Sibonのアーンショウ型脱進機模型#
Théophile Edme Sibon(テオフィル・エドム・シボン)がジュネーヴで製作した、アーンショウ型の自由脱進機を示す模型である。パリのフランス国立工芸院(Cnam)の工芸博物館が、資料番号12435-0000-として記録している。真鍮の地板には製作者名と「GENEVE 1844」の銘があり、1893年に寄贈によって収蔵された。発明者トーマス・アーンショウ本人の作品ではなく、後代の職人がその機構を具体的な物体にした例である。1 2
この模型で注目したいのは、テンプが往復するのに、脱進車が進むのは一往復につき一度という非対称な動きである。歯車を止める部品、止めを解除する部品、テンプへ力を渡す部品を分けることで、振動をできるだけ歯車の影響から自由にする。その関係を、小さな脱進機の中に見ることができる。3 4
個体の同定と来歴#
1844年の刻銘と1893年の受入#
現行の収蔵記録は、原理の作者をThomas Earnshaw、実際の製作者をThéophile Edme Sibon(1821–1890)と分けている。製作年代の専用欄は「1893年以前」という広い範囲だが、刻銘欄には製作者名とジュネーヴ1844年の表記を記録する。1949年の時計部門目録もSibonが1844年にジュネーヴで製作したと説明し、さらに1906年の公式目録は、同じ番号12435に1844年と1893年寄贈を記している。1844年は銘と旧目録が示す製作年、1893年は受入年である。1 2 3
寄贈者は旧目録でMlle Sibonと記される。製作者との続柄や寄贈の事情までは示されていない。また、製作時の注文主、特定の学校のために作られたという発注記録も確認できない。博物館目録は機構を説明する資料として扱っているが、1844年当初の用途を特定してはいない。2 3
小さな機構と箱#
| 項目 | 現行収蔵記録の内容 |
|---|---|
| 名称 | Échappement libre type Earnshaw |
| 主番号 | 12435-0000- |
| 構成 | 脱進機本体C01、箱C02 |
| 大きさ | 箱を除く本体の高さ2.5 × 幅6.2 × 奥行7.2 cm |
| 重量 | 箱を除く本体122 g、本体と箱の合計183 g |
| 物体の分類 | 実物大の物体(Objet grandeur réelle) |
これらは個体を記録した値であり、アーンショウ型脱進機一般の標準寸法ではない。目録が模型と呼ぶからといって、拡大模型であるとも限らない。1
材料欄には真鍮、鋼、鼈甲、厚紙、紙、未同定の繊維が挙げられる。ただし各材料と部位の対応は示されておらず、箱や付属部分を含む記録から、脱進機のどの部品がどの合金であるかまでは決められない。現行写真には箱に収めた機構が見えるが、1949年目録の図33は動作を読み取るための線図であり、外観写真とは性格が異なる。1 3
往復の片側だけで力を渡す仕組み#
止め・解除・衝撃の役割#
機械式時計では、ぜんまいから歯車へ伝わる力を、そのまま流し続けるわけにはいかない。脱進機が歯車の進みを振動に合わせて小刻みに区切り、同時に振動を維持するための力を渡す。アーンショウ型では、歯車を止めるデテントと、テンプ軸上で力を受ける衝撃石を分けている。4
1949年目録の図33は、この模型に対応する機構を次の記号で説明する。3
| 記号 | 部品 | 役割 |
|---|---|---|
| E | 脱進車 | 歯が止められ、解除されると回転して力を渡す |
| d₁ | 衝撃石 | テンプ軸上の円盤にあり、歯から直接力を受ける |
| d₂ | 解除指 | 同じ軸にあり、デテントの解除に働く |
| D、r | デテントと止め石 | 歯を受け止め、脱進車の回転を止める |
| r₍d₎ | 小ばね | 解除指の通過を往路と復路で異なる作用にする |
図の説明では衝撃部、解除部、止め部に石を用いる。石の鉱物種や寸法はそこでは特定されていない。一般のクロノメーターに使われるルビーや金の通過ばねの説明を、この模型の材料分析の結果として扱うことはできない。3 4
一往復の動作#
最初に、脱進車の歯がデテントの止め石に当たっている状態を考える。テンプは歯車を連続して引きずらず、振動を続ける。やがて解除指が小ばねを介してデテントを動かすと、止め石が歯から離れ、脱進車が進む。回転する脱進車の歯がテンプ軸上の衝撃石を押し、振動へエネルギーを補う。3 4
解除指が離れるとデテントが戻り、再び歯を止める準備ができる。衝撃が終わって次の歯が止められると、テンプは歯車から切り離されて振れる。戻りの振動では、解除指は小ばねをたわませて通過するだけで、止め石を持ち上げない。脱進車は止まったままで、この半往復には衝撃を与えない。3 4
つまり小ばねは、両方向に同じ仕事をする部品ではない。一方では解除の力をデテントへ伝え、反対側では自分が逃げる。仏語でいう「自由脱進機」の自由とは、接触がまったくないという意味ではなく、振動の大部分を歯車から離しておけることを指す。また「空振り」があることは故障ではなく、片側だけで衝撃を与える設計の特徴である。3 4
模型から分かることと精度の違い#
1904年の時計実務書は、クロノメーター脱進機の設計を、部品の形だけでなく、重さ、ばねの強さ、歯の厚さ、接触の調整の問題として扱う。デテントを軽くすると復帰に必要なばね力を小さくできるが、ばねは歯車の押す力にも耐えなければならない。解除しやすさと、確実に止め続けることの両方が必要なのである。4
2018年の機構シミュレーション研究も、同じ形式の脱進機を、歯と石の接触、解除、衝撃、デテントの復帰、戻り側の通過という段階に分ける。ただし、そこで設定された歯車径やばね定数は研究用モデルの条件であり、Sibonの個体を測定した値ではない。5
この個体の歩度、連続作動時間、調整記録は公開収蔵記録に示されていない。模型で動作を説明できることから、一日に何秒の精度が得られたかを導くことはできない。実際の時計では、テンプとひげぜんまい、温度補償、軸受、動力の安定なども歩度に関わる。1 4
機構を伝える模型の役割#
アーンショウ本人の模型との違い#
ロンドンのRoyal Museums Greenwichには、アーンショウ本人が1804年に経度委員会のために作った脱進機模型ZAA0123がある。同館によると、委員会はその年3月、アーンショウとジョン・ロジャー・アーノルドに、それぞれの発明を確かめる模型を作るよう求めた。この模型は発明を審査するための物体で、Sibonの1844年作とは製作者、時代、個体番号のすべてが異なる。6
Sibonの作品は、発明者本人が優先権を示すために提出した品とは位置づけられない。むしろ、既に成立した機構を別の職人が製作し、のちに博物館が比較説明する資料として受け入れた例である。1906年の目録では各種脱進機と並び、1949年の目録では、同じ寄贈者のシリンダー脱進機模型12436とは別項目として扱われている。2 3
機構を理解する資料としての価値#
この模型の価値は、単独の歯車やばねを眺めるだけでなく、停止・解除・直接衝撃・復帰・戻り側の通過という仕事の分担を追える点にある。時計実務書が重視するのも、決まった寸法を暗記することより、なぜその部品と調整が必要なのかを理解することである。3 4
一方で、今日残る機構の形だけから、1844年の全仕様、現在の稼働状態、過去の修復や部品交換を復元することはできない。現行記録は本体と箱を個別の構成要素として登録しているが、公開展示場所や修復履歴までは示していない。Sibonの模型は、航海用クロノメーターを丸ごと代表する完成時計というより、精密時計の要点を限られた部品の関係から理解させる収蔵品として読むことができる。1 3
年表#
| 年 | 出来事と対象 |
|---|---|
| 1804年3月 | 経度委員会がアーンショウとジョン・ロジャー・アーノルドに模型製作を求める。Sibon作品とは別個体の背景史。6 |
| 1844年 | Sibon作品のジュネーヴの刻銘年。1906・1949年の目録も製作年として記録。1 2 3 |
| 1893年 | Mlle Sibonの寄贈。現行記録でも取得年を1893年とする。1 2 |
| 1906年 | 公式目録第3分冊p.148に番号12435で掲載。2 |
| 1949年 | 時計部門目録pp.118–120に説明と図33を掲載。3 |
| 2022年9月29日 | 現行オンライン収蔵記録に表示される更新日。1 |
参考文献#
- Musée des Arts et Métiers – Cnam, Échappement libre type Earnshaw, inv.12435-0000-, 更新2022-09-29。個別記録の作者、刻銘、取得、寸法、材料、参照目録欄。閲覧2026-10-20。
2. Conservatoire national des arts et métiers, Catalogue officiel des collections, troisième fascicule, Paris, E. Bernard, 1906, p.148(CNUM vue150/288)。番号12435、隣接12436、巻頭の番号・年代表記の説明。閲覧2026-10-20。
3. Conservatoire national des arts et métiers, Catalogue du musée. Section JB, Horlogerie, Paris, 1949, pp.118–120, fig.33。製作者、二方向の作用、図の部品記号。閲覧2026-10-20。
4. The Keystone編纂, Watch and Clock Escapements, Philadelphia, 1904, Chapter III, “The Chronometer Escapement”, figs.136–137とデテントの機能・設計条件の節。Project Gutenberg電子版2005。閲覧2026-10-20。
5. Ivana Cvetković, Miša Stojićević, Branislav Popkonstantinović, Modeling, Motion Study, and Computer Simulation of Thomas Earnshaw’s Chronometer Detent Escapement Mechanism, 2018-11-05, DOI:10.5772/intechopen.79939, §§2–4。一般形式の研究で、Sibon作品の調査ではない。閲覧2026-10-20。
6. Royal Museums Greenwich, Model of Earnshaw’s escapement, ZAA0123。1804年の別模型の製作事情と個体情報。閲覧2026-10-20。