ドイツ南西部の黒い森(シュヴァルツヴァルト)の時計史は、鳩時計だけでは語れません。木製の時計を分業でつくる小工房、目覚まし時計を大量に組み立てる工場、部品メーカー、職業教育が、地域の異なる場所に発達しました。中部の町シュランベルク(Schramberg)は、そのうち工場制の発展を具体的に見ることのできる場所です。ユンハンスと周辺企業の成長は、製品だけでなく、谷の景観、電力供給、働く人びとの暮らしまで変えました。1 2
この地域を理解する鍵は、職人の分業と工場の大量生産を区別し、その間にある部品加工・販売・技能のつながりを見ることです。現在のシュランベルクでは、時計製造がかつての経済的な支配力を失った後も、精密機械と工業部品の企業が経済の柱を担っています。1
谷の町と、黒い森の複数の時計産地#
シュランベルクはバーデン=ヴュルテンベルク州の中部黒い森にあります。市域は谷底のタールシュタットから高地のズルゲン、ヴァルトメッシンゲンなどに広がります。「シュランベルク市」と森林山地全体を指す「黒い森」は同じ範囲ではありません。市の産業がすべて谷底に残っているわけでもなく、現在は多くの企業が高地の地区へ移っています。1
時計産業にも地域ごとの役割がありました。シュランベルクのユンハンスに対し、シュヴェニンゲンではビュルク、マウテ、キンツレなどが知られます。フルトヴァンゲンは1850年に設けられた時計学校を中心に、教育と産業振興を担いました。木工の家内工業、工場、教育機関を、ひとつの村や同じ企業の活動としてまとめないことが大切です。2 3
シュランベルクの前史には、領主支配と国境の問題があります。1805年末のプレスブルクの和約によってヴュルテンベルクへの帰属が決まり、1806年1月にその支配下へ入りました。1810年の国境変更後も周囲のバーデンとの境界が経済活動に影響しました。工業化の始まりは時計に先立つ1820年の陶器工場にさかのぼります。1867年9月7日の市への昇格は、産業と人口の拡大を背景とするものでした。4 5
木製時計を安くつくる仕組み#
家で働いても、一人でつくるわけではない#
18〜19世紀の黒い森では、住居の一部を使った小工房が時計を製作しました。しかし、時計師が材料からすべてを自作したのではありません。機枠、鎖、鐘、歯車の素材、文字盤とその絵付けなどを専門の供給者から調達し、それぞれの作業を速くする工具を発達させました。6
設計の簡略化も価格を下げました。ドイツ時計博物館が説明する例が、薄い鋼板を曲げてつくるアンクルです。アンクルは脱進機の一部で、振り子の動きに応じて歯車を少しずつ解放します。塊の鋼から削り出す代わりに板材を使うことで、製作の手間を減らしました。機枠に文字盤と側面の小扉を組み合わせ、別の大きな外箱を不要にする構成もありました。6
ただし、この分業は、交換可能な規格部品による工場生産と同じではありません。工房ごとに型が異なり、似た時計でも部品をそのまま入れ替えられず、個別の調整を要しました。安価に多くつくる工夫は、工場成立前から存在した一方、精度や品質を均一に保つという別の課題が残っていたのです。6
教育と工場への転換#
フルトヴァンゲンでは、バーデンの産業振興政策によって専門家の教育が進められました。1850年の時計学校、1877年の彫刻学校は、製造と意匠を支える制度でした。19世紀半ば以降の工場化は、従来の工房がそのまま大きくなっただけではありません。州の教育資料は、商業の経験をもつ企業家が、既存の生産の危機に対して新しい工場を起こした点を重視しています。2 3
工場化が進んでも家庭内の仕事は一度に消えませんでした。独立を保ちながら部品を供給する小事業者もあり、女性の内職も家計を支えました。ドイツ時計博物館の2026年の資料紹介は、その実態が十分記録されてこなかったことも指摘しています。これは黒い森の広域的な事例であり、特定の家庭の経験をシュランベルクの全労働者に当てはめることはできません。7
ユンハンスが変えた生産と販売#
部品工場から時計工場へ#
1861年4月14日、エアハルト・ユンハンスと義兄弟のヤーコプ・ツェラーによって「Zeller & Junghans」が設立されました。立地はラウターバッハ谷の旧製油所の敷地です。企業の公式沿革によれば、最初は木製ケース、文字盤まわりの金属部品、針、小扉、振り子の円盤などを製造し、完成時計の自社製造は1866年に続きました。創業時から一貫して腕時計をつくっていた会社ではありません。8
父の後を継いだエアハルトとアルトゥールの兄弟は、企業と都市の成長に関わりました。アメリカ式の機械生産は、その発展を説明する重要な要素です。材料を節約し、専用機械で部品をつくり、組立を速くする方向へ、時計そのものの設計も変わりました。黒い森の工場で主力となったのは、目覚まし時計、台所や居間の時計など、日常生活で使う製品でした。3 10 19
1903年のカタログから見える国際市場#
1903年の第107号カタログの標題紙には、ユンハンス兄弟とトーマス・ハラーの合同時計工場という社名が、ドイツ語とフランス語で記されています。本拠としてシュランベルクとシュヴェニンゲンを掲げ、パリ、ウィーン、ヴェネツィアなどの拠点を列挙します。これは当時の企業が販売相手に示した事業網の一次資料であり、それぞれの拠点の生産量を示す統計ではありません。11
製品の20〜21頁には、花模様のケースをもつ「Blumen-Baby」、打出しの真鍮ケースを使う「Concours」、反復式目覚まし「Reform」などが並びます。ケースの材質やめっき、文字盤の違いを選べる構成です。「Neu Radau」「Neu Furor」には、上部へ絵や格言を入れ、写真などにも交換できるという説明があります。ここからは、機械を大量につくるだけでなく、材質、装飾、呼び名を変えながら多様な需要に応える商品づくりが読み取れます。価格や販売実績は、この見開きだけでは分かりません。12
なお、同じ頁にある「Marine-Uhren」という語だけで、これらを船舶用の高精度クロノメーターと理解してはいけません。実際の図版と説明では、ベルや目覚ましの機能を備えた時計が掲載されています。販売時の名称と、計時技術上の分類を分けて読む必要があります。12
ユンハンスは公式沿革で1903年を「世界最大の時計工場」として紹介しています。この位置づけは、町が大規模な工場生産の中心だったことを伝えますが、現在の腕時計の高級品市場での順位を意味するものではありません。8
企業を支えた都市の設備と部品産業#
シュランベルクにはユンハンス以外にも大きな時計会社がありました。市は、パウル・ランデンベルガーが創設・経営したハンブルク=アメリカ時計工場(H.A.U.)を、市で2番目に大きな工業企業として紹介しています。交差する矢の商標をもつ時計は、このもうひとつの企業の存在を伝えています。10
時計製造の拡大は、周辺のばね製造業にも需要を生みました。テラッセンバウ博物館では、地元のPfaff & Schlauderのばね製造設備を例として、その加工を説明しています。企業の周囲に部品加工の仕事が分かれ、それが時計以外の用途へ広がる過程は、工場一社の製品史だけでは見えにくい地域史です。9
交通とエネルギーも欠かせません。1892年に町は鉄道と結ばれました。市営事業者の沿革によれば、ユンハンスは1894年に水力発電所を開き、1901年の街灯の電化ではユンハンスと伯爵家の水車施設が電力を供給しました。1904年にはH.A.U.のベルネック発電所、1911年には同社の発電機を駆動する大型ディーゼル機関が続きました。時計会社は電力の利用者であると同時に、都市の供給基盤の一部でもあったのです。10 13
山腹に積み重ねた作業場#

図1:ユンハンスのテラッセンバウ。山の斜面に沿った作業場と窓列が分かる。写真:Martin Hahn。出典:Wikimedia Commons個別ファイル、原出典:Landauf, LandAppの投稿216871。利用条件:CC0 1.0 Universal。変更なし。
ユンハンスのテラッセンバウ(段状工場棟)は、1916〜1918年にフィリップ・ヤーコプ・マンツの設計で建設されました。谷に平地を広げる代わりに、急斜面へ9段の作業場を重ねています。細長い部屋ではほとんどの作業場所が窓に接し、自然光を利用できました。時計の細かい組立作業と、限られた敷地の条件が、建物の形に結び付いています。9 14
1930年5月に撮影された工場のガラス乾板写真も、州の歴史博物館に残っています。今日の建物を眺めるだけでなく、当時の写真、建築調査、修復記録を組み合わせることで、工場が都市景観のなかに占めた位置を確かめられます。2016〜2018年の修復を経た段状棟は、2018年に時計博物館として開館しました。14 15
働く人びとと、戦争の記憶#
時計都市は企業家だけの歴史ではありません。シュランベルクには1888年の労働者協会、1894年の自由労働組合、カトリックやプロテスタントの労働者・女性労働者の団体も発達しました。異なる政治・宗教の組織が、工業都市の生活と権利を支える場になっていました。4
第二次世界大戦では、ユンハンスは信管を中心とする軍需生産へ大きく転換しました。市史の研究者カーステン・コールマンは、建築資料と証言を照合し、工場の山腹に掘られた防空壕が、避難場所だけでなく生産にも使われたことを明らかにしています。1944年末には一部の坑道を機械が占め、換気の問題も残っていました。1945年4月20日、フランス軍が町へ入る際には、多くの住民がそれらの壕へ避難しました。16
LEO-BWの市史は、市内の産業で外国人労働者・強制労働者が多数働かされたことも記しています。この歴史を時計工場の成功談から切り離しておくことはできません。一方、町全体の人数をそのままユンハンス一社の数字にすることもできません。工場の遺構は建築や技術の資料であると同時に、戦争と労働の記憶を考える場所でもあります。4 16
時計産業の再編と、残された技能#
戦後のユンハンスでは、機械式腕時計、マックス・ビルによるデザイン、クオーツ、電波時計へと製品の軸が広がりました。企業の沿革は、1970年のクオーツ腕時計の先行シリーズ発表と1972年の量産、1990年の電波腕時計Mega 1を挙げています。機械式時計から電子時計への転換は、完成品の外観だけでなく、必要な部品と工程を変えるものでした。8
しかし、電子技術へ進めば地域の雇用がすべて守られるというわけではありませんでした。コールマンは1980年代初頭の深刻な雇用削減、1984年の時計部門と信管部門の会社分離、H.A.U.工場地区の事業用地への転換を記録しています。時計の企業、軍需の精密技術、旧工場の土地利用は、それぞれ別の経路をたどりました。16
2026年10月に確認した市の説明では、精密機械と高度な工業部品の供給企業が現在の経済を支え、多くは高地の地区に立地しています。これは、かつての時計工場のすべてがそのまま別産業へ変わったという意味ではありません。黒い森では時計と供給業から電機、機器、機械製造が育った一方、時計会社自体の廃業や事業転換もありました。企業の継続と、地域に残る技能・取引の集積は分けて考える必要があります。1 2 3
歴史を保存する複数の場所#
シュランベルク市立博物館は1979年に設立され、技術と社会の歴史を結び付ける博物館として構想されました。企業による時計収集はさらに古く、ユンハンスは1898年に歴史的な計時器を展示する博物館を設けています。当時の展示は、その時点の量産品を並べるものではなく、顧客である時計師を迎える役割もありました。現在の市立博物館と、この企業の初期の収集活動は、成立目的の異なるものです。17
テラッセンバウ博物館は、建物自体の生産の歴史に加え、黒い森の時計と部品産業を扱います。市の公文書館にはユンハンスの企業文書、写真、地図、個人の遺稿などが残されています。製品、工場、地域の記録を合わせて読むことで、黒い森の時計史を「森で農民が鳩時計をつくった」という一場面に閉じ込めずに理解できます。9 18
年表#
| 年・時期 | 地域と時計史の動き |
|---|---|
| 18世紀半ば以降 | 黒い森の木製時計で分業と簡単な機械・工具が発達 3 6 |
| 1805年末〜1806年1月 | シュランベルクのヴュルテンベルク帰属が決定・実施 4 |
| 1820年 | シュランベルクに陶器工場が設立され、工業化が始まる 5 |
| 1850年 | フルトヴァンゲンに時計学校が設立 3 |
| 1861年4月14日 | Zeller & Junghans設立。初期は時計部品を製造 8 |
| 1866年 | ユンハンスが自社の完成時計を製造 8 |
| 1867年9月7日 | シュランベルクが市へ昇格 4 |
| 1877年 | フルトヴァンゲンに彫刻学校 3 |
| 1892年 | シュランベルクに鉄道接続 10 |
| 1894年 | ユンハンスが水力発電所を開設 13 |
| 1898年 | ユンハンスが歴史的計時器の博物館を開設 17 |
| 1903年 | 独仏二言語の第107号カタログ。企業沿革が世界最大と位置づける時期 8 11 |
| 1916〜1918年 | テラッセンバウ建設 14 15 |
| 1941年〜1945年 | 工場の防空壕建設と生産利用。1945年4月20日にフランス軍が進駐 16 |
| 1970〜1972年 | ユンハンスのクオーツ腕時計の先行発表から量産へ 8 |
| 1979年 | 市立博物館設立 17 |
| 1984年 | ユンハンスの時計部門と信管部門を別会社に分離 16 |
| 1990年 | ユンハンスが電波腕時計Mega 1を発表 8 |
| 2016〜2018年 | テラッセンバウを修復、2018年に時計博物館として開館 9 14 |
| 2026年10月確認 | 時計製造は続く一方、市の産業は精密機械・工業部品などへ多様化 1 8 |
参考文献#
以下のWeb資料の閲覧日は2026年10月23日です。企業・博物館の自己紹介、地域史の研究、当時のカタログは、それぞれ成立目的を区別して参照しています。
Stadt Schramberg, 「Stadtportrait」。地理と現在の産業。統計値は本文へ転用していない。
Landesbildungsserver Baden-Württemberg, 「Das Uhrenindustriemuseum Villingen-Schwenningen — Bedeutung」。工場化と地域の産業構造。
Deutsches Uhrenmuseum Furtwangen, 「Themen im Museum」。「Holzuhrmacherei」「Gewerbeförderung」「Uhrenindustrie」。常設展示は改修のため閲覧日現在非公開と案内されている。
Landesarchiv Baden-Württemberg / LEO-BW, 「Schramberg — Geschichte (ab 1806)」。国境、都市化、労働者団体、戦争。
Stadt Schiltach, 「Carsten Kohlmann: Geschichte der Großen Kreisstadt Schramberg」, 2024年。市史研究者による講演の紹介、1820年の工業化の起点。
Deutsches Uhrenmuseum, 「Wie die Schwarzwälder Holzuhren bauten」, 2018年6月14日。分業、鋼板製アンクル、部品互換性。
Deutsches Uhrenmuseum, 「Objekt des Monats: Heimarbeit von Frauen. Weit mehr als ‚Kinder, Küche, Kirche‘」, 2026年5月1日。工場化と家庭内労働。
Uhrenfabrik Junghans, 「Uhrenfabrik / Unsere Geschichte」。企業による創業・製品沿革。
Junghans Terrassenbau Museum, 公式サイトの建築・ばね製造・都市史の説明。
Stadt Schramberg, 「Ehrenbürger」。Landenberger、Arthur / Erhard Junghans、Karl von Leibbrandの各項。人物顕彰の資料である。
Vereinigte Uhrenfabriken von Gebrüder Junghans und Thomas Haller A.G., Katalog 1903, No.107, 標題紙(印刷1頁)。公式デジタルアーカイブの複製、独仏二言語。
同カタログ, 印刷20〜21頁。Blumen-Baby、Concours、Reform、Neu Radau、Neu Furor。
Stadtwerke Schramberg, 「Die Entwicklung der Stadtwerke Schramberg」, 2005年12月17日。1892〜1911年の各項。
Datenbank Bauforschung/Restaurierung, 「Ehem. Junghans Uhrenfabrik, sog. Terrassenbau, heute Uhrenmuseum」, ID 198258300210, 2018年7月3日。建築・修復段階。
Haus der Geschichte Baden-Württemberg, 「Schramberg — Junghans Fabrik」, Inv.1991/0140/097754。Gebrüder Metzによる1930年5月の写真と所蔵解説。
Carsten Kohlmann, 「Vom Lost Place zum Gedenkort — die Luftschutzbunker aus dem Zweiten Weltkrieg bei Junghans und H.A.U. in Schramberg」, in Friedemann Kawohl (Hg.), Erinnern und Vergessen: Geschichten von Gedenkorten in der Region Schwarzwald-Baar-Heuberg, 2015, pp.167–186。とくにpp.167–176、178–182。
Stadtmuseum Schramberg, 「Stadtmuseum」。1898、1979年の各項。
Stadt Schramberg, 「Stadtarchiv」。企業文書・写真・遺稿等の所蔵。
Deutsche Uhrenstraße, Geschichte · History · Histoire, 2019年版, 「Uhren am laufenden Band」(印刷71頁)。アメリカ式量産、専用機械、省材料と組立。自治体サイト公開PDF。