ケンブリッジのWhipple Museum of the History of Scienceに収蔵されるWilliam Hardyの天文時計は、1824年頃に製作された8日巻の長ケース型精密振り子時計である。資料番号は2800。ハーディ独自のばねを用いる脱進機と水銀温度補償振り子を備える。1
この作品を理解する鍵は、動力を供給する重錘、振動を一定に保ちたい振り子、その間を取り持つ脱進機という三者の関係にある。ハーディは歯車からの力を直接振り子へ伝える代わりに、いったん小さなばねに蓄え、そこから振り子を助ける仕組みを説明した。動力のむらが観測時刻に入り込むのを抑えようとした時計である。2
作品の同定と外観#
2800は製作者の連続製造番号ではなく、博物館の受入番号である。文字盤の銘は「Willm. Hardy, Invt. et Fecit, London」。全高1840 mm、文字盤直径303 mmで、マホガニーのケース、丸い頂部、胴部扉の一部に設けたガラス窓を持つ。中央の分針と別々の時・秒小文字盤を組み合わせる。1
Graham Dolanによる現存時計の比較は、この個体をケンブリッジ天文台の時計と同定し、時目盛を0–23、機械の地板を結ぶ柱を5本、支持台を真鍮製と記録する。同じ一覧では、衝撃を与えるパレットは宝石付き、輪を止める側は宝石なしとされる。これは個体についての記述であり、ハーディが公刊図面で説明した全仕様と同一と考えてはいけない。3
精密時計の大きな分表示は、装飾だけを目的とするものではない。三つの針を同軸に重ねず、分、時、秒を分ければ、秒針の動きと分の読みを照合しやすい。ハーディ自身の1820年の説明も、大円を60分、上の小円を60秒、下の小円を24時間に分ける。この一般図の表示構成は本作品の理解に役立つが、図中の全ての部品が2800と一致する証拠にはならない。2
天文台が時計に求めたもの#
星の通過を時刻に置き換える#
天文観測では、望遠鏡で見える天体の位置だけでなく、視野の基準線をいつ横切ったかが重要になる。南北の子午線に向けた子午儀では、天体の通過時刻を測り、星の位置を表す赤経などの計算に用いる。時計が必要なのは、観測と観測の間にも一定の速さで時刻を刻み続けるためである。
George Biddell Airyのケンブリッジ観測年報第2巻は、既知の星から求めた時計誤差を共通の恒星時0時へ換算し、平均との差から星の仮定赤経を検討する手順を説明している。前後の日の歩度から観測中の歩度を見積もり、時刻差に応じて補正するのである。離れた二つの星を比較する場合には、長い時間にわたる時計の歩度の安定が結果を左右するとも述べる。4
この使い方では、「時計が示す値」と「正しい時刻」の差である時計誤差と、その差が時間とともに増減する速さである歩度を区別する必要がある。毎日同じだけ進む時計なら補正できるが、進み方が不規則なら観測と観測の間を補間しにくい。天文台のレギュレーターは、文字盤が常に無誤差を示すことだけで評価される装置ではなかった。4
ケンブリッジでの評価#
Dolanが原文を紹介する1829年刊の第1巻で、Airyはハーディ時計の歩度の全般的な安定と、強く明瞭な刻音を評価した。この評価からは、本時計が精密な振動を保つだけでなく、観測者が音を聞いて秒を数える実務にも適していたと理解できる。3
重錘と四つのばね#
脱進機は何をするか#
重錘は、ひもを引きながら下がることで歯車を回す。歯車だけなら速く回り切ってしまうので、脱進機が歯車をいったん止め、振り子に合わせて少しずつ解放する。同時に、空気抵抗や支点の損失で弱まる振り子へエネルギーを補給する。輪を止める役割と、振り子を助ける役割をどう両立するかが設計の課題となる。
Whippleの記録は2800を、真鍮重錘、ひもによる駆動、4輪の輪列、ハーディの定力脱進機を持つ時計とする。1 以下は、実物を分解測定した報告ではなく、ハーディの1820年の設計説明に基づく原理の解説である。2
ハーディは自身の脱進機を、輪列がばねを張り、そのばねが戻る力で振り子を維持する「remontoir」の一種と位置づけた。ここで使う小ばねは、8日間のエネルギーを蓄える動力ぜんまいではない。主な動力は重錘であり、ばねは一振動ごとに働く中間の蓄力要素である。2
拘束と衝撃を分ける#
1820年の説明には、左右一組ずつ、計四つの薄ばねが登場する。内側の二つは脱進輪を止めるデテント、外側の二つは歯と接触するパレットを支える。振り子に付けた横棒が左右のピンに交互に触れ、止めを外すとともに、ばねの反力を受け取る。2
原理を一方の側だけに沿って追うと、次のようになる。
- 重錘に駆動された歯がパレットの斜面を押し、小ばねを曲げる。別の歯はデテントに当たり、脱進輪が停止する。
- 振り子の横棒がデテント側とパレット側のピンを順に押し、停止を解除する。輪が進み、反対側のパレットばねを張る。
- 振り子は行きの終わりまでばねに逆らって進み、戻りではばねに助けられる。
- 戻りの途中でデテントがストッパーに当たり、続いてパレットばねも作用を終える。振り子は中央付近を自由に通り、反対側で同じ過程を繰り返す。2
振り子がばねを押すなら、その後に同じ力を返されるだけでは損失を埋められない。ハーディの説明の要点は、パレットが歯車によってあらかじめ動かされるため、振り子を助ける範囲が、振り子に抵抗する範囲より大きくなる点にある。その差の仕事が、空気抵抗などで失うエネルギーを補う。デテントばねについては、往復で加速と減速が釣り合うと説明する。2
定力の意味と限界#
この方式は、輪列の力そのものを振り子に直接与える代わりに、一定の幾何学的な位置まで張ったばねの作用を使う。したがって輪列がパレットを必要な位置へ動かせる範囲では、駆動力の変動を振り子へ伝えにくくすることを狙える。ただし「定力」は、接触中のばね力が全ての瞬間で同じという意味ではない。ばねは変形に応じて反力を変え、その作用区間と変形量を再現することが重要になる。2
薄ばねを使えば、腕を回転軸で支える方式に比べ、軸受での摩擦を避けられる。一方、後世の時計設計者Lord Grimthorpeは、ばねの剛性が温度で変化することを、この方式の欠点として指摘した。これは設計一般への批評であり、2800の温度係数や故障を測った記録ではない。5
温度補償と調整#
2800には水銀補償振り子と、目盛付きの歩度調整部、振幅を読む銀色仕上げの目盛がある。1 温度が上がると金属の振り子棒は伸び、一般には時計が遅れる方向へ働く。水銀容器を用いる補償では、水銀柱の膨張によって重い部分の中心を上げ、棒の伸びによる変化を相殺する。重さの配置全体で決まる振動の性質を整えるための工夫であり、水銀面が一定高さに留まる装置ではない。5
ハーディの公刊設計では、鋼の振り子棒が水銀容器を支える枠を通り、ねじと目盛付きナットで長さを微調整する。下部の指針はケース背面の弧形目盛に対して振幅を示す。また、振り子の横棒を左右に動かし、両側の解除が中央位置から等しい角度で起こるように調整する手順も説明される。歩度、振幅、左右の拍の対称性は、別々に確認する項目であった。2
水銀による長さの補償と、脱進機のばねに由来する温度変化は、同じ原因ではない。振り子が補償されているというだけで、脱進機、潤滑、支持部を含む時計全体の温度影響がゼロになるとはいえない。2800について数値で確定できる精度試験や温度試験の公開記録は、ここに挙げる資料からは得られない。
製作技術と比較すべき別時計#
ハーディの1820年の論文は、発明の考え方にとどまらず、脱進機を正しく取り付ける工具まで扱っている。歯車とピニオンの中心距離を決める工具、脱進輪の歯の面を順に同じ角度へ仕上げる工具を説明する。一定の作用を得るには、ばねだけでなく、歯の面、停止位置、左右の落差を揃える必要があったのである。2
同論文の末尾では、Prescotの時計師Thomas Leylandに、ハーディ自身の原型に基づくエピサイクロイド歯形の歯車・ピニオン、およびレギュレーターの機械を作れるようにしたと述べる。しかし、この一文から2800の輪列をLeylandが製作したと結論することはできない。個別の注文書や製作記録による結び付けは確認されていない。2
また、グリニッジで1811年頃から使われた有名なハーディ時計は別個体である。Royal Museums Greenwichの収蔵記録では、その時計のハーディ脱進機は1830年頃にEdward John Dentのデッドビートへ交換された。石の支持体への設置や、後の電気接点・クロノグラフとの接続も、グリニッジ個体の履歴である。6 これらの改造、精度、保守上の経験を、ケンブリッジの2800に移して説明してはならない。
来歴と年表#
Whippleの記録は、ケンブリッジ大学Institute of Astronomyからの正式移管を1980年12月10日、National Maritime Museumへの貸出期間を1967–1981年とする。所有の移管と貸出終了が異なるため、二つの年を同じ出来事としてまとめることはできない。1
| 年代 | 確認できる出来事と対象 |
|---|---|
| 1820年4月25日 | ハーディが脱進機の説明を学会へ送る。論文冒頭は大金メダルと50ギニーの授賞を記す。本個体の完成年ではない。2 |
| 1824年頃 | Whippleの2800に対する推定製作年代。1 |
| 1820年代後半 | ケンブリッジの観測用時計として使用。1829年刊年報の評価はDolanによる紹介で確認。3 |
| 1830年 | 1829年の観測を収録するAiryの年報第2巻刊行。時計誤差・歩度を用いる観測処理を説明。4 |
| 1967–1981年 | National Maritime Museumに貸出。1 |
| 1980年12月10日 | Institute of AstronomyからWhipple Museumへ正式移管。1 |
| 2026年10月の確認時点 | Whippleの公開収蔵記録で2800として確認できる。稼働状態や常設展示を保証する記録としては扱わない。1 |
技術史上の意義と確認の限界#
この時計の意義は、恒星を測るための時刻、駆動のむらを抑える脱進機、熱膨張を抑える振り子が一つの装置に結び付いている点にある。精度を一つの新発明だけで達成するのではなく、エネルギーの供給、振動、読取り、調整、観測値の補正を通じて維持するという、天文台の計測の性格を示している。
一方、本個体の正確な発注日、代金、製作に関与した個々の職人、全修復履歴、各ばねや水銀容器の交換履歴は、確認した公開資料では確定できない。所蔵館の「良好・完備」という状態記載は、全ての部品が1824年頃のままであることを意味しない。現存するハーディ方式を検討する価値と、全構成部品の当初性が証明されていることは、分けて考える必要がある。1 3
参考文献#
- Whipple Museum of the History of Science, University of Cambridge, “Astronomical regulator, 8-day longcase clock, by William Hardy, English, 1824 (c)”, Accession No.2800。仕様・来歴・解説(解説登録2014年5月12日)。収蔵記録。閲覧日2026年10月22日。
2. William Hardy, “Detached Clock Escapement”, Transactions of the Society Instituted at London for the Encouragement of Arts, Manufactures, and Commerce, vol.38, 1820, pp.165–185, plates XXXIV–XXXVIII。前書きpp.165–168、機械pp.168–174、脱進機の作用pp.174–180、振り子pp.180–181、工具pp.181–185。原本公開ページ、原本OCR全文。本文OCRを実読。図版の細部は本稿の個体同定根拠に用いていない。閲覧日2026年10月22日。
3. Graham Dolan, “Astronomical Regulator: Hardy”, Royal Observatory Greenwich歴史研究サイト。現存時計比較一覧の “12. The Cambridge Observatory clock”、およびAiryの1829年年報の引用。博物館公式収蔵データとは区別する。研究記事。閲覧日2026年10月22日。
4. George Biddell Airy, Astronomical Observations Made at the Observatory of Cambridge, vol.II, for the year 1829, Cambridge: J. Smith, 1830, “Examination of the Clock Errors”, pp.80–81。原本、原本OCR全文。観測年と刊行年を区別。閲覧日2026年10月22日。
5. Edmund Beckett, Lord Grimthorpe, A Rudimentary Treatise on Clocks, Watches, & Bells for Public Purposes, 8th ed., London: Crosby Lockwood and Son, 1903, 水銀振り子pp.45–48、Hardy脱進機p.81。原本PDF(Whiting Society公開、印刷頁1–90を含む分冊)。後世の技術的批評として使用。閲覧日2026年10月22日。
6. Royal Museums Greenwich, “An eight-day sidereal regulator, mounted within a stone block at the southern end of the Airy transit circle by William Hardy, London, circa 1811”, ZAA0591。グリニッジの別個体の収蔵記録。閲覧日2026年10月22日。