ウィリアム・ロバート・ブロートン ― 航海記に残る時計の歩度と北太平洋測量

ウィリアム・ロバート・ブロートン#

ウィリアム・ロバート・ブロートン(William Robert Broughton、1762–1821)は、イギリス海軍の士官・航海者・測量者である。バンクーバー探検隊でチャタム号を指揮した後、プロヴィデンス号とその伴走船で北太平洋を航海し、日本列島、千島、朝鮮半島などの沿岸を調査した。1804年刊の航海記には、海岸の姿や住民との接触だけでなく、船の時計を陸上の天体観測と比較した結果が詳しく残されている。1 2

時計史で注目すべきなのは、彼が時計の発明者だったことではない。航海用時計を実際に運び、毎日の進み遅れを確かめ、その値を使って経度を求めた利用者だったことである。時計が動いていても、その進み方が変われば位置を誤る。巻き忘れ、悪天候、上陸の制限まで含めて、精密時計が役立つための条件を具体的に読めるのが、この航海記の価値である。1

肩章の付いた海軍士官の軍服を着たウィリアム・ロバート・ブロートンの半身肖像

図1:ウィリアム・ロバート・ブロートンの肖像。作者不詳(英国派、19世紀)、National Maritime Museum, Greenwich, London 所蔵(BHC2576)。出典:Wikimedia Commons。Public Domain(PD-Art/PD-old-100-expiredの権利表示)。変更:Commons配信の縮小JPEG版を使用。追加のトリミング・色調変更なし。

生涯と測量者としての出発#

1762年3月22日生まれ。現行の『Oxford Dictionary of National Biography』公開抜粋は、父をハンブルクと交易した商人チャールズ、母をアン・エリザベスとし、同月26日にロンドンのセント・スティーヴン・ウォルブルックで洗礼を受けたと記す。1774年に海軍へ入り、北米、次いで東インド方面で勤務した。1782年にバーフォード号の士官となり、ヒューズとシュフランの両艦隊が戦ったインド洋での戦闘に参加している。学校での教育や時計製作の修業を示す資料は、ここで用いた伝記にはない。2 3

1790年12月、ジョージ・バンクーバーの探検に同行するチャタム号の指揮官に任命された。1791年にはニュージーランド南方のスネアーズ諸島や、モリオリの人々が暮らすチャタム島に到達し、1792年には北米西岸のコロンビア川を小艇で約100マイル遡って測量した。「発見」と呼ばれてきたこれらの航海は、もともと住民のいる土地をヨーロッパ側の地理知識に記録する活動だった。ブロートンは測量成果と報告を携え、1793年にメキシコのサン・ブラスからベラクルスへ陸路で横断し、イギリスへ戻った。2 3

プロヴィデンス号と観測の分担#

1793年10月3日、プロヴィデンス号の指揮を任された。同船はウィリアム・ブライのパンノキ輸送航海に使われた船で、改修・艤装の後、1795年にイギリスを出た。バンクーバー隊との合流を目指したが、北米西岸に着いたときには同隊はすでに去っていた。そこで太平洋を横断し、アジア側の沿岸調査へ向かうことになった。1 2

船長一人が観測を独占したわけではない。1804年本の乗員表は、ザカリー・マッジを第一士官、ジョン・クロズリーを天文学者と区別して掲げる。クロズリーは各寄港地で天体を観測し、時計の比較を担った。指揮・航路の選択、天文学的な観測、船の取り扱いは、互いに支え合いながらも異なる仕事である。航海記中の数値をすべてブロートン自身の単独測定とみなすことはできない。1

1797年4月1日、マカオから経度委員会へ送った本人の書簡は、その分担をよく示す。もとはクロズリーをバンクーバー隊へ送る命令だったが、同隊の帰国を知った後も、天文観測が必要なため自分の船に留めていると報告した。一方で、器具の不足が観測を妨げるとも述べている。クロズリーは同年6月10日に中国で離隊しており、8月以降の観測まで彼の実施と決めつけることはできない。1 10

時計を使って経度を知るには#

航海用時計は、離れた基準地点の時刻を船上へ運ぶ道具だった。現地で太陽などを観測して求めた時刻と、その基準時刻との差から東西の位置、すなわち経度を計算する。地球が24時間で360度回る関係から、時間の1時間差は経度15度に、時刻の1分差は経度15分に相当する。「時刻の分」と「角度の分」は別の単位であり、時計のわずかな誤差も位置に換算すれば無視できない。1

ただし、時計の表示をそのまま使うわけではない。ある時点で何分何秒進んでいるかという時刻のずれと、1日に何秒ずつ進む・遅れるかという歩度を、分けて把握する必要がある。一定の歩度なら経過日数に応じて補正できるが、その歩度自体が変化すると、出発時の補正だけでは足りなくなる。1

また、太陽を直接見て決める視太陽時と、太陽の年周的な進み方のむらをならした平均太陽時は一致しない。航海記が比較値を「平均時」と明記している点は重要である。これは現在の協定世界時UTCを受信する仕組みではなく、天体観測と計算で時計の基準を作り直す実務だった。1

複数の時計を積んでも結果はそろわない#

1796年1月、ハワイのケアラケクア湾で記録された経度表には、No.1、懐中時計No.2、アーノルドの箱時計No.56、Box Eと記された箱時計という複数の値が並ぶ。それぞれに以前のポート・ジャクソンで求めた歩度を適用しても、示す経度には開きがあった。続く本文でブロートンは、アーノルドの箱時計の歩度が不規則で、役立たないほどだと評価している。1

これは特定の航海・個体についての記録であり、ジョン・アーノルドの製品全体の性能を判定する試験ではない。また、本文で後に登場するNo.45を、同じメーカーだからといってこのNo.56と同じ時計に置き換えて読むこともできない。製作者、番号、比較した日付と場所を保つ必要がある。1

時計の所有・運搬先も一様ではなかった。ブロートンはスペイン側の知人ボデガ・イ・クアドラのために時計や航海器具をイギリスで購入し、本人の死後、1796年6月にモンテレーの知事へ渡した。No.2とNo.56も、その引渡し品として記録される。船に積まれた時計を、すべて同じ条件の官給装備と考えることはできない。1 9

1796年11月には、No.1が正午に巻かれず、当面使えなくなったという記録もある。ブロートンは、潮流が強い海域だけに残念だと記した。精密な機構があっても、基準時との連続した関係が途切れれば、そのまま航法に使い続けることはできない。巻上げという日常の作業も、測量の信頼性の一部だった。1

マカオ、絵鞆、朝鮮で変わったNo.45の歩度#

1797年の航海記は、アーノルド製の箱時計No.45について、場所ごとに異なる歩度を記録する。次表の符号は読みやすさのため、平均時に対して進む場合をプラス、遅れる場合をマイナスにそろえた。各時点で求めた比較値であって、航海全期間を通じて保証された性能ではない。1

比較地点と時点平均時に対する日々の歩度記録の意味
マカオ近くのタイパ、1797年4月8日正午+0.419秒/日クロズリーが太陽の単高度から比較した値
絵鞆の港、同年8月21日正午+1.26秒/日8月13–21日の陸上での等高度観測による値
朝鮮のチョサン港、同年10月21日正午−9.80秒/日10月13–21日の陸上での太陽高度観測から求めた値

出典:1804年本、印刷頁171、275、344–345。「絵鞆」は原文のEndormo/Endomo、「チョサン」はChosan/Tchosanに対応する。1

等高度観測は、太陽が南中する前後に同じ高さとなる時刻を利用する観測である。港に着いてすぐ一度だけ時計を合わせるのではなく、日を隔てて比較し、進み遅れの変化を調べていた。絵鞆では、到着時に時計が示した経度と採用した経度の差が、46日間で1度2分30秒になったと記される。現地で歩度を取り直す必要が、数値の形で示されている。1

チョサンでは問題がさらに明瞭になる。同じ10月13日の停泊位置を、絵鞆で求めた歩度で計算すると東経130度26分21秒、マカオの歩度では128度40分33秒とした。一方、到着前・停泊中・出帆後に得た月距観測は、合計99組を時計で換算し、港の経度を129度7分7秒とする根拠に用いられた。月と恒星などとの角距離から時刻を推定する月距法が、時計の結果を点検する役割も果たしたのである。1

ここで本人は、時計が不規則に動いたのか、絵鞆で求めた歩度に誤りがあったのかを断定していない。マカオの歩度を使い、絵鞆での経度差を補正すると、その後の観測とよく合うと説明した。この記録から、温度補償の破損や特定部品の故障まで診断することはできない。機械の変化と観測・計算の不確かさを、分けて読む必要がある。1

日本・琉球・朝鮮での測量#

1796年9月、プロヴィデンス号は北海道の絵鞆・室蘭の港に入り、翌年にも再訪した。室蘭市の来航史は、松前藩の医師加藤肩吾との面会や地図交換を伝えている。ブロートンの海図作りは、海岸を遠望するだけでなく、測深、方位測定、緯度・経度観測、現地との交渉を組み合わせた仕事だった。1 4

1797年5月17日、プロヴィデンス号は宮古島沖の八重干瀬でサンゴ礁に乗り上げ、失われた。本人の公刊航海記は同日の記事に午後7時半頃の衝突を記し、宮古島側や室蘭市の解説とも日付が一致する。乗員は伴走スクーナー船へ移り、島の人々から水や食料の援助を受けた。その後マカオへ戻って体制を整え、小さい船で沿岸調査を続けた。19世紀の『Dictionary of National Biography』は座礁を16日とするが、ここでは本人の原刊本の日付を採る。1 2 4 5

宮古島市総合博物館紀要の池城直の論考は、島民による救助を単なる「素朴な親切」という旅行者の印象に還元せず、琉球側の難船救助の規定との関係から捉えている。船長の航海記は重要な原資料だが、訪問される側にも制度や判断があった。沿岸を「未知の世界」とする表現も、誰にとって未知だったのかを区別する必要がある。5

観測には、天候だけでなく滞在条件も影響した。朝鮮沿岸での1797年10月の記録では、現地側が水や薪を供給する一方、出帆を求め、行動を監視したことが分かる。雨のため太陽高度を測れず、時計の歩度を決められないという事情も書かれた。上陸・観測の許可や滞在日数は、時計とは別の、しかし測位精度を左右する条件だった。1

航海記、後半生、史料の継承#

ブロートンは1798年5月にトリンコマリーで帰国の途に就き、1799年2月にイギリスへ戻った。1804年には、1795–1798年の航海をまとめた『A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean』をロンドンで刊行した。序文は、娯楽を求める読者には向かなくても、細かな天文・航海の記録が航海者や科学者の役に立つという方針を述べる。そのため本文には、風・潮流・測深と並び、時計のずれや歩度、太陽・月の観測が残されている。1 2

後年も海軍勤務を続け、イラストリアス号で1809年の作戦、1810年のモーリシャス攻略、1811年のジャワ遠征に関わった。1812年に帰国し、1817年には息子ウィリアムが父の指揮するスペンサー号で海軍生活を始めている。1819年から海兵隊大佐の地位にあり、1821年3月にフィレンツェで死去した。RMGの肖像解説と19世紀の伝記は没日を12日と記すが、室蘭市の解説は13日とするため、細かな日付の相違は残る。2 4 6 7

1792年の調査、1793年のメキシコ横断、1795–1797年を中心とする航海の記録は、現在National Maritime MuseumのRUSI/NM/132として整理されている。旧Royal United Service Institutionの海軍文書から1968年に移管された史料群である。2010年にはアンドルー・デイヴィッド編のハクルート協会版も刊行された。1804年の公刊航海記、手書きの航海日誌、近代の校訂版を同じものとして扱わず、どの記録を読んだかを区別することが重要である。8 9

時計史への貢献は、新しい脱進機や補償装置の発明ではなく、時計の信頼性を現場の観測に結び付けた記録にある。製作者の性能説明だけでは見えにくい、巻上げ、陸上の観測場所、天候、既知の経度、比較日数、採用する歩度の選択が、同じ航海の中で相互に関わっていた。ブロートンの記録は、精密時計を作る技術と、それを正しく使う技術がともに必要だったことを示している。1

年表#

年月出来事
1762年3月22日生まれ。26日にロンドンで洗礼。
1774年海軍に入り、北米、後に東インドで勤務。
1782年バーフォード号の士官となる。
1790年12月バンクーバー隊に同行するチャタム号の指揮官に任命。
1791年11月スネアーズ諸島、チャタム島に到達。
1792年北米西岸を調査し、コロンビア川を遡る。
1793年メキシコを陸路で横断して報告を持ち帰る。10月3日、プロヴィデンス号指揮官となる。
1795年イギリスを出帆し、南太平洋へ。
1796年1月ハワイで複数の時計の経度値を比較。
1796年6月以降北米西岸から太平洋を横断し、アジア沿岸の調査へ。
1796年9–10月絵鞆・室蘭や千島方面を調査。
1796年11月No.1の巻き忘れを記録。
1796年末–1797年4月マカオ近くで船を整備し、時計の歩度を比較。
1797年5月八重干瀬でプロヴィデンス号を失う。伴走船で脱出し、調査を継続。
1797年8月絵鞆を再訪し、No.45の歩度を観測。
1797年10月朝鮮沿岸で太陽・月の観測と時計の経度値を比較。
1798年5月–1799年2月トリンコマリーを離れて帰国。
1804年北太平洋の公刊航海記を出版。
1809–1811年イラストリアス号で作戦に参加。
1812年イギリスへ帰国。
1817年スペンサー号を指揮。息子ウィリアムが同艦で入隊。
1819年海兵隊大佐となる。
1821年3月フィレンツェで死去。
1968年現在のRMG所蔵に連なる文書群の移管。
2010年デイヴィッド編の航海記校訂版が刊行。
2024年宮古島市総合博物館紀要が航跡と救助を論じる。

出典:1 2 3 5 6 8 9。

資料上の限界#

1804年の航海記からは観測手順と比較値を読めるが、各時計の全製造工程、機械内部の修理履歴、No.45の歩度が変わった原因までは確定できない。同じメーカーの時計、貸借・運搬された時計、各観測時点で使った時計は区別する必要がある。ここで示した経度は当時の採用値であり、現代の測地系における位置精度をそのまま保証するものではない。1

参考文献#

  1. William Robert Broughton, A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean, London: T. Cadell and W. Davies, 1804。序文・乗員表、pp.35–36、134、170–171、193–205、275、337–345、終章を参照。Internet Archive所蔵原本。閲覧日:2026年11月7日。

2. J. K. Laughton, “Broughton, William Robert,” Dictionary of National Biography, 1885–1900、1904年追補を含む。Wikisource本文。閲覧日:2026年11月7日。

3. J. K. Laughton / Roger Morriss改訂, “Broughton, William Robert (1762–1821), naval officer,” Oxford Dictionary of National Biography, 2004年刊、2013年版。公開Extractの出生・初期海軍勤務・1793年までの部分を参照。Oxford Academic。閲覧日:2026年11月7日。

4. 室蘭市「プロビデンス号」、2024年5月23日更新。市公式来航史。閲覧日:2026年11月7日。

5. 池城直「プロビデンス号の航跡と大航海時代」『宮古島市総合博物館紀要』第28号、2024年、pp.161–168、特にp.163。博物館公開PDF。閲覧日:2026年11月7日。

6. John Marshall, “Broughton, William,” Royal Naval Biography、1831年昇進の息子ウィリアムの項目。冒頭の父の没年月日と1817年入隊の記述を参照。Wikisource本文。閲覧日:2026年11月7日。

7. Royal Museums Greenwich, “Captain William Broughton (1762–1821),” BHC2576。肖像と人物解説。閲覧日:2026年11月7日。

8. Royal Museums Greenwich, “Broughton, William Robert, Captain, 1762–1821,” RUSI/NM/132。文書群の所蔵記録。閲覧日:2026年11月7日。

9. Andrew David編、Barry Gough序論, William Robert Broughton’s Voyage of Discovery to the North Pacific 1795–1798, Hakluyt Society, Third Series 22, 2010、2016年Routledge版。書誌・公開previewを参照。出版社公開抜粋PDF。閲覧日:2026年11月7日。

10. William Robert BroughtonからBoard of Longitudeへの書簡、Macao、1797年4月1日。Cambridge University Library, RGO 14/1, f.158r。所蔵機関の原頁。公式IIIFの同頁画像を参照。閲覧日:2026年11月7日。