サロモン・コスター:振子時計を工房と市場へつないだ時計師

サロモン・コスター:振子時計を工房と市場へつないだ時計師

サロモン・コスター(Salomon Coster、出生年不詳–1659年)は、ハールレム出身でハーグを拠点としたオランダの時計師である。クリスチャン・ホイヘンスが考案した振子による調速を時計として製作し、1657年に自らの名で製造・販売の特許を得た。彼の仕事は科学者の図面を形にするだけにとどまらない。家庭用のぜんまい時計、打鐘時計、既存の塔時計の改造を手がけ、職人を育て、外国の注文へ応える工房を営んだ。1 2 3

この時計の革新は、振子を単にぶら下げたことではない。動力が歯車を進める仕事と、振子が進む速さを決める仕事を結び付け、振動を持続させながら時刻を表示する仕組みを作ったことである。一方、特許を得た時計、科学観測向けの時計、市販された小型時計はすべて同じ構造ではない。コスターの経歴をたどると、発明が複数の製品や公共設備へ広がる過程が見えてくる。1 4 5

扉と文字盤を開き、内部の歯車と下端の短い振子を見せたコスター銘の木製箱形時計

図1:アムステルダム国立美術館で撮影されたコスター銘の時計。開いた文字盤の裏側に機構が収まり、短い振子が下へ出ている。時計の製作者:サロモン・コスター、設計:クリスチャン・ホイヘンス。撮影:Hansmuller(2015年1月30日)。出典:Wikimedia Commonsの原画像・説明。写真のライセンス:CC BY-SA 4.0。変更なし。写真の撮影年と時計の製作年は別である。

生涯と工房#

ハールレムとのつながりと出生年#

コスターは Salomon Hendricxzn Coster、Salomon Hendriksz. Coster とも記録される。Hendricxzn は父の名ヘンドリックに由来する表記で、作品や公証人文書には「ハールレムのコスター」という署名もある。Kersing と Memel の2018年の文書研究は、両親ヘンドリック・アダムスゾーンとアンネケン・マーベンの家族・不動産記録をたどり、ハールレムで育った家族関係を明らかにした。6 7

出生年を1620年頃、あるいは1622年とする紹介はあるが、確定した生年月日としては扱えない。2014年の文書研究は、婚姻時の年齢を推測して1622年を導くことには根拠が足りないと指摘している。1643年の婚姻記録に年齢は記されず、独身者を示す語も特定の年齢を保証しない。出生年を空欄にしても、署名、家族文書、仕事の契約から職歴は具体的に追える。6 7

1643年3月22日、デルフトでヤネチェ・ハルメンスと結婚した。ハーグへ移った正確な日は明らかでない。少なくとも1646年1月31日には、ハーグで時計師として徒弟契約を結んでいたことが確認できる。婚姻の年をそのまま工房開設年とするより、所在を確かめられる文書の日付を区別するほうが経歴を正確に表せる。6

徒弟の養成と店の経営#

その徒弟が、後に時計師となるピーテル・フィスバハ(Pieter Visbach、Visbaghとも)である。父レリック・エラールツとコスターが結んだ契約は、1645年5月1日から9年間の修業を定め、1646年1月31日に公証された。最初の3年間は父が衣服と生活を支え、その後の6年間はコスターの家で食事・住居を与えられる。9年の修業期間と6年の住み込み期間は分けて読む必要がある。6 8

1652年にはハーグのフェールカーデ、現在のスティレ・フェールカーデで家を借りていた。文書研究が示す賃料は年160ギルダーである。工房には時計の製作だけでなく修理、徒弟の指導、材料や完成品の管理という継続的な仕事があった。クリスチアーン・レイナールツや、1657年に来たジョン・フロマンティールもこの製作環境に関わった。6 1

振子を導入する以前にもコスターは時計を作っていた。したがって彼の技術は振子だけから始まったものではない。既存の小型時計製作、歯車やぜんまいの扱い、工房での分業が、新しい調速法を商品へ移す土台だった。ただし、彼自身が誰に師事して時計作りを学んだかは、ここで挙げる文書研究からは確定できない。6 7

ホイヘンスの着想を時計にする#

発明者と製作者#

ホイヘンスは1657年12月26日の書簡で、最初の模型を作ったのはちょうど1年前の前日、すなわち1656年12月25日だったと述べている。1657年前半の書簡には、重錘で動く新しい時計と、その精度を改善しようとする経過が現れる。Hordijk と Memel の原資料研究によれば、遅くとも1657年5月18日には動く時計があり、5月31日から6月6日までの6日間に2分遅れたという調整メモも残る。1

ただし、1656年末の最初の模型を製作した時計師が、当時の記録で名指されているわけではない。コスターの名を伴う確実な節目は、1657年6月の特許手続きである。この区別は彼の貢献を小さくするものではない。発明者が周期と機構を考え、専門の時計師が動く作品を製作・調整して供給するという関係を、確認できる範囲で捉えるためのものである。1 2

振子の振動を計時に使う着想にはガリレオらの先行研究があった。ホイヘンスの1658年の著書『Horologium』は、振子の性質に関する先人の知見を踏まえながら、連続して動く時計の具体的構成を示す。コスターが担ったのは、その調速法を製作・販売可能な時計へ展開する仕事だった。4 5

1657年の特許が保護したもの#

1657年6月14日、連邦議会はコスターの申請を受け、グラスとモーレニョーに発明を検査して報告するよう命じた。16日の決議ではその報告を受け、ホイヘンスの発明を託されたコスターに独占権を認めた。発明者と権利を行使する製作者が別の人物であることは、特許文そのものに記されている。1 2

16日付の特許は21年間を定める。許諾なく大小の同種時計を作ること、作らせること、模造品を国内へ持ち込んで販売することなどを禁じ、没収と300カロルス・ギルダーの罰金を規定した。また、発明を実施する州では、それぞれ州の付帯承認を得るよう求めている。これは現代の特許請求項を備えた機構説明書とは異なり、特定の歯数・寸法を列挙した文書ではない。3

1657年7月16日、ホラントおよび西フリースラントの州当局が付帯承認を与えた。その文面の期間は20年である。連邦の21年、州の20年、後の新聞広告の「20年」は、異なる文書にある数字であり、一律にどちらかを誤記とする必要はない。1658年10月19日のヘルダーラントでの承認では、コスターに加え時計師ヤン・ファン・カルも名を連ねる。9 10

元の出願書とその添付図面については、Hordijk と Memel のアーカイブ調査でも発見されていない。したがって、残る図面をそのまま「特許申請図」と呼んだり、特許が重錘式とぜんまい式のどちらの特定構造だったかを決め付けたりはできない。現存する権利付与文と、失われた出願資料を区別する必要がある。1 11

機構と作品の特徴#

動力・脱進機・振子#

機械時計では、重錘の落下や主ぜんまいの力が歯車を回す。脱進機は歯車の連続回転を一定の刻みに分け、同時に振子へ少しずつ力を補給して振動が止まるのを防ぐ。振子は周期を決める部分であり、時計全体の動力源ではない。4 5

初期の振子時計には、従来の冠歯車とバージ、すなわち爪を備えた軸を用いる構成があった。振子を連結するために従来の調速部分の向きを変え、歯車から往復運動を伝える。ロンドン科学博物館のコスター時計1980-108は、1657–1659年のぜんまい駆動の例として登録され、真鍮、鋼、木、ガラスを用いた25.5×21×9cmの小型時計である。12

この小型の箱形はハーグの時計を代表する外観となった。前扉にガラスを入れ、文字盤の時刻リングと銘板を見せる。時計によって材質、装飾、打鐘や目覚ましの有無は異なる。外観が似ていても、すべての現存時計が最初の実験機と同じ機構を持つわけではない。12 13

振幅を小さくする工夫と曲面ガイド#

振子は振れ幅が大きいほど、1回の往復にやや長い時間がかかる。このため、ぜんまいの強さや機構の抵抗が振れ幅を変えると、歩度にも影響する。ホイヘンスは振子の吊り元へ曲がった板を置き、振れ幅が増すと有効な長さが変わる方法を試した。しかし1658年11月1日のプティ宛書簡では、時計の傾きで長さが変わる欠点があったため、その板を外した構成も説明している。5 14

『Horologium』の図のOとPは、この問題への別の解決である。脱進軸側の小歯車Oと振子側の大きい歯車Pを組み合わせ、脱進軸が必要な角度を動いても、振子は小さな角度だけ振れるようにした。本文ではPの直径をOの2倍または3倍とする例を示す。振子の小振幅と、歯を解放するために必要な軸の動きを両立させる工夫だった。5

一方、後のサイクロイド形のガイドは1659年末の研究に属する。サイクロイドとは、円を直線上で転がしたとき円周上の一点が描く曲線で、ホイヘンスはその性質を等時性の問題へ結び付けた。1657年の時計に曲面の板があることだけを根拠に、完成したサイクロイド機構が最初からあったとはいえない。科学博物館の現存時計にあるガイドの説明と、発明・改造の年代は分けて読む必要がある。11 12

ぜんまい駆動と打鐘#

『Horologium』末尾は、最初に製作を頼んだ職人のところで、重錘ではなくぜんまいで動く時計も見たと述べる。そこで用いられたのは、力を均す円錐形のフュジーと鎖を省き、主ぜんまいを収める香箱へ歯を設けた構成だった。さらに、時刻の針を動かす部分と鐘を鳴らす部分を、同じ動力で駆動する時計にも言及している。発明を別の時計へ適用する職人の工夫を、当のホイヘンスが認めた箇所である。5

1658年11月の書簡は、ぜんまいを大きく解き切らず、1〜2回転ほどの範囲で使う方法と、巻き上げ中にも運転を続けられる利点を説明する。同じ書簡には、7日間動いて時を打つ時計を一つのぜんまいで製作したとの報告もある。ただし、これらの説明をすべてのコスター時計に共通する仕様とみなすことはできない。14

クリスティーズが記録した1658年銘の目覚まし付き時計は、通常の時刻表示に加え、別の目覚まし機構と箱上部の鐘を備える。カタログは30時間運転、単一香箱、絹糸による振子吊りなどを記し、箱の修復も明示している。時刻打ちと、指定した時刻に鳴らす目覚ましは別の機能である。13

科学観測の時計と日常の時計#

1658年の『Horologium』に描かれた重錘式時計では、長い中央の秒針が5分で1周し、分は別の小さな文字盤で読む。分針が常に中央にある現代の文字盤とは異なる。細かな時間を読み取る科学観測では長い秒針が有用で、ホイヘンスは恒星の赤経、太陽や月の見かけの直径、日の長さの違いを測る用途を挙げた。5 14

同じ書簡は、普通の利用者向けの時計では、職人が時のリングの外側へ分目盛を置き、時針・分針を同じ中心から出していたと述べる。実験に便利な表示と、家庭で読みやすい表示の両方が、発明直後から考えられていた。14

公共時計と国際的な広がり#

塔時計への適用#

1657年末から1658年初め、コスターとホイヘンスはスヘーフェニンヘンの教会の塔時計を振子式へ改める作業を進めた。1658年1月23日付でコスターに帰属される短い書簡は、一晩動いた時計が14時間で約15分遅れ、球状の重りを軽くし、ばねや鎖も変えたいと報告している。改造の現場では、装置を設けた後にも試運転と調整が必要だったことが分かる。1 15

大型部品の鍛造には別の技能も必要だった。1659年の新聞広告を調べたHordijk と Memel は、デルフトの塔時計師・鍛冶職人クーンラート・ハルマンスゾーン・ブルックマンの関与を示している。家庭時計師コスターと、鉄製の大型部品を作る職人の仕事を一人の発明者へまとめてしまうと、公共時計の製作体制が見えなくなる。1

ユトレヒト大聖堂の契約は、さらに具体的である。1658年4月19日付の契約本文にコスターが5月1日に署名し、8日間のずれを7分30秒以内にすること、2か月の試験後に350ギルダーを支払うことを定めた。滞在中の住居、妻への別の謝礼、脱進輪・滑車・指針などを発注者側の費用で用意する条件もある。これは契約上の受入条件であり、現存時計を測定した今日の精度値ではない。16

フロマンティール、フランス、トスカーナ#

1657年9月3日、ジョン・フロマンティールはコスターの店・家で翌年5月まで時計機構を完成させる契約を結んだ。本人が真鍮と鋼を用意する場合は1個20カロルス・ギルダー、コスターが材料を出す場合は18ギルダー10ストイフェルと記され、ビール・火・明かりの負担についても取り決めがある。作る時計の種類や「秘密」が何を指すかは契約だけでは特定できず、すべてを振子の秘密の教授と断定することはできない。17 1

それでも、ロンドンのフロマンティール家とハーグの工房を結ぶ人的な経路があったことは明瞭である。1658年にはフロマンティール家がイングランドで振子時計を広告する。フランスの時計師ニコラ・アネも1658年にコスターの工房で働き、その後パリへ時計を運び、販売の仲介をした。1

トスカーナ大公フェルディナンド2世への時計は、1690年のメディチ家財産目録に、ティト・リヴィオ・ブラッティーニが1657年9月25日に送ったものとして記録された。黒檀の箱、前面のガラス、ベルベット上の銀製時刻リング、コスター銘の銀製銘板を持つ小振子の掛時計と記される。この時計は現在所在が分からず、残る目録の記述と、現存作品の直接観察を混同できない。1

広告と価格が示す市場#

1657年12月22日付『Tijdinghe uijt verscheyden Quartieren』の広告は、ホイヘンスの発明による重錘式・ぜんまい式の時計が、コスターのもとで製作され近く供給されると告げる。既存時計や塔時計への適用も宣伝する一方、懐中時計には使えないと断っている。振子時計がどこでも使える万能の時計ではなく、掛時計・置時計を主な対象として売り出されたことを示す資料である。広告の精度に関する宣伝文句は、個々の作品の実測値とは区別される。1

1659年1月16日、ホイヘンスはブーリオへ、時計師から受け取った価格表を転送した。動力、運転日数、打鐘の有無で価格が変わる。18

動力と機能巻き上げ後の運転時間価格(オランダ貨幣、ギルダー)
重錘式、打鐘なし30時間48
重錘式、打鐘なし8〜10日60
重錘式、打鐘あり30時間80
重錘式、打鐘あり8日130
ぜんまい式、打鐘なし30時間80
ぜんまい式、打鐘あり30時間120
ぜんまい式、打鐘なし8日130

この表は、振子時計が単一の高価な実験装置から、仕様を選べる商品群へ展開していたことを具体的に示す。書簡はフランス語で貨幣を livres argent d’Hollande と表すため、フランスのリーヴルや現代通貨への単純換算とは区別して読む。18

権利の争い、死去と継承#

シモン・ダウとの紛争#

新しい時計が知られるにつれ、シモン・ダウとの間で権利の紛争が起きた。1658年9月のコスターの申し立ては、ダウの機構も振子に依存する同じ発明だとして、相手への特許付与に異議を唱える。これは当事者の法的な主張であり、その文面の非難をそのまま歴史家の確定判定に置き換えることはできない。19

紛争では実機の比較、時計師や数学者の意見が問題となった。全集が掲げる1658年12月9日の合意では、ダウも州の付帯承認を求められることとし、両者の発明から生じる収益をホイヘンス、コスター、ダウの3人で各3分の1ずつ分けるとした。第三者が別の特許を求めたり模造したりする場合には、互いに協力して対処する。独占権は単純に一方だけが発明のすべてを支配する状態ではなく、特許と実務上の合意によって調整された。20

工房は何を残したか#

コスターは1659年末に亡くなった。工房の在庫を調べた2018年の研究には、小型の仕事、大型の完成品・未完成品の評価額、協力者への債務が現れる。これらは時計の個数ではなく資産の金額であり、そのまま生涯の製作本数にはできない。7

未亡人ヤネチェは店を引き継ぎ、フィスバハには店を7年間貸す取り決めがなされた。一方、在庫は別に売却・競売の対象となった。したがって「弟子が工房の全資産をそのまま継いだ」と一括りにはできない。作品の製作、店の使用、商品在庫、特許という異なるものが、別々の形で受け継がれたのである。7

現存するコスター銘時計には時刻表示だけのもの、打鐘付き、目覚まし付きがある。2007年のクリスティーズの整理は署名時計7点を挙げるが、銘板の交換、後年の修復、銘の年が製作年か特許年かという問題があり、署名と日付だけで製作順や真正性のすべては決められない。2021年の研究も「met privilege 1657」が特許年を示す可能性を論じている。13 1

コスターが亡くなるまでの短い期間に、振子時計は科学観測の器械、家庭で時を読む時計、塔時計の改良、国際的な商品となった。ホイヘンスの理論と着想だけでも、時計師の熟練だけでも、この広がりの全体は説明できない。契約、試運転、分業、販売の資料を合わせて読むことで、コスターの役割を具体的に捉えられる。1 5 14 18

年表#

年月事項
出生年不詳ハールレムの家族に生まれ育つ。1620年頃・1622年という紹介はあるが確定年ではない。6 7
1643年3月デルフトでヤネチェ・ハルメンスと結婚。6
1645年5月フィスバハの9年間の徒弟期間の起算日。8
1646年1月ハーグで上記の徒弟契約を公証。8
1652年フェールカーデで家を賃借。6
1656年12月ホイヘンスが最初の振子時計模型の製作時期と回顧した月。1
1657年5〜6月動く時計とその歩度調整の記録。1
1657年6月14日に特許申請対象の検査を指示、16日にコスターへ21年の特許。1 2 3
1657年7月ホラント・西フリースラントの州内承認。9
1657年9月フロマンティールとの製作契約。ブラッティーニによるトスカーナへの時計発送も同月と後年の目録に記録。17 1
1657年12月重錘式・ぜんまい式と既存時計の改良を新聞広告で案内。1
1658年1月スヘーフェニンヘンの塔時計改造の試運転報告。15
1658年4〜5月ユトレヒト大聖堂との改造契約、5月1日に署名。16
1658年夏〜秋アネが工房に関わり、パリへ時計を運ぶ。1
1658年9月ホイヘンスの『Horologium』刊行。コスターはダウの特許申請へ異議。1 19
1658年10〜11月ユトレヒトでの仕事を終え、プティへの時計注文の価格・納期が書簡に記録。14
1658年12月ダウとの権利紛争に関する合意。20
1659年1月ブーリオ宛書簡に7区分の価格表。18
1659年末コスター死去。未亡人による事業整理と継続へ。7
1660年フィスバハへの店の賃貸と在庫の処分に関する記録。7
1673年ホイヘンスが『Horologium oscillatorium』を刊行。1658年の著作とは別の、サイクロイドを含む後の成果。11
2014〜2018年Kersing・Memelが家族、徒弟契約、工房の文書研究を発表。6 7
2021〜2022年特許手続き、新聞広告、初期機構の図面と印刷工程に関する原資料研究が発表される。1 11

参考文献#

以下のオンライン資料の閲覧日は2026年10月23日。全集の書簡・契約は後世の校訂・翻刻であり、原手稿そのものとは区別する。

  1. Ben Hordijk / Rob Memel, “Salomon Coster, the clockmaker of Christiaan Huygens”, Antiquarian Horology 42/3, 2021, pp.323–344. 資料

  2. 連邦議会、1657年6月16日決議。Huygens, Oeuvres complètes, II, no.524, pp.236–237, 1889年校訂版。 資料

  3. コスターへの特許、1657年6月16日。Oeuvres complètes, II, no.525, pp.237–238。 資料

  4. Christiaan Huygens, Horologium, 1658年、献辞。Oeuvres complètes, XVII, pp.41–51、1932年校訂版(ラテン語と仏訳)。 資料

  5. Christiaan Huygens, Horologium, 1658年、時計の説明。Oeuvres complètes, XVII, pp.52–73(ラテン語と仏訳)。 資料

  6. Victor Kersing / Rob Memel, “Salomon Coster, de Haagse periode”, TIJDschrift 4/2014, pp.4–7。 資料

  7. Victor Kersing / Rob Memel, “In de voetsporen van Salomon Coster”, TIJDschrift 2/2018, pp.4–6, 8–9。 資料

  8. Haegsche Tijd財団公開、1646年1月31日付コスターとピーテル・フィスバハの徒弟契約翻刻。Haags Gemeentearchief 0372-01, inv.20, fol.321。 資料

  9. ホラント・西フリースラントの付帯承認、1657年7月16日。Oeuvres complètes, II, no.526, p.239。 資料

  10. 付帯承認関係資料。Oeuvres complètes, XVII, pp.78–79(ヘルダーラント1658年10月19日承認の翻刻を含む)。 資料

  11. Mart van Duijn / Ben Hordijk / Rob Memel / Jef Schaeps, “Scrutinizing Huygens’s Figura drawing”, Antiquarian Horology 43/2, 2022, pp.208–213。 資料

  12. Science Museum Group, “Early pendulum clock by Salomon Coster, c.1657.”, object 1980-108、所蔵品目録。 資料

  13. Christie’s, “An important early Dutch ebony and rosewood pendulum clock with alarm, Salomon Coster, The Hague. Dated 1658”, lot 5026856、作品仕様・来歴・比較作品。 資料

  14. Christiaan HuygensからPierre Petitへの書簡、1658年11月1日。Oeuvres complètes, II, no.546, pp.270–274。 資料

  15. コスターに帰属されるホイヘンス宛書簡、1658年1月23日。Oeuvres complètes, II, no.452, p.125(編者は送信者に疑問符を付す)。 資料

  16. ユトレヒト大聖堂参事会とコスターの契約、1658年。Oeuvres complètes, XVII, p.77。 資料

  17. コスターとジョン・フロマンティールの契約、1657年9月3日。Oeuvres complètes, XVII, pp.21–23。 資料

  18. Christiaan HuygensからIsmaël Boulliauへの書簡、1659年1月16日。Oeuvres complètes, II, no.565, pp.313–314、価格表。 資料

  19. Salomon Costerからホラント・西フリースラント州への申し立て、1658年。Oeuvres complètes, II, no.530, pp.244–245。 資料

  20. ホイヘンス、コスター、ダウの合意、1658年12月9日。Oeuvres complètes, II, no.556, p.290。 資料