ブレゲ No.160「マリー・アントワネット」

ブレゲ No.160「マリー・アントワネット」

概要 #

18~19世紀に活躍した伝説的な時計師アブラアン=ルイ・ブレゲ(Abraham-Louis Breguet)は、フランス王妃マリー・アントワネットとの関係で知られています。マリー・アントワネット(1755–1793)はブレゲの時計の熱烈な愛好家であり、自身で複数のブレゲ製時計を所有するとともに、他の王侯貴族にも盛んにブレゲを紹介したと言われます ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。1783年、この王妃のためにある“究極の懐中時計”がブレゲに注文されました。それがブレゲの作品番号160番「マリー・アントワネット」と呼ばれる懐中時計です ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。この注文は「製作時間や費用の制限なく、当時知られるあらゆる機能を盛り込んだ史上最高の時計を作ってほしい」という破格の内容でした ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。発注者は王妃の愛人と噂されたスウェーデン貴族アクセル・フェルセン伯爵とも言われますが、正体は不明です ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

ブレゲはこの超複雑時計の製作に着手しますが、1789年にフランス革命が勃発し一時中断を余儀なくされました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。その間に王妃マリー・アントワネットは処刑され(1793年)、ブレゲ自身も革命の混乱から逃れるため国外へ亡命します ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。革命終結後にブレゲは制作を再開しましたが、自身も1823年に亡くなり、完成を見ないままこの世を去りました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。最終的に息子のアントワーヌ=ルイ・ブレゲらによって1827年に時計は完成し、発注から44年、王妃の死から34年を経てようやく日の目を見たのです ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。完成した当初、この時計は引き取り手がなくブレゲ一族の手元に残されましたが、その後19世紀末に英国人収集家に渡り、20世紀初頭にはブレゲ研究家として知られるデヴィッド・サロモンズ卿のコレクションに加わりました ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

( File:Marie-Antoinette par Elisabeth Vigée-Lebrun - 1783.jpg - Wikimedia Commons) エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画「バラを持つマリー・アントワネット」(1783年、ヴェルサイユ宮殿蔵)。マリー・アントワネットはブレゲ時計の愛好家であり、本作のモデル名にもなっている ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])【15†L37-L40}。

完成したブレゲ No.160「マリー・アントワネット」懐中時計は、直径約63mm、厚さ約26mmという大型のケースに、当時考え得る限りの複雑機構を盛り込んだ文字通り“グランド・コンプリケーション”でした ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。自動巻き機構(ペルペチュエル)によりゼンマイが巻き上げられ、時・刻・分を音で報知するミニッツリピーター、日付・曜日・月を表示しかつ閏年補正も備えた永久カレンダー、均時差(真太陽時と平均時の差)の表示、温度を測る機械式温度計など、多彩な機能を搭載しています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。部品点数は約823点にも及び、主要な摩擦部分にはルビーやサファイア石が用いられ潤滑・耐久性が向上されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。また金属部品には可能な限り金が使われ、文字盤は透明な水晶で内部機構が鑑賞できるようになっていました ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。こうした豪奢かつ精巧な造りにより、この時計は「時計工学の詩」とまで称えられ ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)、技術的・美術的・歴史的価値の全てにおいて比類なき傑作と見做されています ( Breguet “Marie Antoinette”: the incredible story of the Mona Lisa of …)。その希少性と由来から現在では推定評価額3,000万ドルにも達するとされ、時計界の“モナリザ”とも呼ばれる特別な存在です ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia) ( Breguet “Marie Antoinette”: the incredible story of the Mona Lisa of …)。

( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum) ブレゲ No.160「マリー・アントワネット」懐中時計(1783年発注~1820年代完成)。全面がロッククリスタル製の覆いで中の複雑機構が露わになっている。金無垢のケースに極限まで高度な機械装置を収め、「時計技術の頂点」と称される歴史的名品 ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum) ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。


技術的な詳細 #

時計の内部構造と技術的革新 #

「マリー・アントワネット」懐中時計のムーブメントは、当時考えられるあらゆる機構を統合した非常に複雑な構造を持っています。自動巻き(当時の語で“ペルペチュエル”)機構により着用者の動きでゼンマイを巻き上げ、動力源には長時間駆動の大径ぜんまい箱(約48時間持続)が採用されています ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。時刻表示にはブレゲ独特の青焼き鉄製針(ブレゲ針)を用い、中央の時針はジャンピング機構により正時ごとに瞬時に次の時刻を指す仕組みです ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。分針および6時位置の小文字盤に連続秒針があり、さらに中央には独立した大型の秒針を備えます ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。この独立秒針はクロノグラフの原型ともいうべきもので、必要に応じて計時用の秒針として機能しました(当時、独立秒針や“秒飛び”機構と呼ばれた) ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。

暦表示機構も極めて充実しており、文字盤には2時位置に曜日、8時位置に月、6時位置に日付を配したフル・カレンダーを備えます ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。カレンダーは四年周期で閏年も自動補正する永久カレンダー(パーペチュアルカレンダー)となっており、長期にわたり日付修正なしで運用可能です ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。10時位置には均時差(Equation of Time)の表示があり、年次カムによって真太陽時と平均時の差を指示します ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。さらに機械式温度計(熱膨張を利用した二金属式)も内蔵され、文字盤右上の扇形表示で当時の雰囲気温度を示す工夫がされています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。これら天文・暦の機構に加え、12時近くにはゼンマイの巻上げ残量を示すパワーリザーブ表示も装備され、複数の情報を一目で読み取れるよう設計されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

とりわけ特筆すべきは音響機構で、本時計はミニッツ・リピーター(分刻み報時)機構を搭載しています。ケース側面のリューズ頭部分に組み込まれた押しボタン(ピストン)を押すことで作動し、内蔵ハンマーが音響用ゴングを打って現在時刻を報知します ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。まず時刻の時数だけ低音を打ち、四分刻みを高低の組み合わせで打ち、残りの分を高音で打つという複雑な打鐘システムが組み込まれています。このリピーターの実現には精緻なカム(凸輪)とラック&スネイル機構が必要で、現在の時・分情報を機械的に読み取って正確な打数に変換する高度な仕組みです。18世紀当時、懐中時計への分刻み報時機構の搭載は最先端の技術であり、ブレゲ160号はその集大成といえるものでした ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。さらに特筆すべき革新として、ブレゲが1790年代に発明した耐震衝撃吸収装置「パラシュート(緩衝装置)」がバランス(テンプ)軸受に組み込まれています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。これにより携行中の衝撃からムーブメントを保護し、当時としては画期的な耐久性を実現していました。

この時計には、ブレゲ自身や同時代に開発された数々の技術革新が惜しみなく投入されています。脱進機にはブレゲが改良した水平式レバー脱進機(等時性を高めるための均等リフト形)を採用し、テンプは温度補正用に真鍮と鋼の二重構造を持つ環(双金属テンプ)としました ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。またテンプの振動数調整にはブレゲの発明である“自由振り”ひげゼンマイ(フリースプラング)を導入し、ヒゲ持ち(レギュレーター)を省略することで精度向上を図っています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。ヒゲゼンマイ自体も渦巻き状ではなく立体的なヘリカルコイル形状で、両端を理想曲線に曲げたブレゲひげゼンマイとなっており、重力の影響を平均化して等時性を高める工夫がなされています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。こうした調速機構の洗練により、160号懐中時計は当時最高水準の精度と安定性を目指して設計されました。さらに、ムーブメントの全ての摩擦箇所(軸受けや歯車の穴)には宝石(ルビーやサファイア)が埋め込まれ、潤滑油の性能が限られた時代においても摩耗と摩擦抵抗を最小限に抑えるよう配慮されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。総部品数823点すべてが入念に仕上げられたこのムーブメントは、18世紀の時計技術の粋を集め、ブレゲ自身が「考え得る全機能を盛り込んだ」夢のタイムピースとして構想したものだったのです ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ブレゲ No.160「マリー・アントワネット」懐中時計のムーブメント内部(上:文字盤側、下:裏蓋側)。歯車やテンプ、各種表示機構が幾重にも組み合わさった極めて複雑な構造で、全ての摩動部分に宝石軸受けを備え、地板や歯車類には金が用いられている ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。下部写真では自動巻き上げ用の偏心重り(フィッシュテール型オシレーター)も見える。

使用された材料とその特性(材料科学の視点) #

貴金属の活用: この時計では、可能な限り金が使用されている点が大きな特徴です ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。 ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)金製の地板・ブリッジや歯車は、美観と耐食性(錆びにくさ)に優れる一方、硬度が低く摩耗しやすいという欠点があります。しかし、前述のように軸受けのほとんど全てに宝石(ルビーやサファイア)が用いられ、金属同士が直接摩擦しない構造とすることで、金素材のデメリットを補いながら高い耐久性を確保しています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。また金は比重が大きく重い金属であるため、自動巻き機構の振り子(オシレーター)の材料としても理想的でした。実際、本機の自動巻き錘はフィッシュテール(魚の尾ひれ)型と呼ばれる独特の形状をした重厚な部品で、金や高密度の白金が用いられており、慣性質量を稼いで効率よくゼンマイを巻き上げられるようになっています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。ケースも無垢の18Kイエローゴールド製で、直径63mmの特注鋳型で鋳造・加工されたものです ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。金無垢ケースは音響的には音を多少吸収しますが、後述の音響機構ではそれを踏まえて設計が最適化されています。

宝石素材の利用: ムーブメント内には摩擦軽減と装飾性のため数多くの宝石が使われています。主石は硬度9を誇るコランダム(ルビー・サファイア)で、軸受けとして穴石・受け石に加工されています ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。宝石軸受けは当時まだ高価でしたが、摩擦係数が低く摩耗耐性も高いため、超複雑機構を滑らかに作動させるため不可欠でした。特にこの時計では全ての摩擦面が宝石で保護されていると記録されており ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)、ぜいたくな素材使いが機能的合理性にも結びついています。また、文字盤と裏蓋には**ロッククリスタル(水晶石)**が採用されました ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。透明な水晶は当時ガラスより傷が付きにくく高級とされ、時計の内部を見せるという設計意図に適した素材でした。水晶の透明度により、複雑な機械美を鑑賞できると同時に、文字盤側から針とインデックスを判読できる絶妙なバランスが図られています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。さらに水晶製カバーは音響を通しやすく、ミニッツリピーターの音量確保にも貢献した可能性があります(ガラス製風防に比べて密閉性が高くないため音が漏れやすい)。

鋼の重要性: 一方、ヒゲゼンマイやテンプ軸、歯車の軸(ピボット)、そして打鐘用ゴングやハンマーなど、鋼鉄も要所に使われています。鋼は金に比べて硬く弾性に富むため、ゼンマイやばね、テンプの軸、ネジ類の素材として不可欠でした。ブレゲ160号でもヒゲゼンマイおよび動力ゼンマイは当時最高品質の鋼が使われ、熱処理によって適切な硬さと弾力性を与えられています。また、ミニッツリピーターのゴング(音棒)は音響特性の面から炭素鋼製で、おそらく焼き戻し処理によりよく響く青色バネ鋼に仕上げられていたと考えられます。さらに多くのネジも青焼きされた鋼製で、硬さと装飾性を両立しています ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。鋼と金・宝石という異なる材料の組み合わせを巧みに用いることで、それぞれの特性を活かした機械構造となっているのです。

複合材料による工夫: 温度変化への対策としては、前述の双金属式の補償振り子が挙げられます ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。これは真鍮と鋼という熱膨張率の異なる金属を張り合わせた輪で、温度上昇時には外周が縮む方向に曲がってテンプの慣性モーメントを減少させ、歩度の進みを相殺する仕組みです。また、機械式温度計も二種類の金属帯を利用しており、温度による撓みを文字盤上に示すようになっています。これらは当時の材料科学的知見を応用したもので、金属の熱膨張という物理現象を時計機構に巧みに取り入れた例と言えます。

精密加工技術の進化 #

18~19世紀当時、これほど多くの部品を高精度に加工し組み立てることは非常に高度な技術力を要しました。ブレゲの工房では職人たちが手作業と当時最新の工具を駆使し、部品一つひとつを仕上げていきました。当時既に歯車切り出し用の分割盤や足踏み式の旋盤などが実用化されており、ブレゲもそれらを積極的に導入して時計製造の精度向上を図っていたと考えられます。実際、ブレゲは「時計の歴史を200年早めた」とまで評される技術者であり ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])、製造工程の革新や部品の標準化にも先進的でした。ネジの大量使用(本時計にも多数の小ネジが見られる)も当時としては先端的で、均一なねじ山を持つ小ネジを大量製造するには卓越した加工技術が必要でした。

823点に及ぶ部品は、それぞれが厳密な寸法公差のもと作製・仕上げられています ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。職人たちはルーペで覗きながらヤスリや砥石で微調整を行い、軸と穴石の適合、歯車の噛み合わせ、ばねの強度などを丹念に調整しました。特に複雑機構では各部の寸法精度と位置決め精度が重要で、些細な誤差が全体の動作不良につながりかねません。そのため、ブレゲは各機構を幾度も試作と修正を重ねながら完成度を高めていったと推測されます。フランス革命による中断期間が長期化したことも、逆に言えばじっくり開発を進める猶予となり、完成までに改良が重ねられたとも考えられます。

また、ムーブメントの仕上げも特筆すべき点です。地板やブリッジはエッジが面取り研磨(アングラージュ)され、歯車やネジ頭には磨きがかけられ、目に見えない裏側まで丁寧に処理されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。このような高度仕上げは審美的な目的だけでなく、機械抵抗の低減や耐久性向上にも寄与しました。例えば研磨された軸や穴石は摩擦が減り、ムーブメントの駆動効率が上がります。ブレゲ160号は内部機構を見せる設計であったため、見映えの美しさと機能の両立が求められ、結果として全パーツが芸術品のように磨き込まれることになりました ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

19世紀初頭にはブレゲの息子ら後継者も、この時計の完成に向け高度な製作技術を継承・発展させています。複雑機構の組み立て調整には高度な専門知識と経験が必要であり、当時の職人技の粋が投入されました。その技術水準の高さは、現代に至っても驚嘆に値するもので、2000年代に行われたレプリカ製作プロジェクトでは「当時の製法と技術を徹底的に研究しなおさなければ再現できなかった」と報告されています ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。これは逆に言えば、ブレゲ160号の製作によって時計製造技術が飛躍的に発展したことを意味しています。当時のブレゲ工房で培われた精密加工・組立のノウハウは、その後の時計産業全体にも大きな影響を与え、スイスやフランスの時計技術発展の礎となりました。

音響工学の視点:ミニッツリピーターと音響設計 #

ブレゲ160号のミニッツリピーター機構は、音響工学的にも興味深い設計がなされています。懐中時計に組み込まれた報時機構としては極めて洗練されており、小型の鋼製ハンマー音響ゴングによって澄んだ音色を響かせました。当時、懐中時計の繰り返し報時(リピーター)は主に時打ち・四分打ちが一般的でしたが、本時計は分単位まで打ち分ける高度な「ミニッツ・リピーター」を搭載しています ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。これは時報・四分報・分報をそれぞれ異なる組み合わせの打鐘で知らせるもので、18世紀後半にようやく実現し始めた最先端機構でした。

打撃に用いるゴングは、時計内部に沿わせて丸く曲げられた細長い鋼のリングで、ベル(鐘)の代替として開発されたものです。ゴングはベルに比べスペースを取らず、時計を薄型化できる利点がありますが、その音響特性を最大限発揮するには形状と材質の調整が重要です。ブレゲは音響にも優れ、ゴングの取り付け位置や太さ、材質の硬度などを微妙に調整して、限られた空間で可能な限り大きく澄んだ音を得るよう工夫したと考えられます。また、金製のケースは音をある程度減衰させますが、ブレゲ160号では文字盤・裏蓋が水晶で比較的薄く、音抜けの良い構造になっています。さらにケース側面等に音孔は設けられていないものの、蓋を開ければ音量が増す仕組みで、鑑賞時には蓋を開いて音を聞く想定だった可能性があります。

リピーター作動時の機械制御も巧妙です。ボタン押下により内部で歯車とラック機構が解放され、予めチャージされたリピーター用ゼンマイの力でハンマーが自動的に順序立てて作動します。この一連の打鐘シーケンス制御には、機械式のプログラムとも言える複雑なカム機構が使われます。ブレゲはこれを非常に信頼性高く設計しており、数十年の歳月を経ても正確に動作する耐久性を備えていました。音の高さについては、おそらく時打ち用と分打ち用で2つのゴングがあり、高低の異なる音色(例えば低音で時、高音で分)を出すようになっていたはずです。これにより、暗所でも音だけで時間を判別でき、王妃が夜間に時間を知りたい場合などに便利な機能でした。

音響工学的観点では、限られたサイズの中で最大音量と音質を実現することが課題でした。ブレゲは材料選定(硬質な鋼の使用)、構造設計(ケース内での音響共鳴)、機構制御(打鐘間隔の最適化)などあらゆる面で工夫し、明瞭で調和の取れた音を響かせる名品を作り上げました。当時の記録に具体的な音色についての言及は少ないものの、現存する同時期のブレゲ製リピーター時計はいずれも非常に美しい音を奏でることが知られており、160号も例外ではないでしょう。ブレゲの卓越した音響設計は、現代の時計メーカーがミニッツリピーターの開発においてもしばしば参照する伝統となっています ( Montres Breguet | Breguet Watch Complications)。

機械工学の視点:複雑機構の統合と精密機械設計 #

機械工学的に見ると、ブレゲ160号は極めて高度なシステム統合の成果です。多数の機能を一つの携帯可能な時計にまとめるには、各機構同士の干渉を避け、限られた動力を効率よく伝達し、整然と配置する必要があります。ブレゲはこの課題を巧みに解決し、各コンプリケーション(複雑機構)が統合された調和の取れた設計を実現しました。

まず動力系では、自動巻き上げ機構付きの主ゼンマイが時刻表示とカレンダー機構を駆動し、リピーターには別途ボタン操作で巻き上げられる専用のゼンマイを用いる構成です。こうすることで、リピーター作動が通常の歩度に影響を与えない独立性が確保されています。また独立秒針用にも必要に応じて別機構が組み込まれており、測時中も通常の秒表示に干渉しないようになっています ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。この機能分離と連携のバランスは見事で、機構同士がお互いの動作を妨げずスムーズに連動するよう計算されています。

次に歯車の輪列設計では、各表示系統への駆動を分配するための中間車や切替機構が巧妙に配置されています。永久カレンダーでは日付の送りを1日に1回正確に行う必要がありますが、そのためのカムとレバーが時刻側の輪列から所定時刻に駆動力を受け取り、日変わりを制御します。さらに4年に一度の2月29日を認識するため、複数年周期のカム(閏年カム)が組み込まれ、4年目にのみ月送り時に2月を29日まで進める仕組みです。均時差表示では年次カムが1年かけて一回転し、その形状に沿ってレバーが上下することで±約15分の差を文字盤に示します ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。これらの機構はいずれも主輪列(時刻駆動系)から適切なタイミングで動力をもらい、複雑な動作を実現しています。歯車比の計算カム形状の設計には高い理論性が要求され、ブレゲは天文学や暦法の知識を駆使して正確な表示を可能にしました。

機械設計上の大きな挑戦は、スペース配分と部品配置でした。ムーブメント地板上に複数層の歯車群と機構を載せる必要があり、例えばカレンダーの曜日・月表示は文字盤上の特定位置に針を出すために追加の輪列が必要でした。ブレゲは部品同士のクリアランス(隙間)や厚みをミクロン単位で最適化し、干渉を避けつつ堅牢性も損なわないレイアウトを構築しました。その結果、完成したムーブメントは非常に密度が高いにもかかわらず、整然として整備性も考慮された構造となっています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。各モジュールは分解や調整ができるようブリッジで固定され、必要に応じて修理も行える実用性を備えていました。事実、完成後も1838年に修理のため分解されており ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)、このときスムーズに修復できたことは設計の論理性とモジュール性を物語ります。

テンプの振動系も他機構と干渉しないよう慎重に設計されています。テンプは地板側ではなくムーブメント中心付近に配置され、リピーター作動時の衝撃や自動巻き錘の動きによる影響を受けにくい位置にあります。またパラシュート緩衝装置により振動軸受けが守られているため、持ち運び時の振動から調速系を防御しています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。さらにヒゲゼンマイが自由振りであることで、長期間使用しても調整が狂いにくく、複雑機構全体の動作安定性を支えています。

総じて、ブレゲ160号は当時の機械工学の粋を結集したシステム工学的傑作でした。ブレゲは職人的勘だけでなく力学や材料、計測の知見を統合してこの時計を設計しており、その完成度は後世の技術者をして驚嘆せしめるものです。複雑機構の統合設計という点で、本時計は現代の機械式時計開発にも通ずる原理が多数盛り込まれており、まさに機械式時計のひとつの到達点と言える存在です。

数学的モデルと理論的背景 #

ブレゲ160号の設計には、当時の数学的知識や理論モデルが随所に応用されています。永久カレンダー機構では、暦の周期性を機械で再現するために歯車比とカム形状が巧妙に設計されました。具体的には、4年で1周する閏年カムや、月ごとの日数(30日・31日・2月28/29日)を識別するカムが組み合わされ、これらの凹凸パターンは数学的な周期(4年周期、400年周期など)の理解に基づいています。ブレゲ以前にもトーマス・マッジらが永久カレンダー機構を発明していましたが、ブレゲは自らの時計にそれを組み込みつつ改良を加えています。閏年判定には4で割り切れる年を検知する歯車機構が使われましたが、当時のグレゴリオ暦で100年単位の例外(例えば1900年は閏年でない)がある点までは実装されていません。しかし、基本的な周期計算を機械に落とし込んだ手法は天文学的知識と歯車比計算の賜物でした。

均時差表示ではさらに高度な数学モデルが必要でした。均時差とはその日の真太陽時と平均太陽時との差ですが、これは地球の公転軌道の楕円形状と地軸傾斜によって一年の中で変動する複雑な関数(正弦波2つの重ね合わせ)となります。ブレゲの時計では、年間の均時差変化をハートカムと呼ばれる特殊形状のカムに刻み込んでいました ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。このカム形状は一年の各日に対応する凸凹を持ち、その輪郭は数学的には近似的な形で二倍角の三角関数に対応します。当時、正確な均時差カムを作るには天文表や先行研究のデータを参照する必要がありました。ブレゲはおそらくルロワやルロワ(先代)らフランスの天文時計師の資料を基にカムを製作したと考えられます。結果、±15分程度の差をおおむね精度良く表示できる均時差計を懐中時計に収めました。これは極めて高度な「アナログ計算機」を時計内に組み込んだようなもので、天文学と機械学の融合した成果です。

調速機構にも物理数学的知見が見られます。温度補償テンプは、金属の熱膨張係数の差を利用してテンプの有効径を変化させるもので、その効果を最大化するにはどの位置にスリットを入れるか、どの材質をどう組み合わせるかといった工学的最適化が必要でした。ブレゲはジョン・ハリソン以来のクロノメーター技術を踏まえ、二重構造テンプを採用しています。またヒゲゼンマイの終端カーブ形状(ブレゲ曲線)も、振動中心の移動を抑えるための幾何学的検討の賜物です。ブレゲ自身がこの曲線を発明した際、振動周期とばねの力学についてかなり理論的に考察したと伝えられます。現代では解析的にその効果が説明できますが、当時それを経験則と洞察で成し遂げた点にブレゲの天才性が窺えます。

さらに、独立秒針機構(独立したクロノグラフ秒針)は、テンプの振動数と秒針のジャンプを同期させる必要があります。おそらく1秒間に振動数の整数倍(もしくはその分周)のタイミングで秒針がジャンプするよう設計されており、その歯車比設定にも正確な計算がありました。例えばテンプ振動数が2.5Hz(18,000振動/時)なら、毎秒5振動ですが、そのうち5振動で1秒ジャンプさせるには適切な歯車による制御が必要です。独立秒針では振動数を1Hzに分周する機構(15振動を1振動にカウントする等)があり、これも歯車比の数学に基づくものです。

このように、ブレゲ160号の背景には当時最先端の数学・物理の知識が活かされていました。ブレゲは時計師であると同時にエンジニアであり、理論と実践を結びつけることでこの「機械式の傑作」を生み出したのです。計算に裏打ちされた機構設計は、精度と信頼性のみならず、美しく合理的な構造美にもつながり、ブレゲ160号が技術と芸術の双方で称賛される理由ともなっています。


美術的な分析 #

時計の装飾とデザインの特徴 #

「マリー・アントワネット」懐中時計は、その機械的内容のみならず、美術工芸品としても卓越したデザインを備えています。最大の特徴はスケルトン仕様ともいえる文字盤です。通常、時計の文字盤は金属やエナメルの板で機械部を覆いますが、本時計では透明なロッククリスタル製文字盤を採用し、内部の機械構造をあえて露わに見せています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。文字盤上には金箔で作られたローマ数字のインデックス環と、6時側に小さな秒針・曜日表示のための目盛りが配されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。青焼きされたブレゲ針が時刻や各表示を指し示し、歯車やレバーの動きが透けて見える様子は、機械そのものを装飾として鑑賞させるブレゲの意図が感じられます ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

この時計には実は交換用のエナメル文字盤も用意されており、所有者の希望によって付け替え可能でした ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。エナメル盤は白地にアラビア数字の黒書きがなされた伝統的様式で、視認性を高める目的がありました。一方、通常はロッククリスタルの透明盤を装着し、機械美を堪能できるようになっていました ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。これは機能性と鑑賞性を両立させるための配慮であり、見る者に応じて“文字盤というキャンバス”を替えることができたわけです。

ケース外装は、意外にも非常にシンプルです。金無垢ケース表面には派手なエングレービングや宝石装飾は施されておらず、磨き上げられた滑らかな質感が際立ちます ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog) ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。ブレゲは過度な装飾よりも、フォルムそのものの美しさと素材の高貴さを尊重したデザインを採用しました。側面には繊細なコインエッジ装飾(硬貨状の細かな溝彫り、ブレゲの懐中時計に典型的な意匠)が施されていた可能性がありますが、全体としては機構を主役に据えた控えめな意匠です。リューズ(竜頭)も当時はなく、代わりに天頂部の丸い飾り(ボタン兼用)が巻上・時刻合わせ・リピーター操作を兼ねていましたが、それも滑らかな球形にまとめられています。

ムーブメント自体の仕上げ・配置も、美的感覚に溢れています。地板やブリッジは透かし彫り(スケルトン加工)され、歯車ができるだけ見えるように構成されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。これは単に見せるためだけでなく、機構が噛み合う立体構成自体を一つの「彫刻」のように見立てたデザインとも言えます。実際、本機の内部構造は平面的ではなく、大小の歯車やレバーが幾何学的に配置されており、その様子は建築物のような美しさを感じさせます。ブレゲは「機械に命を吹き込む」ことを重視し、機能美こそ最高の装飾だと考えていた節があります ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。無機質な機械に精妙な動きを与えることで芸術性すら帯びる、と王妃も感じ入っていたと伝えられるほどです ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。

針や数字といった意匠面でも、後の時代に「ブレゲ様式」と呼ばれるデザインを確立しています。青焼きの細身のブレゲ針、エナメル文字盤に用意されたブレゲ数字(優美な筆記体風のアラビア数字) ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)、スッキリとしたレイアウトは、19世紀以降の多くの時計に影響を与えた定番デザインとなりました。160号ではロッククリスタル盤時にはローマ数字を用いるなど、状況に応じたスタイルの使い分けも見られ、ブレゲのデザインセンスの柔軟さもうかがえます。

当時の美術様式との関係 #

1780年代後半のフランス宮廷文化は、ロココの華やかさから古典主義への移行期にありました。マリー・アントワネットは絵画やインテリアにロココ趣味を好みつつも、後年にはより洗練されたシンプルな装い(シュミーズ姿の肖像など)も見せています ( Elisabeth Louise Vigée Le Brun | Marie Antoinette with a Rose | The …)。ブレゲの時計デザインは、まさにその新古典主義的なエレガンスを体現していました。過度な装飾に頼らず、プロポーションの美しさと機能美を強調する様式は、当時台頭しつつあったアンピール様式(帝政様式)やルイ16世様式の端正さに通じます。たとえば、ケースの滑らかな丸みと対称性、数字書体の整然とした佇まいなどに古典的均整が感じられます。一方で、内部機構を見せるという大胆な発想は啓蒙時代の科学的好奇心とも結びついており、科学と芸術の融合という当時の知的潮流を反映しています ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。

宮廷の工芸品といえば、ジュエリー的な装飾品や技巧を凝らした家具調度が多く、この懐中時計もその延長線上に位置付けられます。しかし、ブレゲ160号は純粋に機械そのものの精巧さを美として打ち出した点でユニークでした。これは時計という実用品が美術品に昇華した一例であり、同時代の工芸(オートマタやプラネタリウム的装置など)とも共通する精神があります。マリー・アントワネット自身、自動人形や複雑な調度品を好んだことで知られますが、ブレゲ160号も彼女の求めた「最高のもの」に相応しく、技術の粋を凝らした芸術作品として構想されたのです ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。

当時の他の時計と比較すると、ブレゲ160号のデザインは際立ってモダンでした。例えば同時期の懐中時計には豪華なエナメル細工やミニアチュール(細密画)で彩られたものも多かったのに対し、本機はそうした絢爛さを排し、機械そのものを前面に出しています。この姿勢は、のちの19世紀に広がる産業美術の先取りとも言えます。産業革命以降、機械や構造体に美を見出す動きが現れますが、ブレゲ160号はそれを18世紀王侯のアイテムとして実現させており、時代を先取りしたコンセプトだったと言えるでしょう。

美術史的な影響 #

ブレゲ160号懐中時計は、その後の時計デザインや工芸に多大な影響を与えました。まず、ブレゲ自身が確立したエレガントな意匠(ブレゲ針・ブレゲ数字・コインエッジケースなど)は、顧客に支持され多くの時計に採用されました ( ブレゲ針とブレゲ数字とは?高級時計に込められた歴史と技術を解説 | ジェムキャッスルゆきざき 公式ブログ)。これらの要素は現在でも「ブレゲスタイル」として高級時計に受け継がれています ( ブレゲ針とブレゲ数字とは?高級時計に込められた歴史と技術を解説 | ジェムキャッスルゆきざき 公式ブログ)。また、スケルトンデザインの先駆けとしても意義深いものがあります。内部を見せる時計はその後19世紀末から20世紀にかけて徐々に作られるようになりますが、ブレゲ160号ほど徹底した例は長らく現れませんでした。20世紀後半になって機械式時計が復権すると、各社が競って伝統の複雑機構モデルを発表しますが、その際しばしば引き合いに出されたのが歴史的名作たる「マリー・アントワネット」でした ( Breguet “Marie Antoinette”: the incredible story of the Mona Lisa of …)。

歴史的にも本時計は多くの人々の想像力を掻き立ててきました。1900年代初頭にサロモンズ卿が研究書を出版し ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)、その中で160号を詳細に紹介したことで広く知られるようになります。後年、小説やノンフィクションの題材にもなり、その物語性(王妃に捧げる究極の時計、長い歳月、革命、盗難事件など)は多くの文化作品に影響を与えました ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。美術品・工芸品として各国の博物館で展示も行われており、「技術と芸術の交差点」に位置する代表例として扱われています ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。

また、現代の時計職人・メーカーにとってもブレゲ160号は到達すべき理想の象徴です。20世紀末にはパテック・フィリップ社が「カリブレ89」(1989年)など超複雑時計を製作し、これは160号を超える33の複雑機能を持つものでした。しかしそれも石英時計全盛期への対抗として作られた記念的作品であり、機械式時計の文化的価値を再認識させるものでした。その意味で、ブレゲ160号の存在が機械式時計文化を支え続けているとも言えます。実際、2000年代にブレゲ社(現スウォッチグループ傘下)が160号を復元するプロジェクトを行ったのも、単なる企業PRに留まらず、歴史的遺産へのオマージュであり伝統技術の継承という側面がありました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。復元作業を通じて忘れられた古典技法が再発見されたり、職人達が歴史に学ぶ機会ともなったのです ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。

総じて、ブレゲ「マリー・アントワネット」懐中時計は時計史・美術工芸史における金字塔であり、その技術的完璧さと芸術的価値は今なお人々を魅了しています。王妃と天才時計師の名を冠したこの作品は、破滅の時代を経てもなお現存し、現代に語り継がれることで不朽の芸術工芸品として輝き続けているのです。


歴史的背景 #

当時の時計技術と競争 #

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、時計技術は大きな発展期を迎えていました。イギリスではジョン・ハリソンが経度測定用の海洋クロノメーターを完成させ、トーマス・マッジがレバー脱進機を発明 ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])、フランスではピエール・ル・ロワやその子ルイが精密時計を追求し、スイスでは自動巻き時計(1770年代のアブラアン=ルイ・ペルレによる発明)が登場するといった具合に、各地で技術革新が競い合う状況でした。アブラアン=ルイ・ブレゲは1775年にパリで工房を開き ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])、これら先行技術を巧みに取り入れつつ独自の改良を加えていきます。彼は伝統的なガラマン時計(ヴェルジュ脱進機)からより進歩した構造への転換を図り、瞬く間に宮廷や科学者層の顧客を得てゆきました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。

ブレゲNo.160「マリー・アントワネット」の構想は、当時存在したあらゆる機構を一つにまとめるという野心的なもので、これは競争というよりブレゲ自身への挑戦でした。他に例を見ない複雑さから、同時代の他の時計師たちはこのプロジェクトに驚嘆したと想像されます。もっとも近い比較対象としては、同じブレゲ作のNo.92「プラスラン公爵の時計」(複雑懐中時計、4大発明搭載)がありますが、それですら160号の製作費の1/3程度だったと記録されています ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。つまり160号は群を抜いて高コスト・高難度のプロジェクトだったのです。実際、ブレゲの工房記録によれば、工賃だけで当時17,000フランもの巨額を費やしたとのことで ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)、この数字は他の複雑時計をはるかに凌駕していました。ブレゲは他にも複雑時計を多数製作していますが、全ての機能を網羅した160号は唯一無二でした ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)。

もっと広い視点で見ると、ブレゲ160号は時計技術の進歩に拍車をかける存在となりました。これほどのものが実現可能と示したことで、後続の時計師たちは新たな複雑機構の開発に刺激を受けました。19世紀にはアントワーヌ・ル・クーやニコル&ニコルソンといった工房が複雑懐中時計を製作し、20世紀初頭にはヘンリー・グレーブス・スーパーコンプリケーション(パテック・フィリップ作、1933年)のような超複雑時計が登場します ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。それらはしばしば「女王の時計(Marie Antoinette)」を超えるべく企図されたものでした。言い換えれば、マリー・アントワネットの時計が複雑時計競争の原点になったとも言えるでしょう。もっとも、長い間160号の複雑さは他を寄せ付けず、19世紀を通じてこれを上回る懐中時計は存在しなかったとも言われます ( Breguet “Marie Antoinette”: the incredible story of the Mona Lisa of …)。当時の技術水準では、これ以上の多機能化はほぼ不可能だったことを示しており、ブレゲ160号がいかに先進的であったかを物語ります。

フランス革命期の影響 #

ブレゲNo.160の物語は、フランス革命という歴史的激動とも深く関わっています。1780年代、絶頂期の王妃と結びついたこのプロジェクトは、1789年の革命によって宙に浮いてしまいます。革命勃発で旧体制は崩壊し、マリー・アントワネット自身も1793年に処刑されてしまいました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。発注主である王妃を失った時計を、それでもブレゲは作り続けました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。しかし1793年には彼自身も身の危険を感じスイスへ逃れており、工房の活動は一時停止を余儀なくされます ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。この7年ほどの中断(1789–1795年)は、後に時計完成までの期間をさらに長引かせました ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。

革命によってブレゲは主要顧客であった貴族階級の多くを失いましたが、彼は帰国後、新たな時代に合わせて事業を再構築します。ナポレオン時代になると、ナポレオンやジョゼフィーヌ、各国の軍人・政治家など新興の権力者が顧客となり、ブレゲは彼らに向け比較的実用的な時計も製作するようになります。その中で160号のような超大作は例外的存在でした。革命後もなおブレゲがこの時計を完成させたのは、単なる商売を超えた職人魂と名誉のためだったと推測されます。事実、完成までの歳月から見て採算度外視であり、王妃へのオマージュかつ自身の代表作として世に問う意図があったのでしょう。

革命期にはこの時計の運命も不透明でしたが、幸運にも素材や部品は散逸せず工房に保管されていたようです。そのためブレゲの息子アントワーヌ=ルイは父の没後、それらを引き継いで完成させることができました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。これはブレゲ一族の技術継承と執念の賜物です。もし革命がなければ、おそらくブレゲ自身の手で1790年代にも完成して王妃に届けられていたかもしれません。しかし歴史の皮肉で王妃はそれを手にすることなく亡くなり、時計も数十年の時を経てようやく完成したのです。その結果、この時計は旧体制の遺産としての趣も帯びることになりました。例えば、完成後しばらくはブレゲ家の財産として保管され、誰の手にも渡らなかったことは、この時計が王妃とブレゲの思い出の品として一族内で大切に抱えられたようにも見えます ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。

フランス革命は時計技術の面でも一時停滞を招きましたが、その後の復興期に本作が完成したことは、フランス時計工業の復権を象徴する出来事でした。19世紀前半、パリは再び時計技術の中心地の一つとなり、ブレゲの弟子筋や息子が活躍します。ブレゲ160号は革命の混乱を乗り越えて完成・公開されることで、「フランス工芸の底力」を示す存在ともなりました。1855年のパリ万国博覧会に展示されたという記録もあり ( The holy grail of watchmaking: Breguet’s pocket watch No. 160 – Breguet Blog)、それを目にしたヴィクトリア女王など当時の人々にも深い印象を残したことでしょう。

現代への影響 #

現代において、ブレゲ「マリー・アントワネット」懐中時計は時計史上もっとも有名な時計の一つとしてしばしば言及されます。その技術的偉業は時計技師やエンジニアにインスピレーションを与え続けています。例えば耐震装置「パラシュート」の概念は後にスイスのインカブロックなど実用的な耐震装置に発展し、現在でも機械式時計に広く使われています。またブレゲひげゼンマイの理想曲線は現代の高級時計で標準となっており、テンプの温度補償も合金材料の工夫という形で受け継がれています。つまり、160号に盛り込まれた原理・発明の多くがその後200年以上にわたり時計技術の基盤であり続けたのです。

文化的にも、本時計の影響は大きいです。いくつもの書籍や記事がその歴史を取り上げ、盗難事件の顛末は世界的なニュースにもなりました ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。2007年にオリジナルが奇跡的に発見・返還された際には、「女王の時計が帰ってきた」として各国メディアが報じ、改めてその価値が認識されました ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。また2013年にはCNNが世界で最も高価な時計の一つとして本機を紹介しています ( Marie Antoinette (watch) - Wikipedia)。こうしたメディア露出は、この時計がもはや単なる骨董品ではなく、一般の人々にも興味を持たれる伝説的存在となっていることを示しています。

現代の時計メーカーにとって、160号はブランドの伝統を語る上で欠かせない存在です。特にブレゲ社は自社の歴史の象徴としてこれを位置付け、2005~2008年にかけて社内プロジェクトで復刻版No.1160を製作しました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。復刻版はオリジナルを忠実に再現しつつ一部細部を現代技術で補完していますが、製作に当たっては当時の図面や資料を徹底分析し、古典的手法で部品を作るなど、時計技術の伝承という側面も強調されました ( Montres Breguet | Presentation of the “Marie-Antoinette” watch in a re-edition version)。バーゼルワールド2008でその完成品が公開された際には大きな話題を呼び、世界中の時計愛好家が改めてブレゲ160号の偉大さに思いを馳せました ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。復刻版は現在もブレゲ社に保管され、販売されることなく企業遺産として扱われています ( ブレゲの伝説の時計マリー・アントワネットとは。再現モデルも紹介 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。一方、オリジナルの160号はエルサレムのイスラム美術館に所蔵されつつ、特別展などで世界各地に貸し出されています ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。直近では2023~2024年にロンドン科学博物館の「ヴェルサイユ展」で展示され、啓蒙期フランスの科学と芸術の華として紹介されました ( World’s most famous watch, designed for Marie Antoinette, to star in Versailles: Science and Splendour exhibition at the Science Museum | Science Museum)。

総括すれば、ブレゲ「マリー・アントワネット」懐中時計は時代を超えて影響力を持ち続けていると言えます。それは時計技術のマスターピースとして、また芸術的創造物として、そしてドラマチックな歴史の証人として、多面的な価値を有するからです。未来においてもこの時計が語り継がれ、研究され、称賛されることは間違いなく、まさに不朽の金字塔と評するに相応しいでしょう。


年表(現代まで) #

(※この年表は主な出来事を抜粋したものです。)


関連文献と資料 #