ブレゲ No.1176は、4分で一回転するトゥールビヨンと、二枚のガンギ車を用いるナチュラル脱進機を組み合わせた金製懐中時計である。1809年2月12日、サンクトペテルブルクの代理人モローを通じ、ポトツキ伯爵へ4,600フランで販売された。回転する調速装置だけでなく、動力の均一化、毎時21,600振動のテンプ、二つの秒表示を一個の機械にまとめた、初期の携帯精密時計である。1 2
No.1176は個体の番号で、ケース番号1282とは異なる。量産モデルの型番ではない。ブレゲは2014年にこの作品を取得し、2025年の公式説明ではパリのブレゲ・ミュージアム所蔵としている。3 4
長い製作期間と「最初」の意味#
トゥールビヨンの特許は1801年6月26日に成立した。Douxの2021年の紹介記事は、No.1176の製作開始を1802年7月5日、完成を1809年2月12日とする。後者は競売資料の販売日とも一致するが、組立完了と販売が同一の作業だったことまで示すものではない。1 5
工房内の仕事をもう少し細かく伝えるのが競売カタログである。そこに紹介された記録では、タヴェルニエが1806年11月17日に文字盤を納め、1807年1月28日にはミショーへ地板の彫刻が発注された。完成品はブレゲ一人の手だけで成立したものではなく、文字盤・彫刻・ケースの専門職を組み合わせた工房の成果だった。1
No.1176はブレゲ最初の4分回転トゥールビヨンと位置付けられる。ただし、「最初のトゥールビヨン時計」と同義ではない。先行するNo.282や、アーノルドの時計を改造したNo.169があり、試作・機械の完成・工房からの引渡しのどれを数えるかで順序が変わる。アンティコルムはNo.1176の機械が記録上の順番より早く成立した可能性を論じるが、これは製作途中の記録からの解釈である。「第二作」「第三作」を無条件の完成順として扱うことはできない。2
精度を支える機構#
4分で回る調速装置#
トゥールビヨンでは、テンプや脱進機をキャリッジと呼ぶ回転枠に載せる。テンプとヒゲゼンマイの重心が軸からわずかにずれると、時計を縦にしたとき、その向きによって重力が振動へ与える影響が変わる。回転枠はその向きを順に変え、一つの姿勢の誤差が続くことを抑える。重力そのものを消す装置ではなく、姿勢に伴う歩度差を時間の中で平均化しようとする仕組みである。6
No.1176の二本腕のキャリッジは、二番車のカナから駆動されて4分で一回転する。一般に知られる1分回転とは周期が異なり、回転枠を秒針のように眺めても一周は60秒ではない。競売資料は、遅い回転によって回転枠の加速に要する負担を減らし、高い振動数を維持するための動力へ振り向ける設計意図を説明している。ただし、これは動力配分の説明であり、実測の日差や効率の証明ではない。2
テンプの振動数は毎時21,600振動。ここで振動は片道の運動を数えるので、毎秒6振動、一往復を一周期とすれば3Hzとなる。この換算は仕様値からの計算である。高振動という特徴と、現存個体が今日どれほど正確に動くかは別であり、公開資料から本個体の日差は確定できない。1
ナチュラル脱進機の狙いと難しさ#
脱進機は輪列の回転を刻み、テンプへ振動を続ける力を与える。この力の補給を加衝という。ナチュラル脱進機は、往復のそれぞれでガンギ車からテンプへ直接加衝し、接触部での滑りと油への依存を小さくすることを狙う。解放時にはテンプ側と制御レバーが接触するため、「加衝以外は一切接触しない」という意味ではない。7
No.1176ではガンギ車の歯数が12と3であり、左右同形の二枚ではない。受けの構成や停止位置を制限するばねにも、後の作品と異なる実験的な特徴が記載されている。一般的なナチュラル脱進機の作動図を、そのまま本個体の部品図とみなすべきではない。1
デレク・プラットは、この系統の構造的な課題として、連結された二枚の車が同時に動くための慣性と、噛合いの隙間による従動側の位置の不確かさを説明している。小さい従動ガンギ車は慣性を減らす工夫となるが、隙間や調整の問題をすべて解決するわけではない。この説明は方式一般への分析であり、No.1176の現状に特定の故障を認定するものではない。7
フュジーと温度補償#
ムーブメントは金めっきした真鍮製、24リーニュと記載される。動力系には逆向きのフュジーと巻上げ中の動力維持機構を備える。フュジーは鎖の掛かる円錐状の面の半径を変え、ゼンマイの力の変化をてこの腕の変化で補う装置である。巻上げ中にも輪列への動力を保つ機構は、時計を巻く際の運転の連続性に関わる。8
三本腕のバイメタル補償テンプには調整ねじがあり、ヒゲゼンマイは青焼き鋼製で端末曲線を備える。バイメタルは膨張率の異なる金属を組み合わせ、温度変化に応じた変形を補償へ利用するもの。回転枠が主に姿勢、フュジーがゼンマイの力、補償テンプが温度というように、異なる誤差要因へ別々の仕組みを配している。これらを一括して「トゥールビヨンの効果」とすることはできない。8
読み取りやすさと二つの秒表示#
金製文字盤はギヨシェ加工で模様を刻み、時表示を小文字盤に分け、分は外周の目盛で読むレギュレーター型である。その両側に二つの秒表示、下方に35時間を刻む扇形の残量表示を置く。青焼きのブレゲ針と、地模様・平滑な目盛面の違いが、複数の情報を見分ける助けになる。8
秒表示と停止操作には、資料の記述差が残る。1991年のカタログは右側の秒表示を任意に止められると説明する一方、2007年と2014年の記述はベゼルのレバーでキャリッジを停止するとする。二つの記述が同じ作動を別の角度から述べたのか、停止する範囲が異なるのかは、公開記述だけでは確定できない。少なくとも、現代のフライバック・クロノグラフと同じ独立計測・帰零機構を備えるとは断定できない。1 2 8
ケースは金製で、裏にポトツキ家の紋章、周辺に植物文様を配する。作者の帰属は、1991年の記載ではジョリー、2007年以降はアミ・グロであり、後者はグロの刻印にも言及する。直径も1991年・2007年の65mmに対し、2014年は65.5mmとする。現物の刻印・測定位置と原記録を照合せず、差を黙って一つに統合することはできない。1 2 8
来歴と現在へのつながり#
購入者はポーランドの貴族で美術収集家のスタニスワフ・コストカ・ポトツキ伯爵である。販売地サンクトペテルブルクは代理人を通した取引の場所であり、この時計の製作地や伯爵の居住地をそのまま意味するものではない。伯爵の取得以降から近代まで、すべての所有者が連続して判明しているわけではない。1
近年では1991年4月14日と2007年10月14日のアンティコルム、2014年5月12日のクリスティーズの競売記録があり、2014年にはブレゲ側が取得を公表した。2007年の状態評価にはケースの修復が示されるが、公開された修復報告から交換部品や施工時期まで追跡できるわけではない。2 3 8
2025年10月、ブレゲは腕時計クラシック7225の意匠の源をNo.1176と明示した。二つの小秒表示と6時位置の扇形残量表示が参照され、現代作の残量は60時間となる。7225は磁気ピボットと10Hzの機構を用いるため、No.1176の4分回転トゥールビヨンを縮小した復刻ではない。古い作品の読み取り方を、新しい精度追求の機械へ接続した例といえる。4
No.1176の技術史上の重要性は、姿勢、動力、潤滑、温度、可読性という課題を、一つの携帯時計の中で扱った点にある。一方、現存状態の精度試験、修復の全履歴、停止操作の詳細、ケース作者の記載差には確認上の限界がある。特許の構想と、工房記録から推定される製作の歩みと、現在残る個体を分けて読むことで、この作品の実験性をより正確に理解できる。
年表#
| 時期 | 出来事と根拠 |
|---|---|
| 1801年6月26日 | トゥールビヨン特許成立。5 |
| 1802年7月5日 | 製作開始とする紹介記録。5 |
| 1806年11月17日 | タヴェルニエが文字盤を納入したと競売資料が紹介。1 |
| 1807年1月28日 | ミショーへ地板の彫刻を発注したとされる。1 |
| 1809年2月12日 | モローを通じポトツキ伯爵へ4,600フランで販売。1 2 |
| 1991年4月14日 | アンティコルム「The Art of Breguet」lot 31。8 |
| 2007年10月14日 | アンティコルム、ジュネーヴ、lot 529。2 |
| 2014年5月12日 | クリスティーズ、ジュネーヴでブレゲ側が取得。3 |
| 2025年10月 | クラシック7225の意匠の源として公式紹介。パリの所蔵も明記。4 |
| 2026年11月 | 公開資料で確認できる所在はブレゲ・ミュージアム。個別の展示日程は別途確認を要する。4 |
参考文献#
- Christie’s, Breguet No.1176 “Montre garde-temps à tourbillon”, 2014年5月12日、lot 294。仕様・来歴・製作記録を紹介する競売当事者資料。原帳そのものとは区別する。閲覧日:2026年11月7日。
2. Antiquorum, A Monsieur le Comte Potocki — The First Breguet Four-Minute Tourbillon, 2007年10月14日、lot 529。仕様、初期作の順序、ケースの状態評価。閲覧日:2026年11月7日。
3. Swatch Group / Montres Breguet, Two new treasures complete the collection of historic pieces of the House of Breguet, 本文日付2014年5月27日。取得者による発表。URL内の2018は発表年に用いない。閲覧日:2026年11月7日。
4. Montres Breguet, Classique 7225, 2025年10月20日、特に「Breguet Classique 7225, l’héritage en marche」。所在と現代作への意匠継承。閲覧日:2026年11月7日。
5. Doux Magazine, The Tourbillon celebrates its 220th anniversary, 2021年、pp.94–96、特にp.96。小売店の紹介誌。製作年月日は二次的な紹介として扱う。閲覧日:2026年11月7日。
6. Montres Breguet, Principles of the Tourbillon, 公開年不記載。重心のずれ・姿勢差と回転枠の説明。閲覧日:2026年11月7日。
7. Derek Pratt, In Breguet’s Footsteps…, Horological Journal, 2009年3月、pp.106–110、特にpp.106–107と図1。製作者による二重ガンギ車脱進機の技術的解説。閲覧日:2026年11月7日。
8. Antiquorum, A Monsieur le Comte S. Potocki, Chronometer No.1176, 1991年4月14日、lot 31。停止操作・ケース作者について後年の資料と異なる記述を含む。閲覧日:2026年11月7日。