エピラム処理

エピラム処理

油の居場所をつくる薄膜#

エピラム処理は、時計部品の表面に非常に薄い膜を形成し、潤滑油が意図しない場所まで広がるのを抑える技術である。フランス語では épilamage、処理剤や膜は épilame、英語では epilame treatment などと呼ばれる。特定の一化合物や商標だけを指す語ではなく、油の移動を抑える目的を共有する表面処理を指す。12

時計では、ごく少量の油が接触部を潤滑する。油が周囲へ薄く広がれば、必要な場所に残る量が減る。逆に、自由に動くべき隣接部品の間へ入り込めば、動きを妨げることがある。エピラムは、この小さな油の配置を表面の化学から支える。3 潤滑全般については時計の潤滑と金属表面処理も参照されたい。

濡れと接触角#

油滴の形を決める三つの界面#

固体に置いた油滴が平たく広がるか、厚みを保つかは、油の粘度だけでは決まらない。固体と気体、固体と油、油と気体という三つの界面の性質が関わる。油滴の端で、固体面と液面の接線が液体側につくる角度が接触角であり、小さいほど濡れ広がりやすい。4

理想的に平滑で化学的に均一な、変形しない固体上で、液体が部分的に濡れて平衡にある場合、その関係をYoungの式で表す。4

\[ \gamma_{SV}=\gamma_{SL}+\gamma_{LV}\cos\theta \]

ここで、\( \theta \) は液体側から測る接触角、\( \gamma_{SV} \) は固体・気体界面の表面自由エネルギー、\( \gamma_{SL} \) は固体・液体界面の自由エネルギー、\( \gamma_{LV} \) は液体・気体界面の表面張力である。添字S、L、Vは固体、液体、気相を表す。表面エネルギーの単位J/m²は、表面張力の単位N/mと次元が同じで、実務ではmJ/m²、mN/mを使う。4

エピラムが変えるのは、主として油と出会う固体側の表面である。低い表面エネルギーをもつ層をつくり、油が広がりにくい組合せへ変える。ただし、式には固体・油の界面項もあるため、「油の表面張力が固体の値より大きければ必ず留まる」という二つの数値だけの規則にはできない。14

同じ油を想定した液滴の模式図。左は接触角が小さく広がり、右は表面処理によって接触角が大きくなり接触幅が狭い

図1:油滴の濡れ方と接触角を説明する独自模式図。作者:本サイト編集部。原理の出典:協和界面科学の解説。実測値や特定製品の性能を示す図ではなく、薄膜の厚さも誇張した。既存図版の転載・加工なし。

接触角は条件と一緒に読む#

水をはじく面が、時計油にも同じ接触角を示すとは限らない。試験液を水から油へ替えれば、液体の表面張力も固体との界面も変わる。メーカーが時計油を使って処理面を試験するのは、この違いがあるためである。45

実際の部品には粗さ、めっき、酸化膜、汚染、処理むらがある。また、液滴が広がるときの前進接触角と、接触域が縮むときの後退接触角は異なり得る。静止した滴の角度と、傾斜や外力で動き出す条件も同一ではない。接触角は有用な検査指標だが、それだけで衝撃下の油保持や時計の整備間隔が決まるわけではない。4

潤滑・洗浄・表面処理の役割#

潤滑油は、相対運動する面の間で摩擦や摩耗を制御する。洗浄は、古い油や汚染物を取り除く。エピラム処理は、その後の表面の濡れ方を意図して変える。この三つは目的が異なり、エピラムを施しても必要な潤滑油が自動的に不要になるわけではない。13

処理液も、部品上に残る膜そのものとは区別する。MoebiusのFixodrop ES資料では、活性成分はフッ素化ポリエステル、希釈媒体は部分フッ素化溶媒とされる。媒体が失われた後、薄い活性成分の層が表面に残る。同資料の膜厚約3〜5nmは、この製品群についての目安であり、エピラム一般の定義寸法ではない。2

別の結合方式も研究されている。RolexのEP2084252B1は、基材への結合を担うカテコール部と、撥水・撥油性を与えるフッ素化末端側を組み合わせた分子を提案する。これは表面への固定と外側の機能を分けて設計する例である。公開特許の実施例は技術的な提案と試験を示すもので、特定の量産時計での採用を証明するものではない。1

洗浄とエピラムの関係には、一見逆説的な面がある。汚染を除いた面は、油がよく濡れる状態になる場合がある。一方、膜を均一に形成するには、処理前の清浄さが重要になる。メーカー資料も清浄・乾燥状態が膜の挙動を大きく左右すると記す。「よく洗ったから油が留まる」とは限らず、清浄化と、その上につくる表面の設計を別々に考える必要がある。15

時計のどこで働くか#

代表的な対象は、スイスレバー脱進機の爪石やガンギ車、軸受に用いる石など、少量の油を接触域に保ちたい部品である。Stoeberの2009年の実務解説は、石、ガンギ車、地板、車、レバー、軸などを製造工程での処理例に挙げ、整備時には再処理が必要な部位を選ぶと説明する。3

ただし、油を留めたいからといって、組み上がった機構を一律に覆えばよいわけではない。同解説は、アンクル全体への繰返し処理によって軸肩やフォーク溝に膜が蓄積し、振り角や歩度へ影響した経験も記している。これは当時の製品・実務条件に基づく注意であり、重要なのは「油が触れる部品すべて」という分類だけでなく、同じ部品のどの面を処理するかという選択である。3

材料と耐洗浄性#

処理直後に油が丸まることと、後の洗浄でもその性質が残ることは、異なる性能である。2019年付のMoebius資料は、同じFixodropの中でも用途を分けている。567

資料に示された製品群活性成分・媒体特徴と比較上の注意
ES/WR-S 7060〜7062フッ素化ポリマー・EcoSolv鋼、ルビー、銅など標準的材料での耐洗浄性向上を目的とする。材料別の試験結果を併記する
ES/WR-P 7070〜7072フッ素化ポリマー・EcoSolv金、ロジウムめっき、ニッケル、DLCなどを主な開発対象とする
W 8970・8971フッ素化ポリマー・脱塩水水系。水系・アルコール系の洗浄によって除去できる膜として説明される

WR-SとWR-Pの資料は、時計用合成油Moebius 9010の接触角を、処理後とRubisol型洗浄剤による連続3回の洗浄後で比較している。比較には、使った油、基材、洗浄剤、洗浄回数がそろって必要になる。「耐洗浄性」という名称だけから、あらゆる洗浄液や整備回数への耐久性を読み取ることはできない。56

表中は公開技術資料に記された製品設計の例であり、2026年の全製品の配合・供給状況を保証する一覧ではない。基材の名前が同じでも、めっきや表面仕上げが違えば、処理膜が実際に接する表面は異なる。機種の指定と材料・工程の組合せが、製品の一般説明に優先する。34

成立と発展#

エピラムは、洗浄、油の改良、表面化学の発展が交差した技術である。Paul Woogのステアリン酸による処理は、その歴史の中心に置かれるが、後年の資料は成立年を一致させていない。時計師StoeberはPaul Ditisheimとの協力の中で1925年に生まれたとし、Rolexの特許説明は1930年と記す。当時の発明記録そのものを確認していないため、一つの年を確定的な「初発明」としない。13

時期資料から確認できる展開
1925年/1930年後年の実務解説と特許説明が、Woogのステアリン酸系処理をそれぞれ異なる年に置く。13
1970年代Rolex特許の歴史説明は、フッ素系ポリマーを用いる製品が導入された時期とする。1
2006〜2017年カテコール部で表面へ固定する薄膜の特許EP2084252は2006年12月1日の優先日を持ち、2009年8月5日にA1公報、2017年3月29日にB1公報が公開された。実用化年とは別である。1
2019年Moebiusの技術資料で、基材別の耐洗浄型と水系のエピラムを確認できる。567
2025年末3Mは自社のPFAS製造からの撤退を完了したと公表した。これは同社の製造方針に関する事実である。9

フッ素系材料と現在の動向#

材料の変化を読むには、油をはじく膜の成分と、それを運ぶ媒体を分ける必要がある。水系Fixodrop Wの資料は、媒体を脱塩水としながら、活性成分をフッ素化ポリマーと明記する。カテコール系の前記特許も非フッ素系溶媒を提案する一方、膜をつくる分子にはフッ素化部位を用いる。「水系」「非フッ素系溶媒」という説明だけでは、処理膜までフッ素を含まないと判断できない。17

安全データシートも、配合の全成分を列挙する材料仕様書とは役割が異なる。Fixodrop W-10 8971の2018年版SDSは当時のCLP分類で非分類とするが、それによって技術資料中のフッ素化ポリマーの記述が消えるわけではない。古いSDSの危険有害性分類を、そのまま「PFASを含まない」という証明や、現行製品の組成表示として使うことはできない。78

PFASをめぐっては供給側も変わっている。3Mは2022年12月に製造撤退方針を発表し、2025年末に撤退を完了したと説明する。ただし、この一社の方針から、時計用エピラム全般の製造終了や、すべての地域・製品での使用禁止を導くことはできない。9 時計技術としての課題は、油の保持、基材への固定、洗浄への耐久性を確保しながら、膜の成分と処理媒体をそれぞれ検討することである。

確認できる範囲#

公開資料は、エピラムが油の濡れ方を制御する仕組みと、製品・基材ごとに性能を分ける必要を示している。一方、特定ムーブメントの処理部位、現行の非公開配合、長期間使用した時計の寿命を、一つの接触角や膜厚から推定することはできない。本稿の製品値は資料発行時の例であり、修理工程や薬剤選択の共通手順を与えるものではない。

参考文献#

[1] Rolex SA, “Ultra-thin water and oil repellent layer, manufacturing method and use in watchmaking as epilame”, EP2084252B1、説明・実施例・書誌事項、2017年。https://patents.google.com/patent/EP2084252B1/en (2026年11月4日閲覧)

[2] Moebius, “Technical Information FIXODROP ES”、pp. 2–3、末尾に2014年6月12日の記載、H. S. Walsh所蔵のメーカー資料。https://www.hswalsh.com/usercontent/doc/24261/Information%20Fixodrop%20ES_INT_0.PDF (2026年11月4日閲覧)

[3] Bernhard Stoeber, “Epilame and the Modern Watch Service”, Horological Times, 2009年4月、pp. 12–16(PDF pp. 14–18)。著者は当時Rolex Watch USAの技術担当者。https://www.awci.com/wp-content/uploads/ht/2009/2009-04-web.pdf (2026年11月4日閲覧)

[4] 協和界面科学「接触角・動的接触角とは」、Youngの式、表面状態、静的・動的測定の解説、発行年表示なし。https://www.face-kyowa.co.jp/science/theory/what_contact_angle/ 英語版:https://www.face-kyowa.co.jp/english/en_science/en_what_contact_angle.html (2026年11月4日閲覧)

[5] Moebius, “Technical Data: FIXODROP ES/WR-S 7060-7061-7062”, 2019年11月12日、pp. 1–2、Brütsch/Rüegger所蔵のメーカー資料。https://static.brw.ch/pdf/123232532.pdf (2026年11月4日閲覧)

[6] Moebius, “Technical Data: FIXODROP ES/WR-P 7070-7071-7072”, 2019年11月12日、pp. 1–2、Brütsch/Rüegger所蔵のメーカー資料。https://static.brw.ch/pdf/123232531.pdf (2026年11月4日閲覧)

[7] Moebius, “Technical Data: FIXODROP W 8970-8971”, 2019年11月12日、Horotec所蔵のメーカー資料。https://horotec.ch/medias/article/documents/698c016a49a1d_TECH_MSA28.8970-8971_EN.pdf (2026年11月4日閲覧)

[8] The Swatch Group Research and Development Ltd., Division Moebius, “Safety data sheet: Fixodrop W-10 8971”, version 8、2018年12月5日改訂、sections 1–3、Brütsch/Rüegger所蔵。https://static.brw.ch/pdf/737190.0100_EN.pdf (2026年11月4日閲覧)

[9] 3M, “Operations and innovation”、PFAS製造撤退についての当事者説明、発行日表示なし。https://www.3m.com/3M/en_US/pfas-stewardship/operations-innovation/ (2026年11月4日閲覧)