電子ペーパー文字盤

電子ペーパー文字盤

電子ペーパー文字盤は、紙に似た反射表示を電子的に書き換えて時刻や図柄を示す時計の表示部である。代表的な電気泳動方式では、液体中の帯電した顔料粒子を電界で移動させ、見る側に現れる色を変える。いったん書いた画像を電力なしで保持できることが大きな特徴だが、時刻を進める回路や画像の更新には電力が必要になる。123

時計への応用は、セイコーが2005年に発表し2006年に発売したスペクトラムの曲面表示から、2010年の高精細なアクティブマトリクス表示、ソニーの文字盤とベルトを着せ替えるFES Watchへ展開した。この発展では、表示材料だけでなく、電極の配置、低消費電力の駆動回路、更新する領域と頻度、装着できる形状の設計が重要だった。45610

電子ペーパー、電気泳動表示、反射型液晶#

電子ペーパー(electronic paper、e-paper)は、特定の一材料だけの名称ではない。反射して見える、薄く持ち運べる、書き換えられる、画像保持に必要なエネルギーが少ない、といった紙の性質を目指す表示技術の総称であり、電気泳動のほか、粒子を別の方法で移動させる方式や反射型液晶を使う方式も研究・実用化されてきた。本稿は主に、時計に採用された電気泳動表示(electrophoretic display、EPD)を扱う。E Inkはその代表的な供給企業・商標であり、電子ペーパー全体の一般名ではない。12

電気泳動では顔料粒子の位置を変えるのに対し、液晶表示では液晶分子の配向などを利用して光の通り方を制御する。反射型液晶の時計も外光で読めるため、「反射する」「バックライトを常用しない」という特徴だけでは両者を区別できない。また、薄膜トランジスタ(TFT)で画素を選択するという駆動構造は液晶にもEPDにも使われる。TFTを備えていること自体は、表示材料が液晶であることを意味しない。127

区別する対象電気泳動方式の文字盤での意味
表示材料電界に応じて移動する顔料粒子と分散媒
セグメント方式あらかじめ決めた形の電極を切り替える方式。表示できる位置・輪郭に制約がある
アクティブマトリクス方式微小な画素をTFTで選択し、文字・数字・図を画素の組合せで描く方式
フレキシブル表示部を曲げられる構造。画素の選択方式や画像の内容とは別の性質
ソーラー、電波受信、Bluetooth電源・時刻合わせ・通信の機能。電子ペーパーそのものの性質とは別に設計される

セグメント/マトリクスの区別はセイコーの技術発表、電源や通信との区別はブライツとFES Watch Uの仕様に基づく。4511

粒子を動かして、画像を保持する#

表示層と背面の回路#

白黒の二粒子系を例にすると、透明な液体に、互いに異なる電荷を持つ白と黒の粒子を分散させる。上下の電極間に電界を作り、白い粒子を観察面側へ移せば明るく、黒い粒子を観察面側へ移せば暗く見える。これは発光ではなく、表面から戻る外光の違いである。暗所で読むには別の照明が要る。12

二粒子系電気泳動表示で、白粒子または黒粒子が観察面側に移る様子と、画像保持と時刻更新の電力の違いを示す模式図

図1:二粒子系電気泳動表示の概念図。作者・出典:本サイト作成(SVG原図)。CC BY 4.0。既存図版の転載・トレースなし。粒子数・寸法・層構成を簡略化し、特定製品の断面や電荷の符号を示していない。原理の根拠:123。

粒子を微小なカプセルに封入する方法は、粒子が画面の一方に偏ったり凝集したりする問題の克服に役立った。1998年にBarrett Comiskey、J. D. Albert、Hidekazu Yoshizawa、Joseph Jacobsonが発表した原論文は、電気泳動分散液のマイクロカプセル化と、印刷による反射表示の形成を報告している。ただし電気泳動表示の研究自体はそれ以前から存在し、この論文を電子ペーパー全方式の最初の発明とみなすことはできない。18

製造では、粒子を封じた表示層と電極・背面回路を組み合わせる。高精細化する場合は、表示フィルムを画素ごとのTFTを持つ背面基板に積層し、制御ICとドライバーから電圧の時間列を与える。粒子を収める構造にはマイクロカプセルのほか微小なカップ状の区画もあり、「電子ペーパーならすべて同じカプセル構造」とは限らない。表示層が薄いことと、完成した時計全体を自由に折り曲げられることも別である。12

双安定性と時計全体の消費電力#

白または黒の状態を、電界を取り去った後にも保持できる性質を双安定性(bistability)という。静止した表示の保持に電力を要しないことと、動作する時計の消費電力がゼロであることは異なる。水晶発振器と計時回路は時間を数え、制御回路は更新時刻を判断し、表示を変えるときには粒子を動かす。照明や無線通信を使えば、それらの消費も加わる。電池が切れて古い画像だけ残っていても、それは現在時刻を表示している証拠にはならない。3711

この違いはFES Watch Uの取扱資料に具体的に現れる。同じ時計でも、ボタンを押したときだけ時刻を出す設定は所定条件で約2週間、時刻の常時表示は約24時間とされる。前者の条件は柄変更1日1回、柄追加1日1回、時刻表示1日25回である。図柄を止めた状態の保持能力から、時刻を繰り返し書き換える場合の電池寿命を直接推定することはできない。11

更新波形、残像、部分書換え#

表示の更新は、単に一度電圧をかければいつでも同じ結果になる作業ではない。直前の状態を消し、粒子を動きやすくし、新しい階調に到達させるため、複数の電圧と時間を組み合わせた駆動波形を用いる。時計向け開発報告では、電荷の偏りを抑えるための直流成分の釣合いも考慮している。速さだけを優先すると、十分な白黒が得られなかったり前の画像が残ったりする。7

2013年公表のセイコーエプソンの開発報告は、対象のEPDウオッチで、反射率を十分に飽和させる駆動では一連の書換えに約2.8秒を要したのに対し、ボタン操作時には目標反射率を調整して約0.8秒へ短縮したと説明する。これは当該パネルと駆動条件の結果であり、電子ペーパー全般の固定的な応答時間ではない。7

毎分の時刻表示では、変わった桁だけを更新すれば書換え量を減らせる。しかし画面内で更新回数が大きく異なると、経年による反射率の変化が部分ごとに異なり、残像として見える可能性がある。同報告は、駆動条件に加えて材料ロットの特性を評価・選別したことを記している。したがって省電力化は、ソフトウェアで更新を間引くだけでなく、材料の安定性と長期表示品質の検証を伴う。7

時計への実装と発展#

2005年の発表と2006年発売のスペクトラム#

セイコーは2005年のバーゼルワールドで電子ペーパー腕時計を披露した。スペクトラムとしての製品発売は2006年であり、発表年と発売年は分けて考える必要がある。メーカーの2010年技術発表はこの2005年の披露を振り返り、2007年の技術総説は2006年1月の限定発売を記録している。後者の筆者は表示材料事業に関わる凸版印刷の技術者であり、メーカーと無関係な市場調査ではない。146

スペクトラムの意義は、表示を小さな平面の窓に閉じ込めず、湾曲したブレスレット状の外形に組み込んだ点にあった。一方、表示はあらかじめ形と位置を決めたセグメントを切り替えるものだった。任意の写真や文字をどこにでも配置する後年の画素表示と、同じ自由度があったわけではない。46

2010年のアクティブマトリクスEPDウオッチ#

2010年3月18日、セイコーはアクティブマトリクスEPDの試作時計を発表した。試作発表では約8万画素、300dpi、4階調とされ、固定形状のセグメントから、文字の大小やレイアウトを変えられる画素表示へ進んだ。発表はE Inkの表示フィルムと、セイコーエプソンによるTFT、低消費電力の制御・駆動回路を挙げている。4

同年9月に発表されたブライツSDGA001などの商品は、約7.2万画素、300dpi、4階調の表示を備え、12月3日発売予定とされた。3月の試作品と商品発表の画素数を混ぜるべきではない。商品ではソーラー充電と標準電波受信を組み合わせ、二つの都市の時刻やカレンダーなどを表示した。表示材料の消費が少ないだけでは成立せず、時計として継続動作できる回路と電源の統合が必要だった。57

セイコーが2010年に掲げた「世界初」は、アクティブマトリクスEPDを腕時計に用いたという範囲の主張である。2005年のEPD腕時計の発表や、後のフレキシブルなアクティブマトリクス製品の主張とは、対象条件が異なる。410

スマートキャンバスの時間による絵柄#

セイコーエプソンのスマートキャンバスは、高精細なEPDを、時刻に応じて絵柄や物語が変わる腕時計に用いた。2017年の開発報告によれば、2010年のコンセプト展示を経て2013年度に商品化された。時・分・曜日・日付など異なる周期の表示要素を重ねる構成によって、単なる時計の文字フォントの交換を超えた表現を目指した。9

同報告は、表示領域を広く取る設計のためソーラー発電と電波修正を採用せず、コイン形電池を用いたことも説明する。これはEPDなら必ずソーラー時計になるわけではないことを示す実例である。画面とバンドを一体の意匠として扱うコンセプトでも、スマートキャンバスのバンドの絵柄と、ソニーの電子的に柄を変えるバンドとは区別される。910

FES WatchとFES Watch U#

ソニーのFashion Entertainmentsによる初代FES Watchは、文字盤に加えてベルトの柄も切り替える時計だった。2015年11月の一般店頭販売発表では24通りのデザインを選べるとされ、それ以前のクラウドファンディングや受注販売とは販売段階が異なる。12

後継のFES Watch Uは、2016年8月にクラウドファンディングを開始し、2017年6月12日に正式販売された。腕時計形状のアクティブマトリクス型フレキシブル電子ペーパーを用い、発売時のアプリFES Closetでは写真などからデザインを作成し、文字盤とベルトへ転送できた。薄く曲げられる表示と画素単位で描画する機能の組合せによって、時計を情報の窓だけでなく、身につける図柄の媒体へ広げた例である。1013

ここでソニーがいう「世界初」は、腕時計形状のアクティブマトリクス型フレキシブル電子ペーパーを組み込む製品という限定付きである。セイコーの2010年のアクティブマトリクスEPD腕時計と、条件を省いて先後を競わせることは適切ではない。410

効果、限界、残された課題#

反射表示は外光下で読み取れ、静止画保持のための連続駆動を避けられる。セグメントや画素の制御を工夫すれば、数字だけでなく図柄、階調、時刻ごとに変わる場面を同じ面に描ける。一方、照明なしの暗所では読めず、書換え時の待ち時間、反転やちらつき、残像、温度や使用履歴に応じた表示品質を考慮する必要がある。FES Watch Uの仕様上の動作温度は5〜35℃であり、すべてのEPD時計に共通する保証温度ではない。1711

フレキシブルという語も、どんな曲げ方に耐えるかを保証しない。FES Watch Uの取扱資料は、ベルトを通常の装着範囲を超えて曲げたり、ねじったり、つぶしたりしないよう求める。表示材料、電極、配線、表面保護層、時計本体への接合を一つの装着物として成立させる必要がある。11

2024年の福州大学などの研究では、10.3インチの実験用EPDと駆動基板を使い、電圧波形の順序と無電圧期間を変えて、更新時の消費とちらつき・残像を比較した。時計の実装試験ではないが、静止画像を保持できる材料でも、書換え時の制御が電力と画質を左右することを示す。大きな実験パネルで得た改善率を、そのまま腕時計の電池寿命に置き換えることはできない。14

また、表示の保持寿命と、時計の商品としての利用可能期間は一致しない。ソニーは2022年12月31日をもってFES Watchシリーズの修理・サポートとFES Closetのアプリ配信を終了したと告知している。2026年11月4日時点では、発売時に提供されたデザイン追加機能を、新規購入者が現在も同じ条件で利用できるとは扱えない。時計本体での時刻設定方法が取扱資料にあることと、アプリの配信・保守が続いていることは別の問題である。1115

電子ペーパー文字盤の技術的な要点は、単に「電池が長持ちする画面」ということに尽きない。画像を保持できる表示材料を、絶えず時間が変わる時計にどう組み込み、読みやすさ、書換えの速さ、外形、電源、長期の表示品質をどう両立させるかにある。79

年表#

年月発展と資料上の位置付け
1960年代末〜1970年代電気泳動表示やXeroxの紙に似た表示の研究。1998年より前の先行技術として技術総説が整理。1
1998年7月Comiskeyらがマイクロカプセル化した電気泳動インクと印刷による反射表示を発表。8
2005年セイコーがバーゼルワールドで電子ペーパー腕時計を披露。6
2006年1月スペクトラムの限定発売。湾曲したセグメント式EPDを採用。14
2010年3月セイコーが約8万画素のアクティブマトリクスEPD時計の試作を発表。4
2010年9月約7.2万画素のブライツを発表。12月3日発売予定と公表。5
2013年度スマートキャンバスの商品化。時間の周期に応じて絵柄を変える構成へ。9
2015年11月初代FES Watchの一般店頭販売を開始。先行する受注・クラウドファンディング販売と区別。12
2016年8月/2017年6月FES Watch Uのクラウドファンディング開始/正式販売開始。1013
2022年12月FES Watchシリーズの修理・サポート、FES Closetアプリ配信が終了。15
2024年8月EPDの書換え波形と消費・画質に関する実験研究を公表。時計製品の発表ではない。14
2026年11月本稿の資料確認時点。歴代の製品仕様と現在のサポート状況を区別して記載。

資料の範囲#

初期の原理研究、時計メーカーの発表、開発者自身の技術報告、取扱資料を照合した。メーカー発表にある「世界初」は対象条件を保ち、全メーカー・全地域の先行例を独自に網羅検証した結論とはしていない。初代FES Watchの全製造仕様や、現行の全電子ペーパー腕時計の市場一覧は本稿の確認範囲に含めない。1998年の原論文は出版社公開の抄録・書誌で確認できる研究内容に限って参照している。8

参考文献#

以下はいずれも2026年11月4日閲覧。開発者の論文やメーカー発表は当事者の一次資料として用い、第三者による独立検証とは区別した。

  1. 檀上英利「電気泳動方式電子ペーパー」『日本印刷学会誌』44巻5号、2007年、257–261頁。凸版印刷の技術者による総説。

2. E Ink「Electronic Ink — How it works」。二粒子系、マイクロカプセル、Microcup構造などのメーカー技術解説。公開日表示なし。

3. E Ink「Benefits」。双安定性と反射表示についてのメーカー解説。公開日表示なし。

4. セイコーウオッチ「[参考商品] 世界初『アクティブマトリクスEPDウオッチ』を製品化」、2010年3月18日。試作の発表。

5. セイコーウオッチ「<セイコー ブライツ>よりデジタルウオッチの新時代を拓く新製品発売」、2010年9月7日。商品・発売予定・表示仕様。

6. Seiko Watch, “SEIKO’s ‘Future Now’ project delivers a new generation E-Ink watch,” 18 March 2010, 4頁。メーカー発表PDFの第三者保存版。2005年の披露、セグメント/マトリクス比較。

7. 村山哲朗・小越剛・関重彰「アクティブマトリクスEPDウオッチの開発」『マイクロメカトロニクス』57巻208号、2013年、26–32頁。本文PDF。開発者による報告。

8. Barrett Comiskey, J. D. Albert, Hidekazu Yoshizawa and Joseph Jacobson, “An electrophoretic ink for all-printed reflective electronic displays,” Nature, 394, 253–255, 16 July 1998, DOI: 10.1038/28349。参照範囲は公開抄録と書誌。

9. 三宅哲也・小越剛「アクティブマトリクスEPDを活用した新しいコンセプトのウエアラブル商品の開発」『マイクロメカトロニクス』61巻216号、2017年6月15日、2–10頁。本文PDF。スマートキャンバスの開発者報告。

10. ソニー「ひとつの時計にデザインをコレクション・着せ替えられる『FES Watch U』登場」、2016年8月29日。クラウドファンディング開始発表。

11. ソニー「FES Watch U/FES Watch UL ヘルプガイド」、資料番号4-698-869-01(5)、Copyright 2017。18–21頁の時刻表示・持続時間、40–45頁の取扱注意・仕様など。両モデル共通資料。

12. ソニー「『FES Watch』の一般店頭販売を開始」、2015年11月16日。

13. ソニー「スマートフォンとの連携で好みのデザインを自由に表現――『FES Watch U』の正式販売を開始」、2017年6月12日。

14. Shanling Linほか, “Low-Power Driving Waveform Design for Improving the Display Effect of Electrophoretic Electronic Paper,” Micromachines, 15(9), 1076, 26 August 2024, DOI: 10.3390/mi15091076。実験条件は3.1節、駆動波形と画質は3.3–3.6節。

15. ソニー「FES Watch/FES Watch U 修理のご相談」、2023年1月10日付お知らせ。2022年12月31日での修理・サポート・アプリ配信終了を告知。