クロスビート脱進機(cross-beat escapement、ドイツ語 Kreuzschlaghemmung)は、別々の軸のまわりを逆向きに動く二つの振動体を組み合わせ、時計の進みを制御する機構である。16世紀末、ヨスト・ビュルギが天文観測用時計へ導入したことで知られる。一本の軸に二つの爪を固定するヴァージ脱進機の構成を変え、二本の腕が交差するように動く点に特徴がある。1 2
この方式は、振り子やひげぜんまいが実用化される前の時計精密化を考えるうえで重要である。ただし、「二つの腕にすれば一定の周期が自動的に得られる」という仕組みではない。駆動力を整える装置、歯車や軸の加工、噛み合いの調整とともに理解する必要がある。3 4
天文観測が求めた短い時間#
カッセルのヘッセン方伯ヴィルヘルム4世の宮廷では、恒星の位置を測るために、観測器械と正確な時間の両方が必要だった。1579年に宮廷時計師として雇われたビュルギは、観測器械の製作や観測にも関わった。時計の改良は、単に日常の時刻を細かく表示するためではなく、天体が移動する時間を測定する研究環境に結び付いていた。3
従来のフォリオットは、両端に錘を持つ横棒である。ヴァージの軸と一緒に往復し、ガンギ車の歯が上下の爪を交互に押して運動を続けさせる。駆動力、衝突、摩擦を含む系なので、後の振り子のように重力と長さから周期を定める調速器とは性格が異なる。ヴァージとフォリオットの力学研究も、衝突や摩擦によるエネルギー損失を無視できないと指摘している。5
二軸の仕組み#

図:ビュルギ型の原理図。H=制止・衝動部、HR=ガンギ車、K=結合部、W=錘付き腕。作者:Manfredgoellner(2016)。出典:Wikimedia Commons「Bürgi.tif」。ライセンス:CC BY-SA 4.0。変更:TIFFからPNGへ形式変換のみ。掲載画像も同ライセンス。
ガンギ車から二本の腕へ#
ビュルギ型の原理図では、ガンギ車HRに接する二つの制止・衝動部Hを別々の軸に置き、それぞれを錘付きの腕Wへつなぐ。結合部Kは二軸の運動を関連付け、一方が回ると他方が逆向きに動く。ここでいう「二つ」は、独立した時計を二台合わせるという意味ではなく、同じガンギ車を制御する一組の機構を指す。2
動きを追うと、ガンギ車の歯が一方のHに作用し、腕を動かす。腕の運動と結合部によって接触が解けると、ガンギ車が進み、次にもう一方のHが歯を受ける。以後、二つの側が交互に役割を受け持つ。普通のヴァージでは同じ軸上で固定されていた二つの接触部が、ここでは別の軸を中心に動く。原理を同じくしても、結合部、歯車、腕の形を一律に同じものと考えるべきではない。1 2
腕と輪、脱進機とルモントワール#
現存するドレスデンの時計では、腕の端の錘が翼のある天使の頭の形をしている。ウィーンの水晶製天文卓上時計には、腕の代わりに二つの輪状の振動体を使う変種がある。「クロスビート」は外観上の棒の交差だけを指す名称ではなく、このような構造の違いを含む歴史的な機構群として読む必要がある。1
一方、ルモントワールは、主動力で小さなばねや重錘を周期的に巻き直し、脱進機側への力を整える装置である。クロスビートが歯の解放と振動の関係を変えるのに対し、こちらは動力の供給側を扱う。カッセルのばね式ルモントワール付き時計では、弱いばねを毎時巻き直す。しかし巻き直しの瞬間には中央の車へ力が伝わらない構造であることが、実機を扱うシンポジウム報告で指摘されている。短い範囲のばねの力を繰り返し使うことと、常時完全に一定の力を保つことは同じではない。4
発明年と先行技術#
ビュルギをクロスビート脱進機の発明者とする説明は広く用いられる。ただし1980年のChandlerとVincentの研究は成立を「1590年より少し前」とし、脚注では、ジャック・ベッソンが1569年に刊行した機械書の揚水装置を先行例として挙げている。1
2019年のニュルンベルク初期時計研究も、この点を重視する。ベッソンの図版44には交差する往復運動をポンプの回転運動へ伝える機構が描かれる。時計では回転側から往復運動を駆動するため、動力を使う向きが異なる。したがって、交差運動の原理そのものの考案と、それを時計の脱進・調速へ応用した功績を分けるのが適切である。先行図版があることだけで、ビュルギが特定の一冊を直接見て写したとまでは証明できない。6
この時代の機構を、近代の特許出願日から成立を確定できる発明として扱うこともできない。現存時計、機械書、観測記録、後世の実機調査を照合する必要がある。
現存作品が示す広がり#
| 例 | 機構・史料から分かること |
|---|---|
| ビュルギに帰属されるカッセルの精密時計 APK U 43 | 交差する腕とばね式ルモントワールを組み合わせる。年代・帰属は館の判断を伴う。7 |
| ドレスデンのビュルギの時計 | 大きく細かな歯の車と、天使の頭形の錘を付けた二本の腕が確認できる。1 |
| ウィーンの水晶製天文卓上時計 | 1622~1627年にプラハで製作されたとされ、二つの輪状振動体を用いる変種を備える。1 |
| パテック フィリップ・ミュージアムのビュルギ帰属時計 | 館の解説は、大型の脱進車を使う構成と12秒の振動周期を記す。この周期は当該作品の説明である。8 |
大型の時計だけに限られた機構でもない。ヨハン・ペストドルファーの水晶ケース入り携帯時計など、17世紀の小型時計にも現存例がある。ただし製作者間の伝播経路は十分に解明されていない。現存例が複数都市にあることと、量産・広範な日常使用があったことは区別すべきである。1
精度をどう評価するか#
カッセルの館蔵記録は、16世紀の観測記録に登場する「二重の横棒」を備えた時計に注目する。分針・秒針がない時計では音を数えて分より細かな時間を測ったという記述から、館は1秒の周期との関係を推定している。これは史料と実物を結ぶ解釈であり、すべてのクロスビートが1秒周期だったという意味ではない。12秒周期を記す別の館蔵例と、直ちに矛盾するものでもない。7 8
精度向上の要因を脱進機だけに還元することにも注意が要る。2025年のビュルギ研究は、ルモントワールやクロスビートに加え、大きな鉄製歯車を精密に仕上げた職人技を挙げる。現存時計どうしでも歯車・調整機構・動力供給が違うため、同じ条件で測った比較実験なしに、この方式単独で日差が何倍改善したと断定することはできない。3
材料と保守も作品ごとに読む必要がある。館蔵APK U 43には木、真鍮、鉄、ガラス、腸線が使われるが、これは全クロスビートに共通する材料指定ではない。後年の水晶ケースや装飾された錘も、調速原理とは別の製作上・美術上の選択である。現存品の具体的な公差、油種、耐磁性能を示す製作仕様は、ここで確認した資料にはない。7
年表と歴史的位置#
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1569年/1578年版 | ベッソンの機械書に、ポンプ用の交差運動機構が示される。6 |
| 1579年 | ビュルギがカッセル宮廷の時計師となる。3 |
| 16世紀末 | ビュルギがクロスビートを天文時計へ導入。厳密な初作年月は確定しない。1 |
| 17世紀 | 他の製作者の小型時計にも採用例が現れる。1 |
| 17世紀後半 | 振り子・ひげぜんまい付きテンプの普及によって主流から退く。1 |
| 1953年以降 | Hans von Berteleらによる現存機構の研究で、歴史的意義の再評価が進む。1 |
| 2019~2025年 | 先行する機械技術との関係や、職人の技術と数学の相互作用を扱う研究が続く。3 6 |
クロスビートの意義は、振り子以前の時計がすべて同じ制約のまま停滞していたわけではない、と示す点にある。二軸の配置、供給力の整流、細かな加工を組み合わせ、天文観測の要求へ応えようとした。その成果と限界を分けて見ることで、後に振り子やひげぜんまいがもたらした変化も理解しやすくなる。
参考文献#
以下の資料は2026年11月8日確認。未確認の性能値や製作者間の師弟関係は補っていない。
- Bruce Chandler / Clare Vincent, “A Rock Crystal Watch with a Cross-Beat Escapement”, Metropolitan Museum Journal 15 (1980), pp.193–201、特に本文・図1–12・脚注4、8。
- Manfredgoellner, “Bürgi.tif”, 2016。部品記号付きのビュルギ型原理図。歴史的実機の製作図ではない。
- Damian Moosbrugger, “A clockmaker’s mathematics: a technology-based approach to the mathematical works of Jost Bürgi (1552–1632)”, Archive for History of Exact Sciences, 2025, §2。
- Michael Beck, “Jost Bürgis Uhren im Astronomisch-Physikalischen Kabinett Kassel”, 3. Internationales Jost-Bürgi-Symposium, 2019, p.13「Die Uhr mit Kreuzschlaghemmung und Federremontoire」。
- Aaron S. Blumenthal / Michael Nosonovsky, “Friction and Dynamics of Verge and Foliot: How the Invention of the Pendulum Made Clocks Much More Accurate”, 2020, §2。従来のヴァージ機構の力学を扱う研究。
- Dietrich Matthes / Rocío Sánchez-Barrios, “Some further early clocks from Nuremberg”, Antiquarian Horology 40/2, June 2019, pp.215–230、参照pp.228–229、図18と脚注63。
- Hessen Kassel Heritage, “Präzisionsuhr mit Kreuzschlaghemmung und Federremontoire”, APK U 43、Karsten Gaulkeによる館蔵解説。
- Patek Philippe Museum, Treasures from the Antique Collection, 「Science Revolutionizes Timekeeping」pp.30–31。