ラ・ショー=ド=フォンと時計産業の関係

ラ・ショー=ド=フォンと時計産業の関係

スイス、ヌーシャテル州のジュラ山地にあるラ・ショー=ド=フォンは、時計の部品を作る人、組み立てる人、取引する人が集まり、住まいと工房と工場が共存して発展した都市である。標高約1,000メートルの谷の町で時計づくりは農業や金属加工と並ぶ仕事から広がり、産業の変化とともに建物や街路も変わってきた。隣のル・ロクルとともに、その時計製造都市の都市計画が2009年に世界遺産に登録された。1 2

その歴史は高級時計だけではない。分散した仕事を結びつける商人、手ごろな時計を目指す製造者、移住者、職業学校、そして不況に直面した労働者や自治体の歴史でもある。時計産業を一つの会社や一人の発明家に還元せず、製品と都市の両方から見ると、その仕組みが分かる。

航空機から見たラ・ショー=ド=フォンの市街地と並行する街路

図:ラ・ショー=ド=フォンの市街地(2020年)。作者:Jérémy Toma。出典:Wikimedia Commonsのファイル説明。ライセンス:CC BY-SA 4.0。変更なし。

農村から分業の町へ#

市の歴史紹介によれば、最初の共同体はおよそ1350年に形成された。1656年には地方行政の中心となり、18世紀に農業や鍛冶などに加えてレースづくりと時計製造が発展した。スイス歴史事典は1750年頃の当地に68人の置時計職人、8人の家具職人、4人の青銅鋳物師を数える。置時計は機構だけでは完成せず、木製ケースや金属装飾も必要だった。2 3

ダニエル・ジャンリシャールが英国の時計を修理し、ジュラ山地に時計づくりをもたらしたという話は、この地域の起源を語る有名な伝承である。ただし、1766年に刊行されたその物語は後世にさまざまな形で語り直された。地域の産業が一人によって突然生まれたという証明としてではなく、地域の人々が産業の起源を理解してきた物語として読む必要がある。4

18世紀のピエール・ジャケ=ドロとその協力者は、時計や音楽装置に加えて自動人形を製作した。書記、画家、音楽家の三体は、カムなどの機構で動作を制御する作品である。書記は最大40文字を組み合わせて書き、画家は図を描き、音楽家はオルガンを演奏する。現在はヌーシャテルの美術歴史博物館に所蔵されており、ラ・ショー=ド=フォンの国際時計博物館の所蔵品とは区別する必要がある。5 23

エタブリサージュと専門職#

時計を完成させる仕事は、すべてが一つの工房に集まるわけではなかった。エタブリサージュは、複数の専門職に部品や工程を分担させ、エタブリスールがそれらを取りまとめ、完成・販売する生産の仕組みである。歯車、脱進機、文字盤、ケース、装飾、調整などは異なる技術を要する。1867年の当地の産業調査では時計関係の職種が54種類数えられた。3 6

部品が家族工房や市外の職人のもとを行き来する分業は、小さな仕事場を広い取引網につなぐ一方、納期や品質の調整を必要とした。19世紀後半になると、アメリカの部品の標準化、機械加工と廉価な時計の連続生産がスイスの生産者に強い競争圧力を与えた。スイスから米国への時計輸出額は1872年の1,830万フランから1877–78年には350万〜400万フランに落ちたと、スイス歴史事典は記す。工場への集約と従来の分業は段階的に重なり合いながら変化した。6 7

火災、街路、交通#

1794年の火災は当時の村の中心を焼いた。その後の再建と19世紀の人口増加を背景に、気候、地形、衛生、産業上の必要を考慮した都市計画が発展する。技師シャルル=アンリ・ジュノーの直交する街路の計画は1841年から施行された。火災の直後に現在の都市全体が一度に完成したわけではない。2 3

明るい窓を備えた住居兼仕事場、仕事を取りまとめる建物、雇用者や労働者の住居、後の工場が街路に共存した。細かな部品を扱う仕事に自然光が役立つ一方、都市のかたちは時計だけでなく土地や衛生の条件にも応じている。市の案内資料は、農家の仕事場、窓の並ぶ建物、工場という異なる時代の建築が生産の変化を示すと説明する。1 7

鉄道も交易の条件を変えた。ル・ロクルとラ・ショー=ド=フォンを結ぶ最初の区間は1857年に開通し、1860年にはヌーシャテルまでつながった。式典の日を7月1日、営業開始を7月2日とする記録がある一方、市広報は開通を7月2日と記す。資料の記述に違いがあるため、ここでは年を示す。山地の時計商人や製品の移動を改善する構想は、鉄道建設の背景の一つだった。8 9 20

社会と移住者#

当地の時計産業は、異なる出自の職人や商人を引き寄せた。スイス・ユダヤ人団体の解説によれば、アルザスからの商人は1830年代から定住し、時計や部品の売買を経て製造にも参加した。共同体の設立は1833年で、1857年の市議会決定により自由な定住が認められた。これは移住の始まりを1857年と意味するものではない。10

経済的な成功と共存の歴史には差別も伴う。1861年の時計産業の不況の際には反ユダヤ暴動が起こり、住民の一部が町を去った。1863年の会堂に続き、1896年には新しいシナゴーグが建てられた。地元の歴史協会は、共同体が経済だけでなく文化、政治、団体活動にも参加したことを記録する。10 11

1848年の共和革命を経たヌーシャテル州では、工業化と人口増加に伴う公共サービスや教育の整備も課題になった。1865年に開いた時計学校は、職人の技能と理論を伝える場となり、教師たちが教育用の時計資料を集めた。その収集が後の国際時計博物館につながる。3 12

時計の装飾は美術教育とも結びついた。市立図書館が公開する父の日記には、後にル・コルビュジエと名乗るシャルル=エドゥアール・ジャヌレが1902年に美術学校へ入り、彫刻と素描を学んだ様子が記される。市の解説によれば、時計ケースを飾る彫刻の生徒たちがアール・ヌーヴォーの模様を用い、1905年以降は教師レプラトニエのもとで地元の自然に着想を得た「モミの木様式」も発展した。時計の小さな装飾と都市の建築文化には、教育を通じた接点があった。21 22

具体例:ロスコフの廉価時計#

ジョルジュ=フレデリック・ロスコフの「プロレタリア時計」は、都市の製造網が高級品だけを扱っていなかったことを示す。国際時計博物館の解説によると、1867年に当地で作られた時計は時と分だけを表示し、貴金属や装飾を省いて20フランで売られた。高級時計より安価だったが、多くの労働者にとってはなお手の届かない価格だった。13

ムーブメントの部品数を57に抑え、輪列の車を一つ減らし、ピン脱進機を使った。初期型では分針を直接動かして時刻を合わせる。輪列はぜんまいの力を伝え、脱進機はテンプの往復に合わせて歯車の進みを区切る。仕組みを簡素にすることは、部品と組立工程の削減を狙った設計上の選択だった。13

1867年パリ万博の時計部門についての同時代の刊行物は、銅メダル受賞者の中にRoskopfの名を載せる。最初の製品は分散した工房から部品を集め、事務所で最終組立と販売を行うエタブリサージュで製作された。後継企業のWille FrèresとCharles-Léon Schmidが1891年にそれぞれ工場を建てたことを、博物館は生産集約の一段階として説明する。13 14

ロスコフの1868年米国特許US 75,463は、脱進機を別の板に取り付けて交換し、ねじなどで位置を調整する構成を記す。これは特許の明細書であって、初期製品のすべての構造や生産量を示す資料ではない。製品の説明と特許で請求された構造を区別すると、この時計の簡素化と製造方式の両方を理解しやすい。15

企業と技術の多様性#

時計産業の建物は、分業から工場への変化を今も示す。市の建築案内によれば、アシル・ディティスハイムが1881年に設立した事業は小さな仕事場から発展し、1904年にはパルク通りに大きな工場が建てられた。後のモバードである。別の例として、1858年に当地でモーリス・ディティスハイムが始めた事業からヴァルカンが生まれ、1947年には目覚まし機構を備えた腕時計クリケットが発売された。7

精密機構と装飾にも幅があった。ジラール・ペルゴは、1889年パリ万博で金賞を得た懐中時計「ラ・エスメラルダ」の三つの金橋が、機構を支える部品であるとともに意匠の中心となったと説明する。当地の19世紀後半の金ケースは装飾職人の仕事と結びつき、富裕な国際顧客へ向けられた。ロスコフの簡素な製品と対比すると、同じ都市の製造網が異なる価格帯や用途へ対応したことが分かる。13 16

温度が時計に与える影響を抑える材料研究は、都市を超えたジュラ地方の時計技術を理解するうえで重要である。ル・ロクル出身のシャルル=エドゥアール・ギヨームは、熱膨張の小さなインバーや、弾性の温度変化を抑えるエリンバーなどの合金を研究した。前者は振子などの寸法変化を小さくし、後者はヒゲゼンマイの温度による弾性変化を減らす。ギヨーム自身のノーベル講演は、適切なテンプとの組合せがなお必要であることも述べている。温度誤差がどんな時計でも完全に消えるという意味ではない。17

危機と再編#

都市は時計の需要に強く結びついていたため、不況にも影響を受けた。1930年代初めの危機に対して、ラ・ショー=ド=フォンとル・ロクルは1934年に新産業を探す機関ORINを設け、ラジオ機器などの生産を誘致した。時計以外の仕事を増やす試みであり、産業都市の歴史は単一製品だけに閉じていなかった。3

第二次世界大戦後の成長の後、1970年代には時計産業の変化が人口と雇用に大きな影響を与えた。スイス歴史事典によると、1975年の一年間に市は1,000人以上の住民と、主に時計産業で2,000以上の雇用を失った。クォーツ技術や国際競争は、時計の作り方と市場を変えたが、市のその後を一つの原因だけで説明することはできない。2 3 6

市の経済紹介は、現在も時計分野の企業や専門技術が地域の経済基盤であると説明する。専門の部品製造、組立、装飾や修復といった仕事が互いに関わることは、かつての分業を理解する手掛かりにもなる。ただし企業の拠点や雇用規模は変化するため、過去の企業数を現在の数値として扱うことはできない。18

学校、博物館、世界遺産#

時計学校の教育用収集を基礎に、市は1902年3月24日に時計博物館の設立文書に署名した。同年に収蔵されたフェルディナンド・ベルトゥーの1774年製マリンクロノメーターNo.12は、航海に必要な精密な時刻を測る時計の例である。博物館はその後も収集を続け、1920年代にはジャケ=ドロの、狐とコウノトリの寓話を表した音楽時計を取得した。新しい館は1974年に完成した。12

世界遺産の登録対象は、ラ・ショー=ド=フォンとル・ロクルの時計製造に関わる都市景観であり、自治体全域が一律に登録されたという意味ではない。ユネスコは住居、工房、経営者の家、後年の工場が混在する都市構造を評価した。工場化が古い街路を完全に消し去ったのではなく、異なる生産段階が同じ都市に重なって見えることが特徴である。1

2020年には、フランスとスイスにまたがる「機械式時計製造と芸術機械の技能」がユネスコの無形文化遺産代表一覧に登録された。こちらは建物を対象とする世界遺産とは別の制度で、設計、製作、修復に関わる複数の職業の知識と技能を対象としている。建物の保存と技能の継承は、同じ時計文化を異なる側面から支えている。19

年表#

  • 約1350年:市によれば最初の共同体が形成される。2
  • 1656年:地方行政の中心となる。18世紀には時計とレースの仕事が発展する。3
  • 1794年:火災が村の中心部を焼く。2
  • 1841年:ジュノーの直交街路計画が施行される。2
  • 1848年:ヌーシャテルの共和革命。3
  • 1857年:ル・ロクルとの鉄道区間が開通する。8
  • 1865年:時計学校が開校する。12
  • 1867年:ロスコフの廉価時計が発売され、パリ万博の時計部門で銅メダルを受ける。13 14
  • 1891年:ロスコフ時計の後継企業がそれぞれ工場を建設する。13
  • 1902年:時計博物館の設立文書に署名。12
  • 1934年:新産業の誘致を担うORINが設けられる。3
  • 1974年:国際時計博物館の新館が完成する。3
  • 1975年:人口と雇用が大きく減少する。3
  • 2009年:ル・ロクルとともに時計製造都市の都市計画が世界遺産に登録される。1
  • 2020年:スイスとフランスの機械式時計製造と芸術機械の技能が無形文化遺産代表一覧に登録される。19

参考文献#

  1. UNESCO World Heritage Centre, La Chaux-de-Fonds / Le Locle, urbanisme horloger

  2. Ville de La Chaux-de-Fonds, Repères historiques

  3. Jean-Marc Barrelet, « Chaux-de-Fonds, La », Dictionnaire historique de la Suisse

  4. Éditions Antipodes, L’invention de l’horloger: De l’histoire au mythe de Daniel JeanRichard

  5. Musée d’art et d’histoire de Neuchâtel, The Jaquet-Droz automata

  6. Estelle Fallet et Béatrice Veyrassat, « Horlogerie », Dictionnaire historique de la Suisse

  7. Ville de La Chaux-de-Fonds, La Chaux-de-Fonds et Le Locle à pied, 2012

  8. Bibliothèque de la Ville de La Chaux-de-Fonds, Le début des chemins de fer dans les Montagnes neuchâteloises, 2010

  9. Ville de La Chaux-de-Fonds, « Un train pour se relier », Le Tourbillon, 2026

  10. Fédération suisse des communautés israélites, La Chaux-de-Fonds

  11. Aude Joseph, « La communauté juive de La Chaux-de-Fonds », Société d’histoire et d’archéologie du canton de Neuchâtel

  12. Musée international d’horlogerie, History

  13. Musée international d’horlogerie, Dossier de presse: exposition Roskopf, pp. 4–8

  14. Exposition universelle de 1867, Les récompenses de la classe 23, p. 36, Conservatoire numérique des Arts et Métiers

  15. George Frederic Roskopf, US Patent 75,463, 10 March 1868

  16. Girard-Perregaux, The unique history of our manufacture

  17. Charles-Édouard Guillaume, Nobel Lecture: Invar and Elinvar

  18. Ville de La Chaux-de-Fonds, Tissu économique

  19. UNESCO, Decision 15.COM 8.b.8, Craftsmanship of mechanical watchmaking and art mechanics

  20. Cédric Dupraz, Arrivée du Chemin de fer dans les Montagnes

  21. Bibliothèque de la Ville de La Chaux-de-Fonds, Le Corbusier vu à travers le Journal du père

  22. Ville de La Chaux-de-Fonds, Art nouveau

  23. Musée d’art et d’histoire de Neuchâtel, Mouvements, exposition, salle 5