花鳥風月(かちょうふうげつ、英語名 Beauties of Nature)は、日本の独立時計師牧原大造が製作する手巻き腕時計である。桜とメジロを表した江戸切子の文字盤に、ゆっくり開いて瞬間的に閉じる二つの花と、月の満ち欠けを示すムーンフェイズを組み合わせる。自然の姿を彫るだけでなく、一日の進行と月の周期を、機械の動きによって見せる作品である。1 2 3
名称は一つのモデルを指すが、公開された試作品と現在の製品仕様には素材の違いがある。2020年に新作発表の記録があり、2021年の取材ではまだ納品前の試作品として紹介された。現在の公式仕様は18Kホワイトゴールド製ケースを掲げる。発表年だけから全個体の完成年や納品時期を決めることはできない。1 4 5
製作の背景と公開の経緯#
牧原は、最初の代表作「菊繋ぎ紋 桜」で江戸切子を文字盤へ取り入れた。その次の作品には、あらかじめオートマタを使う構想があったという。オートマタとは、ここでは花などの造形物を機械的に動かす仕掛けを指す。2021年の本人取材では、バーゼルワールドの延期によって製作へ集中できたことと、花弁の動きや誤作動を考慮して形を調整していたことが語られている。3
本人の発表通知は2020年12月10日付である。一方、現在の本人略歴は2021年完成とし、2021年9月公開の『クロノス日本版』取材は、2020年に完成した作品としてステンレススティール製の試作品を掲載する。同取材で牧原は注文が入っている一方、まだ納品していないと説明している。これらは発表、試作の完成、納品に向けた改良をそれぞれ記録しており、単一の「発売日」にまとめないほうが実態を理解しやすい。3 4 5
2022年から牧原はAHCI(独立時計師アカデミー)の正会員となった。さらに本作は、2025–2026年版Louis Vuitton Watch Prize for Independent Creativesの五つのファイナリスト作品の一つに選出されている。同賞の2026年3月24日の最優秀賞はハゼマン&モナンであり、本作のファイナリスト選出と区別する必要がある。6 7 8
文字盤で動く二つの花#
一日の中で開閉する仕組み#
10時位置の花は24時間、2時位置の花は12時間の周期で開閉する。花が開く動きと、瞬間的に閉じる動きの速さは異なる。公式工程は、花を開かせるばねと、瞬間的に閉じるためのばねを作ると説明している。腕時計では向きが変わるため、重力に任せるだけでなく、姿勢にかかわらず作動させることが製作上の課題になる。1 2 9
この機構は時間の進行に連動する花の動きであり、花を押すたびに作動する玩具や、時刻を音で知らせる機構として説明されているわけではない。公表された製作記録から確認できるのは、花弁、支柱、カップ、ばねなどの具体的な部品とその加工である。駆動部の全輪列、解放機構の設計寸法、作動による消費エネルギーまでを記した設計図は、ここで参照する資料には示されていない。9 10 11 12
薄い花弁と球を使う支持部#
動く花弁には厚さ0.1mmの銅板を使う。原盤の形を追うパンタグラフ式の彫刻機で輪郭を切り出し、縁に残るバリを取り、表面を仕上げる。その後、タガネで叩いて五枚の花弁の曲がりをそろえ、花弁同士をつなぐ部品をシェラックで取り付け、動きを確認する。薄板を切ることに加え、組み合わされた花弁が干渉せず動く形へ整える仕事が必要になる。10
花の中央に当たる雌蕊の支柱は炭素鋼の丸棒から削り出し、ねじを切る。先端側には直径0.6mmの鉄球が入るくぼみを設ける。別工程の支柱ボールねじでは、切削・穴あけ・ねじ切り・焼入れ・焼戻しを行い、球を納めた後、先端を曲げ込んで脱落を防ぐ。同時に球が自由に回ることを確認する。公式説明は、この形をボールペンの先端になぞらえている。11 12
閉じた花を受けるカップは真鍮の丸棒から作る。片側を加工して切り離した後、反対側の中心を出し、花弁が収まるカップ状に削る。開く側と閉じる側のばねには、直径0.07mmのばね線を治具へ手で巻く工程が示されている。ただし、その寸法だけからばね定数や花弁の押付け力、耐久回数を算出することはできない。9 13
なお、公式サイトには「花弁(梅)彫金」という別工程もある。こちらは二枚一組にする花形の装飾部品で、輪郭の切削後に叩いて立体的に整え、二枚を重ねる。動く五枚の銅製花弁と、装飾用の花形部品を、同じ部品として数えないことが大切である。10 14
月齢表示が表すもの#
6時位置にはムーンフェイズがある。メーカーはこれを「パーペチュアルムーンフェイズ」と呼び、表示誤差を122年で1日とする。この「パーペチュアル」は月齢表示の呼称であって、閏年や月の日数を扱う永久カレンダーの搭載を意味しない。1 2 15
公式の製作説明は、一般的な方式では二つの月を描いた59歯の月車を一日に一歯ずつ進め、半回転で29.5日を表すと説明する。本作では135歯の月車に、7歯と16歯の日星車を加える。歯車の材料を削り、取付け用の治具を作り、歯を切るまでの工程も公開している。月の周期へ近づく歯車比を、小さな機械部品として実現することがこの表示の技術的な中心である。15
ここで区別したいのは、表示を進める平均周期と、実際の空の月の運動である。NASAの解説は、2000年を基準とする平均朔望月を29.530588日、約29日12時間44分03秒とし、個々の朔望月は約29.26日から29.80日の範囲で変動すると説明する。したがって「122年で1日」は、一定周期で進む表示についてメーカーが掲げる長期の公称誤差であり、毎月の天文現象と常に一致する意味ではない。16
メーカー工程文中の朔望月の秒数には、このNASAの平均値と異なる表記もある。ここでは122年という値をメーカーの仕様として扱い、公開された歯数だけから実機の全伝達経路や誤差を独立に証明したものとはしない。また、時計の進み遅れや停止は月齢表示の位相にも影響するため、時計を122年間無調整で運転できるという保証とは異なる。1 15 16
江戸切子、金属部品、彫金#
ガラスの文字盤と金属の受け#
文字盤の主題は桜とメジロである。江戸切子の透明なガラスを通して機構が見え、上に置かれた花の動きと奥の歯車を同じ視野で眺められる。公式サイトは江戸切子の製作協力先としてミツワ硝子工芸「彩鳳」を紹介している。時計の設計・金属加工・彫金と、専門工房のガラス加工を組み合わせる仕事であり、ガラスも含めた全工程を一人で行うという説明ではない。2 3 17
ガラスと地板の間には、専用の外周リングが入る。両面を平らにした素材へ穴と座ぐりを加工し、切子ガラスの大きさに合わせて段を削り、地板の外形に合わせて仕上げる。ガラス文字盤を金属の機械へ組み込むための具体的な受け部品である。ガラスの保持方法の全詳細や耐衝撃試験値までは、この工程説明には記されていない。18
江戸切子の公式紹介にある菊繋ぎ文様の加工手順は、前作「菊繋ぎ紋 桜」のものと明記される。その幾何学文様を切る工程を、そのまま本作のメジロや桜の全加工手順として扱うことはできない。本作について確認できる意匠と、前作について公開された製作実演を分けて読む必要がある。17
地板と文字盤の加工#
地板は歯車や各部品を取り付ける基礎となる板である。本作の工程では洋白材を使い、両面を平らにしてから設計図に従って穴を開ける。その穴を基準に、歯車などが回る空間をエンドミルで切り込む。反対側も加工した後、地板の外形を切削する。これらの記録は、装飾済みの完成写真だけでは見えない機械の組立基準を示している。19
金属文字盤の工程は、真鍮板の面出し、穴あけ、切削、ねじ止め部分の加工から始まる。治具へ固定し、ガーネットの粒を落として細かな凹凸のある梨地を作り、麻の葉文様を彫るための目印を付ける。縁の面取りと研磨の後に彫金する。ガラスの図柄、金属面の質感、彫られた線、動く花が重なることで、本作の文字盤が構成される。20
仕様と個体差を読む#
2026年10月24日に確認した日本語・英語の公式ページは、主要な現行仕様で一致する。1 2
| 項目 | 公式に掲載された仕様 |
|---|---|
| ケース | 18Kホワイトゴールド、直径42mm |
| ムーブメント | 手巻きCal. DM 02、25石 |
| 振動数 | 18,000振動/時 |
| 花の機構 | 10時位置24時間、2時位置12時間の周期 |
| 月齢表示 | 公称122年で1日の表示誤差 |
| 文字盤・装飾 | 江戸切子の桜とメジロ、手彫りの麻の葉文様 |
| 針 | 手作業で青焼きしたブルースチール |
| ストラップ・尾錠 | クロコダイル、ホワイトゴールド尾錠 |
| 防水 | 日常生活防水 |
18,000振動/時は、一時間の往復振動の片道を数えた値で、毎秒5振動、完全な往復では2.5Hzに相当する。この換算は振動の頻度を示すだけで、歩度の精度を保証しない。公式の「日常生活防水」にも具体的な気圧値は付されておらず、水泳などの用途へ勝手に読み替えることはできない。1 2
2021年の取材に掲載された個体はステンレススティール製の試作品で、パワーリザーブは約38時間とされる。現行の公式仕様表には駆動時間が掲載されていないため、この値は取材された試作仕様として理解するのが適切である。手巻き、花のオートマタ、月齢表示という構成が共通していても、素材や調整の段階を混同してはならない。3
受注状況と時計史上の位置#
2026年10月24日時点の日本語公式ページは、注文受付の一時停止を表示している。価格欄には税込3,234万6,600円からと2,874万6,000円からの二つの表記が残り、英語ページは2,874万6,000円から、納期目安9年以上とする。これらを統合して確定した現行見積額や納期を示すことはできない。製作総数、各個体の納品日、所有者の一覧も、ここで参照する公開資料からは確定できない。1 2
本作の特徴は、江戸切子を使った前作の発展に、花の開閉と月齢表示を加えた点にある。時刻を読む針、半日と一日で変化する花、さらに長い周期の月が、一つの文字盤に重なる。2025–2026年版Louis Vuitton Watch Prizeでの選出は、その作品が国際的な審査の対象となった具体的な記録である。ただし、それを世界初の機構や最高精度の証明へ拡張することはできない。3 7 8
花の機構に直接対応する特許の一次資料は、今回の探索では発見できなかった。そのため、機構の説明は製作者が公開する工程と本人取材の確認範囲に基づく。これは特許の不存在を示すものではなく、未公開の構造、耐久性能、請求範囲を推定する根拠にもならない。
年表#
| 年月 | 確認できる出来事 |
|---|---|
| 前作完成後 | 牧原は次作にオートマタを使う構想を持ったと、2021年の取材で回想。3 |
| 2020年12月10日 | 本人サイトに「花鳥風月」の新作発表通知。4 |
| 2021年 | 現在の本人略歴が完成年とする。5 |
| 2021年9月 | 『クロノス日本版』が試作ケースと花弁調整の本人談を掲載。Web公開は9月26日。3 |
| 2022年 | 牧原がAHCI正会員となる。AHCI公式名簿で確認できる。6 |
| 2025–2026年版 | 「Beauties of Nature」がLouis Vuitton Watch Prizeのファイナリスト作品となる。7 |
| 2026年3月24日 | 同賞の授賞式。最優秀賞はハゼマン&モナン。8 |
| 2026年10月24日の確認時点 | 公式ページはホワイトゴールド仕様を掲載。日本語版は注文受付の一時停止を表示する。1 2 |
参考文献#
以下のWeb資料の閲覧日は2026年10月24日。製作者の工程説明、本人への取材、主催団体の記録は、それぞれの立場を区別して参照した。
1. 牧原大造「DAIZOH MAKIHARA『花鳥風月』」。日本語の現行仕様、価格欄、注文状態。
2. Daizoh Makihara, “Beauties of Nature”. 英語版の仕様・納期表示。
3. 広田雅将「【インタビュー】独立時計師『牧原大造』」『クロノス日本版』2021年9月号、Web公開2021年9月26日。本人談と試作品の仕様。
4. 牧原大造「新作『花鳥風月』を発表しました」、2020年12月10日。
5. 牧原大造「独立時計師について」。現在の本人略歴。
6. AHCI, “Daizoh Makihara”. Member since: 2022。
7. Louis Vuitton Watch Prize, “Il Finalisti 2025–2026: Beauties of Nature”. 主催者のファイナリスト一覧。
8. ルイ・ヴィトン ジャパン「第2回Louis Vuitton Watch Prize for Independent Creatives 最優秀賞はハゼマン&モナンへ」、2026年3月30日。授賞式日と五組のファイナリスト。
9. 牧原大造「フラワー開閉機構(バネ製作)」。
10. 牧原大造「フラワー開閉機構(花弁)」。
11. 牧原大造「フラワー開閉機構(雌蕊支柱)」。
12. 牧原大造「フラワー開閉機構(支柱ボールネジ)」。
13. 牧原大造「フラワー開閉機構(フラワーカップ)」。
14. 牧原大造「花弁(梅)彫金 製作」。
15. 牧原大造「高精度ムーンフェイズ製作」。歯数・製作工程・公称誤差。
16. Fred Espenak / NASA GSFC, “Phases of the Moon: 1 to 100”. 冒頭の平均朔望月と一周期ごとの変動。
17. 牧原大造「時計製作 江戸切子」。製作協力先と、前作の菊繋ぎ文様の工程。
18. 牧原大造「文字盤(外周リング製作)」。
19. 牧原大造「地板製作」「地板製作(文字盤側)」。
20. 牧原大造「文字盤(製作〜面取り〜彫金)」。