一組のゴングに二つの役割#
パテック フィリップのRef.1938P-001は、ミニット・リピーターと、設定した時刻を打鐘で知らせるアラームを組み合わせた腕時計である。2023年11月10日、フィリップ・スターンの85歳の誕生日に合わせ、30本限定シリーズとして発表された。型番の1938は製造年ではなく、スターンの生年に由来する。12
特徴は、リピーターとアラームが同じ二つのゴングを使うことにある。持ち主が求めた瞬間に現在時刻を鳴らすか、力を蓄えたまま待ち、後でアラームを鳴らすか。その切替を、リューズ内のボタンとケース左側のスライドで扱う。専用キャリバーR AL 27 PSは、この「すぐ鳴らす」と「鳴らすまで待つ」を共存させるために開発された。13
父に贈る時計とR 27の系譜#
企画したのはティエリー・スターンである。1993〜2009年に同社社長を務めた父フィリップが愛する複雑機構としてミニッツリピーターを選び、肖像、署名、献辞を時計の各面へ配した。2023年の公式発表は、このムーブメントを本シリーズ専用とし、将来再使用しない方針を表明した。これは発表時の製作方針であり、全30本の完成・納品日を示す記録とは別である。1
出発点は、1989年に発表された自動巻きの打鐘ムーブメントR 27である。一方、設定時刻を打鐘で知らせるアラームの先例は、2014年のグランドマスター・チャイム5175にあり、2016年には6300へ受け継がれた。1938Pの課題は、その機能をそのまま移すことではなく、R 27の構造と、側面のスライドを維持する方式へ組み直すことだった。14
R AL 27 PSでは227部品が追加され、総部品数は561となった。打鐘モードを選ぶレバーとコラムホイール、打鐘の動力と読み取り機構を必要なときだけ結ぶ機構などが、新しい構成を支える。1
黒・赤・白の三つの状態#
モードを選ぶことと、アラームを有効にすること#
文字盤3時位置のベル形窓は、黒、赤、白の三色で機構の状態を示す。赤を選んだだけで、アラームの準備がすべて終わるわけではない。1
| ベル窓 | 状態 | スライドとの関係 |
|---|---|---|
| 黒 | ミニット・リピーター | スライドで打鐘用ぜんまいを巻き、現在時刻を鳴らす |
| 赤 | アラームを選択 | まだ待機を開始していない。スライドを操作して打鐘用の力を蓄える |
| 白 | アラーム有効・待機中 | 蓄力して待ち、所定の時刻に打鐘を開始する |
リューズに組み込んだボタンでモードを選び、赤の状態からスライドを操作すると白へ変わる。白でまだ打鐘が始まっていなければ、ボタンで黒へ戻せる。その切替自体では打鐘を解放しない。EP4071560の実施例も、選択済みと有効状態を分け、鳴り終わるとアラーム選択状態へ戻る動作を説明する。13
図1:ベル窓の三状態を整理した独自模式図。作者:本サイト編集部。出典原理:パテック フィリップの2023年発表資料、pp.2・4–5。実物文字盤・部品形状を再現する図ではない。既存図版の転載・加工なし。
自動巻きと打鐘の蓄力#
時刻用ムーブメントは、22金の偏心ミニローターによる単方向の自動巻きである。しかし、リピーターやアラームの打鐘用ぜんまいは、ケース左側のスライドによって蓄力する。自動巻きという仕様から、アラームの再設定や蓄力まで自動化されていると考えてはいけない。15
リューズは三位置を持つ。押し込んだ位置は時刻用ムーブメントの手巻き、中間位置はアラーム時刻の設定、引き出した位置は時刻合わせに使う。アラームは12時間表示で、15分ごとに設定する。中央のローズゴールド針と、外周の同色の目盛が、その予定時刻を示す。1
なぜ二分早く鳴るのか#
1938Pは、設定した時刻の二分前にアラームを鳴らす。故障や歩度のずれではなく、打鐘を十分に聞かせるための設計である。例えば3時ちょうどを鳴らすだけなら低音三打で終わるが、3時に設定した1938Pは2時58分に鳴り、その時刻を次のように表す。1
| 音の種類 | 表す時間 | 2時58分での回数 |
|---|---|---|
| 低音 | 時 | 2打 |
| 高低の二重打鐘 | 15分単位のクオーター | 3組、計6打で45分 |
| 高音 | 最後のクオーター以後の分 | 13打 |
| 合計 | 2時+45分+13分 | 21打 |
ここでは二重打鐘一組を二打と数えるので、合計は2+6+13=21打になる。最も長いアラームは12時58分で、12+6+13=31打となる。これは12時間表示で1時を設定した場合の二分前に当たる。したがって、設定針の時刻と、実際に打鐘される時刻を区別して読む必要がある。1
この時計は音楽の旋律を演奏するオルゴールではない。時、クオーター、端数の分という同じ打鐘文法を、随時のリピーターと、時間を予約するアラームに使う。EP4071560の説明には、設定時刻より一分または二分早める変形例もあるが、市販1938Pについてメーカーが指定するのは二分前である。3
待機できる打鐘機構#
時刻を読んでから動力をつなぐ#
通常のスライド式ミニッツリピーターでは、操作により蓄力し、その場の時刻を読み取って打鐘を始める。1938Pのアラームでは、同じ操作の後も打鐘を待たせなければならない。しかも、操作した時刻ではなく、後に到達するアラーム時刻の情報で鳴らす必要がある。3
EP4071560の実施例では、コラムホイールが二つのモードを切り替え、アラーム時にはクオーターの部品を中間待機位置で止める。アラーム差動機構へ、設定時刻と現在時刻をそれぞれ入力し、カムとレバーによって到達を検出する。待機が解かれると、時・クオーター・分の各読み取り部が対応するカムを探り、必要な打数を決める。3
同資料が fusée à détente と呼ぶ組立は、打鐘用香箱とハンマーを動かす部品を切り離し、時刻情報を読み取った後に再び結ぶ役割を担う。ここでいうフュゼを、鎖を円錐滑車へ巻き付けてゼンマイの力を補償する鎖引きフュゼ機構と同一視することはできない。特許が説明する中心的な仕事は、打鐘の動力の結合と解放である。35
一定の操作量で、最長の打鐘に備える#
待機するアラームでは、蓄力した時点で将来の打数に足りるエネルギーを確保しておきたい。1938Pのスライドは、モードや打数にかかわらず同じ距離を動き、最後まで操作すれば打鐘用ぜんまいが十分に巻かれる方式とされた。香箱には滑りばねを設け、過剰な張力を逃がす。15
EP4071561の実施例は、スライドにつながるラックが単方向クラッチを介して香箱胴を回し、戻りではラックだけが復帰する構成を説明する。ラックが戻る動作によって、蓄えた打鐘用の力まで巻き戻してしまわないためである。5 クラッチ自体を扱うEP4058853は、同軸の二つの車、内歯、剛性のある爪、弾性薄板を組み合わせ、一方向の駆動と逆方向の空転を実現する。6
四件の技術文献が担うもの#
2023年の発表は、四つの出願をR AL 27 PSの技術として対応付けている。文献の発明者欄では、単方向クラッチにPascal HumairとJean-Baptiste Le Bris、残る三件にPascal HumairとLudovic Punziが記載される。これは各発明の担当者を示す記録であり、時計全体の設計・製作を一人へ帰属させるものではない。13567
| 公開文献 | 1938Pにおける役割 |
|---|---|
| EP4058853A1 | スライドの往路で蓄力し、戻りで切り離す単方向クラッチ |
| EP4071560A1 | リピーター/アラームの選択と、蓄力・待機の連係 |
| EP4071561A1 | スライドの移動量を一定にし、十分な打鐘用エネルギーを確保する構成 |
| EP4071562A1 | 時刻情報の読み取りの順序を整える遅延機構 |
最後の遅延は、アラームを何時間も待たせる機能とは別である。EP4071562では、クオーター・ジャンパーがサプライズ部品へ動く前に分の読み取り部が落ちてしまわないよう、レバーで一時的に止める。正時前後の境界で数え違いが起きないよう、時・クオーター・分の処理を整えるための短い機械的な順序制御である。7
公開特許は構造を理解する一次資料だが、図中のあらゆる変形例が製品へ採用された証拠ではない。本稿では、メーカーが明示した文献と製品の対応を基準にする。また安全機構があることも、どの操作でも損傷しないという保証とは分けて考える必要がある。
肖像、献辞、機械の仕上げ#
18金の文字盤プレートには黒の本七宝を施し、その上へ白とグレーの本七宝細密画でフィリップ・スターンの肖像を描く。ホワイトゴールドのブレゲ数字と時・分針に対し、アラーム針はローズゴールドとし、現在時刻と予定時刻を色でも区別する。6時位置には小秒針がある。1
ケースはプラチナ製で、直線的なラグとねじ留めのストラップバーを備えるオフィサー型である。裏側のサファイアクリスタルを蝶番付きのダストカバーが保護する構成は、同社が1989年に発表した3960を参照したと説明される。カバーには、父へ85年間の時計製作への情熱を捧げるフランス語の献辞を手彫りする。1
カバーを開くと、受けとハンマーの面取り部分を金色に仕上げたムーブメントが見える。22金イエローゴールドのミニローターはロジウムめっきを施し、縁に金色を残す。フィリップの署名は手彫りし、黒ラッカーで表す。肖像、献辞、署名という三つの表現を、文字盤、保護蓋、動くローターへ振り分けた構成である。14
同時代のJCKは、2023年12月の紹介で、この肖像を持つ外観と、父に贈るという背景に注目した。ただし、こうした近接紹介を、音圧や歩度を測定した性能試験と同一に扱うことはできない。2
仕様と音響上の条件#
| 項目 | 2023年発表資料の値 |
|---|---|
| ムーブメント | 自動巻きR AL 27 PS、直径30mm、厚さ8.23mm |
| 部品・石数 | 561部品、47石 |
| 持続時間 | 最小43時間、最大48時間。時刻用ムーブメントの値 |
| 振動数・調速 | 3Hz、毎時21,600振動。Gyromaxテンプ、Silinvar製Spiromaxひげぜんまい |
| 打鐘 | 同じ二つのクラシック・ゴングによるリピーターと12時間アラーム |
| ケース寸法 | 直径41mm、総厚14.2mm、ラグ端間49.4mm、ラグ間21mm |
| 外装 | プラチナ、6時側ラグ間のダイヤモンド0.02ct、黒アリゲーターストラップとプラチナ折り畳みバックル |
| 防水 | 非防水。湿気・埃に対する保護 |
数値はメーカーの技術表による。1 43〜48時間はアラームを連続して鳴らす時間ではない。また、防塵・防湿への配慮と防水性能も異なる。
パテック フィリップは、プラチナを打鐘音の設計が難しい素材と位置付け、それでもこの金属を選んだと説明する。1 ただし、ケース材質の名称だけから完成品の音量や音色を順位付けすることはできない。1938Pについて、同じ条件で異素材版と比較した公開測定値は、確認した資料には示されていない。
Only Watchの計画と実際の出品#
1938Pの発表には、2023年のOnly Watchで予定された新作の予告が先行していた。しかし、競売の延期後、1938Pは30本の限定シリーズとして発表された。2024年4月のHodinkeeは、延期による計画変更と、Only Watch用に別の6301Aが用意された経緯を報じている。8
2024年5月10日のOnly Watchで実際に出品されたパテック フィリップの作品は、スティール製グランドソヌリ6301A-010である。メーカーの競売後発表も、その型番を明記している。この競売結果を1938Pの落札実績として扱うことはできない。9
1938Pについて確実に言えるのは、30本という発表上の限定数と、各技術・意匠の公開仕様である。個別の販売先、全数の納品完了、所有者の移動、修復履歴、2026年時点の受注状況までを、それらから推定することはできない。
成立と展開の年表#
| 時期 | 確認できる出来事 |
|---|---|
| 1989年 | R 27と、オフィサー型3960が発表される。1938Pは技術と外装の双方でこの時期を参照する。1 |
| 2014年/2016年 | 打鐘で設定時刻を知らせるアラームが5175に搭載され、6300へ展開する。1 |
| 2019年11月13日 | 単方向クラッチ文献EP4058853の特許ファミリーの優先日。6 |
| 2021年4月7日 | EP4071560・561・562の優先日・出願日。発売日とは別である。357 |
| 2022年9〜10月 | 四件のA1公報が公開される。3567 |
| 2023年11月10日 | 1938P-001をフィリップ・スターンの85歳を記念する30本限定シリーズとして発表。24 |
| 2024年4〜5月 | Only Watch用の作品として6301Aが発表され、5月10日に出品される。89 |
| 2026年11月 | 当時の発表資料・特許公報から仕様を検証できる一方、全個体の製作・納品・修復状況は公開資料から確定できない |
参考文献#
[1] Patek Philippe SA, “Minute Repeater Alarm Reference 1938P-001”, 2023年11月、全6頁。https://static.patek.com/pdf/pressreleases/en/2023_PatekPhilippe_Special_Series_1938P.pdf 日本語のメーカー発表転載、Watch Media Online、2023年11月11日:https://watch-media-online.com/news/7758/ (2026年11月4日閲覧)
[2] Victoria Gomelsky, “A Close-Up Look at Patek Philippe’s Fall 2023 Novelties”, JCK, 2023年12月4日。https://www.jckonline.com/editorial-article/patek-philippe-fall-2023-novelties/ (2026年11月4日閲覧)
[3] Pascal Humair, Ludovic Punzi / Patek Philippe SA, “Timepiece with repetition and alarm”, EP4071560A1、2021年4月7日優先・出願、2022年10月12日公開。説明[0001]–[0017]、[0024]–[0025]、[0054]–[0056]ほか。https://patents.google.com/patent/EP4071560A1/en (2026年11月4日閲覧)
[4] Brice Goulard, “The Patek Philippe Minute Repeater Alarm 1938P, Tribute to Philippe Stern”, Monochrome, 2023年11月10日。https://monochrome-watches.com/the-patek-philippe-minute-repeater-alarm-1938p-tribute-to-philippe-stern-85th-anniversary-introducing/ (2026年11月4日閲覧)
[5] Pascal Humair, Ludovic Punzi / Patek Philippe SA, “Timepiece with repetition”, EP4071561A1、2021年4月7日優先・出願、2022年10月12日公開。説明[0001]–[0009]、[0024]–[0032]ほか。https://patents.google.com/patent/EP4071561A1/en (2026年11月4日閲覧)
[6] Pascal Humair, Jean-Baptiste Le Bris / Patek Philippe SA, “Unidirectional coupling mobile, in particular for horology”, EP4058853A1、2019年11月13日優先、2020年11月9日出願、2022年9月21日公開。説明・請求項。https://patents.google.com/patent/EP4058853A1/en (2026年11月4日閲覧)
[7] Pascal Humair, Ludovic Punzi / Patek Philippe SA, “Striking mechanism and timepiece comprising same”, EP4071562A1、2021年4月7日優先・出願、2022年10月12日公開。分読み取り部・クオーター・ジャンパー・サプライズの同期の説明。https://patents.google.com/patent/EP4071562A1/en (2026年11月4日閲覧)
[8] Mark Kauzlarich, “Patek Philippe Announces New Unique Piece For Only Watch, A Steel Sonnerie And Minute Repeater”, Hodinkee, 2024年4月25日。https://www.hodinkee.com/articles/intro-patek-philippe-only-watch-6301a (2026年11月4日閲覧)
[9] Patek Philippe SA, “Only Watch 2024: a very good result for a unique Patek Philippe watch”, 2024年5月、1頁。URLはchs配下だが掲載本文は英語。https://static.patek.com/pdf/pressreleases/chs/2024_PatekPhilippe_Only_Watch_Auction_Ref_6301A_010.pdf (2026年11月4日閲覧)