氷の海で時計を吊る#
19世紀の北極航海では、船のクロノメーターを小さな帆布の吊床に載せ、船室の梁から吊る方法が試みられた。船体が氷にぶつかる衝撃や海上の運動から精密時計を守ろうとする工夫である。これは時計内部の脱進機ではなく、時計を入れた箱を船内に置くための支持方法だった。1
クロノメーターは基準地の時刻を航海中に保ち、天体観測で得た現地時刻との差から経度を求めるために使われた。時刻差1時間は経度15度に相当する。時計の進み遅れが変われば、推算する経度にも影響するため、船上では時計を守るだけでなく、複数の時計や天体観測と比較する必要があった。1 2
吊床とジンバルの役割#
一般的な箱入り海洋クロノメーターでは、時計を収めた容器を二軸のジンバルで木箱に支持する。船が傾いても時計をおおむね水平に保つためである。これに対し吊床は、箱ごと梁から支える外側の工夫だった。吊ることで箱は船体に固定された棚とは異なる動きをするが、衝撃を完全に遮断したり、常に歩度を安定させたりする保証はない。吊床とジンバルは異なる位置にある支持であり、同じ仕組みではない。1 3
パリーの第2航海の記録には、緑色の羅紗を内張りした帆布製の小さな吊床が、一つの時計ごとに用意されたとある。布の形や吊り綱の詳細寸法はこの記述だけでは分からない。航海側が期待したのは海上で時計に穏やかな運動を与え、氷中航行で頻繁に受ける衝撃の影響をある程度防ぐことだった。記録はその目的を述べているが、固定棚との対照実験で効果を定量化したものではない。1
フューリー号の13個#
ウィリアム・エドワード・パリーの1821〜1823年の探検で、フューリー号には13個のクロノメーターが積まれた。官給品、パリーや天文学者ジョージ・フィッシャーの私物、製作者が試用に出した品を含む。夏の間、船尾船室の梁から個別の吊床に吊られたのは、このうちNo.2109とNo.14を除く時計だった。1
例外にも理由がある。No.2109は必要に応じて携帯されたほか、士官が観測用の時計を比較しやすいよう船側に縦置きされた。吊床から他の時計を何度も下ろす必要を減らすためである。No.14はフィッシャーが携帯し、観測時刻の記録に用いた。吊床の位置だけでなく、時計を動かす頻度まで考えた運用だった。1
船が冬営地に固定されると、時計は吊床から取り出され、船室の暖炉の両側にある書棚へ移された。航海中の正午には毎日巻き上げと比較が行われた。夏はフィッシャーとフーパー、冬はパリーとフーパーが担当した。吊床は観測と比較の代わりではなく、条件に応じて置き場所を変える管理の一部だった。1
改良の試みと限界#
先行する1819〜1820年航海では、製作者パーキンソン・アンド・フロッドシャムが、氷による衝撃を和らげる狙いで吊床の吊り部分に鋼製ばねを用意した。後年の研究が引く航海付録によれば、ばねが一、二度破損したため取り外され、短い吊り方が選ばれた。大きい時計の吊床には、その動きを抑える滑車も使われた。これらは一つの完成形が初めから確立していたのではなく、航海の中で支持方法が調整されたことを示す。4
吊り下げ自体が万能というわけでもない。1824年のグライパー号では、ジョージ・フランシス・ライオンが、氷の衝撃に加え、荒天時に吊床が梁へ頻繁にぶつかったと記している。6
歴史家による同時代資料の検討では、航海者リチャード・オーウェンは、吊り支持が振動を生んで時計に影響し、巻き上げや比較のために下ろす操作も問題になると考えた。船に固定した支持を含め、別の方法も提案された。異なる船や海況でどれが最善だったかを、この意見だけで決めることはできない。4
1827年のパリーの北極行では、時計は再び船室の羅紗張り帆布の吊床に置かれた。付録は、出航時にグリニッジ天文台の時計と比較し、その後も毎日正午に巻き上げ、パリーの箱入りNo.259を基準に比較したと記す。支持の工夫と比較記録を組み合わせることが、船上で時刻を管理する実際の仕事だった。5
参考文献#
[1] William Edward Parry, Appendix to Captain Parry’s Journal of a Second Voyage, John Murray, 1825, “Account of the Chronometers”, pp. 3–7(2026年11月4日閲覧)。https://archive.org/details/appendixtocaptai00parr
[2] Smithsonian Institution, “Bond Marine Chronometer”(2026年11月4日閲覧)。https://www.si.edu/object/bond-marine-chronometer%3Anmah_856140
[3] Smithsonian, “Standardized Marine Chronometer”(2026年11月4日閲覧)。https://timeandnavigation.si.edu/multimedia-asset/standardized-marine-chronometer
[4] Emily Jane Akkermans, Chronometers and Chronometry on British Voyages of Exploration, 1819–1836, University of Edinburgh博士論文、2021年、pp. 155–160(2026年11月4日閲覧)。https://hdl.handle.net/1842/37801
[5] William Edward Parry, Narrative of an Attempt to Reach the North Pole, 1828, Appendix No. II, p. 164(2026年11月4日閲覧)。https://archive.org/details/narrativeofattem00parr
[6] George Francis Lyon, A Brief Narrative of an Unsuccessful Attempt to Reach Repulse Bay, John Murray, 1825, p. 143(2026年11月4日閲覧)。https://archive.org/details/briefnarrativeof1825lyon