スペース・トラベラー ― 二つの時刻を一つのテンプで刻むダニエルズの懐中時計

スペース・トラベラー ― 二つの時刻を一つのテンプで刻むダニエルズの懐中時計

スペース・トラベラー(Space Traveller)は、英国の時計師ジョージ・ダニエルズが1980年代初頭に製作した二つの懐中時計である。平均太陽時と恒星時という異なる時刻を、二つの独立した輪列と一つのテンプで同時に表示する。IとIIは量産モデルの同仕様品ではなく、表示の目盛、外装、クロノグラフの有無が異なる個別作品である。とりわけIIは、平均太陽秒と恒星秒のどちらでも経過時間を測れる選択式クロノグラフを備える。1 2 3

名称は月着陸への敬意に由来する。ただし、その技術的な中心は宇宙船の運行ではなく、地球の自転と太陽に対する運動から定められる二つの時刻を機械で結び付けることにある。ダニエルズが得意としたコーアクシャル脱進機とも異なり、ここで使われるのは独立二重ガンギ脱進機(independent double-wheel escapement)である。4 6 7

二つの作品と製作の背景#

同じ名前、異なる個体#

項目Space Traveller ISpace Traveller II
年代1982年に販売Phillipsの作品一覧では1983年。Sotheby’sの目録では「1982年頃」
ケース径約62.5 mm約63 mm
ケース・文字盤金ケース、銀のエンジンターン文字盤18Kイエローゴールドケース、銀のエンジンターン文字盤
左側の時刻恒星時、24時間目盛と小秒針恒星時、24時間目盛と小秒針
右側の時刻平均太陽時、24時間目盛と小秒針平均太陽時、12時間目盛と小秒針
天文表示年カレンダー、月齢・月相、均時差年カレンダー、月齢・月相、均時差
経過時間計測IIの中央クロノグラフは持たない中央秒クロノグラフ。輪列を選択可能
動力・持続時間鍵巻き、二香箱、目録値32時間鍵巻き、二香箱、目録値32時間
代表的な来歴Bobinet、Jay Lennon、1988年競売を経た私蔵製作者が保持。2012年・2017年競売、2019年博物館貸出

仕様は各個体を扱った競売目録に基づき、寸法は概数である。Iのケースにあるロンドンの1983年輸入印は、1982年の販売記録と別の段階を表す。IIの年代にも一年程度の資料差があるため、完成月日まで確定した作品としては扱えない。1 2 3

直接衝撃と二輪列を天文表示へ#

ダニエルズは、テンプへ直接エネルギーを与える精密時計の長所を、往復の両方向に衝撃を与える構成へ取り込もうとした。2003年の口述で、従来のクロノメーターが往復の片側だけで衝撃を受けることと、携帯中に停止した場合の再始動の問題を説明している。二輪列は、単に表示を二つにするために加えた部品ではない。まず二方向へ交互に衝撃を与える脱進機の動力系があり、それぞれの歯車比を変えて異なる時刻尺度を持たせたのである。5 6

Phillipsの作品一覧では、Atwood、Clutton II、Beyerなどの独立二重ガンギ作品がSpace Travellerより前に位置する。Beyerは1977年の検定印、1978年の販売とされる。作者がチューリヒでTheodore(Teddy)Beyerへ手持ちの時計を譲り、その後に二輪列を平均太陽時と恒星時へ使い分けることを思い付いたという口述は、この先行作品を含む製作の流れとして読む必要がある。名前の似た時計を一つの売買逸話へまとめることはできない。3 6

IについてSotheby’sは1979年の着手、1980年の設計図、1982年のBobinetへの販売を記録する。作者の1980年計算図にも二輪列、太陽側の金針と恒星側の鋼針、均時差用輪列の構想が残る。数学者Henry Ellis Danielsは歯車で表せる時刻比の計算に協力し、作者は二人の名にちなむ「Daniels Squared」という名称を考えた。最終的に月着陸を記念するSpace Travellerという名を選んだことは、作者自身の口述でも確認できる。1 6 15

二つの時刻を刻む機構#

二つの動力源、一つの振動子#

両作品のムーブメントはレピーヌ型の構成で、金めっき真鍮の地板・受けを持つ。二つの香箱のぜんまいがそれぞれ別の輪列を駆動し、終端の二つのガンギ車は反対方向に回る。その間に三つの停止石を持つY形デテントが置かれ、両輪列は一つのテンプへ集まる。テンプは四本腕の単金属ステンレス鋼製で、金の調整ねじ、ダニエルズの補助温度補償、自由振動式の巻上げひげぜんまいを備える。1 2

「独立」は、両方が好き勝手な歩度で進むという意味ではない。別々に蓄えた動力を、共通の振動子の往復へ交互に渡す構成を指す。一方向の半振動では一方のガンギ車が解放され、歯がテンプのローラーに付く衝撃石へ直接作用する。逆方向の半振動ではもう一方が衝撃を与える。中央の三つの石は輪を止める仕事を担い、テンプへ衝撃を伝える石とは役割が分かれている。4

この構成はブレゲの自然脱進機と関係する。Derek Prattの原論文は、ブレゲの二輪を歯車で連結した方式では、同時に動く輪の慣性と、従動輪を不確かに位置決めする歯のすきまが問題になったと説明する。ダニエルズは輪を別々に駆動し交互に動かすことで、この連結の問題を避けた。Prattは停止面の引き込みによる確実な停止と、衝撃部で油に依存しない働きを評価している。ただし、脱進機の衝撃部に注油を要しないことは、時計全体が無潤滑・無整備という意味ではない。4

歯数の差と設計の制約#

IIを2012年に分解整備したRoger W. Smithは、恒星側のガンギ車が14歯、太陽側が13歯で、共通のテンプを駆動すると記す。異なる歯数の輪を同じ振動子へ組み合わせるためには、輪列比だけでなく、歯の進みと衝撃・停止の幾何形状を整合させる必要がある。イタリア語の技術解説も、太陽側13歯、恒星側14歯という構成を図示する。2 14

1980年の作者計算図にも太陽側13歯、恒星側14歯の表記があり、二輪列を同じ部品の単純な複製にはしていない。Sotheby’s提供の別の輪列図「Fig A」には、一方の終端付近にもう一つの歯車を置く配置が示される。こうした図面は、時刻比を有限個の歯車へ割り当てる設計の証拠である。一枚の計算図の数値を、そのまま完成時計の全歯数表や実測精度とみなすことはできない。15

二輪列には場所と部品が必要になる。ダニエルズは、より単純で腕時計へ収めやすい脱進機を求め、コーアクシャルの開発へ進んだと口述している。Prattも独立二輪列をトゥールビヨンへそのまま組み込む難しさを論じた。Space Travellerは二輪列の負担を消した時計ではなく、その負担を二種類の時刻表示という積極的な機能へ転じた作品である。4 7

平均太陽時、恒星時、均時差#

恒星時が約四分先へ進む理由#

太陽が同じ子午線へ戻るまでの時間と、恒星を基準に地球の向きが一周する時間は一致しない。地球は自転する間にも太陽の周囲を進むため、太陽へ再び同じ向きを向けるには余分な回転が必要になる。日々の太陽の動きを平均化した平均太陽日は24時間だが、恒星日は平均太陽時の単位で約23時間56分4秒である。恒星時の表示は平均太陽時に対して一日につき約3分56秒先へ進む。9 10

一定速度の時計でこの差を表すには、両側を違う比率で進めればよい。米海軍天文台の近似式では、平均太陽時の一時間を恒星時へ換算する係数は約1.0027379である。この値は差の大きさを理解するための天文学的な値であり、Space Travellerの全輪列を再現する製造指示ではない。厳密な恒星時には歳差・章動と、平均恒星時/視恒星時の区別もある。10

作者は、恒星の観測で恒星側を合わせれば、もう片側から平均太陽時を読む計算機として説明した。この点が、二つの場所の通常時刻を表示するだけの時計とは違う。ただし二つの表示は共通のテンプに依存し、実際の天体観測や時刻合わせに代わる独立の絶対時刻標準ではない。現在のUTCも、地球の自転に従うUT1と同一ではない。6 12

均時差は別の差である#

恒星時と平均太陽時の差とは別に、日時計が示す視太陽時と平均太陽時の差がある。地球軌道の離心率に加え、自転軸の傾きによって、太陽の見掛けの進み方は季節で変わる。差は年の途中で増減し、約16分に達することがある。これが均時差であり、文字盤上部の扇形表示が担う。9 11

米海軍天文台は均時差を「視太陽時から平均太陽時を引いた値」と定義する。したがって正なら日時計が平均時より先、負なら後になる。時計の均時差表示は年間の変化をカムへ写し、日付に応じた位置を指針へ伝える仕組みである。両作品の目録は、年カレンダー環と腎臓形カムを記録している。1 2 11

ここでいうannual calendarは、目録にある年周のカレンダー環である。現代腕時計で「年次カレンダー」と呼ぶ、月の大小を自動で区別して年一回だけ修正する機能まで意味するとは限らない。Space Travellerの目録は永久カレンダーや閏年処理を記録していないため、それらを天文表示に追加して理解することはできない。1 2

月の表示とIIのクロノグラフ#

月相は月の明暗の形、月齢は新月からの経過を表し、両作品は恒星側の輪列から月の表示を駆動する。時計の小さな窓へ天体の周期を示す機構であり、恒星時の文字盤がそのまま月の一周を表すわけではない。目録は月表示を高精度と形容するが、全歯数と長期試験値は示していないので、何年で一日の誤差になるかという性能値は確定できない。1 2

IIのクロノグラフは中央の針と外周の秒目盛を使う。ムーブメント側のレバーで結合先を選ぶと、同じ経過時間を平均太陽秒または恒星秒の尺度で測れる。側面にはクロノグラフ用の二つの丸い押しボタンがある。Smithはこの切替クラッチが、後の二作品に使われるコンパクトなクロノグラフ機構の出発点になったと説明している。ここで時計を切り替えているのは経過時間の尺度であって、地球の自転や時間そのものではない。2 9

材料、製作、意匠#

文字盤は銀へエンジンターン、すなわち旋盤を使う規則的な彫り模様を施し、重なり合う小文字盤を左右へ置く。IIでは平均太陽時に金針、恒星時とクロノグラフに青焼き鋼針を使う。色、24時間と12時間の目盛、二つの小秒表示が、複雑な機構の違いを読める形へ整理する。裏側ではクロノグラフを追加するため、IIの中央の受けはIより細く、ガラス裏蓋越しに機構を見ることができる。2

Iの1980年設計図にも金と鋼の針の指定があり、外見の整理を内部の計算と並行して考えたことが分かる。作品の美しさは装飾だけでなく、共通のテンプへ合流する二輪列の対称性と、別々の時刻を左右で読む構成の対応にもある。15

作者は一般的な製作方法を語った口述で、素材から旋削、切断、やすり掛けを行い、相互の動きを確かめ、鋼部品を焼入れ・焼戻ししてから再び研磨する工程を説明した。ねじ、ばね、脱進機の石も個々の時計に適合させる必要がある。Science Museumの学芸員はIIを「ほとんど全ての部品を手で製作した」時計と記す。この範囲を超えて、宝石の原石採掘から全て本人の仕事だったという意味に広げることはできない。8 9

付属品には金の鎖と、金・青焼き鋼の両端鍵がある。巻上げと整時を鍵で行う懐中時計であり、現代のりゅうず式腕時計の操作をそのまま当てはめられない。Iには作者署名入りの恒星時・平均太陽時の取扱説明書が付属すると目録に記録されるが、具体的な調整手順はその全文に従う必要がある。1 2 3

来歴、保存、精度の読み方#

IとIIの別々の道筋#

Iは1982年にBobinetへ売られ、Jay Lennonを経て、1988年11月17日にSotheby’sジュネーヴのlot 375として競売に出た。2019年の目録は、1988年以来同じ私蔵コレクションにあったと記録する。2006年のダニエルズ回顧展にはIが出品されず、2019年のMasterworks of Time、lot 143で再び競売に現れた。公開目録から2019年以後の所有者と現在の保管場所までは確定できない。1

IIは作者が2011年の死去まで保持した時計である。2006年7月18–23日のSotheby’s回顧展で展示番号16、2010年11月のSalon QPにも出品された。2012年11月6日に遺蔵時計の競売lot 9、2017年9月19日にlot 121となり、2019年8月には個人からの貸出で、ロンドンScience Museum内のClockmakers’ Museumに展示された。2019年の学芸員記事は貸出開始を確認できる資料だが、2026年現在も同じ展示位置にあるという保証ではない。2 9

SmithはIIを作者が行事の際に選ぶ時計として回想し、自分が時計修理から製作へ向かうきっかけになったとも書く。2012年の整備では機構を全面的に分解したという。この証言は実物を扱った時計師の経験であり、個体の製作と後世の技術継承をつなぐ。一方、公開された整備記述は部品交換の全一覧ではないので、現在の全ての部品が製作時のままだとは言えない。2

輪列の計算誤差と時計の歩度#

時刻比を有限の整数歯数で近似する誤差と、実物の時計が一日に進む・遅れる量は別である。後者にはテンプ・ひげぜんまい、姿勢、温度、動力の状態などが関わる。Sotheby’sの2017年状態報告はIIの作動、クロノグラフ、カレンダーと月表示の動きを確認する一方、時刻の正確さを試験していないと明記している。32時間という持続時間も、一定の姿勢や温度での歩度証明ではない。2 7

輪列近似の数値は資料間でも揃わない。Iの2019年目録にはHenry Danielsの計算を年0.4秒の差とする説明がある一方、作者の口述転記と公式作品解説には日0.28秒という表現がある。数値と単位が異なり、両個体の比較試験の値としても提示されていない。このため特定の数字を二作品共通の保証精度へ置き換えることはできない。確実に読み取れるのは、作者と数学者が時刻比の近似と製作可能な歯数を両立させようとしたことである。1 6 13

Space Travellerの意義は、異なる二つの時刻尺度を、共通の調速機、独立した動力系、明瞭な表示へまとめた点にある。天文学を文字盤へ加えただけでなく、脱進機の構成から時計全体の用途を組み立て直した。Iの天文表示をIIが選択式クロノグラフへ広げ、完成後も次の機構や時計師の製作へつながったという、具体的な作品として理解できる。2 5 6

年表#

年月出来事根拠
1969年アメリカの月着陸。後の作品名の由来となる6
1970年代ダニエルズが独立二重ガンギ脱進機を展開。Atwood、Clutton IIなどを製作3 4
1977–1978年Beyer作品のケース検定・販売。Space Travellerより前の独立二重ガンギ作品3
1979年Sotheby’sの記録ではSpace Travellerの製作に着手1
1980年作者の二輪列・天文表示の設計図が残る1 15
1982年IをBobinetへ販売。その後Jay Lennonが所有1
1983年頃IIを製作。Phillipsは1983年、Sotheby’sは1982年頃とする。Iのケースには1983年の輸入印1 2 3
1988年11月17日IがSotheby’sジュネーヴ、lot 375で競売に出る1
2003年5月作者が製作の経緯、時刻比、Henry Danielsの協力を口述6
2006年7月18–23日IIがSotheby’s回顧展に出品。Iは不出品1 2
2010年11月IIがロンドンのSalon QPへ出品2
2011年作者死去。IIはそれまで本人が保持9
2012年SmithがIIを分解整備。11月6日に遺蔵時計競売lot 9へ2
2017年9月19日IIがSotheby’sロンドン、lot 121へ2
2019年7月IがMasterworks of Time、lot 143として再び競売へ1
2019年8月IIのClockmakers’ Museumへの私蔵者からの貸出を学芸員が公表9
2026年公開記録では個体別の仕様と上記来歴を追える。以後の所有者連鎖、現行貸出期間、全修復履歴は確定できない1 2 9

参考文献#

閲覧日はいずれも2026年10月13日。オークション目録の現物記述、作者・整備者の証言、学芸員の解説を区別して用いた。

  1. Sotheby’s, Space Traveller I, Masterworks of Time, lot 143, 2019年。Description、Provenance、Condition、Catalogue Note。
  2. Sotheby’s, Space Travellers’ Watch, lot 121, 2017年。IIの仕様・来歴・状態報告、Roger Smithによる2012年分解整備の証言。
  3. Phillips, George Daniels, Grand Complication, The Geneva Watch Auction: NINE, lot 34, 2019年。中国語版ページの英語作品一覧。Atwood、Clutton II、Beyer、Space Traveller I/IIの項。
  4. Derek Pratt, “In Breguet’s Footsteps…”, Horological Journal, 2009年3月、pp.106–110。とくにpp.106–108、図3。時計師本人による二重ガンギの技術論文。
  5. George Daniels, “Tick and tock - the double wheel escapement”, Web of Stories, 2003年5月収録、2008年1月24日公開。公開Transcript全文。
  6. George Daniels, “The Space Traveller’s Watch”, Web of Stories, 同上。公開Transcript全文。売却の回想、二輪列の時刻比、Henry Danielsとの協力、名称。
  7. George Daniels, “The origins of the co-axial escapement”, Web of Stories, 同上。公開Transcript全文。姿勢・温度と歩度、二輪列から簡素な脱進機への課題。
  8. George Daniels, “Making all the components for a Daniels watch”, Web of Stories, 同上。公開Transcript全文。素材加工、熱処理、研磨、個別適合。
  9. Anna Rolls, “The Space Traveller II”, Science Museum Blog, 2019年8月1日。Clockmakers’ Museum学芸員による貸出・機構・天文時刻の解説。
  10. United States Naval Observatory, “Computing Approximate Sidereal Time”, 公開日表示なし。GMST式、平均/視恒星時、経度と精度の説明。
  11. United States Naval Observatory, “The Equation of Time”, 公開日表示なし。符号の定義、平均太陽と視太陽、軌道と軸傾斜の説明。
  12. United States Naval Observatory, “Universal Time”, 公開日表示なし。UT1とUTCの区別。
  13. Daniels London, “The Space Traveller”, 公開日表示なし。作者公式作品解説。数値と単位は口述・競売解説との相違に留意。
  14. Antica Orologeria Zamberlan, “Omega-Daniels: obiettivo raggiunto”, 刊行日表示なし。イタリア語の時計技術解説。Space Travellerを1983年とし、13/14歯と衝撃・停止石を図解する。
  15. George Daniels, 1980年の平均太陽時/恒星時設計・計算図、および輪列図「Fig A」。Sotheby’s提供、SJXの2019年記事内に再掲載。計算図画像、輪列図画像。作者の原図画像を参照し、媒体の説明文と区別した。