ユリス・ルクルト:ピニオン製造を担った時計部品職人

ユリス・ルクルト:ピニオン製造を担った時計部品職人

時計の小歯車を作る仕事#

ユリス・ルクルト(François Ulysse Le Coultre、1813–1895)は、スイスのジュウ渓谷で時計部品を製造した職人・事業家である。アントワーヌ・ルクルトの弟として共同事業に参加し、分離後はピニオンの製造を担った。名前はLe Coultre、LeCoultre、Lecoultreなどの綴りで現れる。現在のジャガー・ルクルトへつながる兄の事業と、ユリスの部品製造事業を区別すると、彼の役割が見えやすくなる。1 2

ピニオンは、時計の輪列で大きな歯車と噛み合う小歯車である。完成時計には文字盤や複雑な表示が目立つが、その働きを支える輪列には、歯の形、軸の位置、部品の寸法を揃える仕事が欠かせない。ユリスが専門としたのは、この基礎部品を他の時計製作者に供給する分業の一部だった。1857年のベルン産業展示目録は、彼を完成時計ではなくピニオンの出展者として記録している。3

兄弟の協業と独立#

家族の仕事には鍛冶、刃物、オルゴール用の櫛、時計部品の加工が重なっていた。Auguste Piguetの地方史ノートは、父Jaques-Davidがジュネーブの親族にオルゴールの櫛を供給し、のちにナイフ、剃刀、彫刻用工具も製造したと伝える。金属を切り、形を整え、焼きを入れる技術の蓄積が、兄弟の時計部品製造の背景にあった。ただし、ユリス自身の徒弟期間や学校の履歴は、この記録には示されない。5

協業開始と契約を分けて読む#

スイス歴史辞典のアントワーヌの項目は、兄弟が1833~1849年に協業し、ジュネーブとヌーシャテルの時計師向けにピニオンを製造したと説明する。一方、家族資料を用いたJohn Harroldの研究は、1842年8月6日、Charles-AntoineとFrançois-Ulysseの間で「Antoine Le Coultre and Brother」の会社契約が結ばれたと記す。1833年は協業の起点、1842年は資料に記される契約の時点として区別できる。ただし、その契約原本全体をこの研究が掲載しているわけではない。2 4

同研究は、1837年1月3日の兄弟による土地・牧地の購入、1839年頃の新しい建物の建設も挙げる。地方史家Auguste Piguetのノートは新しい家を1839~1840年としている。部品作りの成長は、機械の改良だけでなく工房の場所と規模にも関係していたことが分かる。ただし、各年の職人数やユリス個人の生産量を示す数値は、これらの記載からは得られない。4 5

分離後に続いた部品事業#

地域資料『Le millionomètre』は、Élie Le Coultreの1914年の家族記録を引用し、兄弟の分離を1849年とする。引用された記録では、アントワーヌが時計製造と負債を引き受け、ユリスがピニオンを製造する側に分かれた。兄から切削工具を買う取り決めがあった一方、ユリスが同種の工具を自ら用意して独立性を得た、とも伝えている。これは後年の家族記録に残る説明であり、当時の契約や生産記録そのものと同じ確度ではない。6

Harroldは兄弟の財産分割の文書を1850年1月25日と記す。事業上の分離と、それに続く財産の処理が異なる日付で記されるため、1849年と1850年をただちに矛盾した創業年とみなす必要はない。どの文書がどの手続きを記すかを分けることが重要である。4

独立後のユリスが公的な展示の場へ出ていたことは、同時代の印刷物から確認できる。1855年パリ万国博覧会の公式受賞一覧には、第8類「精密技術、科学・教育に関係する産業」の一等メダル受賞者として、ル・サンティエのUlysse Lecoultreが記載される。同じ類の二等メダルの一覧には、別にAntoine Lecoultre et filsが載る。この記録は、分離後の兄弟を同じ受賞者として扱っていない。7

この受賞は完成時計やミリオノメーターについてのものではない。技術審査の公式報告は、展示番号69のユリスが機械製造による時計・クロノメーター用ピニオンの一群を出展し、その出来栄えによって一等メダルを得たと記す。寸法や公差の数値は載らないが、評価の対象が機械加工の専門部品だったことは明確である。10

1857年ベルンの産業展示目録は、ピニオンの欄に、ヴォー州ル・サンティエのUlysse Lecoultreを展示番号780として記録する。名簿には他地域のピニオン製造者も並び、ユリスが時計全体を一人で製作した人物というより、専門部品の生産を担った事業者として活動したことを示す。ただし、番号780は展示の登録番号で、歯数や製作数ではない。3

工房を支えたピニオン加工#

型付き棒材から切削加工へ#

ピニオンの歯は、フランス語の時計用語で「翼」(ailes)とも呼ばれる。1880年7月の『Journal suisse d’horlogerie』は、歯に対応する溝をダイスに通す段階で作った鋼材と、無垢の鋼からフライスで歯を削り出す方式を対比する。前者ならやすりやフライスで仕上げられ、歯の位置を一つずつ割り出す機械を省けるが、棒材に用意された所定の歯数に用途が制約される。特殊な輪列が必要とするピニオンには、歯数を選べる切削加工に意味があった。11

同記事は、兄アントワーヌによる無垢鋼からのピニオン加工と工具開発を紹介したあと、弟ユリスがピニオン、歯車、各種歯切りの専門工房を作ったと記す。ユリスの仕事を既成の部品を販売するだけの商売と見ることはできず、加工を専門に引き受ける工房として理解できる。一方、この説明から彼自身が使った工作機械の型式、工具の鋼種、焼入れ温度までを復元することはできない。11

1855年の審査で評価された機械製ピニオンと、1880年に記される専門工房は、独立事業が精密部品の加工を軸に続いたことを示す。地域資料の写真説明は、ユリスの住居と屋根裏の工房を収めた建物を1860年の建設とする。建築原記録による日付ではないが、独立した作業場の姿を伝える資料である。6 10 11

精密測定器との関係#

共同事業の時期に生まれたミリオノメーター#

1844年のミリオノメーターは、アントワーヌの発明としてメーカー史に記される。地域資料『Le millionomètre』は、その成立が兄弟の共同事業の時期に当たることから、ユリスの関与が後世の説明で小さく扱われた可能性を指摘する。しかし、共同事業に参加していたことだけで、誰がねじを作り、てこを設計し、器具を組み立てたかまでは確定できない。ユリスを単独発明者としたり、兄弟の貢献を半分ずつとしたりする根拠もない。6 8

Auguste Piguetのノートには、器具の製作を1854年とする別の年号が残る。1844年説との関係を、原製造記録なしに誤植や別器の製作年と決めつけることはできない。5 8

ミリオノメーターは、メートルの百万分の一、すなわち0.001 mmの細かさで寸法を読むための道具だった。1954年の社内誌『Tic-Tac』に再録された解説は、1 mmピッチのねじ、100分割の鼓、移動台、二つの測定顎と、可動顎の変位を900対1に拡大するてこを説明する。直線尺でmm、鼓で0.01 mm、扇形目盛で0.001 mmを読む構成である。細かい歯車を作る機械と、出来上がった部品を測る道具は役割が異なり、両方を揃えることが寸法管理の基礎になる。8

この説明は表示の細かさと、実際の誤差を同一視していない。同じ1954年の記事は、最近の検査で1~30 mmの範囲における精度が0.01 mmより良かったと述べるが、測定値の表や試験温度、接触力、校正記録は掲げない。したがって、0.001 mmの目盛から1844年当初の測定誤差をそのまま±0.001 mmと読み替えることはできない。8

第2器の製作者は確定していない#

『Tic-Tac』は、小型の第2器が1855年に作られ、測定能力が40 mmだったと記す。一方、地域資料の編者は、個人所蔵でEspace Horlogerに貸与されていた器具が、ユリスによる自身の工房用の複製ではなかったかという仮説を提出する。写真の類似だけでは、同じ器具か、同じ仕様か、誰が製作したかは決められない。1855年という年とユリスの名前を結びつける製造台帳は、ここに掲げる資料には示されていない。6 8

原特許公報と製作当時の原設計図は確認できていない。後世の企業史には特許を取らなかったとする説明があるが、その記述だけから外国を含む出願が一切存在しなかったと証明することはできない。公開されている機構の説明は、実物を扱った工房側の1954年の記事から得られる範囲にとどまる。6 8

作品と顧客#

ユリスの活動では、特定の完成時計に署名することより、他の工房が使うピニオンを供給することが中心になる。共同事業の供給地域についてスイス歴史辞典はジュネーブとヌーシャテルを挙げる。2

具体的な使用先は、1876~1877年巻の『Journal suisse d’horlogerie』にあるル・リューのMeylan & Guignard frèresの広告で確認できる。同社は各種の未完成ムーブメントと各サイズへの対応を案内し、ユリス・ルクルトのピニオンを用いることを明記する。供給者の名前を製品案内に載せる点に、ピニオンの選択がムーブメントの品質を伝える要素だったことが表れる。この広告は取引・使用関係の同時代証拠であるが、納品数や採用された個々の時計番号を示す請求台帳ではない。12

1857年の出展ピニオンも、目録には歯数、鋼の材質、熱処理、個々の寸法を示す説明はない。完成時計の複雑さや精度を、部品供給者の技術成績へそのまま置き換えることはできない。2 3

ユリスの作品は、完成時計の意匠や複雑な表示を担うものとは性格が異なる。1855年の出展品、1857年の目録、他工房の広告に現れるピニオンが、彼の専門を直接示す。完成時計に部品製作者の署名が残らなくても、製造の記録や取引先の説明から、その供給者の働きをたどれる。

部品事業の継承#

1894年8月の同誌には、「Ulysse Lecoultre & fils」(ユリス・ルクルトと子息)の名で、ル・サンティエのピニオン製造所の広告が載る。製品の用途は携帯時計、調整時計、置時計に及んでいた。広告は展示会で一等メダルを五つ得たとも述べるが、各賞の開催年と審査結果を列挙してはいない。1855年の公式受賞を除き、この五賞という数は工房側の宣伝上の主張として読む必要がある。少なくとも本人の生存期の終わりには、子息を含む商号が用いられていた。13

1900年のパリ万国博覧会公式目録には、ル・サンティエの「Le Coultre & Cie」が時計の出展者として、その次に「Le Coultre (Les fils d’Ulysse)」が時計用ピニオンの出展者として、別々の番号で載る。後者は「ユリスの息子たち」を意味する名義で、1895年に死去したとされる本人が1900年に出展したという意味ではない。兄の工房へつながる完成時計事業と、ユリスの名を引き継ぐ部品事業が、それぞれ展示の場に残っていたことが読み取れる。9

製品を販売するメーカーの名と、その中で使われる部品を作った工房の名が同じにならないという点は、19世紀時計製造の重要な特徴である。ユリスの伝記にも、完成時計の署名やブランド名だけでは追えないこの分業が表れる。具体的な技術の帰属を考える際には、個人、共同工房、継承企業を区別する必要がある。

年表#

年月出来事と根拠の範囲
1813年家族関係を扱う地域人物資料がユリスの出生年とする。1
1833年スイス歴史辞典が兄弟のピニオン製造の協業開始を置く年。2
1837年1月3日Harroldの家族資料研究における兄弟の土地購入。4
1839~1840年新しい工房建物の建設。資料によって1839年頃または1839~1840年とする。4 5
1842年8月6日Harroldが兄弟の会社契約を記す。協業の起点とは区別する。4
1844年工房側の1954年の回顧が第1ミリオノメーターの成立年とする。ユリス個人の分担は確定しない。8
1849年家族記録の再録が兄弟の事業上の分離を記す年。6
1850年1月25日Harroldが兄弟の財産分割を記す日。4
1855年パリ万国博覧会第8類の一等メダル。審査報告は機械製造の時計・クロノメーター用ピニオンを評価。7 10
1857年ベルン産業展示にピニオンを出展。登録番号780。3
1860年地域資料の写真説明がユリスの住居・工房建物の建設年とする。建築原記録の掲載はない。6
1876~1877年同年巻の業界誌広告でMeylan & Guignard frèresがユリス製ピニオンの使用を案内。12
1880年7月業界誌がユリスのピニオン・歯車・各種歯切りの専門工房を記す。11
1894年8月「Ulysse Lecoultre & fils」の広告が時計・調整時計・置時計用ピニオンを案内。13
1895年家族関係を扱う地域人物資料が死去年とする。1
1900年公式目録第96類の出展者番号41に「Les fils d’Ulysse」の時計用ピニオンが載る。個人の存命活動と区別。9
1954年11月工房社内誌がミリオノメーターの構造と検査について解説。8

参考文献#

資料1~9の閲覧日は2026年10月14日、資料10~13は同15日。契約・家族回想の原本と、後年の研究での紹介・再録は区別する。

  1. Piguet-famille, 『Le Coultre René (1918–2018)』、刊年・執筆者表示なし、p.1冒頭。François Ulysseの1813~1895年、兄弟関係、分離後のピニオン製造を扱う。Renéの経歴は別人物のもの。

2. Gilbert Marion, 「Le Coultre, Antoine」, Dictionnaire historique de la Suisse、2006年12月1日改訂。兄弟の協業と供給地域。兄の教育・後半の経歴をユリスへ転用しない。

3. Uebersichtliche Darstellung der 1857 in Bern ausgestellten Producte der Schweizerischen Industrie nebst vollständigem Verzeichniss der sie vertretenden Aussteller in technologischer Anordnung、Bern、1857年、印刷p.25。ETH-Bibliothek Zürich所蔵・e-rara公開。Ulysseのピニオン出展。

4. John Harrold, 「The Early History of the LECOULTRE FAMILY」, The Music Box, vol.26, no.6、pp.226–229、特にp.229。Pierre Casalongaの家族研究を利用した記事。1837年購入、1842年契約、1850年分割を紹介するが、その原文書の画像は当該箇所に掲載しない。

5. Auguste Piguet, 『La désillusion d’Antoine LeCoultre』、ノートの公開再録、p.1。家族の鍛冶と部品製造、工房建物、分離。資料末尾に1998年の再録書誌を示す。

6. Patrimoine de la Vallée de Joux, 『Le millionomètre』、執筆者・刊年表示なし、pp.1・4–7。家族記録『Ma vie』1914年fol.37–38の再録、ユリスの関与と第2器についての編者の仮説。

7. Exposition universelle de 1855. Paris. Rapports du jury international. Récompenses、第8類、印刷pp.1–4。Cnum(Conservatoire national des arts et métiers)公開画像。p.2の一等メダル受賞者Ulysse、p.4の二等メダル受賞者Antoine et filsを照合。

8. M. A., 「Le millionomètre d’Antoine Le Coultre」, Tic-Tac, no.9、1954年11月。『Le millionomètre』 pp.2–3に画像再録。1mmピッチ、100分割、900:1、表示桁、試験範囲、1855年の第2器について実読。

9. Exposition internationale universelle de 1900. Catalogue général officiel, tome 17, groupe XV, classe 96、Paris、1900年、印刷p.46(Getty Research Institute所蔵原本のInternet Archive公開)。同名の印刷p.46が部門ごとに存在するため第96類を指定。PDF第268頁の出展者40・41を照合。

10. Exposition universelle de 1855. Rapports du jury mixte international, Paris、1856年、第8類、印刷p.421、§IV「Horlogerie de fabrique」。Cnum公開、第509画像。展示番号69の出展品・受賞理由を原画像で確認。OCRページ案内と本文の画像位置にずれがあるため印刷頁を基準とする。

11. 「L’Industrie horlogère suisse à l’occasion de l’Exposition universelle de Paris (suite)」, Journal suisse d’horlogerie, 第5年、no.1、1880年7月、pp.9–15、特にpp.10–11。この回の本文末尾に署名はない。Musée international d’horlogerie所蔵、The Watch Library公開。型付き鋼材、無垢鋼切削、ユリスの専門工房について原画像を確認。巻の総扉は1880~1881年、1881年刊。

12. Meylan & Guignard frèresの広告、Journal suisse d’horlogerie, 1876~1877年巻、広告頁(印刷頁なし、第72画像)。Musée international d’horlogerie所蔵、The Watch Library公開。ル・リューの製造所がユリス製ピニオンの使用を明記する。月は確定できないため巻の範囲で記す。

13. Ulysse Lecoultre & filsの広告、Journal suisse d’horlogerie, 1894年8月、広告p.30(広告合冊の第70画像)。Musée d’art et d’histoire de Genève所蔵、The Watch Library公開。商号、所在地、用途、五つの一等メダルという自社の宣伝を原画像で確認。