ブレゲ No.92は、アブラアン=ルイ・ブレゲの工房が製作した、時刻に加えて暦、月相、太陽の時刻との差、音による時刻通知などを一つのケースに収めた、両面表示の懐中時計である。プラスラン公爵が1805年に購入し、のちに収集家デイヴィッド・ライオネル・サロモンズの所有を経て、パリの工芸技術博物館(Musée des arts et métiers)の所蔵となった。白いエナメルの表面と彫刻を施した金の裏面に、表示と操作を振り分けた構成が特徴である。1 2 3
No.92は個体の製作番号であり、量産モデルの名称ではない。博物館の収蔵番号はInv.16311。サロモンズの1921年の目録では、コレクション内の整理番号57として掲載されている。この三種類の番号は、それぞれ工房・博物館・収集家の管理に由来する。1 2
製作年代と1805年の購入#
サロモンズはブレゲ社の証明書No.2427を紹介し、No.92の売却先をプラスラン公爵、価格を4,800フランと記す。同じ項目は、証明書が製作年代を1783年または1785年頃としていることも伝える。博物館の作品記録にも「1783/1785」とある。したがって、1780年代の年代表示と1805年の売却は区別して読む必要がある。1 2
売却日の表記は、サロモンズの原文では「11 Thermidor, 1805」である。共和暦の月名テルミドールと西暦年を組み合わせた形なので、ここではグレゴリオ暦の月日へ換算せず、売却年を1805年とする。原著の年代説明だけから、1783年に注文を受けた、あるいは1805年に全工程を終えたと日付を細かく確定することもできない。1
サロモンズは、製作年代と売却年が離れている理由を革命期のブレゲの亡命と結び付けている。ただし、これは同書が示す解釈であり、No.92の各工程の開始・中断・再開を日ごとに追える製作日誌ではない。工房の職人別の担当や、完成までの連続した作業期間は確認されていない。1
両面に分けた表示と操作#
表側は白いエナメル文字盤と金の針を組み合わせ、時刻と暦などを示す。裏側は手で彫刻した金の文字盤で、月相、ぜんまいの巻き上げ量、調整に関わる表示・操作部を備える。両側にガラスを用いるケースなので、裏面も情報を読む面として成立している。1 2
博物館の詳細目録16311-0001-は、材質を鋼・エナメル・金・ガラス・真鍮とし、寸法を8.7×6.5×2.5cm、重量を220gと記録する。寸法欄には2012年7月16日の日付が付く。これは所蔵品の測定記録であり、各部品の材質や1805年当時の仕様書を示すものではない。5

図1:No.92の表文字盤を外した状態。撮影:Rama、2016年11月13日。出典:Wikimedia Commonsの個別ファイル。ライセンス:CC BY-SA 3.0 France。変更:縮小のみ。掲載画像も同じライセンスで提供する。
サロモンズの目録本文と、文字盤を付けた状態・外した状態を並べた図版を合わせると、外観と操作の関係をたどれる。目録は裏側の四角い軸端を一括して「巻き上げ穴」とはせず、巻き上げ、時刻合わせ、独立秒の始動・停止、文字盤固定のねじに分けて説明している。固定ねじの四角は、操作部との取り違えを避けるため大きくされているという。1
| 機能 | 原資料から確認できる内容 |
|---|---|
| 時刻 | 時・分を針で表示。裏側には時刻合わせ用の四角い軸端がある |
| 永久暦 | サロモンズの分類はperpetual calendar。表側の四角い軸端で暦を合わせる |
| 独立秒 | 秒表示の始動・停止操作を持つ。時計全体を止める操作とは別に説明される |
| 均時差 | 通常の時計が刻む平均太陽時と、実際の太陽の動きに基づく時刻との差を示す |
| リピーター | 操作に応じて時刻を打つ機構。10分単位の打撃と、ゴングによる分の打撃が記載される |
| 温度計 | 目録に温度計の装備が記載される |
| 月相・巻き上げ量 | 裏側に月相と、主ぜんまいがどれだけ巻かれているかの表示を持つ |
| 調整 | 裏側に歩度の調整部と、打撃の速さを調整する表示・操作部がある |
表はサロモンズの記載を機能別に整理したもの。現在の操作手順や、現物がすべて正常に作動することを保証するものではない。1
小さな時計に組み合わせた機構#
暦と均時差#
均時差は時計の進み遅れそのものではない。平均太陽時を示す時計と、太陽の見かけの運動に従う時刻との間には、季節に応じた差が生じる。No.92は、その差も時計上で読めるようにしている。1
サロモンズの図版p.176には、表文字盤を外した状態が掲載され、日付の歯車と均時差用のカムが示される。カムとは、輪郭の形に応じて別の部品の動きを変える部品である。ここでは、時刻の針をただ回す輪列に加え、日付や季節と関係する情報を機械の動きに組み込んだことが分かる。ただし、同図だけで永久暦のうるう年処理や全歯数、均時差表示の誤差まで復元することはできない。1
止められる秒表示#
独立秒は、通常の時刻表示とは別に秒表示の始動・停止を扱える仕組みである。サロモンズはNo.92について、その操作軸と時計全体を止める突起を別々に記す。文字盤を外した裏側の写真では、薄い独立秒用の歯車と、二重の星形部品も取り上げている。1
この説明から、秒の停止・始動を備えたことは確認できる。一方、停止後に針を瞬時にゼロへ戻す機能は同項目に記載されていない。現代のクロノグラフの開始・停止・帰零という操作を、そのままNo.92へ当てはめることはできない。1
音で読む時刻と調速#
リピーターは、使用者の操作に応じて時刻を音などで知らせる機構である。No.92についてサロモンズは、10分単位を「au toc」で、分をゴングで打つと記す。同書の一般説明ではau tocをケースへの打撃と説明している。ベルだけで時刻を告げる時計と同じ構成だと一括しないことが大切である。裏面には打撃の速さを調整するための表示もある。1
時刻を刻む部分はレバー脱進機、温度による歩度変化の低減を図る補償テンプ、ルビーの軸受穴を備えると記録される。脱進機は歯車の回転を一定の刻みに区切り、テンプは往復運動によって刻みの基準を与える。これらの装備は目録から確認できるが、現代の測定条件による日差、振動数、持続時間の数値は確認されていない。1
サロモンズの記録から博物館へ#
1921年の『Breguet (1747–1823)』には、No.92の両面と、文字盤下の機械が写真で収録されている。サロモンズは、所有するNo.160「マリー・アントワネット」と比較し、No.92もそれに劣らない仕事と評価した。これは所有者による評価であって、複雑機構の数で全時計を順位付けした結果ではない。1
寄贈に関しては、サウサンプトン大学が公開するサロモンズ家文書MS378の目録が手がかりになる。MS378/2/69は、1924年5月16日付のフランスの教育・美術行政当局からの寄贈への礼状を収録し、プラスラン公爵のブレゲ時計をコレクションに加えると説明する。関連する祝賀行事の連絡、記念銘板の送付、同時計をフランスへ寄贈したことに関する証書も記載される。これは書簡・証書の現物全文ではなく、保存機関による内容記述である。3
博物館の詳細目録は、1935年ブリュッセル万国博覧会、1949年パリの「Chefs d’œuvre de l’horlogerie」、1954年9月21日から11月30日までの「Horloges et automates」への出展を記す。また、時計本体16311-0001-と別に、鎖と鍵16311-0002-、損傷した文字盤16311-0003-を管理している。この文字盤が別管理されていることだけで、交換日や修復の経緯までは確定できない。5
現在の博物館の作品記録はNo.92をInv.16311として同定し、詳細目録の展示状態は2026年11月の確認時点で非展示となっている。寄贈後の盗難と回収を伝える後世の紹介もあるが、その正確な発生日、修復の内容、部品交換の履歴を確定できる原記録は確認されていない。所蔵先の確認と、特定の日に展示・作動していることの確認は区別する必要がある。2 4 5
年表#
| 時期 | 確認できる出来事 |
|---|---|
| 1783年または1785年頃 | サロモンズが紹介する証明書の製作年代。博物館の作品年代は1783/1785 |
| 1805年 | プラスラン公爵へ4,800フランで売却。原著の日付表記は11 Thermidor, 1805 |
| 1921年 | サロモンズの目録に整理番号57として本文・写真を掲載 |
| 1924年 | フランスへの寄贈に関する礼状、行事の連絡、証書が文書目録に記録される |
| 1935年・1949年・1954年 | 博物館目録にブリュッセルとパリでの出展を記録 |
| 2016年11月 | 本文掲載の正面写真が撮影される |
| 2026年11月確認 | 博物館提供の作品記録でNo.92/Inv.16311を確認 |
根拠:1 2 3 5。写真の撮影日は図1のファイル記録による。
作品の位置づけと確認範囲#
後世には、失われた時計技術を研究する比較資料にもなった。スウォッチ・グループは2008年、No.160の再現時計No.1160を発表する際、プラスラン公爵の時計など同時代の作品との比較が、当時の様式や製作技法の理解につながったと説明している。これは再現事業を行った側の説明であり、No.1160の部品数や寸法をNo.92の仕様として転用することはできない。6
No.92では、時刻を読む、暦や月相を知る、太陽の時刻との差を読む、打撃で時刻を確かめるという異なる働きが、一つの携帯時計にまとめられている。同時に、裏面を表示と調整の面として使い、固定ねじまで操作軸と区別する工夫を持つ。機能名の多さだけでなく、表示・調整・巻き上げを小さなケースの両面へ配置した作品として理解できる。1 2
以上は、サロモンズの実物観察を含む目録本文・写真、博物館の作品記録、寄贈に関する大学文書目録を中心とする。証明書No.2427の原本、工房原帳、現物の分解調査、最新の作動・修復報告は直接確認していない。全構成部品の材料や職人ごとの担当を、別のブレゲ時計の仕様から補うことはしない。
参考文献#
- David Lionel Salomons, Breguet (1747–1823), London, 1921。公開原本。p.48(整理番号57、証明書No.2427、仕様・年代・操作)、p.28(独立秒・au tocの一般説明)、図版pp.175–176(両面・文字盤下)。2026年11月7日閲覧。
- Musée des arts et métiers、Lionel Dufaux, “Montre n°92 à double face et à grandes complications”, Google Arts & Culture、Inv.16311。作品年代・両面の材質・1805年購入・所蔵先。2026年11月7日閲覧。
- University of Southampton Special Collections, MS 378: Salomons family volumes, p.26、MS378/2/67–70、2/73。1924年の寄贈関連文書の目録。2026年11月7日閲覧。
- Breguet Blog, “The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No.160”, 2018年9月10日、Ownership節。No.92の寄贈後の盗難・回収についての後世の紹介。メーカーの原帳や警察記録としては扱わない。2026年11月7日閲覧。
- Musée des arts et métiers, 公開所蔵目録、“Montre à complication du duc de Choiseul-Praslin”、16311-0001-、関連資料16311-0002-、16311-0003-。寸法・材質・取得・展覧会・展示状態。2026年11月7日閲覧。
- Swatch Group, “Marie-Antoinette Grande Complication pocket-watch – N°1160”, 2008年4月10日。プラスラン公爵の時計を用いた比較研究の説明。2026年11月7日閲覧。