トーマス・マッジ — レバー脱進機と航海時計をつないだ時計師

トーマス・マッジ — レバー脱進機と航海時計をつないだ時計師

トーマス・マッジ(Thomas Mudge、1715/16年頃–1794年)は、ロンドンとプリマスで活動した英国の時計師です。機械式時計のテンプが、脱進機に触れない時間を持って自由に振動できる「分離レバー脱進機」を生み出したことで知られます。一方、晩年に力を注いだ航海用時計には、このレバー式をそのまま使わず、小さなばねからテンプへ力を渡す別の恒力脱進機を採用しました。同じ時計師の二つの仕事を区別すると、精密な一点製作と、他の職人にも再現できる実用品を作ることの違いが見えてきます。1 2 3

マッジの円筒形携帯クロック。左に取り出されたムーブメント、右に白エナメル文字盤を示し、上面に脱進機観察窓がある

図1:1768–1770年頃の携帯クロック(大英博物館1995,0207.1)。左は取り出して展示されたムーブメント、右はケースと文字盤。撮影:Daderot(2024年)。出典:Wikimedia Commonsの個別Fileページ。利用条件:CC0 1.0 Universal。変更:なし。

マッジの活動を伝える資料には、現存作品、本人がブリュール伯爵へ送った書簡、息子が出版した機構説明・議会審査の記録があります。とりわけ1799年の書物は、父の名誉と設計の普及を守ろうとした息子の編集によるものです。そこに載る技術説明や手紙の具体性を生かしつつ、論争の相手方への批判をそのまま歴史的判決に置き換えないことが大切です。3

ロンドンの工房と国際的な顧客#

グラハムのもとで学ぶ#

マッジはエクセターで生まれ、聖職者・教育者ザカライア・マッジの家に育ちました。幼少期に一家はビデフォードへ移り、父の学校で教育を受けたと伝えられます。生年については資料に差があり、Science Museum Groupは1715年、改訂版のOxford Dictionary of National Biographyの項目名は1715/16年、19世紀の同辞典は1717年9月としています。ここでは現在の所蔵機関と改訂伝記に合わせ、1715/16年頃とします。戸籍により月日まで確定した数字ではありません。1 4 5

1730年代初め、ロンドンのジョージ・グラハムのもとへ徒弟として入ります。グラハムはトーマス・トンピオンの工房を受け継いだ時計師で、置時計のデッドビート脱進機、携帯時計のシリンダー脱進機や天文観測用器械に関わりました。マッジは、時計をきれいに仕上げる技術だけでなく、摩擦、温度、機構の幾何を精度と結び付けて考える環境に入ったことになります。徒弟開始年には1730年と1731年の記載があり、1738年1月15日の時計師組合フリーマン資格取得は旧伝記に記録されています。1 5

当時のロンドンでは、販売者、ムーブメント製作者、脱進機職人、ケース職人が必ずしも一人ではありません。署名のある名義人を、その時計の全部品を製作した人物とみなすことはできません。若いマッジもジョン・エリコットらのために仕事をし、複雑な機構を作る能力を認められました。19世紀の伝記は、スペイン王フェルディナンド6世向けの均時差時計をエリコット名義で作り、故障の修理を通じて実際の製作者が国王に知られたという逸話を記しています。これは後世の伝記として読むべき話ですが、スペイン王室向け製作そのものには現存作品の所蔵記録もあります。5 6

ダットンとの協業、スペイン王室とブリュール伯爵#

マッジはフリート街で工房を営み、同じグラハム門下のウィリアム・ダットンと協業しました。開業や正式な共同経営開始年には伝記間の差があるものの、1750年代から1760年代にロンドンの事業を築き、「Mudge & Dutton」の名で知られる工房になったという流れは確認できます。Samuel Johnsonが1768年に最初の時計を購入したことも、Science Museum Groupの人物記録に記載されています。1 5

旧伝記は、同工房が土木技師ジョン・スミートン向けにも温度補償用の緩急針を備えた時計を製作したと記しています。5

具体的なスペイン王向け作品には、1755年のムーブメントNo.260があります。時計師組合コレクションを預かるScience Museum Groupによれば、1755年8月22日にフェルディナンドへ販売された作品です。白エナメル文字盤、中央秒針、フュジー、ヴァージ脱進機、ルモントワール、二本のひげぜんまいを組み合わせ、一方に温度補償、他方に調整の働きを持たせています。分針は一分ごとに跳び、秒を止めたあと再始動を助ける仕掛けもあります。これは後年のレバー式懐中時計とも、大型航海時計とも同一ではなく、マッジが早くから小さな時計に複数の問題を集約していたことを示す現物です。6

スペイン王の杖の柄に収めた時計も、伝記で繰り返し紹介されます。平均太陽時と視太陽時を扱い、視太陽時に従って時・四半刻を鳴らす機能が記され、外から機構を見られる小窓もあったとされます。ここでの均時差とは、実際の太陽の動きを基準にする時刻と、年間を平均した一定の時刻との差です。季節によるずれを示す表示と、音で時刻を知らせる機構を、杖の柄という小空間へ組み込んだ点が重要です。ただし、その全構造や現状を伝記だけから復元することはできません。5

もう一人の重要な顧客が、ザクセンの外交官で天文学にも関わったハンス・モーリッツ・フォン・ブリュール伯爵でした。伯爵は時計を買うだけでなく、歩みを記録し、時計師や科学者に試験を依頼し、マッジの仕事を支援しました。マッジの書簡は、価格や注文よりも、温度、振幅、支持方法、時計の置き方、修理後の変化を細かく議論しています。パトロンは完成品を待つ消費者であると同時に、試験と情報交換を支える存在でもありました。3

レバー脱進機は何を変えたか#

テンプを輪列から離す#

時計の動力は、主ぜんまいから歯車の列を通り、最後のガンギ車へ届きます。脱進機はこの車を一歯ずつ進め、同時にテンプの振動を維持する力を与えます。テンプとひげぜんまいの振動を時間の基準にしたい一方で、動力を伝える接触や摩擦はその振動を乱す原因にもなります。問題は、必要な力を与えながら、残りの時間の干渉を減らすことでした。2 3

マッジの解決は、ガンギ車とテンプの間へレバーを置くことです。レバーの爪がガンギ車を止め、テンプが戻ってきた短い区間にロックを外し、車から受けた力をテンプへ渡します。その区間が終わると、テンプはレバーから離れて振動を続けます。この「分離」は、時計全体から自由になるという意味ではなく、振動の大部分で脱進機の直接の拘束を受けないという意味です。軸の摩擦、空気抵抗、ひげぜんまいの性質や姿勢による誤差までなくなるわけではありません。2

1799年に刊行された図IXとその説明は、最初の設計の特徴をさらに具体的に伝えます。ガンギ車側の爪は置時計のデッドビート爪に似た形で、その中心から出た腕が二股に分かれます。テンプ軸側の受け渡し部分と、二股の先端は互いに異なる高さの面に配置されています。腕に付けた別部品とローラーは、接触が切れている間にガンギ車が不意に解放されることを防ぎます。今日のスイスレバーをそのまま縮小して18世紀に置いたものではなく、力を受け渡す幾何と安全装置を個別に作り込んだ設計でした。3(pp.173–174、図IX)

製作年代は一点に統一できません。博物館・時計史資料は1750年代前半から半ばの実験用クロックを挙げ、現存する王妃の懐中時計については1769–1770年頃の製作・納入を記しています。発明の着想、試作クロックへの適用、懐中時計への実装は別の段階です。「1754年の発明」と「1770年の時計」は相容れない数字ではありません。2 7

王妃の時計と携帯クロック#

シャーロット王妃のためのレバー式懐中時計は、王室コレクションに残っています。Royal Collection Trustは1770年の作品として扱い、ケースには1769–1770年のロンドンの検印があると説明します。金ケース、白エナメル文字盤を備え、後に台座と組み合わされた姿で保存されています。台座が最初からこの時計のためのものだったかは確定していません。時計本体、ケースの検印、現在の展示形態を区別して見る必要があります。7

王妃への納入は研究の終点ではありませんでした。1773年9月10日の伯爵宛書簡でマッジは、王妃の時計を手元に置き、四十日間の歩み、温度、五日・十日ごとの平均歩度を記録したと説明しています。壁に触れる掛け方と自由に揺れる掛け方で時計全体の運動が変わり、テンプとの相互作用で進み遅れが変わる可能性を調べていました。書簡では温暖時に速く寒冷時に遅い傾向にも言及します。高価な宮廷時計であっても、支持方法と温度を含む実際の使用条件を確認する必要があったのです。3(pp.50–52)

大英博物館の携帯クロック(登録番号1995,0207.1)は別の作品です。同館は1768–1770年頃の作とし、レバー脱進機、八日巻き、時打ち、二つの鐘による四半刻リピーターを記載しています。鼈甲張りの円筒形ケースには、上面から脱進機を見る窓があり、文字盤と報時機構だけでなく、新しい脱進機そのものも見せる構成です。博物館によれば、当初の注文者はGeddesという人物で、1774年までに伯爵が取得しました。8

この来歴は本人の手紙にもつながります。マッジは1774年4月の手紙で、伯爵が「Geddes氏のものだった小さな時計」を得たことを喜び、外形を保って改良したいと述べています。さらに性能への満足を述べた後年の手紙は、報時や装飾を持つ作品としての制約を認めつつ、その範囲で調整を続けていたことを伝えます。精度だけを求める観測時計とは違い、意匠、携帯性、音、機構の展示を一つの作品に収めた時計でした。3(pp.56–58) 8

エメリーへの展開#

マッジが少数の精密な実験作を作っただけで、直ちにレバー式が時計産業の標準になったわけではありません。ジョサイア・エメリーは、伯爵の働きかけを受け、脱進機職人リチャード・ペンドルトンとともに携帯時計へ展開しました。大英博物館に残るエメリーNo.1089は、1786年のケース検印を持つ具体例です。調速機、レバーの接触部、安全の取り方は、機構を小さな懐中時計に収めるための別の製作課題でした。2

同館の解説は1782–1786年に少なくとも38個のレバー式時計が製作されたとしています。これはその期間のエメリーの製作に関する数字で、マッジの生涯製作数でも、初期レバー時計全体の総数でもありません。マッジの発明から、他の時計師が製作し調整できる機構へ移る過程には、こうした協業がありました。19世紀にはさらに設計、爪とガンギ車の形、製造方法が改められ、スイスレバーへつながっていきます。現代の標準形を、一人の原型にすべて含まれていたものとして扱うことはできません。2 9

航海用時計では別の道を選ぶ#

フーバーの設計を作る、ハリソンの時計を見る#

1755年には、バーゼルの数学者・天文学者ヨハン・ヤーコプ・フーバーの設計に基づく機械も製作しています。バーゼル歴史博物館の記録では、フーバーがロンドン滞在中にジェームズ・ブラッドリーへ案を示し、その勧めでマッジに製作を依頼したものです。時計はバーゼルへ持ち帰られ、息子ダニエルの遺産から1829年に大学の物理学コレクションへ入りました。同館は、フーバーを着想、マッジを製作の担当として明記しています。10

この作品を、マッジが後に作る三台の航海時計の一つへ数え入れることはできません。しかし、均一な力を振動子へ与えるという問題に、彼がレバー式の仕事と並行して関わっていたことを示します。時計史でいう「恒力」は、機構があるだけで誤差がなくなるという意味ではありません。力の変化をどこで切り離し、どの区間・範囲で一定に近づけるかという設計上の狙いです。3 10

1765年、マッジは経度委員会の専門家としてジョン・ハリソンのH4を調べる仕事に加わりました。同年には『時計、とりわけ海上用時計を改良する方法についての考察』を出版しています。この論考は1799年の書物に再録され、末尾に1763年6月25日の日付があります。したがって、その日付のある考察と、1765年の出版、H4の調査を混同して、すべての着想を一度の分解見学から得たと説明することはできません。1 3(pp.5–16)

論考には、振動の大きさと速さ、主ぜんまいからの力の変化、軸と爪の摩擦、熱によるひげぜんまいの変化、磁性、油の状態が現れます。マッジは、主ぜんまいが小さなばねを短い間隔で巻き、その小ばねがテンプへ力を与えれば、途中の歯車や主ぜんまいの変動を減らせると論じました。一方で、テンプの大きさと重さの最良の関係は実験によらなければ決められないとも述べています。理論的な狙いと、実験を要する製作条件を分けていた点が、この文章の重要な部分です。3

二つの小ばねが交互に力を渡す#

1771年頃、マッジはロンドンの事業の第一線を離れ、弟の医師ジョンのいるプリマスへ移り、航海時計に集中しました。1776年にはジョージ3世付き時計師に任じられています。最初の航海用タイムキーパーは1774年に完成し、その後「グリーン」「ブルー」と呼ばれる二台が続きました。名前はケースの色に由来します。1 3

これらの中心機構は、王妃の時計のレバー脱進機ではありません。1799年のPenningtonの説明では、ガンギ車が二つの爪とそれぞれに付いた小さな渦巻きばねに作用し、テンプ軸のクランクにあるピンと腕が接触します。一方の爪が車を止めている間、テンプの運動が解除を行い、ばねが戻る力でテンプを助けます。車は次に反対側の小ばねを巻き、反対の半振動で同じ手順を繰り返します。3(pp.170–172、図V–VII)

そのため、主ぜんまいの力がガンギ車から直接テンプを押し続ける構成とは違います。テンプを動かす二つの小ばねと、テンプの周期を決めるひげぜんまい二本は、別の部品です。また、二つの小ばねを巻く経路と、長い駆動時間を得る動力源も別に考える必要があります。「二重ばね」という一語だけでは、そのどれを指すか分かりません。3

恒力の狙いは、毎回ほぼ同じ条件で小ばねを準備することです。ただし実物には、爪の解除、腕とピンの接触、軸の摩擦、ばねの初期張力の調整があります。部品を増やせば誤差源が自動的に消えるわけではなく、かえってその製作と調整は難しくなります。グールドは1923年の研究で、この設計を理論上は優れていても一般用途には複雑すぎると評価しました。これは後世の分析であり、マッジ自身の設計意図とは区別できます。11(pp.77–81)

小ばねが力を蓄える方式をヴァージに似たガンギ車の配置から説明することはできますが、それを「従来のヴァージ時計をそのまま高級化したもの」と呼ぶと本質を取り逃がします。同様に、レバー式を使わなかった理由を、本人が海上では危険だと考えたから、と心理だけで確定することもできません。本人の論考と実物に即していえば、携帯時計で接触時間を減らす方法と、航海時計で動力変動を小ばねへ分離する方法を、それぞれ追究したのです。3

温度補償と摩擦への対策#

温度が上がると金属の寸法だけでなく、ひげぜんまいの弾性も変わり、歩度が変化します。マッジの航海時計は、現在よく知られる割りテンプで慣性を変える方法とは異なり、温度に応じてひげぜんまいの働く長さを変える補償装置を備えます。Penningtonは真鍮と鋼を接合した二枚の複合片を説明しています。真鍮のほうが熱で大きく伸びるため板が曲がり、その動きを腕と緩急針に伝えます。3(pp.168–170、図IV)

高温では、働くひげの部分を短くして復元力を強め、低温では逆方向へ動かすのが狙いです。二本のひげのうち、一方は温度補償装置に、もう一方は通常の歩度調整に関わります。温度補償用の複合片、調速用のひげ、恒力脱進機の小ばねは、同じ「ばね」であっても役割が違います。グリーンの2004年の現物調査記述も、温度補償を下側のひげに、調整を上側のひげに作用させる構成を記載しています。3 12

これに加え、テンプ軸の端を小さな摩擦ローラーで支える仕掛けがありました。Penningtonの図解は、四つのローラーを収めた枠、爪軸を支える受け、調整部を詳細に分けています。ひげの長さを変えるピンとの接触にも配慮し、一方のピンを支える部品を小さなばねで制御する構成を説明しています。こうした部品の多さは単なる装飾ではなく、振動の小さな乱れを減らそうとする製作上の努力でした。同時に、他の職人が修理し、同じ性能まで調整する際の難しさにもなります。3(pp.166–168)

表示にも第一号機の性格が現れます。1799年の図VIIIは36時間用と八日用を分け、八日用では上部の円弧を八つに分けて、巻上げてから何日経ったかを示すと説明しています。右が時、左が分、下が秒で、これを伯爵所有の第一タイムキーパーの文字盤形と明記しています。上の針を残量表示の系譜に位置付けることはできますが、目盛が直接示すのは巻上げ後の経過日数です。この表示だけでパワーリザーブ表示の発明優先権が確定するわけではありません。3(pp.172–173、図VIII)

巻上げ中に止まらないための持続動力、フュジー、針を正方向に動かす追加歯車も組み込まれました。1799年の説明では輪列が通常とは逆方向に回るため、秒表示用に同じ45歯の歯車を組み合わせ、針の向きを整えています。時分秒の表示の背後には、動力と摩擦をめぐる特有の配置があります。3(pp.165–166)

試験、論争、議会の判断#

よい歩みと規定への合格は同じではない#

海上で経度を求めるには、出発地など基準となる地点の時刻を時計で運び、観測した現地時刻との差を使います。地球の一回転を24時間とする関係から、時刻差一時間は経度15度、四分は一度に対応します。したがって重要なのは、時計が一日に何秒進むかだけでなく、その進み方が温度や日数によってどれほど変わるか、出航前の歩度から航海中の誤差をどれほど予測できるかです。3

マッジの第一タイムキーパーには、オックスフォードのトーマス・ホーンズビー、天文台長ネヴィル・マスケリン、伯爵、キャンベル提督、天文学者ザハらによる試験・使用の記録があります。1799年の書物に再録された委員会報告は、1774年の一台と、1777年の二台を区別し、試験結果をどう比べるべきかを論じています。異なる時計、時期、温度、扱い方の記録を単一の「精度ランキング」へまとめることはできません。3(序論pp.viii–x)

第一号機のグリニッジ試験では停止や主ぜんまいの破損が起きました。運搬時の扱いが原因だったというマッジ側の主張があり、助手のジョン・ヘリンズはこれに反論しています。その反論文の存在と趣旨はRoyal Societyの所蔵目録でも確認できます。後年のグールドは運搬時の回転と制限された振幅の関係を論じましたが、現場の責任者を確定する独立した事故記録と同一には扱えません。11(p.79) 13

一方で、1776年末からの試験に好成績もありました。グールドは、マスケリンが1777年3月1日に、109日間の進みが1分19秒で、それまで自分が見た時計より優れていると報告したことを再録しています。この79秒を109日で割った値は約0.72秒/日ですが、これは期間全体の平均的な進みです。毎日の誤差変動がその範囲に収まることや、温度補償が完全であることを証明する数字ではありません。長期には歩度の加速と再度の破損もありました。11

グリーンとブルーには1779–1780年、1783–1784年、1789–1790年の試験があります。審査では、法定の条件を満たすか、将来の航海に対して予測できる安定性があるかが問題になりました。マッジ側は、別の所有者のもとでよく動いたことや、計算方法が誤差を大きく見せることを論じます。反対側は同じ試験条件と法の範囲を重視しました。1799年の書物は、父を支持する議論だけでなく、ジョゼフ・バンクスの反対意見と委員会の比較結果も再録しているため、その立場の違いを読み取れます。3(序論pp.ii–x) 11

£500と£2,500、そして製造事業#

経度委員会はマッジへ£500を与え、複数の時計を作って性能の再現性を示すことを後押ししました。その後の追加報奨は委員会内で認められず、息子のトーマス・マッジ・ジュニアが父の主張を議会へ持ち込みます。1792年にはマッジ側とマスケリン側の反論書が刊行され、1793年に議会の審査を経て追加の£2,500が認められました。先の£500との合計が£3,000です。1793年に新たに£3,000を一括授与したという説明とは区別する必要があります。3(序論pp.iii、liii–liv) 14

議会が技術上の価値を認めたことは、グリニッジの試験をすべて無効としたことや、時計が法定条件を全面的に満たしたことを意味しません。1799年に再録された審査は、機構の理論上の性質と、それまでの各種の試験結果を分けて調べています。誰の人格がよかったかという物語へ収めるより、発明に公的な報奨を与える基準と、航海用機器を認定する基準が重なりながら一致しなかった事件として捉えるほうが、資料の内容に忠実です。3

息子は父の設計を広めるため、ウィリアム・ハウエルズ、ロバート・ペニントンらを雇って製作事業を始めました。1799年の序論には賃金や利益配分を含む契約の説明があり、設計を職人たちへ伝えること自体が大きな仕事だったと分かります。父は1794年11月14日に死去し、事業は息子と職人たちへ引き継がれました。3 5

Royal Museums Greenwichは、1794–1797年の事業、1796年のハウエルズとの分裂、ペンドルトンを迎えた新体制、約27台という製作規模を説明しています。ところが、途中から双方の工房が九番以降の番号を使うため、番号だけで一系列と決められません。同館のNo.12(ZAA0132)は「Pennington, Pendleton and Others for the Son of the Inventor 1796」という銘を持ち、後にアーンショウ型ばねデテント脱進機と通常のクロノメーター用ケースへ改造されました。現在の機構から、マッジ時代の恒力機構をそのまま読み取ることもできません。15

この事業は高い製作費と調整の難しさに直面し、継続には至りませんでした。それでも残った原型、複製、改造例は、設計の発表だけでは工業製品にならないことを教えます。発明者の手で仕上げた優れた一点と、他の作り手が一定の品質で再現できる時計の間には、製造と保守という別の課題があったのです。3 15

もう一つの精密機構――月の平均運動#

1799年の書物の末尾には、レバー脱進機と並んで月の平均運動を表す歯車案が収められています。マッジは、一日に一回転する車を出発点に、8枚のピニオン、45歯の車、8枚のピニオン、42歯の車を組み合わせ、月を示す軸を約29日12時間45分で一回転させる基本案を示します。そのままでは一周期に約57秒のずれが残るため、ウォームと差動的な遅い運動を加えて補正する案も説明しています。3(pp.173–176、図IX)

本文に示された補正後の値は29日12時間44分3秒です。欄外注はジェームズ・ファーガソンの計算を引き、当時採用した平均朔望月との差を小さくできると評価します。ただし、これは採用した天文表の平均周期と歯数比の比較です。実際の月は毎回同じ間隔で満ち欠けするわけではなく、時計の歩度、歯車の誤差、摩耗まで含む実機の保証精度ではありません。「何十万年も無修正で動く時計を完成した」と読み替えることはできません。3

ここには航海時計と共通する考え方があります。目標となる運動を数と幾何で表し、現実の機械のどこに誤差が入るかを考えることです。マッジの仕事を、レバー脱進機という一語だけで理解するより、動力、振動、温度、表示をつなぐ複数の設計として見ると、その幅が分かります。

技術の継承と作品の読み方#

今日の機械式時計では、マッジが開いた分離レバーの考え方が、改良されたスイスレバーなどに受け継がれています。ただし、現代の製品がすべて同じ脱進機というわけではなく、デテント、コーアクシャル、その他の方式もあります。19世紀に入ったある年に、シリンダー式や他方式が一斉になくなったわけでもありません。発明が長期に与えた影響は、他の方式の存在を消して強調する必要はありません。9

作品を見る際にも、王妃の時計、鼈甲張りの携帯クロック、1774年の第一航海時計、グリーンとブルー、息子の事業による複製を分けることが欠かせません。人物、署名、外観が似ていても、製作者の分担、機構、製作時期、後世の改造は異なります。マッジの重要さは、一つの成功がすべての問題を解いたことにあるのではなく、どの条件を変えれば時計の歩みが変わるかを、実作と観測を通じて追った点にあります。3

年表#

年代できごとと資料上の位置付け
1715/16年頃エクセターに生まれる。旧伝記には1717年9月説もある。1 4 5
1730–1731年頃グラハムのもとへ徒弟入り。資料に一年の差がある。1 5
1738年1月15日旧伝記に時計師組合フリーマン資格取得を記録。5
1740年代–1750年代エリコットらの仕事を担い、フリート街の工房とダットンとの協業を築く。1 5
1750年代前半–半ば分離レバー脱進機を実験用クロックへ適用。2 8
1755年8月22日No.260をスペイン王へ販売。現存ムーブメントの所蔵記録による。6
1755年フーバーの案に基づく機械を製作。のちにバーゼルへ運ばれる。10
1760年頃ブリュール伯爵との関係を築く。5
1763年6月25日1799年に再録された時計改良論考の末尾の日付。3
1765年改良論考を出版。H4調査に専門家として関わる。1 3
1768年Samuel Johnsonへ時計を供給。1
1768–1770年頃現在大英博物館にある携帯クロックの製作年代。8
1769–1770年頃王妃のレバー式懐中時計を製作・納入。ケース検印は1769–1770年。2 7
1771年頃ロンドンの事業の第一線を離れプリマスへ移る。1
1773年9月10日王妃の時計の支持方法と歩度を伯爵への手紙で検討。3(pp.50–52)
1774年第一航海タイムキーパーが完成。同年末にグリニッジで試験。3 11
1776年ホーンズビーの試験、グリニッジでの再試験。国王付き時計師に任命。1 3
1777年グリーンにこの年の銘。委員会の報告では後続二台を1777年製と記録する。3 12
1779–1780年グリーンとブルーの試験。銘年、製作期間、試験開始年は区別する。3 11
1782–1786年エメリーとペンドルトンがレバー時計を展開。2
1783–1784年後続二台の再試験。11
1780年代第一号機が伯爵、キャンベル提督、ザハらの手で使用・試験される。3
1789–1790年グリーンとブルーの最後のグリニッジ試験。3 11
1791–1792年息子が追加報奨を求めて活動。1792年には双方の論争書が刊行。3 5
1793年議会が追加£2,500を認める。先の£500と合計£3,000。3 14
1794年11月14日マッジ死去。息子が父の設計に基づく製造を続ける。3 5
1796年製作事業が分裂。ペニントン、ペンドルトンらによるNo.12が作られる。15
1798年頃息子の事業による製作が停止。約27台のうち未完成品もあった。15
1799年息子が本人の論考、書簡、ペニントンの機構解説と図版を出版。3
1829年フーバー向け機械がバーゼル大学の物理学コレクションへ入る。10
1850年スペイン王向けNo.260が時計師組合へ寄贈される。6
1923年グールドが航海時計史の中でマッジの設計と試験を詳しく分析。11
1995年ブリュール家に伝わった携帯クロックを大英博物館が取得。8
2004年グリーンがTime Museumコレクションの売立てに出品され、機構と来歴が記録される。12
2026年博物館の公開所蔵記録、原著のデジタル公開を通じ、原型と改造品を区別して検討できる。展示の有無は各館の最新案内による。3 6 15

参考文献#

  1. Science Museum Group, Thomas Mudge。人物所蔵記録。閲覧:2026年10月26日。

2. British Museum, Josiah Emeryの懐中時計、1958,1201.1645。David Thompson, Watches(2008), pp.98–99を含む解説、Richard Goodの現物調査記録。閲覧:2026年10月26日。

3. Thomas Mudge Jr., A Description … of the Time-Keeper Invented by the Late Mr. Thomas Mudge, London, 1799。ETH-Bibliothek Zürich, Rar 4152。序論pp.ii–x・liii–liv、再録論考pp.5–16、書簡pp.50–60、Robert Penningtonによる説明pp.163–176、図I–IX。父を擁護する編集の立場と、再録された対立側の意見を区別して参照。閲覧:2026年10月26日。

4. Thomas Seccombe, revised by David Penney, “Mudge, Thomas (1715/16–1794), horologist”, Oxford Dictionary of National Biography, 2004、2022年改訂。公開されている項目名・著者・改訂情報を参照。本文は参照していない。閲覧:2026年10月26日。

5. Thomas Seccombe, “Mudge, Thomas”, Dictionary of National Biography, vol.39, 1894。後世の伝記として参照し、生年、製作年、報奨、製造事業は原著・現存資料と区別。閲覧:2026年10月26日。

6. Science Museum Group, Watch movement with remontoir and two balance springs by Thomas Mudge, L2015-3217、Clockmakers’ Museum No.189。No.260の機構・販売・寄贈記録。閲覧:2026年10月26日。

7. Royal Collection Trust, Queen Charlotte’s Lever Watch and Pedestal, RCIN 63759。1770年、ケース検印1769–1770年、台座と来歴の解説。同館提供のGoogle Arts & Culture掲載も参照。閲覧:2026年10月26日。

8. British Museum, Travelling clock、1995,0207.1。David Thompson, Clocks(2004), p.120を含む所蔵解説。閲覧:2026年10月26日。

9. セイコーミュージアム銀座、「現代に続くレバー脱進機の発明」、英語版。原理と後の発展。閲覧:2026年10月26日。

10. Historisches Museum Basel, Chronometer、Inv.1960.20、Physical Collection No.110。フーバーの着想、マッジの製作、1755年と1829年の来歴。閲覧:2026年10月26日。

11. Rupert T. Gould, The Marine Chronometer: Its History and Development, 1923, pp.74–81。製作、機構、試験、論争についての20世紀の研究。王妃時計の年代や後続機の所在については現代の所蔵記録と差があり、そのまま採用していない。閲覧:2026年10月26日。

12. Sotheby’s, Thomas Mudge, “Mudge Green”, Masterpieces from the Time Museum, 2004, lot 672。現物の構造、1777年銘、製作期間と来歴。販売者による調査記録として参照。閲覧:2026年10月26日。

13. Royal Society, John HellinsからFrancis Maseresへの書簡抜粋, MM/7/94, c.1792。反論文の存在・主題を確認した所蔵目録であり、四頁の本文を読了したものではない。閲覧:2026年10月26日。

14. Alexi Bakerほか、The Board of Longitude, front matter、年表。議会への訴えによるマッジへの£2,500を確認。閲覧:2026年10月26日。

15. Royal Museums Greenwich, Marine chronometer No.12, ZAA0132。1796年、ペニントン/ペンドルトンらの製作、後世の改造、工房の分裂と番号体系。閲覧:2026年10月26日。