1. 発明の詳細 #
発明者と背景・経緯 #
機械式時計の精度向上に不可欠なヒゲゼンマイ(balance spring)は17世紀後半に発明されました。その発明者としては、イギリスの物理学者ロバート・フックとオランダの科学者クリスチャン・ホイヘンスの二人が関与しています。フックは1660年頃にバネの弾性に関する法則(いわゆるフックの法則)を発見し、それを時計機構に応用する構想を抱いていました ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)。彼は実際にゼンマイばねを用いた懐中時計の試作も行いましたが、この発明に関して特許を取得しなかったため、公には彼の功績とはなりませんでした ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)。一方、ホイヘンスは独自にこのアイデアに到達し、1675年に螺旋状のヒゲゼンマイを用いた調速機構を開発してフランスとオランダで特許を取得しました ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)。その結果、歴史上ではホイヘンスがヒゲゼンマイの発明者と記録されることになりました ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)。この発明に至る背景には、振り子時計(1657年にホイヘンスが発明)の精度を携帯可能な時計にも実現したいという課題がありました。振り子は高精度ですが、大型で揺れや重力の影響を受けやすく持ち運びに不向きだったため、それに代わる小型で等時性(振幅によらず一定の周期)を持つ調速機の研究が各国で進められていたのです ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。
発明の目的と技術的効果 #
ヒゲゼンマイの発明目的は、振り子と同等の安定した周期振動を小型の携帯時計(懐中時計)で実現することでした。ホイヘンスは、フックが提案したような直線的なバネではなく渦巻き状(螺旋状)のバネを採用する方が小型化に有利であり、バネの弾性を利用した振動系として優れていることに気付きました ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。ヒゲゼンマイとテンプ(てん輪、バランスホイール)を組み合わせた振動子は、振り子と同様に優れた等時性を持つ一方、重力の影響を受けにくく、時計を揺らしたり任意の向きにしても安定した振動を保つという技術的効果をもたらしました ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。これによって携帯時計の精度は飛躍的に向上し、それまで高価な好奇の産物にすぎなかった懐中時計が実用的な時刻計へと変貌しました ( Balance spring - Wikipedia)。実際、ヒゲゼンマイの導入によって時計の精度が格段に上がり、当時時刻表示は時針(時刻のみ)だけでしたが、精度向上により分針を追加できるほどになったと伝えられています ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。
初めて利用された時計モデル #
ホイヘンスは1675年1月20日にヒゲゼンマイの着想を得て ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)、同年2月25日にはフランスの科学誌『ジュルナル・デ・サヴァン(Journal des Sçavans)』でその成果を公表しました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。ホイヘンスは有能な時計師であったアイザック・トゥレ(Isaac Thuret)と協力し、世界初のヒゲゼンマイ付き懐中時計を製作します ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。この時計はてん輪に渦巻きバネを取り付けた革新的なもので、特許取得後もしばらくホイヘンスとトゥレは協力関係にありました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。トゥレは一時この発明の単独特許を企てるなど揉め事も起こりましたが ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches) ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)、最終的に和解しホイヘンスの依頼による時計製作を続けています ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。一方、イギリスではフックが1670年6月23日の王立協会会合で自作のヒゲゼンマイ時計を披露しており(後に発見されたフックの手稿「フック・フォリオ」にその記録があります ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches))、時計師トマス・トンピオンと共に試作を進めていました ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches) ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。しかしフックの設計は複雑(彼の案では二本のバネを用いた)で製作が難しく、完成度でホイヘンスに劣りました ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。結果として、最初に実用化されたモデルはホイヘンス=トゥレによるシンプルな渦巻きヒゲゼンマイを備えた懐中時計であり、これが歴史上初めてヒゲゼンマイが採用された時計となりました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。この時計は当時として飛躍的な高精度を示し、以後他の時計師たちもこの技術を用いるようになります ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。実際、ホイヘンスは発明をパリの他の時計師にも寛大に公開したため、1675年末にはパリの時計師の間でヒゲゼンマイ付き時計が広まり始めました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。この最初期のヒゲゼンマイ時計の特徴として、ぜんまい動力で約8日間連続稼働し、振動子としてのテンプが重力や姿勢の影響を受けにくい安定度を示した点が挙げられます ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。それまで困難だった船舶での航行中にも精度を保てる可能性を示し、後の航海用クロノメーター開発への道を開いたのです。
2. 当時の技術的背景と影響 #
17世紀当時の時計技術の状況 #
ヒゲゼンマイが登場した17世紀後半、時計技術は大きな過渡期にありました。それ以前の携帯式時計(懐中時計)は、テンプ(バランスホイール)のみを振動子とし、脱進機には重量と車輪による旧来の機構(例えば棒テンプと鍾形(ベル型)のバランスなど)が使われていました。しかし振動周期を安定させるバネが無かったため精度は極めて低く、1日に数十分から数時間もの誤差を生じることも珍しくありませんでした ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。一方、1656年にホイヘンスが発明した振り子時計(固定据置きの振り子式クロック)は、当時としては画期的な高精度(誤差は1日数秒〜数十秒程度まで向上)を実現しており、時間計測の信頼性を飛躍的に高めました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。しかし振り子時計は構造上振り子の長さと重力に依存するため小型化が難しく、揺れや傾きに弱いため携行用には適しません ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。このように**「持ち運べる高精度時計」**へのニーズが高まる中で、ヒゲゼンマイ付きテンプという発明が求められていたのです ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens) ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
既存技術との比較 #
ヒゲゼンマイ登場以前の主な調速機構は、据置き時計では振り子、携帯時計では無秩序なバランスホイールでした。振り子は等時性(振幅によらず周期一定)を持つ理想的な調速器ですが、携帯型には使えません。一方、ゼンマイ駆動の懐中時計は小型化できるものの、バランスホイール単体では等時性が乏しく精度に限界がありました。ヒゲゼンマイは振り子の役割を小さなバネで代替するもので、テンプにヒゲゼンマイを付加することでバランスホイールが復元力を伴った調和振動子(調和振動する系)となります ( Balance spring - Wikipedia)。これにより振動周期はフックの法則に支配される理想ばね振り子となり、振幅や姿勢の変化による周期ズレが大幅に低減しました ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。またヒゲゼンマイ式テンプは、振り子と異なり重力方向を問わずあらゆる姿勢で動作できるため、携帯時計に必要な自由度を確保しています ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。当時用いられていた他の工夫として、懐中時計にはゼンマイの力の不均一を補正するフュージ(チェーンとらせん錘)などがありましたが、調速子そのものの不安定さは解決できていませんでした。ヒゲゼンマイはこの点で決定的な改良であり、既存技術と比較して桁違いの精度向上をもたらしたのです ( Balance spring - Wikipedia)。
時計産業への影響 #
ヒゲゼンマイの発明が時計産業に与えた影響は計り知れません。まず、懐中時計の実用化と大衆化が進みました。ヒゲゼンマイにより17世紀末から18世紀にかけて懐中時計の精度が飛躍的に高まったため、時計は貴族の贅沢品から航海士や商人も頼る信頼できる時刻計となりました ( Balance spring - Wikipedia)。精度向上に伴い、時刻表示には分針が付加され(1680年代以降、懐中時計にも分針が普及)、さらには秒針表示も18世紀中頃には試みられるようになります ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。この技術革新は海洋航法にも大きく貢献しました。正確な携帯時計は経度測定(経度の問題)を解決する鍵となり、ヒゲゼンマイの存在が無ければジョン・ハリソンによる18世紀中葉の航海用クロノメーターの成功もあり得なかったと言われます。実際、ハリソンが製作した高精度の海洋クロノメーターH4(1761年完成)にも改良されたヒゲゼンマイ付きテンプが組み込まれ、高い精度で航海試験に合格しています。さらに、ヒゲゼンマイは時計産業の中心地の移動にも影響を与えました。発明当初はフランスやイギリスが精密時計製造をリードしましたが、その後スイスが19世紀から20世紀にかけて大量生産と品質向上を成し遂げる中で、ヒゲゼンマイ製造の改良(後述の合金開発など)を企業秘密として各社が研鑽し、スイスが機械式時計産業の中心地となる一因ともなりました。また、日本を含む他国の時計メーカーもヒゲゼンマイ技術を取り入れ、精密な腕時計の製造が可能になりました。総じて、ヒゲゼンマイの発明は時計産業の技術水準を底上げし、市場を拡大したエポックメイキングな出来事だったのです。
3. 現代への影響と技術革新 #
ヒゲゼンマイの材料科学的進化 #
ヒゲゼンマイは発明以来、その材料と形状の改良が続けられてきました。当初は鉄製(鋼製)のヒゲゼンマイが使われており、職人が焼き戻し処理して薄く延ばした鋼線を青く着色(酸化被膜で青色に発色)して使用しました ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。しかし鋼のヒゲゼンマイは温度変化や磁気の影響を受けやすく、時計の進み遅れに影響しました。これを克服するため、20世紀初頭に素材革命が起こります。スイスの物理学者シャルル・エドゥアール・ギヨーム博士は1896年に発明したインバー合金(鉄-ニッケル合金)の成果を踏まえ、1913年頃にエリンバー(Elinvar)と名付けた新合金を開発しました ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。エリンバーは「弾性が不変」という名前の通り、温度による弾性係数の変化が極めて小さく、加えて耐腐食性と非磁性にも優れるため、ヒゲゼンマイ材料として理想的でした ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。この画期的合金によりヒゲゼンマイは温度変化による歩度誤差を劇的に低減し、以降高精度時計(クロノメーター)に広く採用されます。さらに1930年代初頭には、スイスの技術者ラインハルト・シュトラウマンによってエリンバーを改良したニヴァロックス(Nivarox)合金が開発されました ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。ニヴァロックスはドイツ語で「不変・不酸化」を意味する名称で、耐摩耗性・耐腐食性・非磁性に優れ、温度補償機能を持つ自己補償型の合金です ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。この合金はその後の機械式時計産業で事実上の標準となり、2000年代には世界の機械式時計の約90%がニヴァロックス製ヒゲゼンマイを使用していたと報告されています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。以降も素材研究は続き、2000年にはロレックス社がニオブ・ジルコニウム合金のパラクロム(Parachrom)ヒゲゼンマイを発表しました ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。パラクロムはニヴァロックス同様に作製されますが、磁気耐性と耐衝撃性をさらに高めており、ロレックスによれば衝撃下で精度が従来比10倍安定するとされています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。一方、2000年代後半からは金属ではなくシリコン(ケイ素)製ヒゲゼンマイという新技術も登場しました。シリコン材料は温度変化に強く完全非磁性で、質量が小さく形状精度も高いため、従来合金を凌ぐ性能を示します ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。Ulysse Nardinやパテック・フィリップ、スウォッチグループ(オメガ)など複数社が共同研究し、2006年前後にシリコンヒゲゼンマイを実用化しました ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。シリコンは壊れやすい欠点もありますが改良が重ねられ、現在では高級時計に採用例が増えています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。さらに2010年代には再び金属系の新素材として、スウォッチグループとオーデマピゲが共同開発したニヴァクロン(Nivachron)合金(チタンを含むニオブ系合金)が2019年に市場投入されました ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。このように材料科学の進化により、ヒゲゼンマイは鉄→特殊鋼→精密合金→シリコン→新合金へと進歩し続け、現代でも時計技術の最先端研究の一つとなっています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。
現代の時計産業における利用状況と役割 #
機械式時計においてヒゲゼンマイは現在でも不可欠な部品です。クォーツ式や電子式の台頭によって一般消費者向け時計の主流は電子制御に移行しましたが、機械式時計は高級嗜好品・伝統工芸品として21世紀に入っても健在であり、その心臓部には相変わらずヒゲゼンマイ付きテンプが使われています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。実際、電池やICに頼らない純機械式で高精度を追求する上で、ヒゲゼンマイの性能向上は今なお重要な研究分野です ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。前述のように材料開発競争が続いている他、ヒゲゼンマイの形状についても伝統的な平面渦巻きに加え、ブレゲひげ(外端を持ち上げた巻き上げヒゲ)や二層コイル、さらには特殊形状(球面ヒゲゼンマイなど)も試みられています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。精度向上策として、重力誤差を打ち消すため2本のヒゲゼンマイを対になって配置する機構(H.モーザー社など一部メーカーで採用)や、重力影響を平均化するトourbillon(トゥールビヨン)装置との組み合わせなどもあります。現代の高級時計メーカーはヒゲゼンマイを外部供給に頼らず自社製造する動きも強まっており、研究開発に巨額の投資を行っています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。例えばロレックスやパテックフィリップは自社合金やシリコン技術を確立し、スウォッチグループも子会社ニヴァロックスで供給するだけでなく新素材開発を進めています。総じて、ヒゲゼンマイは現代機械式時計の精度と信頼性を支える中枢部品であり続け、その改良は時計産業における技術革新の象徴となっています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。
他分野への応用(精密機械工学など) #
ヒゲゼンマイで培われた精密ばね制御の技術は、時計以外の分野にも応用されています。代表的な例が計測機器の精密制御です。たとえばアナログ式の電流計・電圧計(ガルバノメータ)では、指針をゼロ位置に戻すための微細ならせんばねが使われていますが、これはヒゲゼンマイと同様にフックの法則に従ってトルクを提供する調速・復元機構です。精密なばねによる安定した復元力は、計測装置での指針の線形な偏位と安定した戻りを保証します。これは時計のテンプを制御するヒゲゼンマイの働きと原理的に同じであり、時計学の知見が計測工学に転用された一例と言えます。また、他の精密機械要素でもばね振動系の設計にヒゲゼンマイと同様の考え方が用いられます。例えば地震計や加速度計などのセンサーでは、質量とばねによる振動系で外部振動を検出しますが、そのばね要素の設計には時計のヒゲゼンマイのように温度安定性や線形復元力が求められます。さらに、自動制御の分野では、古典的な遠心調速機(ガバナー)において回転重量を支えるばねにヒゲゼンマイと似たスプリングが用いられ、機械の回転速度を一定に保つ役割を果たしていました。これらはいずれも「小さなばねで精密な力制御を行う」という点で共通しており、ヒゲゼンマイの発明が機械式調速システム全般に影響を与えたことを示しています。さらに現代ではMEMS(微小電気機械システム)の中でシリコン製の微小スプリング構造が作りこまれ、高周波で振動するセンサー素子として利用される例もありますが、これも広義にはヒゲゼンマイの延長線上にある技術と言えるでしょう。総じて、時計のヒゲゼンマイで確立した高Q値の調和振動子の設計思想や材料の弾性制御の知見は、精密機械工学や計測・制御工学の様々な領域において基盤技術として息づいています。
4. 初出の作品とその特徴 #
最初にヒゲゼンマイが採用された時計 #
ヒゲゼンマイが初めて実用化された時計は、前述の**ホイヘンスと時計師トゥレによる懐中時計(1675年製作)です ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。この時計は現在では歴史的遺産として伝えられており、当時フランス王ルイ14世に献上されたとも言われています(ホイヘンスは発明に際し王立アカデミーに成果を報告し、王室の支援を受けました)。その技術的特徴として、直径数cm程度の小型のテンプに薄い渦巻き状ばねを取り付け、これが一定の周期で伸縮することでテンプが規則正しく往復回転するようになっています。脱進機は当時一般的だった舶来の懐中時計と同じく輪列式(おそらく古典的な側振り脱進機=ヴァージ脱進機)を採用していましたが、ヒゲゼンマイの復元力がテンプの動きを制御することで、等時性を確保しました。現存するトゥレ製作のヒゲゼンマイ時計には、テンプとヒゲゼンマイが確認できる構造図が残っており、ホイヘンスが提唱した「渦巻きばね付き調速子」**の概念を具現化したものとなっています ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance …)。またこの時計の精度は、それ以前の懐中時計を大きく凌駕し、日差(1日の誤差)が数分以内に収まったと推測されます。これは当時として画期的であり、以後ロンドンやパリの時計師たちがこぞってこの新機構を取り入れました。例えばイギリスの名工トマス・トンピオンは1675年以降ヒゲゼンマイ付きテンプを積極的に採用し、小型化と高精度化を両立させた懐中時計を製造しています ( 古時計再生工房 ++時計の歴史++ - 澤田時計店)。この初期モデルのもう一つの特徴は、耐振動・耐姿勢変化への適性です。当時、懐中時計は持ち運ばれる際に姿勢が変化しますが、ヒゲゼンマイ式のテンプはどの向きでも等時性を保てるため、携帯時計の実用性を飛躍的に高めました ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。総じて、ヒゲゼンマイ初搭載の時計は「小型で持ち運び可能」「高精度」「姿勢の影響が小さい」という特長を備え、現代の機械式腕時計にも通じる基本原型を既に完成させていたのです。
その後の改良モデルへの影響 #
最初のヒゲゼンマイ時計の成功により、多くの時計師がこの技術を応用した新たなモデルを生み出しました。例えばイギリスでは1700年前後にかけてトンピオンやジョージ・グラハムが温度補正機能(温度で伸縮するヒゲゼンマイの影響を相殺する補正器)を備えた時計を開発しました。また18世紀後半には、ジョン・アーノルドがヒゲゼンマイを立体的に巻いた**「提灯ヒゲ」(円筒ヒゲゼンマイ)を発明しています ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。1776年にアーノルドが開発したこの円筒ばねは、ばねが同心円状に収縮・拡大するよう工夫されたもので、ヒゲゼンマイの重心を常に中心に保つ狙いがありました ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。この改良は後のアブラアン=ルイ・ブレゲに影響を与え、ブレゲはさらに平面渦巻きばねの外端を持ち上げて巻き上げるブレゲひげ(Breguet overcoil)を発明します ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。ブレゲひげは1795年前後に考案されたとされ、ばねの中心付近と外周付近で力のかかり方を均一化し、呼吸(伸縮)時に重心が大きくずれないようにする巧妙な形状でした。もっとも当初ブレゲひげは理論的裏付けなしに経験的に作られたものでしたが、1861年にエドゥアール・フィリップスが発表した論文「Sur le spiral régulateur(ヒゲゼンマイの調整に関して)」によりその理論解析が成されます ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。フィリップスは「ヒゲゼンマイの重心を軸上に一致させれば等時性が保たれる」ことを数学的に示し ( Balance spring - Wikipedia)、理想的な終端曲線(フィリップス曲線)の形状を導出しました。これにより19世紀後半以降、多くの高級時計にフィリップス型の終端カーブを持つヒゲゼンマイが採用されるようになりました ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。このように、初出のヒゲゼンマイ搭載時計は後続の設計に直接影響を与え、提灯ヒゲ→ブレゲひげ→フィリップス曲線といった技術革新の系譜を生み出しています。これら改良を経て、19世紀末〜20世紀初頭には前述の素材革命とも相まって、ヒゲゼンマイ付き時計は高度に完成された機械となりました。現代の高級機械式時計には、こうした数世紀にわたる改良の積み重ねによる洗練されたヒゲゼンマイ技術**が息づいているのです。
5. 関連文献と資料 #
歴史的文献・記録 #
- クリスチャン・ホイヘンスの論文(1675年): ホイヘンスは発明直後の1675年2月に、フランスの学術誌『Journal des Sçavans』にヒゲゼンマイ時計の概念と図解を発表しました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。この論文(および同年の英王立協会紀要への報告)は、ヒゲゼンマイの原理が初めて公に示された歴史的文献です。ホイヘンスの著作『Horologium Oscillatorium(振り子時計論)』(1673年出版)には振り子時計の理論が詳述されていますが、ヒゲゼンマイに関しては1675年の報告が初出となります。
- ロバート・フックの手稿と講演: フックは自身の発明主張を記録に残しており、特に**「フック・フォリオ」**と呼ばれる1660年代の王立協会会合記録の控えが有名です ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches) ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。ここには1670年にフックがヒゲゼンマイ付き懐中時計を披露した記述があり、300年後に発見されるまで紛失していた王立協会公式議事録を補完する資料となりました ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。またフックは1678年に王立協会で行った講義「On Springs(ばねについて)」の中でヒゲゼンマイに言及しており、その講義録や図版も現存しています ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。これらは当時の発明競争の様子を伝える貴重な史料です。
- 特許文書: ホイヘンスはフランスとネーデルラント(オランダ)において1675年にヒゲゼンマイの特許を取得しました ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。フランス特許は王室特許の形で与えられ、トゥレによる特許出願騒動も記録に残っています ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。こうした特許原文は現在アーカイブ資料として保管されており、17世紀の時計技術の知的財産例として言及されます。
- 時計師の記録と書簡: 18世紀には有名な時計師たち(トンピオン、アーノルド、ブレゲ等)が互いにやりとりした書簡や工房の日誌などにヒゲゼンマイの改良についての記述があります。例えばジョン・アーノルドは1770年代にヒゲゼンマイ改良について王立協会に報告書を提出しており、ブレゲも自身の発明品目録に巻上げヒゲの項目を載せています。こうした一次資料は時計史研究者により分析されています。
学術研究・専門書 #
- エドゥアール・フィリップスの研究(1861年): 前述のとおり、フィリップスは19世紀にヒゲゼンマイの数学的解析を行い、その結果を1861年に発表しました ( Balance spring - Wikipedia)。この研究はヒゲゼンマイに関する初の本格的な理論論文であり、後に各国語に翻訳・紹介され時計技術者の指針となりました。
- 20世紀前半の技術レポート: 第二次大戦前後、各国の標準局や海軍天文台などでクロノメーター用ヒゲゼンマイの研究報告書が出されています。例えばアメリカの航海用時計の技術レポートでは、エリンバーやニヴァロックス材質の評価、耐磁化処理について詳細に述べられています。またスイスのニヴァロックス社(当時はStraumann社)の技術資料にはヒゲゼンマイの製造プロセスや機械的特性データがまとめられています。
- 専門書・教科書: 時計技術の古典的名著として、スイスのルイ・マッソーネの『時計学教程(Théorie d’horlogerie)』やイギリスのジョージ・ダニエルズ『時計製作(Watchmaking)』などがあります。これらの書籍にはヒゲゼンマイの調整方法、取り付け、材料と温度補償、終端曲線の付け方など実践的かつ理論的な解説が含まれています。特にダニエルズの著書は20世紀屈指の時計師によるもので、ヒゲゼンマイを含む脱進機・調速機全般の原理と製作法が詳細に論じられています。
- 近年の研究: 近年ではシリコン素材の導入に伴い、学術論文としてMEMS技術で作製したヒゲゼンマイの性能評価や、従来合金製ヒゲゼンマイとの比較を行った研究が発表されています。また振動解析の分野では、ヒゲゼンマイとテンプの複合振動系を数値シミュレーションし、姿勢差や衝撃時の振る舞いをモデル化する研究も行われています。これらは精密工学や材料工学の学術雑誌に掲載され、時計産業の枠を超えてマイクロマシン分野の応用研究とも位置づけられています。
解説書・歴史書 #
- 時計史の解説書: 一般向けには、多くの時計史本がヒゲゼンマイの発明とその影響を取り上げています。例えばデイヴィッド・ソベルの『経度(The Longitude)』では経度の測定問題の文脈でヒゲゼンマイ付きクロノメーターの意義が語られていますし、和書では『時計の文化史』などでホイヘンスとフックの発明争いが紹介されています。専門誌の記事では、セイコーミュージアムや時計雑誌クロノス日本版に掲載された解説 ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])や、時計Beginの特集記事 ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin) ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)などが分かりやすく歴史をまとめています。
- 専門家によるウェブ解説: オンラインでは時計愛好家や専門家によるサイトやブログでもヒゲゼンマイの技術解説が充実しています。例として、SJX WatchesやQuill & Padといった英語メディアが発明史や素材革新について詳細な記事を掲載しており ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)、日本語でもセイコーミュージアム銀座のサイトでヒゲゼンマイの基本原理と歴史が紹介されています ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座) ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。こうした資料を参照すると、一般向けから専門向けまで幅広い情報源でヒゲゼンマイの重要性が強調されていることがわかります。
6. ヒゲゼンマイの発明から現代までの年表 #
- 1650年代以前 – 懐中時計にはテンプのみで調速する機構が使われ、精度は低かった。ガリレオやフランチェスコなどが振り子等時性を発見するも、携帯時計への応用は未着手。
- 1657年 – クリスチャン・ホイヘンスが振り子時計を発明。固定時計の精度が飛躍的に向上し、携帯時計への高精度化要求が高まる ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
- 1660年 – ロバート・フックがフックの法則(弾性力∝変位)を発見 ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)。懐中時計にばね(ヒゲゼンマイ)を組み合わせる着想を得て試作を開始 ( 〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin)。同年11月、ホイヘンスがパリで時計師ギヨーム・マルティノー(Gilles Martinot)から「振り子の代わりにゼンマイばねを使う」提案を聞き密談 ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens) ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
- 1665年 – フランスのデュ・ソン(Du Son)とイギリスのフックが、それぞれ独自にヒゲゼンマイ付き時計の試作第一号を発表。しかしどちらも精度・信頼性が不十分で実用化に至らず ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
- 1668年 – ホイヘンス、王立協会に振り子時計の成果を報告(この頃までにフックとも交流し、ヒゲゼンマイのアイデアが英仏で共有される) ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
- 1670年6月23日 – ロバート・フック、ロンドン王立協会にてヒゲゼンマイ付き懐中時計のデモンストレーションを実施 ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)(トマス・トンピオンと協力して製作)。協会書記オルデンバーグの議事録では未記録だったが、後に発見されたフック自身の控え(フック・フォリオ)に詳細が残されていた ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches) ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。
- 1673年 – ホイヘンス、『Horologium Oscillatorium』出版(振り子時計理論書)。ヒゲゼンマイ開発の土台となる振動学理論を蓄積。
- 1675年1月 – ホイヘンス、パリにてヒゲゼンマイ(渦巻きばね)の原理を発明(日記に「エウレカ、1月20日」と記載) ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
- 1675年2月25日 – ホイヘンス、Journal des Sçavans誌上でヒゲゼンマイ付き調速機を発表 ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。同時期にフランス王およびオランダ当局から特許を取得 ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。アイザック・トゥレが製作協力。
- 1675年 夏~秋 – トゥレがヒゲゼンマイの発明者としてフランス特許を自ら出願しようと画策、ホイヘンスと一時対立 ( Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches)。ホイヘンスの抗議により阻止される。その後和解し引き続き協力 ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。ホイヘンス、発明を他の時計師にも公開しパリで技術普及開始 ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。
- 1675年末 – フック、ホイヘンスの渦巻きばねを使うことを拒み、独自の複数ばね方式に固執 ( Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens)。トンピオンと協働するも成果は限定的。ホイヘンスとトゥレの時計は一方で実用精度を達成しつつあり、評判が広がる。
- 1680年代 – ヒゲゼンマイ付き懐中時計が欧州で本格的に普及。分針の付いた時計が登場し始め、実用時刻計としての信頼性を獲得 ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。イギリスのトンピオンもヒゲゼンマイ時計の量産で成功を収める。
- 1715年 – トマス・トンピオン没。彼の時代にヒゲゼンマイ懐中時計の標準化がほぼ完了し、ロンドンは高級時計産業の中心地となる。
- 1759年 – ジョン・ハリソン、航海用クロノメーターH4完成。ヒゲゼンマイと温度補正機構を備え、大西洋横断で年差±1分程度という驚異的精度を実証。経度賞を事実上獲得(正式授与は1773年)。
- 1776年 – ジョン・アーノルド、ヒゲゼンマイの巻きを立体的にした「提灯ヒゲ(ヘリカル・ヒゲゼンマイ)」を開発 ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。精度と姿勢差改善に寄与。アーノルドの懐中クロノメーターが航海に用いられる。
- 約1780年 – ブレゲ、ヒゲゼンマイ外端を持ち上げて曲げる「ブレゲひげ」を考案(正式発表は1795年頃)。高精度懐中時計に採用し効果を発揮。
- 1861年 – エドゥアール・フィリップス、ヒゲゼンマイの理論解析を発表 ( Balance spring - Wikipedia)。フィリップス終端曲線の考案により、高級時計のヒゲゼンマイ形状が最適化される。
- 1896年 – ギヨーム、インバー合金発明。時計用テンプ材として温度による寸法変化を低減。
- 1913年 – ギヨーム博士、エリンバー合金を発明 ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)(前後してニッケル鋼材質の改良進む)。ヒゲゼンマイ素材が鉄鋼から合金へ転換。
- 1920年 – ギヨーム、インバーとエリンバーの功績によりノーベル物理学賞受賞。
- 1933年頃 – シュトラウマン博士、ニヴァロックス合金を発明 ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。以後機械式時計のヒゲゼンマイはこの合金が主流となり、精度・耐久・耐磁性能が飛躍的に向上。
- 1950年代 – 電子式時計の台頭(音叉式やトランジスタ式)が始まるが、ヒゲゼンマイ搭載の機械式も高級路線で存続。各社が耐震装置の開発(インカブロックなど)により衝撃からヒゲゼンマイ・テンプ系を保護する技術を導入。
- 1969年 – セイコーがクォーツ腕時計「Astron」を発売、**クォーツショック(quartz crisis)**が勃発 ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。機械式時計産業が衰退し、一時ヒゲゼンマイ研究も停滞。
- 1980年代後半 – 機械式時計の復興が始まる。高級ブランド各社が機械式の伝統技術を見直し、テンプやヒゲゼンマイの改良に再着手。クロノメーターコンクールも再開。
- 2000年 – ロレックス社、パラクロム合金ヒゲゼンマイを発表(実用化は数年前から順次投入)。高級時計メーカーがヒゲゼンマイを自社開発する動きが活発化 ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。
- 2002年 – パテックフィリップ、スワッチグループ、ロレックス、ユリス・ナルダン等がSwiss Laboratories for Material Science(CSEM)と共同でシリコン製ヒゲゼンマイ研究を開始(SPIプロジェクト)。
- 2006年 – パテックフィリップが初の**シリコン・ヒゲゼンマイ(Silinvar素材)**搭載時計を発表。以降オメガ(シリコンヒゲ”Si14”)や他ブランドも順次シリコン採用モデルを投入 ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。
- 2013年 – 機械式時計産業におけるヒゲゼンマイ素材のシェア:ニヴァロックス約90% ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。残りはパラクロム等の自社合金やシリコンが占める。磁気耐性への関心高まり、各社ヒゲゼンマイも含め耐磁性能強化。
- 2019年 – スウォッチグループ+A.ピゲ、チタン系合金のニヴァクロン発表 ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。一方タグホイヤーはカーボン複合材ヒゲゼンマイ(Isograph)を試作発表(のち技術的問題で量産中止)。
- 2020年代 – ヒゲゼンマイ研究は材料・形状ともに続行中。シリコン製に改良コーティングを施した耐衝撃性向上版や、伝統金属製でもナノ結晶構造の新素材開発が進む。ヒゲゼンマイは発明から約350年を経た今もなお時計技術の核心であり続けている。
7. 技術的詳細 #
ヒゲゼンマイとテンプの振動モデル #
ヒゲゼンマイとテンプ(バランスホイール)は組み合わせて調和振動子(ハーモニックオシレーター)を形成します ( Balance spring - Wikipedia)。テンプは回転慣性を持つ輪であり、ヒゲゼンマイは角度変位に比例した復元トルクを提供するねじりばね(トーションスプリング)として機能します ( Balance spring - Wikipedia)。この系の運動方程式は単振り子のそれと類似し、角振動数 ω は ω = √(κ/I) で与えられます(κ:ヒゲゼンマイのねじり剛性、I:テンプの慣性モーメント)。周期 T はT = 2π√(I/κ)となり、テンプとばねの物理定数のみによって決まります。フックの法則に従う範囲では振動の周期は振幅・重力に依存せず一定となり、これが等時性(isochronism)の原理です ( クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座)。実際のヒゲゼンマイは有限の厚みと長さを持ち大振幅時には非線形特性が出るため、理想どおりにはいきませんが、小振幅ではほぼ線形で動作します。ヒゲゼンマイの取り付け位置と終端形状は、振動中心(ばね重心)の位置に影響を与えます。重心がテンプ軸からずれると振幅によって有効トルクが変化し等時性が損なわれるため、ブレゲひげやフィリップス終端曲線のような工夫で可能な限り重心を軸に留める設計がなされています ( Balance spring - Wikipedia)。またテンプには調整ねじや偏心錘で慣性モーメントを微調整できるものもあり、ヒゲゼンマイとの組み合わせで微小な進み遅れの調整(レート調整)を行います。以上のように、ヒゲゼンマイ付きテンプは物理的には単振動のモデルで記述でき、その安定な周期特性が時計の精度を決定づけています。
材料科学の視点からの分析 #
ヒゲゼンマイ材料には、弾性率Eと熱膨張係数、磁気特性、疲労強度などが重要な要素となります。初期の炭素鋼(鋼鉄)製ゼンマイは弾性率が温度で変化しやすく、温度上昇でバネが軟らかくなるため時計が遅れ、逆に温度低下で進むという問題がありました。これに対しエリンバーやニヴァロックスといった合金は、鉄にニッケルやクロム、チタン等を添加することで温度による弾性変化を抑制し(低熱変化の自己温度補償特性)、さらに加工過程での熱処理により所定の硬度・強靭さを持たせています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。エリンバーは弾性率の温度係数が極小となる組成比を狙った合金で、ニヴァロックスはそれを更に改良し非磁性・耐食性も両立したものです ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。ヒゲゼンマイは薄く細いため腐食や疲労割れにも弱く、材料には耐久性も求められます。ニヴァロックス以降の合金は表面酸化しにくく疲労寿命も長いことから、数十年にわたり安定した性能を発揮できます。またヒゲゼンマイ製造では材料を伸線・圧延して必要な薄さに加工し、その後コイリング(巻き取り)して形状を作ります。加工時の繊維組織の配向や引張応力の分布がばね特性に影響するため、加工プロセスも材料科学の知見で最適化されています。近年のシリコン製ヒゲゼンマイは、半導体微細加工技術(DRIEエッチングなど)でシリコン単結晶板からパターンを切り出して作製されます。シリコンは結晶構造の各方向でヤング率が異なる異方性材料ですが、設計段階で適切な結晶方位を選び、かつ動作面内でほぼ等方的に応力がかかる形状にすることで安定した弾性を得ています ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。シリコンばねは重量が金属より軽く重力・姿勢の影響を減らせる利点もあります ( Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad)。ただし脆性材料ゆえの割れやすさが課題で、メーカー各社はシリコン表面に酸化膜やダイヤモンドライクカーボン膜をコーティングして強度向上や温度特性の微調整を図っています。総じて、ヒゲゼンマイの材料開発は**合金設計(成分調整)と加工技術(熱処理・微細加工)**の両面から高度化しており、その成果が現代の機械式時計の安定した高精度を支えています。
振動特性と時計精度への寄与 #
ヒゲゼンマイ振動系の特性として特に重要なのがQ値(品質係数)と等時誤差です。Q値は振動エネルギーの損失の少なさを表し、高いほど一度振り与えた運動が長く持続します。ヒゲゼンマイとテンプの組み合わせは非常にQ値が高く、値は数百〜数千に達します。これは歯車からの駆動以外でほぼエネルギー損失がなく、空気抵抗とわずかな内部摩擦程度しか減衰要因がないためです。Q値が高いほど外乱に対する周波数安定性が高くなるため、ヒゲゼンマイ振動子は時計の歩度安定性に優れます。一方、等時誤差とは振幅(テンプの振れ角)によって振動周期が変化する偏差のことです。理想的には等時誤差0が望ましいですが、実機ではヒゲゼンマイの重心ずれや脱進機との相互作用で僅かな非等時性が生じます。時計師たちはこれを抑えるため、ヒゲゼンマイを一端はテンプの真中心に取り付け、もう一端はヒゲ持ちと呼ばれる固定点でできるだけ滑らかに受け止める設計をしてきました。また上述のブレゲひげやフィリップス曲線により、大振幅でも重心が軸付近に留まる工夫を凝らしています ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( Balance spring - Wikipedia)。結果として現代の高級機械式時計では、通常姿勢で振幅が変化しても等時誤差は1日に数秒以下のオーダーに抑えられています。ヒゲゼンマイはまた姿勢差(姿勢による歩度の違い)にも関与します。テンプが垂直姿勢になるとヒゲゼンマイの重力によるたわみが発生し、微小な誤差要因となります。これもフィリップス曲線型ヒゲゼンマイや複数ばね配置で軽減され、天府と呼ばれる重力補償機構(複数姿勢の誤差を平均化するトゥールビヨンなど)と相まって高精度を実現しています。さらにヒゲゼンマイの温度補償は時計精度に直結するため、バイメタル補償テンプ(かつては二重金属の輪で温度で有効半径を変化させた)や、前述の合金材料開発で対応してきました ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) ( ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos])。現代では温度による日差変化も極めて小さく抑えられています。まとめると、ヒゲゼンマイは振動数を安定化し、姿勢・温度・経時変化による誤差要因を最小化することで機械式時計の精度向上に決定的な寄与を果たしています。それゆえヒゲゼンマイは「時計の心臓部」と称され、数世紀にわたる改良が積み重ねられてきたのです。
参考文献 #
【1】時計Begin編集部, 「英国発はこんなにスゴイ!ひげゼンマイ」, 時計Begin 特集記事, 2018年8月16日掲載 (
〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin) (
〖英国発はこんなにスゴイ!〗ひげゼンマイ | 特集 | 時計Begin).
【2】セイコーミュージアム銀座, 「クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695)」, セイコーと時計の歴史(ウェブサイト), ホイヘンスの振り子時計とヒゲゼンマイの解説 (
クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座) (
クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695) | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座).
【3】SJX Watches (George Cramer), “Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring?”, SJX Watches (Online), February 2019 (
Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches) (
Settling the 300-Year Old Dispute – Who Invented the Balance Spring? | SJX Watches).
【4】Rob Memel, “Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens”, Monochrome Watches (Editorial), 2023 (
Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens) (
Editorial: Who Invented the Balance Spring? Reaffirming the Crucial Role of Christiaan Huygens).
【5】Chronos日本版編集部, 「ヒゲゼンマイ」, 高級腕時計専門誌クロノス 日本版 時計用語辞典, 2020 (
ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]) (
ヒゲゼンマイ | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]).
【6】Quill & Pad (Joshua Munchow), “Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future”, Quill & Pad, 2020 (
Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad) (
Hairsprings: Origins, Progress, And (Dare I Say) Exciting Future - Reprise - Quill & Pad).
【7】Wikipedia, “Balance spring”, (英語版ウィキペディア) (
Balance spring - Wikipedia) (
Balance spring - Wikipedia).