S形補償テンプ:アーノルドの温度補償と現存例

S形補償テンプ:アーノルドの温度補償と現存例

S形補償テンプは、ジョン・アーノルドが18世紀末の精密時計に用いた温度補償装置である。S字に折り返した二金属の部材が温度で変形し、錘の位置を変えて、ヒゲゼンマイの温度変化による進み・遅れを打ち消す。英語では S balance、対称に配置した構成を double S balance と呼ぶ。1 2

これはS字に見える時計部品の総称ではない。また、後世の円形の切りテンプを、切れ目があるという理由だけでS形補償テンプと呼ぶわけでもない。アーノルドの複数の補償方式のなかで、S形の二金属部材を用いた構成を指す。

なぜ温度で時計が遅れるのか#

テンプは回転方向に往復する振動体であり、ヒゲゼンマイがそれを元の位置へ戻す力を受け持つ。温度が上がると、鋼のヒゲゼンマイの弾性が変化する。テンプ自身の寸法も変わるため、同じ姿勢で置いていても振動周期が一定にならない。シャルル=エドゥアール・ギヨームは1920年の講演で、鋼ばねと真鍮テンプの温度誤差について、主要因をばね材料のヤング率、すなわち変形しにくさを表す性質の変化に求めている。3

温度補償には、ばねへ作用する方法と、テンプへ作用する方法がある。ばねの有効長を変えて戻す力を調整する代わりに、テンプの質量分布を変えれば、ばねを直接操作しなくても周期へ作用できる。S形補償テンプは後者に属する。

この関係は、回転運動の基本的なモデルで整理できる。摩擦・駆動力を省き、ばねの戻すトルクが回転角に比例すると仮定すると、

\[ I\ddot{\theta}+\kappa\theta=0,\qquad P=2\pi\sqrt{I/\kappa} \]

となる。ここで I はテンプの慣性モーメント(kg m²)、θ は回転角(rad)、κ は角度当たりの戻すトルク(N m/rad)、P は往復1回の周期(s)である。これは実機の寸法から精度を算出した式ではなく、温度補償の方向を説明する線形振動モデルである。ねじり振動の標準式を用い、周期の記号をPへ置き換えた。8

温度で κ が小さくなれば、I を同じ方向へ小さくすることで周期の増加を抑えられる。錘を軸へ近付けると慣性モーメントが小さくなるため、温度で動く錘を使う意味が生まれる。テンプが単に膨張するのを止める装置というより、ばねを含む振動系の変化を相殺する装置と考えると理解しやすい。

S形部材の働き#

二金属、すなわちバイメタルは、熱膨張の違う金属を結合した部材である。Sotheby’sがNo.23/78を実見して作成したカタログは、S形部分を成形された二金属の棒とし、ばねの弾性およびテンプ外周の膨張による変化を補償する目的だったと説明する。2

同時代の構成を解説するフランス語のHorlogerie Suisseは、初期の補償機構から、1779年以降に一対の対称なS形バイメタルへ移ったとする。両側の補償部材を温度で変形させ、軸から錘までの距離を変えるのが基本である。ただし、部材の固定方法や錘の位置は個体を見て判断する必要があり、略図だけから全作品の構造を同一視できない。4

調整にも二つの目的がある。常温で適切な周期に合わせることと、高温・低温で周期が変わりにくくすることは同じではない。後代の調整実務書でも、温度試験と錘の位置の調整を組み合わせて補償量を合わせることが説明される。これは補償テンプ一般の理解には役立つが、そのねじの動かし方をそのまま18世紀のS形へ適用する修理指示ではない。5

時計の年とテンプの年を分ける#

No.28――1776〜1777年の時計、後から加わったS形#

Science Museum Groupが所蔵情報を公開するアーノルドNo.28は、銀鍍金ケース、小秒針(スモールセコンド)、支点を持つデテント脱進機を備える懐中時計である。ケースのホールマークは1776〜1777年だが、同館はS形テンプを後の追加と明記し、その型式の使用期を1779〜1782年としている。1

したがって、この時計が1776年製だからS形テンプもその年に完成していた、と結論してはいけない。現存作品は過去の改良も保持している。時計全体の製作年代、ケースの検印年、現在の機構の年代を分けることが、この技術の成立を読む出発点になる。

No.23/78――1781年の具体的な組合せ#

Sotheby’sの2016年カタログにあるNo.23/78は、1781年のホールマークを持つ銀ケースの懐中クロノメーターである。機構は支点式デテント、S形テンプ、青焼き鋼の円筒ヒゲゼンマイ、鎖とフュジーを組み合わせる。フュジーは主ゼンマイの力の変動を和らげる装置であり、温度補償を受け持つS形テンプとは役割が異なる。2

同カタログは、この個体を元のケース・文字盤・脱進機・double Sテンプを保持した未修復の例と説明する。この評価は出品調査時点の帰属として読むべきで、今後新たな資料や個体が見つからないことまで保証するものではない。

成立年と特許について分かる範囲#

導入時期には記述の幅がある。博物館は型式の使用期を1779〜1782年、Sotheby’sはdouble Sの導入を1780年とする。これらは必ずしも直接矛盾するわけではないが、試作、採用、後付け改良を区別するだけの当時の全製造記録は揃っていない。なお2023年のSotheby’sカタログはT形とS形をまとめ、1778年以降に使用した型式と説明している。これはS形単独の開始年を指定した記述ではない。このため、S形の導入を1779〜1780年頃とする説明を中心に、資料により1778年以降の改良群として括られることも示しておく。1 2

アーノルドの1775年の温度補償・ばねに関する特許と、1782年の特許第1328号は、この技術を取り巻く重要な節目である。後者にT形・S形を含む補償テンプが記されるという説明は専門的な作品カタログにもあるが、本稿では特許仕様書の原図・全文を取得できていない。したがって、S形の全構造が1775年に既に特許化されていた、あるいは1782年に初めて作られた、とは断定しない。6 7

特許原資料を未取得であることは、その特許が存在しなかったという意味ではない。部品の動作と実在は博物館資料・作品調査で説明し、請求範囲そのものの判断を分けている。

後代の切りテンプとの違いと限界#

後代の代表的な温度補償テンプでは、鋼と真鍮を組み合わせた円弧状の外周に切れ目を設け、温度で自由端が曲がるようにする。S形の複雑な部材を使う方式とは形状が異なるが、温度変化に応じて質量分布を変えるという目的は共通する。ギヨームの講演は、二金属の補償に残る「二次誤差」、すなわち高温・低温で合わせても中間温度に残るずれを説明する。3

この説明から、錘が動けばすべての温度で誤差が消えるわけではないことが分かる。ばねの温度特性と二金属の変形は、広い範囲で完全に同じ形の変化をするとは限らない。ただし、後代の鋼・真鍮の切りテンプに対する具体的な誤差値を、試験記録なしにS形の性能値として載せることはできない。

20世紀には、ばね材料の熱弾性を制御し、単金属テンプと組み合わせる道も発展した。S形補償テンプの現在の意義は、普遍的な現行方式であることよりも、材料の変形を利用して、時計内部で自動的に誤差を相殺しようとした実物資料である点にある。3

年表#

年代S形補償テンプとの関係
1775年アーノルドの温度補償とばねに関する特許。S形の完成年とは区別する
1776〜1777年No.28のケース年代。現在のS形テンプは後年の追加
1779〜1780年頃S形・double S方式の成立・導入を示す資料上の時期
1781年S形テンプを持つNo.23/78のケース年代
1782年特許第1328号。原図・全文は本稿未取得
19世紀以降切りテンプなどの補償方式が発展。S形と同一形式とは扱わない
1920年ギヨームが二金属補償の限界と、ばね材料側の解決を講演
現在No.28などの現存作品・収蔵記録により、方式と改変履歴を比較できる

参考文献#

  1. Science Museum Group「Pivoted-detent escapement watch by John Arnold」、L2015-3332/Clockmakers’ Museum No.419。No.28の記述、1776〜1777年の検印とS形の後付け説明。

2. Sotheby’s「John Arnold, London, No.23/78」、2016年7月7日、lot 38。実物のDescription、Condition、Catalogue Note。

3. Charles-Édouard Guillaume「Invar and elinvar」、Nobel Lecture、1920年12月11日、pp.469〜471。実読:講演集PDFの複製、PDF pp.26〜28。補償テンプ一般の温度特性に用い、S形個別の実測値には用いていない。

4. Horlogerie Suisse「John Arnold」、フランス語、図2〜3と関連本文。1779年以降のS形バイメタルへの移行。後世の技術史解説であり当時の製造台帳ではない。

5. Walter J. Kleinlein『Rules and Practice for Adjusting Watches』、1920年、第I部。後代の補償テンプの調整実務であり、S形の製作当時の説明とは区別した。

6. Arnold & Son「Heritage」、1775年・1782年の年表項目。

7. Sotheby’s『Important Watches Part I, GE2301』、2023年、pp.112〜113。特許第1328号とT・S・OZ型に関する説明。特許原図の代用にはしていない。

8. OpenStax『University Physics Volume 1, 15.4 Pendulums』、Torsional Pendulum、式15.22。回転する振動体の線形モデル。

資料確認日:2026年10月22日。