フロッドシャム・ダブルインパルス腕時計

フロッドシャム・ダブルインパルス腕時計

フロッドシャムのダブルインパルス・クロノメーター腕時計(Double Impulse Chronometer Wristwatch)は、二つの香箱と独立した輪列を備え、二枚のガンギ車からテンプへ交互に力を与える手巻き時計である。ジョージ・ダニエルズの独立二重ガンギ車脱進機を、日常携帯する腕時計に収めた作品として2018年に製品化された。時・分・小秒針という控えめな表示の背後で、駆動の仕方そのものを作り直している。1 2 6

ここで扱うのはチャールズ・フロッドシャム社が英国で製作する現代のモデル系列であり、19世紀の創業者本人が作った時計や、同社名を持つ古い腕時計一般ではない。文字盤やケース素材に異なる仕様があり、一点の競売記録を全製品の仕様として扱うこともできない。

懐中時計の原理を腕時計へ#

ブレゲ、ダニエルズ、プラット#

出発点はブレゲのナチュラル脱進機にある。通常のレバー脱進機では、ガンギ車からレバーを介してテンプへ力を伝える。ブレゲは、二枚のガンギ車によってテンプへ直接、往復の両方向に力を与え、滑りと油への依存を減らそうとした。しかし二枚を歯車で連結すると、一方のガンギ車が他方を動かすため、連結部分の慣性と歯の隙間が問題となった。2

ダニエルズは二枚をそれぞれ独立した輪列で駆動し、歯車同士で結ばずに交互に動かした。デレク・プラットは、この構成なら停止と解放を確実にしながら、動き出す部品の慣性も抑えられると説明する。ダニエルズのスペース・トラベラーのような懐中時計に使われた原理を、小さく薄い腕時計で実用化することがフロッドシャムの課題だった。2 4

プラット自身もこの原理を研究したが、彼のトゥールビヨン懐中時計とフロッドシャムの腕時計は別の機構である。プラットの作品は一つの輪列と二つの小ばね式ルモントワールを組み合わせ、回転するキャリッジ内で二枚のガンギ車を働かせた。フロッドシャムの量産前試作は、トゥールビヨンを持たない二輪列の腕時計として発展した。2

2004年の転換と長い試作期間#

プラットが2009年に書いた回想は、開発の転換点を具体的に伝えている。フロッドシャムには、通常の一方向加衝のスプリング・デテント脱進機を使う試作腕時計があった。よく動いても、携帯中のあらゆる条件で望む信頼性を得るには課題が残った。2004年5月、サセックスの工房での会合でプラットがダニエルズ式を提案し、その後9か月以内に二重ガンギ車の試作腕時計が動いたという。2

2008年6月には英国時計学会(BHI)創立150周年のセミナーで、開発途上を紹介する発表と三基の量産前ムーブメントが公開された。この時点の写真では、テンプ直径は約14mm、振動数は毎時21,600振動であった。ただしこれは試作時の記録であり、すべての後続製品のテンプ寸法を保証するものではない。2

2018年の製品化は、初めて動く試作ができた時点からも十年以上を経ている。フロッドシャムの開発者たちは、二枚のガンギ車とテンプの位置関係、各部の剛性、仕上げ、公差を腕時計の寸法の中で成立させる必要があった。公式の機構図からも、両側のガンギ車と停止部品が同じテンプの動きに合わせて働く構成を確認できる。2 3 6

二つの輪列は何をしているのか#

一往復に二回、直接力を渡す#

香箱は巻いたゼンマイの力を蓄える容器である。本機では二つの香箱からそれぞれ歯車列が伸び、各列の最後にガンギ車がある。二つの時計を同期運転させるのではなく、一個のテンプが双方の解放を制御する。1 2

テンプが一方向へ振れると、一方のガンギ車が解放され、その歯がテンプ側の加衝石を直接押す。次の逆方向の振れではもう一方が同じ役目を担う。停止を受け持つ部品と、テンプへ力を渡す接点を分け、解放と加衝に必要な短い区間を除き、テンプを輪列から自由にする。これが「ダブルインパルス」、すなわち一往復の中で二回の加衝を行うという意味である。2

テンプの動き解放される側力の通り道
一方向の振れ第一のガンギ車第一香箱→第一輪列→ガンギ車→テンプの加衝石
戻りの振れ第二のガンギ車第二香箱→第二輪列→ガンギ車→テンプの加衝石

公式の動作図は、単に左右が交代する以上の動きを示す。右側が加衝を始めるとき、左側は二次停止位置にある。右側が加衝を続ける間に左側は主停止位置へ移り、右側の加衝が終わると、その右側が二次停止へ向かう。左側は戻りの振れで加衝する位置に準備される。このように加衝と二段階の停止を組み合わせることで、二枚の解放をテンプの位相に合わせる。3

「二つある」ことは長時間駆動のために二香箱を直列につなぐ方式と意味が異なる。両方がそれぞれの方向の加衝を受け持つため、二つの動力経路をまとめて設計する必要がある。ブレゲ式のように一枚から他方を歯車で回す接続を避ける代わりに、輪列を二組収める場所が必要になる。1 2

「油を使わない」の範囲#

メーカーが油不要とするのは脱進機である。歯と加衝石の接触で滑りを小さくし、加衝面の油の状態変化に左右されにくくする狙いがある。時計全体の軸受や巻上げ機構まで無潤滑、あるいは永久に整備不要という意味ではない。1 2

また、本機の価値は脱進機の構成と製作上の達成にあり、資料にない歩度保証へ読み替えることはできない。公表製品ページには姿勢別・温度別の測定結果や認定機関の証明番号が示されていないため、「Chronometer」という名称だけをCOSCなどの特定の認証取得の証拠とはしない。1

ムーブメント、巻上げ、仕様#

メーカーの現行公開仕様は次のとおりである。振動数の「振動」は片道の振れを数え、毎時21,600振動は毎秒6振動、往復では毎秒3回、すなわち3Hzとなる。1

項目公開仕様・構成
駆動手巻き、二つの独立した輪列
脱進機ダニエルズ式ダブルインパルス・クロノメーター脱進機
石数43石
振動数毎時21,600振動(3Hz)
持続時間36時間
テンプフリースプラング、補償性を持つヒゲゼンマイと立ち上げた端末曲線
耐衝撃固定した石軸受を用いる独自方式
操作・表示秒針停止、ムーブメント側の巻上げ状態表示、テンプブレーキ
ケースステンレス鋼、22金イエローゴールド、18金ローズ/ホワイトゴールド
ケース寸法直径42.2mm、サファイア風防を含む高さ10.5mm

フリースプラングとは、ヒゲゼンマイの働く長さを緩急針で変える方式によらず歩度を調整する構成を指す。大きなテンプと独自の耐衝撃機構を持つことは、どんな衝撃にも耐えるという保証ではない。耐衝撃試験の規格や防水等級は、上記の製品ページからは確定できない。1

巻上げ状態を読むアップ・アンド・ダウン機構には遊星歯車式の差動が使われ、テンプを止めるブレーキも組み込まれる。巻上げと駆動に伴う相対的な回転を表示へ取り出す構成で、単に文字盤へ残量計を付けた時計とは異なり、裏側から巻上げ状態を確認する。秒針停止機能は時刻合わせのための機能として記載されている。1

持続時間には資料差がある。メーカーは36時間とする一方、2024年納品の個体を扱うChristie’sの説明は約40時間と記す。同社は始動とブレーキの関係も説明しているが、個体の実測条件や仕様変更の記録は示していない。このため、40時間を系列全体の新仕様として採用せず、公称値にはメーカーの36時間を用いる。1 8

文字盤、針、仕上げ#

外観は19世紀以来の同社の時計を参照する。時針と分針は同じ長さで、分の目盛を文字盤の内側に置く。これは20世紀初めのフロッドシャム製トゥールビヨン時計に着想を得た配置であり、長さだけで針を区別する一般的な文字盤とは読み方が異なる。現行製品ページは、白い文字盤に青焼き鋼のアラビア数字またはローマ数字を取り付けると説明している。1

白いセラミック文字盤の実例は、2024年納品のホワイトゴールド個体にも記録される。青焼きの針や数字は白い地に対比し、ケースは細かな筋目と磨いたベゼルを組み合わせる。ムーブメントでは金製の輪列車を用い、鋼部品に黒磨きや筋目仕上げを施す。黒磨きは黒く塗ることではなく、平滑に磨いた面が光の反射方向によって暗く見える仕上げである。1 8

メーカーはムーブメント、ケース、文字盤を英国の自社工房で製作・組立するとする。ただしそれを原材料や全購入部品まで完全に自給する意味へ拡張してはいけない。Phillipsの個体説明は、風防、主ゼンマイ、ヒゲゼンマイ、石、ストラップに外部由来の部品があることを明記している。1 5

個体ごとの記録とモデルの広がり#

本機は一つの博物館作品ではなく、注文に応じて少数ずつ製作されたモデル系列である。競売に現れた個体は、素材や文字盤の展開と納品時点を調べる手掛かりになる。ただし競売会社による証明書の記載内容と、証明書原本の独立した鑑定は区別する。

個体・番号記録される特徴と納品日根拠
01079818金ピンクゴールド。2019年10月8日納品とする原産証明書を伴うPhillips Geneva XVIII、lot 44 5
010800ステンレス鋼。2019年9月23日納品とする原産証明書を伴うPhillips Geneva XIX、lot 183 6
010802ステンレス鋼、銀色の文字盤と東アラビア数字。2019年12月2日納品とする原産証明書を伴うPhillips Geneva XX、lot 140 7
01083118金ホワイトゴールド、白いセラミック文字盤。2024年3月5日納品とする原産証明書を伴うChristie’s、lot 102 8

数字の順序をそのまま納品順や総製作数と見なすことはできない。また、010802のような文字盤を、全製品が共通して持つ仕様と考えるべきでもない。

別の22金イエローゴールド個体には、ダニエルズの特徴的な意匠に倣った秒針が付けられた。2025年5月のPhillipsによる依頼主インタビューでは、ダニエルズへの敬意を時計上に残したいという希望から、通常とは異なる秒針の製作を依頼したと語られている。これは所有者の証言として価値があるが、特別注文を一般に受け付けていたことの証拠にはならない。9

年表#

年月出来事
1970年代ダニエルズがブレゲの構想を再検討し、独立二重ガンギ車脱進機を発展させる。2
1997年3月までプラットが二つのルモントワールを持つトゥールビヨン懐中時計を完成。後のフロッドシャム腕時計とは別作品。2
2004年5月サセックスの工房でプラットとフロッドシャムがダニエルズ式の腕時計化を検討。2
その後9か月以内二重ガンギ車の試作腕時計が作動。2
2008年6月BHI創立150周年セミナーで三基の量産前ムーブメントを紹介。2
2018年現代のダブルインパルス・クロノメーター腕時計を製品化。6
2019年9〜12月鋼製やピンクゴールド製の複数個体の納品が競売資料に記録される。5 6 7
2024年3月ホワイトゴールド個体010831を納品したとする記録。8
2025年5月特別な秒針を持つ個体の依頼主インタビューを公開。9
2026年2月AHSの講演でリチャード・ステニングが同社の歴史と腕時計の長期開発を紹介。10
2026年8月Clockmakers’ Museumの学芸員が、2008年の試作ムーブメントを含む特別展示を紹介。4

技術史上の意味と確認の限界#

この腕時計の意義は、古い脱進機を小さく再現するだけでなく、二つの独立した動力経路、直接加衝、耐衝撃、巻上げと停止の仕組みを、携帯できる一つの製品にまとめた点にある。メーカーがいう「ダニエルズ式を使った最初の腕時計」は特定の構成についての主張であり、あらゆる直接加衝式腕時計の最初という意味ではない。1 2

2026年8月の博物館資料は、2008年試作をダニエルズの独立二重ガンギ車脱進機の小型化例として説明している。製品の完成した姿だけでなく、長期開発の中間段階が展示・研究の対象になっている点も本機の特徴である。展示の紹介時点と恒久的な展示保証は区別する。4

公開資料だけでは、全製造番号の台帳、総製作数、全個体の所有者、修理・部品交換履歴、各個体の長期歩度を確定できない。本機固有の特許公報も本文確認に至っていないため、独自方式という説明から特許の存在や請求範囲を推定しない。製品の仕様はメーカー発表、個体の来歴は証明書を記載した競売資料、開発の経緯は当事者の記録に分けて理解する必要がある。

関連記事#

参考文献#

閲覧日:2026年11月6日。競売資料の個体情報は各出品時点の記載である。

  1. Charles Frodsham & Co. Ltd., The Double Impulse Chronometer Wristwatch, 公開年記載なし。現行仕様と構造、材料、意匠。

2. Derek Pratt, In Breguet’s Footsteps…, Horological Journal, 2009年3月, pp.106–110、特に図3・5・11とPostscript。PDF内p.109の欄外はMarch 2008と印刷されるが、表紙・他頁はMarch 2009。

3. Charles Frodsham & Co. Ltd., Daniels Double Impulse Chronometer Escapement、2008年版下。全体図、動作I、動作II、動作III。

4. Anna Rolls, Happy birthday George Daniels!, Science Museum Blog, 2026年8月19日。Clockmakers’ Museum学芸員による2008年試作の展示説明。

5. Phillips, The Geneva Watch Auction: XVIII, lot 44, 2023年。010798。

6. Phillips, The Geneva Watch Auction: XIX, lot 183, 2024年。010800。

7. Phillips, The Geneva Watch Auction: XX, lot 140, 2024年。010802。

8. Christie’s, Double Impulse Chronometer no.010831, lot 102, 公開年記載の確認は保留。製品に記されるロンドンの品位検定年は2024年。

9. Logan Baker, Interview: A Tribute to George Daniels, and the Story Behind a Unique Charles Frodsham Wristwatch, Phillips, 2025年5月8日。依頼主へのインタビュー。

10. Nikos Gorgoraptis, Marine, Pocket and Wristwatch Chronometers: The Story of Charles Frodsham, Antiquarian Horological Society, 2026年2月10日講演の記録。