初期の懐中デテント時計と、改良の積み重ね#
アーノルド No.28は、ロンドンの時計師ジョン・アーノルドによる、軸付きデテント脱進機を備えた大型の懐中時計である。現在はWorshipful Company of Clockmakersのコレクションに属し、ロンドンのScience Museumに置かれたClockmakers’ Museumで保存されている。作品番号はNo.28、同館の番号は419、Science Museum Groupの資料番号はL2015-3332であり、一つの現存個体を指す。1
この時計の特色は、古い製作年を持つだけでなく、機械の改良と後世の実験が一台に残っていることである。ケースのロンドン検定年は1776–1777年だが、現在のS形補償テンプは1779–1782年頃の形式に属し、後から加えられたとされる。さらに19世紀の館目録には、温度補償を試験するためCharles Frodshamがひげぜんまいを付け直したという記録がある。したがって、ケース、テンプ、ひげぜんまいの来歴を分けて読む必要がある。1 2
海上経度測定に用いる精密な携帯時計の発達を理解するうえで、No.28は具体的な機構を示す重要な資料である。一方、有名なグリニッジの長期試験を受けたアーノルドNo.36とは別の時計である。外観や機械が似ているという専門書の説明から、両者の性能や所有者が同じだったとはいえない。3
個体の同定と外観#
署名、ケース、文字盤#
ムーブメントには John Arnold Invt. et Fecit No. 28 の署名がある。Invt. et Fecit は発明・製作を表すラテン語の省略形で、作者の自己表示と個体番号を伝える。ただし署名は、現存する全部品が同時に製作され、すべてアーノルド本人の手で加工されたことを保証するものではない。1 2
ケースは金無垢ではなく銀鍍金で、彫られた花輪に囲まれた「C.M.」のモノグラムを持つ。これは所有・表示の履歴を考える手がかりだが、公開された収蔵記録だけからC.M.を特定の注文主や使用者へ結び付けることはできない。白いエナメル文字盤には時・分とは別の小秒表示を配し、針の材質は鋼である。1
所蔵館の正面写真では、時刻をローマ数字、外周の分を5分ごとのアラビア数字で示し、小秒表示を6時側へ置いた構成が読み取れる。中央上部の文字盤署名は JOHN ARNOLD / LONDON。大型の秒目盛は、単に時と分を知るだけでなく、基準時計と指示を比較する用途にも適した表示である。ただし、その視認性から実際の試験方法や使用航海を推定することはできない。1
大きさと物品番号の読み方#
収蔵記録の全体寸法は75 × 64 × 33 mmで、別に63 mmという値も併記されている。後者がどの部位を測った値かは表示上明示されていないため、ケース径やムーブメント径として断定しない。現代の薄い懐中時計を想像するより、厚みと大きさを持つ18世紀の携帯精密時計として捉えるべき作品である。1
| 識別項目 | No.28について確認できる内容 |
|---|---|
| 作品の署名番号 | John Arnold No.28 |
| Clockmakers’ Museum番号 | 419 |
| Science Museum Group番号 | L2015-3332 |
| 古い館目録の掲載番号 | 39。1875年刊の目録p.69に記載。2 |
| ケースの検定 | ロンドン、1776–1777年。1 |
| 現存する主要な調速構成 | 軸付きデテント、S形テンプ、円筒形ひげぜんまい。1 |
館目録の掲載番号39、現在の収蔵番号419、製作者のNo.28は、異なる番号体系である。また、L2015-3332の2015を製作年と解してはならない。
製作の背景#
携帯時計に求められた自由な振動#
18世紀の海上経度測定では、基準地点の時刻を精密な時計で船へ持ち運び、別に観測した現地の時刻と比較する方法が発達した。そのためには、出港前に合わせた時計が航海中も予測可能な歩度を保つ必要がある。温度、姿勢、衝撃、動力の変化、潤滑状態が歩度へ影響するため、携帯可能であることと正確に使えることは別の課題だった。3
Gouldの歴史研究は、アーノルドとアーンショウの意義を、精密時計の設計の簡素化と製作分業に置く。地板、歯車、文字盤などの加工を分担しつつ、ひげぜんまいの取付けと調整を重視したという説明である。これは工房の一般的な製作体制についての後世の分析で、No.28の各部を加工した職人の名前を特定する記録ではない。3
箱に入れ、水平に保つ時計に比べ、懐中時計は水平・傾斜・垂直などの姿勢を取り、持ち歩く間には急な回転や衝撃も受ける。No.28のような時計では、輪列が時を数えるだけでなく、テンプの自由な振動をできるだけ妨げず、その振動周期を環境が変わっても一定に近づけることが設計の中心になる。3
初期作品としての位置づけ#
Science Museum GroupはNo.28を、アーノルドの軸付きデテント脱進機を備えた懐中時計のうち、記録され、現存する最も早い例として説明する。この評価の範囲は、作者と機構と現存形式を限定したものだ。デテントという考え方全体の世界初や、精密懐中時計一般の最初の一台を意味しない。1
具体的な発注日、契約価格、当初の購入者、製作期間は、ここで参照する物品記録と古い館目録では確定できない。No.28を、クックの航海に使われた箱時計や、王室向けの小型時計と混同しないことが重要である。2 3
現存する機械の働き#
軸付きデテント脱進機#
機械式時計の脱進機は、動力で回ろうとするガンギ車を一定の段階で止め、調速機の振動に合わせて解放し、失われる振動エネルギーを補う。デテント脱進機では、ガンギ車を止める部材であるデテントと、テンプへ力を与える作用を分ける。テンプは振動の大部分を輪列から離れて行うため、輪列の摩擦や動力変動の影響を抑えられる。3
典型的な作動は、解放、衝撃、再停止、戻りの順で説明できる。テンプ側の解放部がデテントを動かすと、止められていたガンギ車が進み、歯がテンプ側の受けへ直接力を与える。デテントは戻って次の歯を止める。テンプの逆方向の振動では、小さな通過ばねがたわみ、通常はガンギ車の停止を解かない。一往復に一度の衝撃と、振動の大部分での自由な運動が、この方式の特徴である。3
No.28は、デテントを軸で支えて回転させる軸付きの形式である。デテント自身の薄いばね部分を曲げて動かす、後のばねデテントとは区別される。Gouldの図30はアーノルドの後期の軸付き形式、図31はばね式を描いており、両者を同じ機械の図として読むことはできない。No.28そのものは図版XXXで軸付きデテントとS形テンプを持つ時計として示される。3
この機構にも解放時の仕事、軸の摩擦、戻りの確実さ、衝撃に対する安全性の問題は残る。「自由な振動」は、振動にまったく外力が働かないという意味ではない。No.28のガンギ車の歯数、輪列比、振動数、香箱や巻上げ中の動力維持装置の詳細は、所蔵館の短い物品記録には示されていないため、別個体の仕様を当てはめることはできない。1 3
円筒形ひげぜんまい#
ひげぜんまいは、テンプを中立位置へ引き戻す弾性部材である。No.28は、平面内に巻いた通常の渦巻形とは違い、軸方向に高さを持つ円筒形、すなわちhelical balance springを備える。巻いたばねの取付けと端部の形は、テンプが大きく振れる場合と小さく振れる場合の周期差、姿勢ごとの歩度、軸へ働く横力と関わる。1 3
Gouldのひげぜんまい論は、ばねの中心がテンプ軸からずれる運動と、端末曲線による改善を説明し、幾何学だけでなく実際の脱進機を含む調整が必要だとする。フランス語の技術史を著した時計師Paul Ditisheimも、アーノルドの円筒形ひげと内側へ戻る端部を、後のブレゲの平ひげ端末曲線と比較している。ただし、こうした一般的な技術の説明から、現在のNo.28のひげに特定の曲線寸法、材質、製作者を割り当てることはできない。3 4
とくにNo.28は、Frodshamによる再取付けの記録を持つ。現存する円筒形ひげを、1776–1777年当初のまま保存された部品と考えるのは適切でない。19世紀の記録は「補償を試すため」の作業と目的を述べるが、ばねの合金、寸法、試験結果の数表までは記していない。2
S形テンプと温度補償#
温度が上がると、一般に当時の金属ひげぜんまいの弾性は変化し、テンプの周期も変わる。補償テンプは、その変化をテンプの慣性モーメントの変化で相殺しようとする装置である。単にケースが熱膨張する問題でも、ぜんまいの長さだけの問題でもない。3
摩擦・駆動・ばねの非線形を省いた理想的なねじり振動のモデルでは、周期は次の関係になる。
\[ T=2\pi\sqrt{\frac{I}{\kappa}},\qquad \frac{\Delta T}{T}\simeq\frac12\left(\frac{\Delta I}{I}-\frac{\Delta\kappa}{\kappa}\right) \]Tは一往復の周期(秒、s)、Iはテンプの慣性モーメント(kg・m²)、κは単位角度当たりの復元トルクを表すばねの係数(N・m/rad)である。右式は変化が小さい場合の一次近似。温度上昇でκが減ると周期は長くなるが、同時にIも適量減らせれば、その影響を相殺できる。これは機械原理を説明する現代的なモデルで、No.28の測定値を算出する式ではない。理想ばねの等時性と実物での妨げの区別はGouldの議論に対応する。3
アーノルドのS形補償テンプでは、鋼と真鍮の複合帯を対称なS形に配置し、先の重りの位置を温度に応じて変える。Gouldの図32は、外周の鋼フレーム、複合帯、重りを別に描き、複合帯では鋼が外側になる構成を示す。1875年のNo.28の物品記録も、S形の補償部材が重りをテンプ中心へ向かう線上で動かす、と記している。2 3
この形は、のちの切り割りされた二金属の円周部を持つ補償テンプと同一ではない。曲げられた複合帯と移動する重りを用いて温度に対する慣性の変化を作る、発達過程の具体的な設計である。現在のNo.28はその実物例だが、ケースの検定年にS形テンプがすでに採用されていた証拠にはならない。1 3
加工、装飾と調整の関係#
所蔵館のムーブメント写真では、柱で支えた地板、金色に仕上げられた表面、署名の彫り、透かし彫りと彫刻を施したテンプ受けが見える。正面は白地と黒い数字による読みやすい配置、裏側は精密な調速機と装飾を並存させている。ここで写真が示すのは現存の外形と仕上げであり、個々の彫金職人や鍍金工程の薬品を同定するものではない。1
温度補償部品の製作には、膨張の異なる金属を組み合わせるだけでなく、左右の作用と重りの位置をそろえ、取り付けたひげと共に歩度を調整する必要がある。さらに一つの温度で時計を合わせる操作と、複数の温度で歩度の変化を減らす操作は異なる。Frodshamがこの古い時計を補償試験のために再び調整したという記録は、保存対象となる以前にも、具体的な実験対象として扱われたことを示す。2 3
部品の更新と所有・保存の履歴#
三つの製作・使用の層#
| 層 | 確認できること | 年代を読む際の限界 |
|---|---|---|
| 18世紀のケースと時計 | ケースのロンドン検定1776–1777年、作者署名No.28 | ケースの検定だけで、全構成部品の完成日を月日まで定められない。1 |
| S形補償テンプ | 後加えであり、1779–1782年頃にアーノルドが用いた形式 | 形式の使用期間は、No.28の改造年月や改造者の確定ではない。1 3 |
| 19世紀のひげ取付けと博物館編入 | Charles Frodshamによる補償試験用のre-springing、Frodsham & Co.の1875年寄贈 | 作業の年月日、試験環境、成績、以前のひげの状態は目録から確定できない。2 |
1875年のClockmakers’ Companyの目録p.69は、No.28を銀鍍金ケースの懐中クロノメーターとして載せ、軸付きデテント、S形補償部材、重りの動き、ひげを付け直した目的、寄贈者を一つの項目に記している。短い記述だが、時計を収蔵した機関が残した来歴上の一次資料である。2
一方、アーノルドの工房を出てFrodshamへ至るまでの約一世紀については、この目録は連続した所有者一覧を示さない。ケースのC.M.という文字からその空白を埋めたり、Frodshamによる作業をアーノルド自身の修復と説明したりすることはできない。1 2
図版と現代の所在#
1923年に刊行されたGouldの『The Marine Chronometer』は、図版XXXにNo.28の文字盤側の写真を掲載した。図版の説明はNo.36に外観と機構が似ること、軸付きデテントとS形テンプを持つこと、Clockmakers’ Company Museumの品であることを明記する。現在の所蔵館の写真とは異なる時点の、個体を同定できる視覚資料でもある。3
Clockmakers’ Museumのコレクションは、以前のGuildhallからScience Museumへ移り、2015年10月22日に新しい展示の公式開館式が行われた。これはコレクション全体の移転の記録であり、No.28の一台ごとの梱包・移送日を表すものではない。2026年10月時点のScience Museum Groupの物品記録は、No.28を同館のClockmakers’ Museum Galleryの展示品として案内し、貸与元をWorshipful Company of Clockmakersとしている。1 5
性能、特許、技術史上の意味#
No.28には、精密時計のためのデテント脱進機、円筒形ひげ、温度補償テンプが組み合わされている。しかし、機構の名称から特定の精度は導けない。No.28固有の連続した歩度表、航海試験の数値、温度別成績、動作時間は、ここで挙げる資料には示されていない。Frodshamが試験を目的としてひげを付け直したことと、良好な試験成績が記録されていることは区別する必要がある。1 2
No.36の長期試験はアーノルドの設計の発展を示す比較背景である。GouldもDitisheimも、No.28をNo.36に似た時計として紹介しているが、試験成績をNo.28の数字として示してはいない。No.28に「13か月試験済み」「日差何秒」といった性能を与える根拠にはならない。3 4
アーノルドの技術には、特許No.1113とNo.1328が関わる。Gouldは円筒形ひげ、補償テンプ、後のばねデテント、ひげの内側へ戻る端部を、発達段階と特許の説明の中で扱う。本稿では、特許の原仕様書と添付図を確認できていないため、この関係は実読したGouldの専門書とDitisheimの技術史に基づく説明である。原特許を取得できていないことは特許が存在しない証拠ではなく、現存No.28の全部品が一つの特許の当初仕様だったことも意味しない。3 4
この作品の技術史上の価値は、単一の「完成形」を示すことより、初期の携帯精密時計に、異なる時期の調速技術と試験の履歴が重なっている点にある。軸付きデテントを保った一台が、より新しい補償テンプを備え、さらに後世の時計師によるひげ取付けを受けたことを、実物と目録の双方からたどれる。設計の改善、実際の調整、資料としての保存を一つの作品で考えられる時計である。1 2 3
年表#
個体の記録と設計史・コレクション全体の出来事を区別する。確定できない期間は細かな日付で埋めない。
| 年代 | 出来事 | 資料の範囲 |
|---|---|---|
| 1770年代前半 | アーノルドが航海用時計と携帯精密時計の設計を発展させる | 製作者の一般的な背景。No.28の発注日ではない。3 |
| 1776–1777年 | No.28の銀鍍金ケースのロンドン検定 | 個体の外装年代。1 |
| 1779–1782年頃 | アーノルドがS形補償テンプの形式を用いる | No.28の現在のテンプが後加えと判断される背景。改造日そのものは不明。1 3 |
| 19世紀、1875年の寄贈以前 | Charles Frodshamが補償試験のためNo.28へひげを付け直す | 作業日と試験成績は記載なし。2 |
| 1875年 | Charles Frodsham & Co.がNo.28をClockmakers’ Companyへ寄贈 | 館目録p.69、項目39。2 |
| 1923年 | Gouldが専門書の図版XXXでNo.28を紹介 | Clockmakers’ Company Museum所蔵品として写真掲載。3 |
| 2015年10月22日 | Science Museumへ移ったClockmakers’ Museumの公式開館式 | コレクション全体の展示・移転史。5 |
| 2026年10月 | No.28の現物と物品記録がClockmakers’ Museum/Science Museum Groupで保存・公開される | 資料L2015-3332。展示は所蔵館の案内による。1 |
参考文献#
- Science Museum Group/The Clockmakers’ Museum, “Pivoted-detent escapement watch by John Arnold”, L2015-3332/Clockmakers’ Museum No.419。物品記録本文とClarissa Bruceによる正面・ムーブメント写真。閲覧2026年10月12日。写真は掲載元で参照できる。
- Worshipful Company of Clockmakers/William Henry Overall編, A Catalogue of Books, Manuscripts, Specimens of Clocks, Watches and Watchwork, Paintings, Prints, &c., in the Library and Museum of the Worshipful Company of Clockmakers, E. J. Francis & Co., London, 1875, p.69, 項目39。標題紙と当該頁の画像を確認。閲覧2026年10月12日。
- Rupert T. Gould, The Marine Chronometer: Its History and Development, J. D. Potter, London, 1923, pp.105–112、図28–32、図版XXX、pp.158–165・168–169。機構図、No.28の写真と説明、ひげ・補償の技術解説を参照。閲覧2026年10月12日。
- Paul Ditisheim, “De la production des chronomètres de marine au XVIIIe siècle — John Arnold”, Journal suisse d’horlogerie掲載文の公開アーカイブ。原掲載年未確定。S形テンプ、円筒形ひげ、No.28図の説明を参照。歴史的な日付には他資料と一致しない記載があり、その部分を年代確定の根拠には用いない。閲覧2026年10月12日。
- Science Museum Group, Annual Report and Accounts 2015–16, 2016, p.16「Exhibitions, galleries and events」、p.17「Masterplan」。Clockmakers’ Museumの移転と公式開館日。閲覧2026年10月12日。