フィリップ・デュフォー デュアリティ — 二つの調速系を差動で結ぶ腕時計

フィリップ・デュフォー デュアリティ — 二つの調速系を差動で結ぶ腕時計

デュアリティ(Duality)は、フィリップ・デュフォーが1996年に発表した手巻き腕時計である。一つの香箱から二組の脱進機とテンプを動かし、差動歯車を介して両者の歩度を一つの時刻表示へ反映する。文字盤は時・分・小秒針にとどまるが、裏側には二つの独立した調速系がある。1930年代の時計学校の懐中時計に先例を持つ仕組みを、小径の腕時計へ収めた作品である。1 2

製作数は長く9本と記されてきたが、2024年に2014年納品の追加個体が公開され、2026年の取材では本人が計10本と説明した。発表年、個体の製作・納品年代、後年のオークション開催年を分けて見る必要がある。3 4 5

学校の懐中時計から腕時計へ#

着想の出発点#

本人の回想によれば、発端は米国ロックフォードのタイム・ミュージアムのカタログで見た、ジュウ渓谷の時計学校による二つのテンプを持つ懐中時計だった。自らも学んだ学校の過去の仕事が、新しい腕時計の構想につながったのである。AutoCADで設計し、既存部品を利用した実験と差動機構の試作を重ね、二つの調速系を一つの香箱で駆動できることを確かめたと述べる。3

先例の一つは、アルベール・G・ピゲによるル・サンティエの学校時計、ムーブメントNo.220である。2019年のサザビーズの現物記録では1933年製、29石、二組のレバー脱進機とギヨーム・テンプ、一つの輪列と差動機構を備える。同カタログは1932〜1934年に同種のムーブメント6点が製作されたとする。ただし、掲載個体の金ケースは1970年代の後付けであり、現在の外装を1933年の姿とみなすことはできない。6

この先例が示すのは、デュフォーが二つのテンプや差動そのものを発明したわけではない、という技術史上の位置である。デュアリティの課題は、既知の考え方を腕時計の寸法に組み込み、二つの脱進調速系が互いを停止させずに働くよう実現することにあった。1 2

設計と協力者#

開発に協力した時計師ロン・デコルテ(Ron DeCorte)は、1997年の技術記事で、冬の間にデュフォーの工房で作業を手伝い、バーゼルでの発表にも同行したと記録している。したがって、デュフォーの自作時計という性格と、試作開発に協力者がいたという事実は両立する。この記事には差動の分解図、断面図、歯数に基づく作動説明があり、完成品を後から眺めた解説とは異なる、開発に接した記録となっている。2

1998年の本人名義の記事は、1996年のバーゼルでの発表を記し、当時の予定を25本としていた。同時に、コンピューター上の設計だけでは作動を確信できず、組み上げて初めて確認できたこと、通常の歩度測定器は一つの調速系を前提としていることも述べている。二つのテンプを置く空間だけでなく、組立と調整の方法までが製作上の問題だった。1

二つの脱進調速系と一つの表示#

動力の分岐と差動#

ぜんまいの力は一つの香箱から輪列へ伝わる。三番車までは通常の構成に近いが、四番車の位置に差動機構を置き、それぞれのガンギ車・アンクル・テンプへと二系統に分ける。テンプが振動し、対応する脱進機が解放するたびに輪列が進む。その二系統の進み方が、差動を通じて秒針軸、さらに時・分の表示を制御する。2

二つの調速系は独立しており、一方のテンプを止めても他方は動き続ける。両者を共振で同期させることを成立条件とする仕組みではない。2017年にデュフォーがジャック・フォースターへ説明した実験では、一方を止めると小秒針の一周は約2分となる。時計が動き続けることと、正しい時刻を表示し続けることは別である。2 7

二つの独立した脱進調速系の歩度が差動機構を通じて一つの表示へ反映される関係図

図1:歩度の合成を示す概念図。矢印は表示への寄与を表し、動力の流れや実際の歯車配置は表していない。作者:私の時計学。出典:本記事、文献2の機械的関係に基づく独自作図。ライセンス:CC BY 4.0。加工:なし。既存の分解図・図面は転載していない。

「平均」はどこまで厳密か#

一般には、二つの歩度の平均を表示する時計と説明される。ただし、デコルテが1997年に示した歯数では、二つの四番車の秒針軸への寄与はそれぞれ約0.4898と0.5102である。両者の和は1だが、厳密に0.5ずつではない。20歯と28歯の組合せから求めた値であり、この掲載機構については「ほぼ半分ずつの重み付き平均」と表現するのが適切である。2

その説明を式にすると、原論文の下側四番車H・上側四番車Gに対応する二系統それぞれの公称速度からの歩度偏差を eH、eG、表示の偏差を e として、おおむね次の関係になる。2

\[ e = \frac{24}{49}e_H + \frac{25}{49}e_G \simeq \frac{e_H+e_G}{2} \]

ここで偏差の単位を秒/日とするなら、すべて同じ単位で扱う。式は1997年掲載機構の歯数関係を歩度偏差へ書き換えたもので、摩擦や振り角変化を別個に評価した実測モデルではない。製作された全個体の歯数が同一であることまで確認した式でもない。

例えば一方が日差プラス6秒、他方がマイナス2秒なら、半分ずつと近似した表示はプラス2秒となる。一方、両方がプラス6秒なら表示もプラス6秒である。これは式から導いた説明用の例であり、デュアリティの測定成績ではない。二つに増やすだけで誤差が消えたり、精度が必ず2倍になったりするわけではない。

姿勢差を抑える狙いと限界#

デュフォーは2017年の説明で、一方をわずかに進み、もう一方をわずかに遅れるよう調整すること、ひげぜんまいの固定点を反対側に置くことで垂直姿勢の誤差への対応を図ることを述べた。二系統の誤差が異なる傾向を持てば、合成した表示の変動を小さくできるという設計思想である。7

ただし、両方に同じ方向の偏差が生じる条件まで打ち消せるとは限らない。実用精度を論じるには、各姿勢、温度、巻上げ状態、装着条件での測定が必要になる。今回確認した資料には、全個体に適用できる許容日差や、独立した長期比較試験のデータはない。本人の試作実験と、製品全体についての性能保証を区別しておく必要がある。3 7

小さな外装と内部の造形#

基本仕様#

下表はメーカーの仕様と個体カタログで照合できる範囲をまとめたもの。モデル名はDuality、複数の出品記録でムーブメント名をCal.10とする。3 8 9

項目確認できる仕様と範囲
巻上げ・表示手巻き。中央の時・分針と、7時半付近の小秒針
ムーブメント直径30mm、厚さ4mm。40石
調速系レバー脱進機2組、グリュシデュール製テンプ2個、ブレゲ式巻上げひげぜんまい2本
振動数各18,000振動/時、すなわち2.5Hz
調整方式デコルテの観察ではフリースプラング。テンプに調整ねじを備える
持続時間メーカー公表40時間
ケース多くの資料は直径34mm。18金イエローゴールド、ピンクゴールド、ホワイトゴールド、プラチナの製作例・仕様がある
風防・裏面メーカーは両面サファイアクリスタルとする

寸法は資料ごとに確認が要る。例えばNo.00の2017年フィリップス記録は35.5mmと記す一方、本人の1998年記事とNo.03、No.10、No.01の各記録は34mmである。測定条件や記載差の原因は明らかでなく、No.00の数値を系列全体へ広げることも、差を推測で修正することもできない。1 4 8 9 10

仕上げは機械の形を見せる#

二つのテンプを文字盤側へ露出させず、表は簡潔な時刻表示とする。標準的な銀色文字盤では、植字の時標とドーフィン針、左下へずれた小秒針が外観を特徴づける。この小秒針の位置は内部の輪列配置に対応している。外側の静かな構成と、裏側に展開する複雑な機械が一つの時計に収まっている。1

実物を複数回撮影したコレクター、ゲイリー・Gの2015年の観察では、香箱受けの鋭い内角、脱進機側の受けの鏡面仕上げ、光の角度で見え方が変わるジュネーブ・ストライプが詳しく記録されている。これらは面の装飾だけでなく、受けの輪郭、面取りの幅、縁と平面のつながりを見せる仕事である。11

加工の難しさは差動そのものにもある。デコルテは、同軸に重なる部品の真円・同心性の維持、石の圧入、遊星歯車の組立を説明し、ねじを除いた18部品からなる小さな機構として扱う。1998年記事の21部品という数え方とは集計範囲を揃えられないため、単一の確定部品数にはまとめられない。小型化は設計図を縮小するだけで済まず、軸受と歯車が自由に動く精度を保つ作業であった。1 2

9本という記録と、後から見えた10本目#

番号は製作年や総数の代わりにならない#

公式サイトには現在も9本との説明がある。一方、2024年のフィリップス「Reloaded」ロット65は、原所有者から出品されたNo.10を、注文からほぼ10年を経て2014年に納品された追加個体とする。全面をつや消しにしたプラチナケース、灰色文字盤、ピンクゴールド色の針と時標という個別の仕様を備え、出自証明書も付属する。3 4

さらに2026年6月公開の工房訪問記事では、デュフォー本人が10本製作したと答えている。同記事によると、番号には注文者の希望を取り入れたため、大きな番号の存在から製作数を数えることはできない。初期資料の9本という記録をそのまま現在の総数とせず、後年の個体資料と本人への取材を併せると、確認時点の説明は10本となる。5

1999年の証明書を持つNo.03やNo.01もある。「1996年のモデル」という呼び方は発表年代を示すのであって、すべての個体が1996年中に完成・納品されたことを意味しない。番号順に完成年を補うこともできない。8 9

個体資料が伝える違い#

個体個体記録上の年代公開記録から分かる特徴
No.001996年プラチナ。2017年のフィリップス出品記録があり、初期個体を追う資料になる。10
No.031999年18金ホワイトゴールド。1999年9月10日付の出自証明書。2024年出品時には追加の黒いラッカー文字盤と針一式が付属した。8
No.102014年納品全面つや消しのプラチナ、灰色文字盤。2024年に公開された追加製作個体。4
No.011999年頃18金ホワイトゴールド。1999年付の出自証明書、当初のプレス資料とムーブメント図を伴って2025年に出品。9

この表は全個体の台帳ではない。文字盤、針、外装、付属品を個体単位で見るための例である。とくにNo.03の追加文字盤が存在することから、写真に写る外観だけで当初納品仕様や別個体の存在を決めることはできない。8

2020年代の評価と、その読み方#

2024年6月8〜9日のフィリップス・ニューヨークでNo.03は2,056,500米ドル、同年11月8日のジュネーブでNo.10は1,512,000スイスフラン、2025年12月6〜7日のニューヨークではNo.01が3,085,000米ドルという公表成約額を記録した。これらはいずれも買手手数料を含む額である。12 13 14 15

同じモデルでも、個体番号、外装、付属資料、初出品かどうか、売却時期と通貨が異なる。これらの成約額を一つの相場や一定の値上がり率へ置き換えることはできない。むしろオークションの個体記録は、製作数の説明を更新したNo.10や、1999年の証明書を持つ初期個体の存在を公開する史料としても重要である。4 8 9

2026年の工房訪問では、デュフォーは差動を改良した構想にも触れたが、製作には時間がかかり、追加の要望に応じる余裕がないと説明している。これは本人の構想についての取材記録であり、新型デュアリティが発売されたことを示すものではない。5

技術史上の意義は、二つのテンプという見た目の珍しさに尽きない。学校時計に蓄積された機械的な発想を腕時計へ移し、複数の調速系の歩度を一つの表示へ結びつけたこと、その機構を小さなケースと徹底した仕上げの中へ収めたことにある。優劣を精度の数値だけで決めるための試験資料は限られるが、設計図、開発協力者の記録、本人の実演、現存個体を突き合わせて仕組みをたどれる作品である。1 2 5 11

年表#

年月出来事と資料上の位置づけ
1932〜1934年ル・サンティエの学校で二重脱進機・差動を持つ同種のムーブメント6点が製作されたと後年の現物カタログが記録。No.220のムーブメントは1933年。6
1996年デュアリティをバーゼルで発表。1998年の同時代記事が確認する。1
1997年6月デコルテが開発協力の経験と差動の構造・歯数計算を発表。2
1998年3月本人名義の記事が25本の製作予定、寸法、製作手法を紹介。1
1999年No.03およびNo.01に付属する出自証明書の年代。発表後の個体記録が残る。8 9
2014年フィリップスの個体記録によればNo.10を原所有者へ納品。4
2017年No.00がフィリップスに出品。本人への取材が差動の働きと調整の考え方を伝える。7 10
2024年6月No.03がニューヨークで成約。8 12
2024年11月No.10がジュネーブで公開・成約。従来の9本という理解に追加資料をもたらす。4 13
2025年12月No.01が当初の資料と証明書を伴ってニューヨークで成約。9 14
2026年6月工房取材で本人が計10本と説明。差動の実演模型と手彩色図面も紹介される。5

調査上の限界#

全個体の製作・納品台帳、各時計の調整・修理履歴、全姿勢の精度試験結果は確認できていない。個体の年代・付属品・来歴は公開された出品資料の記載として扱い、現在の所有者や保管場所を推定しない。1930年代の学校時計についても、参照したのは現物を扱った後年のカタログであり、当時の学校の原簿やタイム・ミュージアム旧蔵カタログ自体を全文確認したものではない。

最終確認日:2026年11月4日(日本標準時)。

参考文献#

  1. Philippe Dufour, “The Duality: A Double Escapement Wristwatch,” Horological Times, 1998年3月、pp.8–10。AWCI公開PDF。閲覧日:2026年11月4日。

2. Ron DeCorte, CMW, “Duality: A Double Escapement Wristwatch from Philippe Dufour,” Horological Times, 1997年6月、pp.40–43、特にpp.41–43、図1–4。AWCI公開PDF。閲覧日:2026年11月4日。

3. Philippe Dufour, “Mes créations,” 「Montre bracelet Duality」節、公開年記載なし。メーカー公式サイト。本人の回想・仕様説明。閲覧日:2026年11月4日。

4. Phillips, Reloaded: The Rebirth of Mechanical Watchmaking, 1980–1999, 2024年11月8日、ロット65、Duality No.10。個体記録。閲覧日:2026年11月4日。

5. Mark Kauzlarich, “Dispatch: A Visit to Philippe Dufour’s Workshop, Thirteen Years Since Our Last,” Hodinkee, 2026年6月3日。工房訪問と本人への聞き取り。閲覧日:2026年11月4日。

6. Sotheby’s, Masterworks of Time: Adolphe Lange, The Golden Era of Glashütte, 2019年、ロット100、Albert G. Piguet, Le Sentier, No.220。学校時計の個体記録。閲覧日:2026年11月4日。

7. Jack Forster, “Just Because: How The Dufour Duality Actually Works, As Explained By Philippe Dufour,” Hodinkee, 2017年11月15日。本人への技術聞き取り。閲覧日:2026年11月4日。

8. Phillips, The New York Watch Auction: X, 2024年6月8〜9日、ロット87、Duality No.3。個体と付属品の記録。閲覧日:2026年11月4日。

9. Phillips, The New York Watch Auction: XIII, 2025年12月6〜7日、ロット94、Duality “No.1”。個体と証明書の記録。閲覧日:2026年11月4日。

10. Phillips, Winning Icons, 2017年10月26日、ロット47、Duality No.00。個体記録。閲覧日:2026年11月4日。

11. GaryG, “Behind The Lens: Philippe Dufour Duality,” Quill & Pad, 2015年3月16日。現物の撮影・観察記録。閲覧日:2026年11月4日。

12. Phillips, The New York Watch Auction: X — Sale Results, 2024年6月8〜9日、ロット87。結果表PDF。買手手数料を含むと明記。閲覧日:2026年11月4日。

13. Phillips, “Phillips Watches Surpasses US$200 Million in Annual Auction Sales for Four Consecutive Years,” 2024年末、上位成約表No.10および手数料注記。公式結果発表PDF。閲覧日:2026年11月4日。

14. Phillips, “The New York Watch Auction: XIII Achieves $43.5 Million,” 2025年12月7日。公式成約発表。開催期間およびNo.01の成約額。閲覧日:2026年11月4日。

15. Phillips, The New York Watch Auction: XIII — Sale Results, 2025年12月、ロット94。結果表PDF。買手手数料を含むと明記。閲覧日:2026年11月4日。