではなく、別に求めた寄港地の経度との比較も根拠とされました。5
同じ報告は、日々の読み取りに照明や秒の記録の誤差が混じり得ることも検討しています。ル・ロワとベルトゥーのどちらが一方的に勝ったかという物語より、異なる時計を照合し、独立の観測で検査し、事故と読み取り誤差まで吟味したことに、この試験の技術史的な意味があります。5
小型海時計と現存作品#
大型機から携帯型へ移すと何が変わるか#
1770年論文の付録でル・ロワは、小型時計には自分のデテント脱進機を提案しないと明記しています。小さな時計へその機構を収めるのが難しいためです。代わりに、車輪を地板に垂直に置くスルリーの方式を改良し、接触がテンプ軸に近い場所で起きることで摩擦を小さくできると考えました。車輪を大きくしながら、歯を放射状として軽くする工夫にも触れています。1
したがって「ル・ロワの時計だから自由デテントで、液体補償を備える」という説明は小型機に当てはまりません。限られた容積、携帯時の姿勢、巻上げ、軸受の加工という別の制約のもとで、異なる脱進機と補償装置が試みられました。大型機で到達した解決を、そのまま縮尺だけ変えて移植できなかったことが、この研究の重要な点です。17
二面時計、プティット・ロンド、再構成品#
2002年のAntiquorum lot66は、パンティエーヴル公爵のため1774年に作られたとする二面時計を紹介しています。現物記載は機械径41mm、時計の全径67mm、時分と秒を別の面に表示する文字盤、スルリー型の摩擦休止脱進機、フュジーと鎖、巻上げ中の動力保持、焼入れ鋼の軸受とルビー端石を挙げます。公爵への帰属と「世界初のデッキウォッチ」という位置付けは、同目録の判断です。7
同目録が引用する改良説明では、1771年機にはなかったフュジーを採り入れ、補償用の板を背面へ移したとされます。二金属板の変位は、てこを介してひげへ伝え、作用を拡大すると説明されています。大型海時計の水銀移動式とは別の方式です。また、現物には1772年と1804年の署名があり、目録見出しの修復年1806年とは一致しません。後補と改修を伴う時計として扱う必要があります。7
チューリヒのBeyer時計博物館は、別に「ラ・プティット・ロンド」をピエール・ル・ロワ、パリ、1771年頃の海洋クロノメーター/懐中時計として紹介し、保持具から取り外して携帯できたと説明しています。この所蔵者説明は携帯方法を知る根拠ですが、フロール号で停止した試作機や公爵用二面時計と同じ個体だとまでは示していません。12
2015年のChayette & Chevalの公式資料に登場する地板番号4732の小型時計は、さらに区別が必要です。競売社は、父ジュリアン名のムーブメントを用い、ピエールが1774年頃に製作したものと説明する一方、機器が再構成品であることも明記しています。現在整った外観を、そのまま18世紀当初の未改変の姿と見ることはできません。父の署名、息子への帰属、後世の再構成は併存する情報です。6
これらの資料をまとめると、携帯型海時計の試みが具体的な作品として伝わることが分かります。しかし、所蔵館の概年、競売目録の製作年、後補文字盤の署名年は、それぞれ異なる根拠を持ちます。一つの完成機を1771年、1772年、1774年と順に改良したと断定するより、各資料がどの個体の何を説明するかを保つ方が、作品の理解に適しています。56712
装飾時計と顧客の記録#
海時計以外にも、ル・ロワの名に結び付く作品が伝わります。メトロポリタン美術館は、金とエナメルの懐中時計17.190.1586を、ピエール・ル・ロワ(1717–1785年)へ帰属させています。直径は4.1cm、館が掲げる年代は1770–95年頃と幅があります。年代の末尾が本人の没後に及ぶため、この表示だけから機械、ケース、装飾のすべてを本人が特定年に作ったと決めることはできません。13

金・エナメルの懐中時計の装飾ケース。作品作者の帰属:ピエール・ル・ロワ、1770–95年頃(館の年代)。所蔵・画像提供:The Metropolitan Museum of Art、17.190.1586、Gift of J. Pierpont Morgan, 1917。写真の個人撮影者は非記載。採用ライセンス:CC0 1.0 Universal(館のOpen Access方針)。加工:なし。
この画像は装飾ケースの姿を示すもので、海時計の脱進機や補償機構を示す写真ではありません。1917年のモルガンによる寄贈も、18世紀の注文主を意味しません。精密機構の研究者という側面と、装飾時計の作品帰属は、具体的な資料によって別々にたどることができます。13
Sotheby’sの2009年lot112は、ヘラクレス像を伴う壁掛時計を取り上げ、文字盤のPIERRE LE ROY署名、Doistau旧蔵、1909年競売への出品と20世紀初頭の展示歴を記しています。これは作品の署名と後世の来歴を知る資料です。署名、ケースの意匠、後世の所有者の記録を合わせても、18世紀の発注者が直ちに判明するわけではありません。8
顧客・後援者として最も明確に分けて考えるべきなのは、国王への提示、航海試験への協力、公爵への作品帰属です。1766年のルイ15世への提示は本人論文の表題で確認できます。カッシーニや航海担当者は試験と観測の担い手です。パンティエーヴル公爵についてはAntiquorum目録が注文との関係を説明しています。これらをすべて通常の商品を購入した「顧客」として一括すれば、王室、科学者、海軍、注文主の役割の違いが見えなくなります。1357
競争相手と後世の評価#
ベルトゥーとの比較#
フェルディナン・ベルトゥー(1727–1807年)は、同時代にフランスで海時計を開発した重要な時計師です。王立協会の名簿は1764年の選出を記しています。ル・ロワとベルトゥーの製作・発表・任官・受賞は別々の出来事であり、一つの年の賞や役職だけで、双方の時計の性能やすべての発明の優先権を決めることはできません。11
特にフロール号の記録は、二人の時計を同じ航海で評価した資料として重要です。担当者はSとNo.8の双方を信頼できると結論し、以前の航海に比べて両製作者の時計の一致が改善したと記しています。ただし、両者が前の経験から改良したためだろうという説明は担当者の推察であり、各機構の変更を分解して試験した結果ではありません。5
ル・ロワの自由脱進機や等時性研究は、後世から見ると近代的な海時計の原理に近い部分を持ちます。一方、安定して製作し、船へ供給し、修理・調整しながら使い続ける問題もあります。発想の先進性、試作品の精度、供給体制の成立を同じ尺度へまとめず、各々の資料で評価することが、この競争を理解するうえで必要です。125
著作が残す設計の過程#
1770年の『海上で時間を測る最良の方法に関する論文』は、完成した機械の仕様書だけではありません。冒頭で海上計時に用いる振動子を考え、続いて通常の時計が変動する原因を整理し、その後に新しい時計が各原因へどう対処するかを説明します。自由な振動と等時性を優先する判断が先にあり、脱進機、支持、補償、箱の選択がそこへつながっています。1
巻末には、懸賞に提出した時点の原稿の状態を証するド・フーシーの記録も印刷されています。そこでは1766年8月31日の提出と、1767年5月2日の署名が記され、後の変更を認めながら当初の状態を確かめる意図が示されています。刊行年、機械の提示日、懸賞への原稿提出日が異なることは、研究と公表の順序を考える際に重要です。1
グールドは1768年の『ハリソン氏とル・ロワ氏の仕事に関する概説』(Exposé succinct des travaux de MM. Harrison et Le Roy)も参照しています。ただし、この著作への言及と、1770年の論文に記された機構の直接の説明とは根拠の層が異なります。ル・ロワ自身の設計理由を読む中心資料としては、機構、実験、採用しなかった試作までまとまって伝わる1770年論文が大きな役割を果たします。14
グールドが評価した三つの原理#
グールドは1923年の『マリンクロノメーター』で、ハリソンが実用に耐える海上時計を達成した功績を認める一方、ル・ロワを近代型クロノメーターの発明者として高く評価しました。彼が挙げるのは、自由なクロノメーター脱進機、補償テンプ、等時性を得るひげの方法です。さらに、ル・ロワが1770年の論文によって設計の結果だけでなく、その判断へ至った過程まで明快に説明したことを重視しています。4
これは20世紀の時計史家による評価です。ル・ロワ機がそのまま量産クロノメーターになったことや、後の製作者がすべて彼の機械を模倣したことの直接証明ではありません。CNAM目録のように、三原理の重要性を認めながら、現物からの直接の系譜を慎重に扱う見方と併せると、原理の先駆性と製品の歴史を分けて考えられます。24
1943年の『Hydrographic Review』掲載書評は、Ditisheim、Lallier、Reverchon、Vivielleによる『Pierre Le Roy et la chronométrie』を、フランスの精密計時史に関する重要な研究として紹介しています。書評は同書を1941年刊とし、航海計時史、人物伝、機構と試験、後世のひげ・合金研究を扱い、原論文や図面を引用・複製したと説明します。この資料から確認できるのは、同書が当時どう紹介され、研究がどのように位置付けられたかです。14
同書評は無線時報が普及した時代にも、観測と観測の間の時刻保持にはクロノメーターが必要であり、通信が妨げられた場合にはその価値が改めて現れると論じています。ル・ロワの時計から無線時報へ一直線に発展したという話ではなく、時刻を決める手段、伝える手段、保持する機械の役割が違うことを示す、後世の視点です。14
温度補償は材料の問題へも広がった#
温度による歩度変化は、ル・ロワ以後も研究されました。シャルル=エドゥアール・ギヨームは1920年のノーベル講演で、鋼ひげと金属テンプの温度特性、二点で合わせても中間の温度に残る二次誤差、ニッケル鋼による補償を説明しています。液体を動かす装置とは構造が異なっても、ひげの弾性とテンプの慣性を温度に対してどう釣り合わせるかという課題は共通します。15
ギヨームは、1899年の補償テンプの設計計算と1900年のナルダン、ディティシェイムによる実現を記し、それとは別に1912年頃からのエリナバーひげの研究を説明しています。温度に対する弾性変化の小さいひげと適切な単金属テンプを組み合わせる方向は、可動する補償部品を減らす可能性を与えました。ただし講演は、組合せの微調整や精密用途の限界にも触れています。15
この後世の材料研究を、ル・ロワの装置が直接受け継がれた証拠とすることはできません。むしろ、同じ歩度安定の課題に対し、18世紀には機構による質量移動、20世紀には合金の物性という異なる場所へ解決を求めたことが分かります。発明の価値を「現在の時計が同じ構造だから」という説明に依存させず、当時どの問題を認識し、どの解決を実物で試したかによって評価できます。115
年表#
| 年・時期 | 出来事と資料の範囲 |
|---|---|
| 1717年 | パリに生まれる。父は時計師ジュリアン・ル・ロワ。2 |
| 1737年 | Sotheby’sの経歴解説が、親方資格取得年とする。8 |
| 1748年 | 脱進機の先行案。本人は後の論文で、1766年機との構造の違いを説明する。1 |
| 1754年 | CNAM目録によれば、海時計の計画をアカデミーへ封書で提出。2 |
| 1756年12月 | グールドは、本人が後に引用した証言に基づき、針金支持のテンプを持つ海時計が示されたと記す。4 |
| 1759年 | 父ジュリアンが死去。ピエールはその後も王の時計師として活動。12 |
| 1763–64年 | グールドは高さ3フィートの初期海時計と、翌年の小型化した機械を記す。4 |
| 1766年8月5日 | 新しい海時計をルイ15世へ提示。本人論文の表題に日付を記載。1 |
| 1767年 | CNAM目録が記す最初の海上試験。1768年、1771–72年の試験と区別される。2 |
| 1768年 | カッシーニ4世の航海でAとSを試験。ル・アーヴル、サン=ピエール、カディス、ブレストなどで観測・比較。3 |
| 1769年 | 海上計時に関するアカデミーの二重賞を得る。12 |
| 1770年 | カッシーニの航海記と、ル・ロワの海上時刻測定論文を刊行。付録は小型携帯時計も論じる。13 |
| 1771–72年 | フロール号でA、S、小型プティット・ロンドを試験。ベルトゥーNo.8も比較対象となる。5 |
| 1772年1月 | 試作プティット・ロンドが停止を重ねる。賞競争の対象外だったことを航海記が明記。5 |
| 1772年3月17日 | 箱の落下事故でAの補償管が破損し、Sも衝撃を受ける。5 |
| 1773年頃 | CNAM目録は、この頃から第一線を退いたとする。2 |
| 1774年頃 | 後世の競売資料が、公爵用二面時計や番号4732の小型時計をこの時期へ帰属させる。改修・再構成と個体の違いに注意が必要。67 |
| 1778年 | フロール号の1771–72年航海記が刊行され、比較と事故、性能評価を詳述。5 |
| 1785年 | 死去。213 |
| 1804年 | Antiquorumの二面時計の秒文字盤にLarescheの改修署名。目録見出しの修復年1806年とは相違がある。7 |
| 1909年 | Sotheby’sの後世来歴によれば、PIERRE LE ROY署名の壁掛時計がDoistauコレクションの競売へ出品。8 |
| 1917年 | 金・エナメル懐中時計17.190.1586がモルガンの寄贈によりMetへ収蔵。13 |
| 1920年 | ギヨームがノーベル講演で補償テンプとエリナバー研究を説明。ル・ロワ本人の発明とは別の後世の材料研究。15 |
| 1923年 | グールドが『マリンクロノメーター』でル・ロワの設計と論文を高く評価。4 |
| 1943年 | 『Hydrographic Review』が、1941年刊とする『Pierre Le Roy et la chronométrie』を紹介。14 |
| 1949年 | CNAMの時計目録が所蔵1395番の構造、試験史、後補の枠を解説。2 |
| 2002年 | Antiquorumが改修を伴う二面時計を出品し、公爵用1774年作への帰属と技術説明を掲載。7 |
| 2015年 | Chayette & Chevalが番号4732の小型時計を紹介。父の機械の利用と再構成品であることを明記。6 |
| 現在の所蔵資料 | CNAM、Met、Beyerなどの記録が、海時計・装飾時計・携帯型海時計をそれぞれ伝える。収蔵記録と常設展示の有無は区別される。21213 |
ル・ロワの仕事をどう理解するか#
ル・ロワの海時計では、振動子の自由、ひげの等時性、温度補償、低摩擦の支持、衝撃を和らげる箱が、一つの目的へ向かって組み合わされています。発明を三項目へ要約しても、そのうち一つだけで船上の安定した計時が実現したわけではありません。さらに航海記録は、優れた機構にも温度補正、読取り、事故防止、外部観測との比較が必要だったことを示します。135
小型時計では、体積と携帯性の制約から別の選択が必要でした。試作が停止したこと、改良説明が伝わること、現存品に後補や再構成があることは、それぞれ研究の異なる段階を示します。完成品の外観だけで発明史を語らず、本人の設計理由、航海担当者の測定、所蔵者の作品記録を重ねることで、ル・ロワの成果と限界を具体的に捉えられます。
参考文献#
一次史料、所蔵者記録、後世の研究は本文で区別した。デジタル公開資料と保存された原本画像・本文を参照(確認:2026年10月)。
- Pierre Le Roy, Mémoire sur la meilleure manière de mesurer le tems en mer, 1770。Cassini航海記合冊。とくにpp3–20、28–43、48–60、図版I–VI。ETH-Bibliothek所蔵本、e-rara。
2. Conservatoire national des arts et métiers, Catalogue du musée, Section JB: Horlogerie, 1949, pp247–250、所蔵1395番。CNAM電子図書館。所蔵機構の解説と後世の史的評価。
3. Jean-Dominique Cassini, Voyage fait par ordre du roi en 1768, Paris, Jombert, 1770。第二部pp49–51、95–96、109–113。e-rara所蔵本。1768年航海の観測・試験記録。
4. Rupert T. Gould, The Marine Chronometer: Its History and Development, 1923, pp86–87、93–94。Internet Archive本文。初期機についてはグールドの史料紹介、三原理については1923年の史的評価として参照。
5. Verdun de la Crenne, Borda, Pingré, Voyage fait par ordre du Roi en 1771 et 1772, en diverses parties de l’Europe, de l’Afrique et de l’Amérique, Paris, Imprimerie Royale, 1778。第1巻、pp19、30–32。第2巻、pp366–378。試作機、大型機、事故、比較と評価を区別。
6. Chayette & Cheval, La collection scientifique de Jean-Claude Sabrier, 2015年5月6日競売のプレス資料、PDF pp4–5。公式PDF。番号4732の帰属と再構成品である旨の記載。全ロット詳細目録とは別資料。
7. Antiquorum, Exceptional Horological Works of Art, Geneva, 2002年10月19日、lot66。二面時計の現物記載と解説。1771年・改良論文の引用は同目録を介した参照であり、原稿の直接引用ではない。
8. Sotheby’s, Important French Furniture and Sculpture, Paris, 2009, lot112。PIERRE LE ROY署名の壁掛時計。現物の署名・来歴と経歴解説。
9. Musée du Louvre, OA8345。同名時計師Pierre Le Roy(Tours, 1687)に帰属する懐中時計。本項の人物との区別に参照。
10. Ernest Maindron, Les académiciens 1666–1793, Paris, Bernard Tignol, 1895, p59。所蔵本のデジタル画像。19世紀の歴代会員研究。原選出記録や現代の公式名簿とは区別して、Le Roy兄弟の同定に参照。
11. Royal Society, Library and Information Services, List of Fellows of the Royal Society 1660–2007, July 2007、Roy・Berthoud各項。IIT Hyderabadで公開される転載PDF。協会編纂の名簿であり、各人の原選出証書とは区別。
12. Beyer Uhrenmuseum, 「3. Advent im Uhrenmuseum」、La Petite Rondeの所蔵者説明。パリ、1771年頃という帰属と、保持具から取り外せる携帯方法。
13. The Metropolitan Museum of Art, Watch, 17.190.1586。Pierre Le Roy(1717–1785)への帰属、1770–95年頃、金・エナメル、径4.1cm、1917年寄贈。
14. P. V., “Pierre Le Roy et la chronométrie” (Review), The Hydrographic Review, 1943。書評本文。Paul Ditisheim、Roger Lallier、L. Reverchon、Commandant Vivielleの書籍を1941年刊として紹介した同時代書評。
15. Charles-Édouard Guillaume, “Invar and Elinvar”, Nobel Lecture, 11 December 1920, pp469–472。Columbia大学サイトのノーベル講演再録PDF。著者の講演内容と転載先を区別して参照。