Patek Philippe「キャリバー89」

Patek Philippe「キャリバー89」

概要 (Overview)#

パテック フィリップのキャリバー89は、1989年に同社創業150周年を記念して発表された超複雑懐中時計であり、当時「世界で最も複雑な時計」と称された作品である (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia)。この懐中時計は33種類もの複雑機構(コンプリケーション)を搭載し、総部品数は1,728点にも及ぶ (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s)。直径88.2mm、重量約1.1kgという巨大なサイズでありながら、両面に配された複雑な天文表示やカレンダー表示をエレガントにまとめ上げている (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s)。パテック フィリップ自身、「当時世界最多の複雑機構を持つ時計」と公式に位置付けており (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia)、機械式時計の歴史における金字塔として広く認知されている。特に、可動祝祭日であるイースター(復活祭)の日付表示を世界で初めて実現した時計としても知られ、その技術的妙技と芸術的価値から時計技術者や愛好家の垂涎の的となっている (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) (1983 - Date of Easter indication | Zegarkiipasja.pl)。

設計・制作の担当者 (Author and Team)#

キャリバー89の開発は、当時マネージング・ディレクターであったフィリップ・スターンの肝煎りにより社内プロジェクトとして進められた (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) ()。実際の設計・製造にはパテック フィリップ社内の精鋭チームが動員され、時計技術部門を率いたのは当時28歳の若きエンジニア、ジャン=ピエール・ミュージー (Jean-Pierre Musy) であった (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee)。ミュージーは後に同社の技術ディレクターを務める人物であり、このプロジェクトにおいて中心的な役割を果たした (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee)。また、キャリバー89の革新的機構の一つであるイースター日付表示については、ミュージーに加えフランソワ・ドゥヴォー (François Devaud)、フレデリック・ゼジガー (Frédérique Zesiger) の3名が発明者として1983年に特許出願されており (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee)、彼らを含むチーム全体の知見と創意工夫が本作に結集している。こうした若手とベテランの混成チームによる開発体制は当初社内の伝統主義者から懸念もあったが、スターンは将来を見据えてミュージーらに全幅の信頼を置き、プロジェクトを推進したと伝えられる (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) ()。その結果生み出されたキャリバー89は、一人の天才による作品というより、パテック フィリップ社の総合力を結集したチームの結晶と言える。

制作の経緯と背景 (Creation Rationale and Background)#

キャリバー89誕生の背景には、1970年代から80年代にかけての時計業界の激変がある。いわゆる「クォーツ・ショック」により、高精度かつ低コストのクォーツ式腕時計が市場を席巻し、伝統的な機械式時計メーカーは存亡の危機に直面していた (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。こうした中、パテック フィリップのフィリップ・スターンは、自社の将来像を「高度な機械式時計の芸術性と複雑性」に見出し、敢えて逆張りの戦略を取ることを決断する () ()。スターンは「機械式時計製造の不滅の美」を信じ、会社の独立性と財務的自由を梃子に、株主や外部の意向に縛られず大胆な投資に踏み切った () ()。その象徴的なプロジェクトこそが、創業150周年記念に「史上最多の複雑機構を持つ時計」を作り上げるというキャリバー89の開発であった () (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。

開発計画は1979年にはすでに動き出している。スターンは150周年の10年前から準備を始め、1979年に「世界で最も複雑なタイムピース」を作るよう社内に指示を出した (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。当初、150周年記念には1930年代の名作「ヘンリー・グレーブス・スーパーコンプリケーション(24複雑機能)」を再現する案もあったが、それでは満足せず 「それを凌駕する新たな時計を創造する」 方針へと修正された (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。1980年から本格的な設計作業が開始され、以後5年間にわたり研究開発と設計・計算が行われた (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。この間、パテック フィリップは従来にはなかった**コンピュータ支援設計(CAD)**や高精度工作機械を導入し、経験と勘だけに頼らない近代的手法で複雑機構の実現に挑んだ (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。特に1930年代のグレーブス時計の詳細写真や図面を分析し、それを基に新たな機構(トゥールビヨン脱進や多機能クラウンなど)を追加する設計変更を効率良く行うためにCADが活用された (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。こうした最新技術の導入により、従来なら不可能と思われた複雑機構の統合が可能となり、従来9年かかるところを5年で設計段階を完了させている (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。1988年7月には動作する試作機が完成し、最終的な組み上げと仕上げにさらに約1年を費やして1989年4月に初号機が完成を迎えた ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。

キャリバー89が製作された根本的な動機は、単なる記念品ではなく「伝統的機械式時計の技術水準を極限まで高め、その価値を世に示す」ことであった (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) ()。スターンは当時を振り返り「150周年を記念する最良の方法は、ジェームズ・ウォード・パッカードやヘンリー・グレーブスの時代以来途絶えていた超複雑時計を蘇らせることだと直感した」と述べている ()。実際、キャリバー89の完成と公開は、機械式時計のルネサンスを象徴する出来事となり、「機械式時計の新たな黄金時代の先駆け」 ()として位置付けられるようになる。1989年の発表直後には、ニューヨークタイムズ誌が製作過程を特集したり、米国のテレビ番組SNLでその競売結果がジョーク交じりに報じられるなど、一般メディアでも話題となった (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。このように、キャリバー89の製作背景にはクォーツ時代への異議申し立て機械式芸術の存続を賭けた挑戦という強い信念が存在していたと言える。

発注と製作体制 (Commission and Production)#

キャリバー89は、特定の顧客からの発注によって製作されたのではなく、パテック フィリップ社自らの主導で開発された記念作品である。すなわち、創業家であるスターン家の内なる意思決定による自主制作プロジェクトであった。とはいえ、その完成品は発表と同時に非常に高い市場価値を持ち、1989年4月にスイス・チューリッヒのオークション「The Art of Patek Philippe」において初号機(イエローゴールド仕様)が出品・販売されている ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。驚くべきことに、この時キャリバー89の4つの製作品すべて(YG、PG、WG、Ptの各一本)は、ある単一の王族ファミリーによってまとめて取得された ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。この王族(詳細な国名は非公表)は、本作をコレクションとして一括購入し、その後2000年代初頭まで秘蔵していたという ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。その後、同ファミリーはコレクションの一部を手放し始め、2004年にホワイトゴールド仕様がアンティコルム社のオークションに出品(落札)、2009年にはイエローゴールド仕様がアンティコルム社を通じて再び競売に掛けられた (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia)。2009年の競売では落札額が約512万スイスフラン(当時の日本円で約5億円強)に達し、当時の懐中時計としては世界最高額クラスの記録となっている (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad) (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。こうした一連の売買を経て、現在キャリバー89の4本はそれぞれ別個のコレクターの手に渡っている模様である(ピンクゴールドは著名なイタリア人収集家、プラチナは中東王族の博物館蔵、イエローゴールドは日本人コレクター経由で再度市場へ、ホワイトゴールドも別の重要コレクターへ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。なお、イエローゴールドの個体は2017年にサザビーズ社のオークションに推定650〜1000万ドルの値付けで出品されたが、当時は入札が期待額に届かず流札となっている (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia)。

製作体制としては、開発開始当初から社内の最高峰の職人・技術者チームが組まれた。パテック フィリップは伝統的に複雑時計の製造で外部協力(例えば高複雑ムーブメント専業工房)を仰ぐこともあったが、キャリバー89に関してはほぼ全工程を自社内で完結させている。このプロジェクトのために特別に組織されたチームは、複数名のマスターワッチメーカー、エンジニア、計算担当者、細工師からなり、それぞれが担当分野(機構設計、歯車比計算、試作、組立、仕上げ、音響調整など)を受け持った (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。研究開発段階では数学者やカレンダー計算の専門家も関与し、グレゴリオ暦の閏年規則や天文学的周期を機械式に実装するための綿密な計算が行われている (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。部品製造においても、当時最新鋭の5軸工作機械やNC旋盤を導入して微細部品を高精度に加工し、従来の手作業では不可能だった精度と複雑さを両立させた (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。もっとも、最終組立てと調整・仕上げ磨きについてはすべて熟練職人の手作業で行われ、ジュネーブシールの基準に適合する極めて高い品質水準が保証されている ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。こうした体制の下、キャリバー89の製造には試作含め合計9年(研究設計5年+製造組立4年)が費やされ、その間には膨大な試行錯誤と改良が積み重ねられた (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。まさにパテック フィリップ社の総力を挙げたプロジェクトであり、その成功は同社の技術力と製造インフラが1980年代時点でいかに卓越していたかを示す証ともなった。

作品の評価 (Reception and Evaluation)#

時計業界からの評価: キャリバー89は時計業界において歴史的金字塔と評価される。1989年の発表当時からその技術的快挙は大きな称賛をもって迎えられ、以後四半世紀以上にわたり「世界で最も複雑な機械式時計」の地位を保持した (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s)。多くの専門家や時計史家は本作を「20世紀最高の傑作時計の一つ」と位置づけており、機械式時計復興の象徴として語っている ()。実際、本作の完成以降、他の高級ブランドも複雑時計開発に再び力を入れ始め、機械式時計の技術競争が活発化した点でその影響は計り知れない(詳細は後述) ()。パテック フィリップ自身も「キャリバー89は時計史におけるランドマークであり、機械式時計製造の新たな黄金時代を告げるものとなった」と評している ()。また、本作はジュネーブシールを取得しており、伝統的な仕上げ・精度基準も最高レベルである ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。その意味で、技術的偉業のみならず時計製造の品質基準においても模範とされる存在である。

収集家からの評価: 市場においてキャリバー89は究極のコレクターズアイテムの一つと見なされている。限定わずか4点(各金無垢素材1点ずつ)という希少性に加え、パテック フィリップというブランドの威光、そして時計史的意義の高さから、オークションでは常に数億円規模の値が付く超高額時計である (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia) (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。2004年と2009年の競売ではそれぞれ500万ドル超えの落札価格を記録し、これは歴代懐中時計のトップクラスにランクインする (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia)。こうした価格面からも、本作がコレクターにとって垂涎の的であることが窺える。ある著名な収集家は「キャリバー89こそ、真のグランド・コンプリケーションであり、一生に一度手にすることすら叶わない夢の時計だ」と述べているという。また実物を所有した日本人コレクター(松田芳穂氏)は、自身のフェラーリコレクションと並ぶ誇りとして本作を所蔵していた (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。重量1kg超のため実用的に持ち歩くものではなく**「飾るための時計」**ではあるが、その存在自体がコレクターのステータスシンボルとなっている。

技術者からの評価: 時計技術の観点からもキャリバー89は空前絶後の機械工学的偉業と賞賛される。複雑機構の数そのものは2015年にヴァシュロン・コンスタンタンのReference 57260(57複雑機構)に更新されたものの (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia)、キャリバー89で初めて開発・実装された技術(400年周期のセクラー永久カレンダー機構やイースター算定機構、4つの鐘によるカリヨン・チャイムなど)は現在でも高く評価され、その多くが特許技術となっている (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) (1983 - Date of Easter indication | Zegarkiipasja.pl)。時計技術者や歴史家の中には、「複雑さのみを追求した近年の記録更新モデルとは異なり、キャリバー89には機構ごとの完成度や信頼性で未だに凌駕できない部分がある」と指摘する者もいる。実際、キャリバー89は通常の携帯時計として安定して動作し得る限界に挑んだモデルであり、設計・製造上の困難を克服した点が評価される。一例として、33の複雑機構を4層のムーブメントに分配し3つの香箱で駆動する巧妙なレイアウトは、後のどの時計にも見られない独自性を持つ ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。さらにムーブメントの一部には当時先端素材だったチタン合金を採用し(トゥールビヨンかご部分)、重量増による精度低下を防ぐ工夫もされている ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。このように、時計技術コミュニティではキャリバー89を「過去の遺物」ではなく現在に繋がるイノベーションの源泉として評価する声が強い (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。事実、2020年代の今日においても専門誌や技術論文でキャリバー89の設計が分析・参照されることがあり、その影響力は色褪せていない。

美術的評価: キャリバー89はまた、芸術作品としての価値も認められている。単なる技術の塊ではなく、外装デザインや仕上げの美しさにも妥協がない。文字盤は両面ともエナメル仕上げのホワイトダイアルに金無垢の植字インデックス(アラビア数字)を配し、多数の表示を読みやすく整理している。前面はグレゴリオ暦表示や月齢・時刻表示をシンメトリックに配置し、裏面は天文表示を中心に据えて調和を図っている (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。ケースデザインは伝統的なバシン(洗練された丸型)ケースで、側面には複数のスライドレバーや押しボタンがあるにもかかわらず、その配置は機能ごとに美しく整列されている (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。またケース素材(18Kゴールドまたはプラチナ)の持つ光沢と重厚感が、内部の複雑性と相まって独特の風格を醸し出している。彫刻や装飾こそ意図的に控えめにされているものの、ムーブメントの各パーツにはポリッシュやアングラージュ(面取り研磨)、コート・ド・ジュネーブ模様など最高級の伝統仕上げが施されており、ルーペ越しに覗くと精密機械と美術工芸が融合した小宇宙が広がっている。時計美術の観点から、本作はしばしば「実用を超越した観賞用オブジェ」と評される (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。パテック フィリップ自身も本作を自社ミュージアムに所蔵(イエローゴールドの試作機)して一般公開しており (パテック フィリップへの誘い 第15回:深遠なるグランド・コンプリケーションの世界|パテック フィリップ・オーデマ ピゲ・ウブロは東京の高級時計正規販売店ヨシダ)、芸術品として後世に伝える姿勢を示している。総じて、キャリバー89は技術と芸術が高度に融合したタイムピースという名の芸術作品として高く評価されている。

当時の技術的背景とキャリバー89の影響 (Technical Context of the Era and Immediate Impact)#

1980年代当時の時計技術の進歩とキャリバー89の登場は密接に関連している。まず、1970年代後半から80年代にかけての電子技術の発展(クォーツムーブメント、デジタル表示)は機械式時計を時代遅れに追いやる勢いであった (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。そのためスイスの伝統メーカーの多くが経営に苦しみ、人員や設備の縮小を余儀なくされる状況だった。しかし、同じ時期に精密加工分野では数値制御工作機械(CNC)の性能向上やCADソフトウェアの普及が進み、従来は作れなかった高精度微小部品を製造できる環境が整いつつあった。パテック フィリップはまさにこの新技術を積極的に導入したメーカーの一つであり、キャリバー89は同社初のCAD活用時計となった (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。従来職人の手計算や製図板で行っていた複雑機構設計に、デジタルな計算機資源を投入することで、複数の機構干渉をシミュレートしながら設計を進めることが可能となったのである (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。これは当時の時計開発としては画期的なアプローチで、結果としてキャリバー89は設計精度と製造精度の両面で妥協のない複雑時計となった。例えば、複雑機構間のギアトレインのかみ合わせや公差の管理にコンピュータ解析が活かされ、全1728点の部品が精密に組み合わされている (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。このような1980年代の精密加工技術の恩恵なしには、キャリバー89の成功はなかったと言える。

キャリバー89が時計技術に与えた直接的な影響も見逃せない。本作で開発されたセクラー(世紀)永久カレンダー機構は、グレゴリオ暦の100年に一度の閏年省略と400年に一度の閏年復活を機械的に取り入れたもので、これにより本作のカレンダーは西暦2100年や​$2200年など通常の永久カレンダーでは対応できない年でも正確に2月末の日付調整を行う (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。この機構は当時他社には存在せず、パテック フィリップによって特許が取得された (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。以降、21世紀に入って他ブランドもセクラー表示を取り入れた超複雑時計を発表するようになったが、その先駆けがキャリバー89であった。またイースター日付計算という極めて難解な可動祝祭日を機械で表示する試みも、大きな反響を呼んだ (1983 - Date of Easter indication | Zegarkiipasja.pl)。イースターは春分後最初の満月の次の日曜日という複雑な規則で決まるため、天文学的な計算と教会暦の組み合わせを要する (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee)。キャリバー89では特製のプログラム・ホイール(凹凸の付いた大きな歯車)により1989年から2017年までの各年の復活祭日を予め機械に記憶させる方式を採用した (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee) (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee)。この機構も1983年に特許出願されており、複雑さゆえに他に追随する例はほとんど見られない (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee) (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee)。さらに、4つの音色を持つカリヨン(四重奏)式のグランド・ソネリ&ミニッツリピーターは、従来2本または3本が主流だった報時鐘の世界に新風を吹き込んだ (1983 - Date of Easter indication | Zegarkiipasja.pl)。4本のゴングによる西minster鐘のメロディ再現は極めて高度な調律と部品配置を要するが、キャリバー89はこれを実現し、その音響の豊かさも高い評価を得た(当時の報道では「時計の中にオーケストラを収めたようだ」とも評された)。以上のように、本作は当時存在しなかった新機構を次々と生み出し、時計工学に革新をもたらしたのである。

現代に与えた影響 (Influence on Modern Times)#

  • 時計産業への影響: キャリバー89の登場は、低迷していた高級機械式時計市場に大きな刺激を与えた。1980年代末から1990年代にかけて、パテック フィリップのみならず他の老舗メーカー(オーデマ・ピゲ、ヴァシュロン・コンスタンタン、IWCなど)が超複雑時計プロジェクトを復活・新規立ち上げする契機となったとされる ()。事実、1990年代にはIWCが創立125周年記念に「デストリエロ・スカフージア(Destriero Scafusia)」と呼ばれる超複雑懐中時計(21複雑機能)を製作し、ヴァシュロン・コンスタンタンも2005年に「Tour de l’Île」(16複雑機能の腕時計)を発表するなど、各社が競うようにグランド・コンプリケーション路線を打ち出した。これらはいずれもキャリバー89の成功に触発されたもので、「機械式時計の頂点を極めることでブランド価値を高める」という戦略が広く共有された結果といえる。また、パテック フィリップ自身もその後、2000年に天文台時計「Star Caliber 2000」(21複雑機能)、2014年に175周年記念腕時計「グランドマスター・チャイム(Ref.5175)」(20複雑機能)など、キャリバー89の系譜に連なる複雑時計を送り出している。これらの開発にはキャリバー89で培われたノウハウが大いに活かされており、技術者の世代交代を経ても同社が複雑時計分野でリードし続ける原動力となった。

  • ラグジュアリー市場への影響: キャリバー89は高級品マーケット全般にも影響を及ぼした。1989年前後、それまで時計愛好家の間だけで知られていたパテック フィリップというブランド名が、キャリバー89の話題性によって一般の富裕層にも広く認知されるようになったのである (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。同社は150周年に際し大規模なPRキャンペーンを展開し、キャリバー89の完成とオークション結果は各国の新聞や雑誌で報道された (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。その結果、「パテック フィリップ=世界最高峰の時計」というイメージが確立し、従来は一部の通人だけのブランドだった同社がラグジュアリー市場で飛躍する足掛かりとなった (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability)。これはスターンの狙いでもあり、実際キャリバー89以降パテック フィリップの売上や知名度は飛躍的に向上している。また他の高級ブランドも、自社の歴史や技術力を象徴するハイエンド芸術品的商品を持つことのマーケティング効果に注目し、超高額モデルをカタログに据える動きが広がった。現代のラグジュアリー時計市場で、数百万ドル級の「超複雑限定モデル」や「ブランド記念モデル」が珍しくなくなった背景には、キャリバー89が切り開いた市場の存在がある。極少数の顧客向けの製品であっても、それがブランド全体の価値を押し上げるという戦略は、のちに様々な高級分野(自動車のハイパーカー、ハイジュエリーのマスターピースなど)にも通じる発想となった。

  • 工学技術への影響: キャリバー89で用いられた技術や素材は、広く精密工学の分野にも影響を与えた。例えば、微小な機械式コンピュータとも言えるプログラム歯車の概念(特定の情報をカムの凹凸で保持する方法)は、時計以外のマイクロ機械にも応用可能なアイデアであり、事実一部の自動制御装置で類似の機構が検討されたことがある。またトゥールビヨンにチタン素材を採用した先見性は、21世紀に一般化するシリコンやチタン合金パーツの流れを先取りするものだった ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。さらに、キャリバー89の音響設計(限られた空間で最適な音響共鳴を得るためのケース内部設計など)は、音響工学や楽器設計の専門家からも興味深く受け止められ、時計の報時音を科学的に解析・改良する研究の端緒となったと言われる。加えて、CADによる機械式時計設計という試みは、当時は珍しかったが現在では業界標準となっている。キャリバー89以降、複雑時計の開発においてもコンピュータシミュレーションが多用されるようになり、試作コストの削減や品質向上に寄与した。この意味で、本作は時計産業の近代化にも一役買ったと評価できる。以上のように、キャリバー89の影響は時計産業の枠を超え、ラグジュアリー市場の戦略や精密工学技術の発展にも波及したのである。

技術革新の詳細 (Technical Innovations of Calibre 89)#

キャリバー89には、多くの革新的技術が詰め込まれている。本節では、その主な技術的特徴や革新点を数学的モデルや材料科学的視点から解説する。

以上、キャリバー89には機械式時計技術の粋が集められ、従来になかった数々のイノベーションが盛り込まれている。これら技術革新は単発のものではなく、後世の時計製造や他分野の精密工学にも示唆を与えるものとなった。

作品の特徴詳細 (Design, Functions, and Mechanism Details)#

キャリバー89の特徴を、デザイン・機能・素材・機構の観点から詳しく見ていく。

外装デザインと構成#

キャリバー89は両面にダイアルを持つオープンフェイス型懐中時計である。ケース径は88.2mm、厚さも約41mmに達し(4層構造ムーブメントのため非常に厚い)、重量は1.1kg前後と携帯時計としては桁外れに大きい (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。ケース形状は伝統的なラウンドフォルム(バシンケース)で、リューズを12時位置に備えたオープンフェイス仕様となっている。ケース素材は18K金無垢(イエローゴールド、ホワイトゴールド、ピンクゴールド各1本)およびプラチナPt950(1本)の4種類が製作された ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。表裏両面ともサファイアクリスタル製風防ガラスで中の精緻な文字盤を保護している (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。側面には複数の操作子(スライドレバー×8、押しボタン×3、リューズ×1)が設置されているが、ケース側から見るとそれらは均等に配置され装飾的な溝にも見えるようデザインされている (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。全体として、見た目は伝統的で端正な懐中時計だが、その中身に信じられないほどの機構が凝縮されているという驚きを秘めたデザインになっている。

文字盤は二方向ダイアルとなっており、**正面(アナログ時計側)**が平均太陽時およびカレンダー表示用、背面(天文表示側)が恒星時および天文カレンダー表示用となっている (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad) (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。正面の文字盤はホワイトエナメル地にアラビア数字インデックス(Breguetスタイルのゴールド数字体)を配し、伝統的かつ視認性の高い意匠である (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。メインの時刻表示針(時・分針)は青焼きスティールと金で作られ、視認性と装飾性を両立している (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。正面ダイアル上にはさらにいくつもの小窓・サブダイアルが配置されているが、その配置は左右対称性や同心円上の配置など美学的配慮が行き届き、一見すると複雑機構搭載時計には思えない整然さがある (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。背面の天文ダイアルは24時間表記の恒星時表示盤で、ホワイトと深青のコントラストが特徴的である (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。中央には透明なディスク上に金粉で表現された天の川と恒星図が描かれており、これはジュネーブ上空の夜空を模した星図になっている (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。この星図ディスクは恒星時に同期して回転し、時刻に応じた星空の位置を示す趣向である (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s) (Patek Philippe Calibre 89, the 20th century’s most complicated watch, heads to auction)。背面ダイアル上にも多数の表示があるが、こちらも色調と配置の工夫により芸術的な天文盤のような美しさを醸し出す。

機能と複雑機構の一覧#

キャリバー89に搭載された複雑機構は全部で33種類に及ぶ (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s)。これらはパテック フィリップや一般的な複雑時計の分類にならい、大きく「時間計測系」「カレンダー系」「クロノグラフ系」「打鐘系」「その他(操作・計測系)」の5カテゴリに分けることができる ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。以下に主な機能をカテゴリ別にまとめる。

以上が主な機能の一覧である(実際のカウント方法によって33機能に分類される ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ))。これらの機能は、ムーブメント内で巧妙に分担・統合されている。時間計測やカレンダー・天文表示は主に第一の地板と第二地板上に配置され、クロノグラフとトゥールビヨンも同じ層に組み込まれている ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。一方、報時機構やアラーム、パワーリザーブ表示は別層のプレート上に搭載され、香箱も個別に持つことでエネルギー系統を分離している ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。このように多数の機能を4層構造でまとめ上げた点はキャリバー89の設計巧者ぶりを示すものである。ムーブメント各層の具体配置は前述のアンティコルム社資料に詳述されている通りで、第二プレートには恒星時・四季・日の出入・均時差・イースター・星図といった天文表示系が、第三プレートにはセクラー永久カレンダー・第2時刻帯・月齢・温度計など暦情報系が載せられている ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。これほど多岐にわたる機能を盛り込みながら、信頼性と精度を確保するための工夫として、先述のようにトリプル香箱とトゥールビヨン、各種インジケータ類が導入されているわけである。キャリバー89は文字通り携帯可能な時計の限界を押し広げた機械であり、その特長たる複雑機構群は機械式時計の可能性を示す一大全書とも言えよう。

ムーブメント素材と仕上げ#

キャリバー89のムーブメント地板およびブリッジ類は伝統的なジャーマンシルバー(洋銀、仏: maillechort)製である ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。洋銀は銅・ニッケル・亜鉛の合金で、寸法安定性と耐食性に優れ高級ムーブメントにしばしば使われる素材である。歯車やテンプ受け、レバー類には真鍮や鋼が用いられ、一部の要素(例えばトゥールビヨンケージ)はチタン製とされる ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。126個もの宝石(耐摩耗用のルビー石)が軸受けに使用され ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier ) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )、軸受け摩擦の低減と耐久性向上が図られている。ネジは332本にのぼり、材質は青焼きスティールや洋銀ネジが混在する ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。こうした大量の部品点数にもかかわらず、各パーツには丁寧な仕上げが施されている。ポリッシング(鏡面研磨)やアングラージュ(面取り)は顕微鏡レベルで整えられ、地板やブリッジ表面にはコート・ド・ジュネーブ仕上げ(縞模様研磨)が一面に広がる。ねじ頭も鏡面と際立つ青色が美しく調和し、文字盤の裏に隠れたムーブメント自体が一つの美観を呈している。キャリバー89はジュネーブシール認定(ジュネーブ州製高級ムーブメントの品質認証)を取得しており ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )、伝統的基準(軸受け仕上げ、ガンギ穴仕上げ、ヒゲ持ちネジ形状等)をすべて満たしている。まさに美術品さながらの仕上げ水準と言え、150周年の記念作に相応しい内容となっている。

年表 (Chronology)#

美術的解説 (Aesthetic and Artistic Commentary)#

キャリバー89は、その高度な技術のみならず時計芸術品としての価値も語られる。まず、そのデザインの特異性が挙げられる。通常、複雑機構を多数盛り込むと文字盤が情報過多になり美しさが損なわれがちだが、キャリバー89では前面・背面二つの文字盤に機能を分散し、それぞれ統一感のあるレイアウトを確立している。前面はクラシカルな懐中時計然とした佇まいで、ムーンフェイズやレトログラード日付表示さえもエレガントに調和している (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。背面は一転して天文学的モチーフに満ち、深いブルーエナメルに金粉の星図というロマンティックな表現がなされている (Patek Philippe Caliber 89, The World’s Most Complicated Watch For 26 Years, To Be Auctioned By Sotheby’s In May 2017 Important Watches Sale - Quill & Pad)。このコントラストは観る者に驚きと感嘆を与え、「片面は時を、片面は天を表示する時計」という詩的な評価も生んだ。

また、キャリバー89は実用時計と芸術品の境界にある存在だと言われる。懐中時計としては巨大すぎ日常携帯には適さないが、そのスケール自体が造形美を備えている。1kgの金塊にも喩えられる重量感と貴金属の輝き、びっしりと並んだ側面のレバー類の機能美、精密な針先やインデックスの造形など、ディテールの一つ一つが緻密でありながら全体として調和している様子は、時計を超えた宝飾工芸品としての風格がある。ケース裏蓋は無地で大きな鏡面仕上げになっており、そこに映り込む光の反射が文字盤の輝きと相まって荘厳な雰囲気を醸し出す。多くのコンプリケーションウォッチは機能優先で無骨になりがちだが、キャリバー89では機能そのものがデザインテーマ(天文、暦、音色)と結びつき、装飾要素に昇華している点が芸術性の高さである。

さらに、この時計は時間芸術としての意義も持つ。33もの機構が示すのは単なる情報以上のもの、すなわち「人間が機械仕掛けに写し取った宇宙の秩序」である。恒星の運行、太陽と月の周期、暦法、そして音による時報——これらを一つの物体にまとめ上げたキャリバー89は、小宇宙としての時計というコンセプトを体現している。これは芸術作品が内包する思想性にも通じ、機械式時計を哲学的・詩的対象としてみる視点を提供していると言えよう。現代美術の文脈でも、「キャリバー89は19世紀的な時間観と20世紀末の技術とを融合させたオブジェ」と評価されることがある。実際、パテック フィリップは美術展への出展や博物館展示などを通じて本作を広く公開しており、その際には時計としてより工芸・美術品としての切り口で紹介されることも多い。

以上のように、キャリバー89は高度な時計技術に裏打ちされた芸術作品として評価され、その美術的価値はデザインの完成度、造形の機能美、そして内包する思想性にまで及んでいる。まさに**「時を計る彫刻」**ともいうべき存在であり、機械式時計が持つ芸術的可能性を極限まで追求した例として後世に語り継がれている。

以上の文献は本レポートの記述の裏付けとなっており、一次情報として特に重要なものには出典を付した (Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia) ( Buy Watch online | Watch Auction Catalog | Patek Philippe, Rolex, Breguet, Cartier )。キャリバー89は非常に多面的な研究対象であるため、技術史、美術史、マーケティング史など様々な切り口の資料が存在する。本レポートではそれらを統合し、学術的観点から包括的に考察した。

最後に、本研究を通じて明らかになったのは、キャリバー89が単なる記念モデルに留まらず時計史・技術史に画期を成した総合芸術作品であるという事実である。150年の伝統を背景に、最新技術と人間の英知が結晶した本作は、今後も時計学における重要な研究対象であり続けるだろう。

【参考文献】本稿で参照した出典情報は以下のとおり(文中の【†】番号は該当箇所を示す):

(Patek Philippe Calibre 89 - Wikipedia) Wikipedia「Patek Philippe Calibre 89」; (Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89 | Sotheby’s) サザビーズ記事「Starstruck: Patek Philippe’s Calibre 89」; (COLLECTABILITY IN DEPTH LIMITED EDITION SERIES II: 1989 AND THE 150TH ANNIVERSARY - Collectability) Collectability「Limited Edition Series II: 1989」; (In-Depth: Your Patek Philippe Caliber 89 Now Needs A Service – A Look At Horology’s Easter Problem - Hodinkee) Hodinkee「パテック フィリップ キャリバー89には今、修理が必要だ」; … (以下略) (各出典の詳細は文末にリンク)