精密調整と温度補償を結んだ時計師#
ヴェルナー・アルベール・デュボワ(Werner Albert Dubois、1879–1952)は、スイスのラ・ショー・ド・フォンで活動した時計師、精密調整師である。時計の歩度を測り、温度や姿勢による差を小さくする調整を専門とし、ヌーシャテル観測所のクロノメーター競技で成果を上げた。また、ひげぜんまいとてんぷを組み合わせた温度補償の構造を考案し、特許を取得した。1 2
機械式時計の精度は、製作者が部品を組み立てれば自動的に決まるものではない。姿勢が変わると軸の摩擦などが変化し、温度が変わると金属の性質も変わる。調整師は測定結果をもとに個々の機構を調整する。観測所の記録にメーカーと調整師が別々に記載されることは、製造と精密調整の双方が競技に必要だったことを示している。3 4
時計工場と調整師#
時計資料を収集・研究したClinique Horlogèreの解説によれば、デュボワは1911年から1918年までオメガの調整師を務め、1918年にポール・ディティスハイムの会社へ移った。同資料は、1930年まで同社を専ら担当し、その後は複数の時計会社から依頼を受けたと記す。これは同資料の著者が調べた記録に基づく経歴であり、雇用条件の細部まで示すものではない。1
ディティスハイムが1921年に発表した、エリンバー製ひげぜんまいとアフィックス付きてんぷの組み合わせについて、同資料はデュボワの協力を紹介している。ディティスハイムの名で知られる調速機構も、材料研究、設計、製作と精密調整に携わる人々の協力の中で成立した。1
英語の時計専門誌に掲載されたモバードの歴史は、1920年代に同社の精度調整を担ったルイ・オーグスブルガーとエドモン・ディテスハイムに続く1930年代の調整師としてデュボワの名を挙げる。個々の時計の作業範囲までは示されていないが、彼の仕事が一社だけに限られなかったことを知る手掛かりになる。5
観測所の競技で測られた仕事#
ヌーシャテル観測所の競技は、精密時計の歩度を比較する場だった。成績表には個別の時計だけでなく、同一メーカーの複数点や、同一調整師が扱った複数点をまとめた賞もあった。したがって、メーカーの製造能力と、調整師が複数の時計に施した仕事を区別して読む必要がある。3 4
1928年競技の結果を伝える翌年の時計業界紙によると、デュボワは甲板用・第一級懐中用クロノメーターの上位6点を対象とする調整師のシリーズ成績で3位となり、ギヨーム賞100フランを受けた。1929年競技では同じ枠で2位となり、甲板用クロノメーターの温度補償に対する賞にも名がある。ここでの順位は特定の試験と賞の区分に対するものであり、生涯の全作品を一律に順位付けするものではない。3 4
1943年の業界紙に掲載された過去の成績表では、1928、1929、1930、1933年の各年に、Solvilの時計と調整師W.-A. Duboisが並んでいる。別の1929年競技の報道も、メーカーと調整師の成績を別欄で示す。こうした資料は、会社名が文字盤に記された時計の背後に、個々の調整師の技能があったことを具体的に伝える。4 6
Clinique Horlogèreは1906年から1949年までに803の賞を得て、そのうち52がギヨーム賞、398が一等賞だったと記す。この集計は同資料に帰属する数字で、観測所の全成績表をここで再集計したものではない。1
エリンバー用の補償てんぷ#
温度と振動の問題#
機械式時計のてんぷは、ひげぜんまいの復元力によって往復振動する。温度が上がってばねの弾性が弱くなれば、振動周期は長くなる方向に変わる。従来の切り割り式二金属てんぷでは、温度によって異なる金属の膨張差を利用し、外周部分を内側に動かして慣性を減らすことで、ばねの変化を補った。2
エリンバーは弾性の温度変化が小さい合金だが、デュボワの特許明細書は、その残りの変化が溶解材や加工によって異なると説明する。そこで、ばねと組み合わせるてんぷにも、小さいながら適切な補償を与える必要がある。従来提案された小さな二金属片を単金属てんぷに取り付ける方式は、部品の製作と固定が難しいと明細書は述べる。2
切り割りと異なる金属の付加#
デュボワの米国特許US1859866Aは、切り割りを設けた単金属のてんぷに、熱膨張率の異なる金属の質量を取り付け、自己補償型ひげぜんまいと組み合わせる構造を示す。図示例の一つでは、鋼のリムに真鍮を入れ、温度が上がると自由端がわずかに内側へ移動して慣性を減らす。別の配置では温度上昇に伴う慣性の変化を逆向きにできる。必要な方向と大きさは、組み合わせるひげぜんまいの性質による。2
明細書は複数の切り割り位置や付加質量の取り付け方を図示し、鋳込みのほか、ねじやリベットによる固定にも言及する。これは設計上の提案であり、図の全方式が実際に量産されたことや、すべての温度で完全に補償できたことを意味しない。特許の請求項は図示された例と分けて読む必要がある。2
この特許は1926年2月6日のスイス出願を基礎として、同年9月29日に米国で出願され、1932年5月24日に登録された。米国明細書は発明者をデュボワ、譲受人をFabrique Solvil des Montres Paul Ditisheim S.A.と記す。会社の名称にディティスハイムの名があっても、特許の発明者と権利の譲受人は区別される。2
年表#
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1879年 | 生まれる。1 |
| 1911–1918年 | Clinique Horlogèreによればオメガの調整師を務める。1 |
| 1918年 | 同資料によればポール・ディティスハイムの会社に移る。1 |
| 1921年 | ディティスハイムのエリンバーとアフィックスの調速機構に関する発表で協力者として紹介される。1 |
| 1926年 | 2月にスイス、9月に米国へ調速装置を出願する。2 |
| 1928–1929年 | ヌーシャテル観測所の競技で調整師としてギヨーム賞を受ける。3 4 |
| 1932年 | 米国特許US1859866Aが登録される。2 |
| 1952年 | ラ・ショー・ド・フォンで死去する。1 |
参考文献#
[1] A La Clinique Horlogère, “Paul Ditisheim,” 特に「Modèle 1921」「L’abandon du balancier à affixes」および資料一覧。https://www.cliniquehorlogere.ch/fr/archives-diverses/paul-ditisheim-chronometrier-chaux-de-fonds.html(2026年10月31日閲覧)
[2] Werner Albert Dubois, “Regulating device for clockworks,” US1859866A, 1932年、明細書・図・請求項。https://patents.google.com/patent/US1859866A/en(2026年10月31日閲覧)
[3] La Fédération Horlogère Suisse, 1929年2月16日、1928年ヌーシャテル観測所競技とギヨーム賞の報道。https://doc.rero.ch/record/19224/files/19290216.pdf(2026年10月31日閲覧)
[4] La Fédération Horlogère Suisse, 1930年2月15日、1929年ヌーシャテル観測所競技とギヨーム賞の報道。https://doc.rero.ch/record/19212/files/19300215.pdf(2026年10月31日閲覧)
[5] Horological Times, 1993年4月号、Movadoの歴史と精密時計競技の節。https://www.awci.com/wp-content/uploads/ht/1993/1993-04-web.pdf(2026年10月31日閲覧)
[6] La Fédération Horlogère Suisse, 1943年9月2日、ヌーシャテル観測所の過去の競技成績表。https://doc.rero.ch/record/22595/files/19430902.pdf(2026年10月31日閲覧)