プルコヴォ天文台と時刻の配信

プルコヴォ天文台と時刻の配信

プルコヴォ天文台(Пулковская обсерватория)は、サンクトペテルブルク南方の丘に1839年に開かれた天文台である。星の位置を精密に測り、地図や航海の基準を作るとともに、天体観測から時計の誤差を決め、電信や無線で時刻を配った。ここでの時計は展示品にとどまらず、空の観測と電信・航海を結ぶ計測設備だった。1 2

雪景色の中に立つ、三つのドームを持つプルコヴォ天文台の本館

図:戦後に復旧した天文台本館(2012年)。作者:Utopiya87。出典:Wikimedia Commons。ライセンス:CC BY-SA 3.0。変更なし。

丘に設けられた国家の天文台#

天文台は市中心から南へ約19 km、標高約75 mのプルコヴォ高地にある。初代台長フリードリヒ・ゲオルク・ヴィルヘルム・シュトルーヴェの指導の下、アレクサンドル・ブリューロフが本館を設計した。古いサンクトペテルブルクの観測施設に代わる新施設は、航海と測地に必要な観測だけでなく、天文学そのものの発展も目的とした。開所日は新暦1839年8月19日、当時ロシアで用いられた旧暦では8月7日である。1 3

本館中央を通るプルコヴォ子午線は、ロシア帝国の地図における経度の基準として使われた。基準をどこに置くかという約束と、その土地で測る時刻とは別である。異なる地点の時刻を同じ瞬間に比較すれば、地球の回転を利用して経度差を求められる。恒星の位置を集めた星表は、観測の基準であり、航海や地図作成にも役立った。1 4

星から時計へ、時計から利用者へ#

天文台の時刻業務は、星の観測による時計の誤差決定、観測と観測の間の時刻保持、利用者への伝達に分けられる。子午線を通るように設けた通過儀で、あらかじめ選んだ恒星が視野の基準線を横切る瞬間を観測する。星の位置から期待される通過時刻と時計の読みとの差が、時計を使う際の補正となる。誤差を知ることと、時計の針を動かすことは同じではない。2

天文台の沿革によると、初期にはストルーヴェ=エルテル大通過儀を用い、時刻の保持にはケッセルス製振子時計、後には自由振子を使うショート時計を用いた。自由振子式では、時を刻む振子への駆動機構の干渉を小さくする。天文遺産の目録にはデント、リーフラー、ショートの天文振子時計や、1949年の水晶時計、1962〜67年の分子周波数標準も挙げられる。目録は収蔵の記録であり、それぞれが同時に主時計だったことまでは示さない。2 1

1844年にシュトルーヴェが刊行した経度測定の報告は、観測用のホート製時計の補正からケッセルス製基準振子時計の補正を求める手順を記す。両時計は平均太陽時クロノメーターとの一致を介し、朝夕およそ12時間間隔で比較された。複数の時計をつないで補正を移す具体例である。6

1863年には、時計室のムストン製時計からサンクトペテルブルク中央電信局へ時刻が有線で送られた。電信局側の時計を介して他の電信施設の時計が照合され、その後、公共図書館やペトロパヴロフスク要塞などにも伝えられた。海上では基準子午線の時刻を知るためにクロノメーターを運ぶ必要があり、無線の登場はこの配信方法を変えた。2 5

無線時報と補正値#

1914年にはプルコヴォとパリの経度差を無線信号で測定した。各地で同じ信号を受けて時計の読みを比べれば、信号を共通の瞬間として使える。ただし、放送予定の瞬間と実際の送信瞬間は完全には一致しない。1925年から時刻委員会が刊行した公報は、国内外の信号について、観測に基づき実際の送信瞬間について事後に求めた推定値を示した。複数の時刻機関の値には系統誤差や保持時計の差による食い違いもあり、1928年にはそれらをまとめた推定値の計算が始まった。5

定時無線放送の開始については資料に相違がある。計量研究機関が掲載する1972年の歴史論文は、1920年12月1日からペトログラードのノヴァヤ・ゴランディヤ局を通じて1日1回放送し、1923年にデツコエ・セロ局が稼働したと記す。一方、天文台の沿革は1920年1月1日からデツコエ・セロ局を通じて放送したとする。局と開始日の食い違いを一つの日付に整理する根拠は確認できない。2 5

戦災とその後#

天文台は第二次世界大戦で破壊され、戦後に復旧して1954年に再開した。天文遺産の記録によれば旧本館は失われたが、開所時の大通過儀と大垂直圏は保存されている。時刻業務では戦前にニコライ・パヴロフが恒星通過の光電記録を導入し、観測精度を向上させた。時計・観測器・伝送設備が一緒に変化したことが、時刻サービスの歴史を形作った。1 2 4

ロシア科学アカデミーの2014年の紹介は、天文台が天体位置測定、太陽物理、電波天文学などを扱う研究機関であり、1990年にサンクトペテルブルクの歴史地区と関連建造物群の一部として世界遺産に含まれたと記す。時刻と緯度の観測は地球の回転を調べる仕事とも結び付いていた。天文台の歴史は、精密な時計を製造する土地の歴史というより、精密な時計を観測と通信の網の中で使った場所の歴史である。2 4

年表#

  • 1839年:プルコヴォ天文台が開所。初代台長はストルーヴェ。1 3
  • 1840年代〜1920年代:プルコヴォ子午線が帝国の地図で経度の基準として用いられる。4
  • 1863年:天文台の時計から中央電信局への有線時刻伝達が始まる。2 5
  • 1914年:プルコヴォとパリの経度差を無線で測る。5
  • 1920年代:定時無線放送と時刻委員会の活動が始まり、1925年から補正値を公報で示す。5
  • 1941〜45年:戦争で天文台が破壊される。4
  • 1954年:戦後に再開。4
  • 1990年:世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」の一部となる。4

参考文献#

1. UNESCO・IAU, Central Astronomical Observatory at Pulkovo, 天文遺産ポータル、閲覧2026年10月30日。

2. Пулковская обсерватория, История обсерватории, 特に時刻・緯度業務の節、閲覧2026年10月30日。

3. Steven J. Dick, Pulkovo Observatory and the National Observatory Movement: An Historical Overview, 1990, pp. 29–38、特にpp. 32–33、閲覧2026年10月30日。

4. Российская академия наук, К 175-летию со дня открытия Пулковской обсерватории, 2014年8月19日、閲覧2026年10月30日。

5. D. Yu. Belotserkovsky・G. N. Paliy, Государственная служба времени и частоты СССР, VNIIFTRI掲載、1863〜1928年の節、閲覧2026年10月30日。

6. F. G. W. Struve, Expédition chronométrique, 1844, p. 64、ETH-Bibliothek所蔵デジタル版、閲覧2026年10月30日。