固定香箱 ― 静止する箱と回転する香箱真

固定香箱 ― 静止する箱と回転する香箱真

固定香箱は、動力ゼンマイを収める箱を時計の地板に対して静止させ、ゼンマイの内端につながる軸の回転を動力として取り出す構造である。英語では standing barrel、stationary barrel、resting barrel などと呼ばれる。現代の一般的な腕時計で、香箱真を歯止めで保持し、歯を切った箱自体を回して輪列を駆動する方式とは、動力の出口が逆になる。1 2

構造と動き#

薄い帯状のゼンマイは箱の内側に渦巻き状に収められ、外端は箱側、内端は中央の香箱真側に結ばれる。箱を動かないようにすると、巻き締めたゼンマイはほどけながら香箱真を回そうとする。軸に設けた車から輪列へ力が伝わり、脱進機と調速器が輪列の進みを制御する。箱が静止していても、内部ではゼンマイと軸が動いている。1 3

固定香箱では、基本的には軸を運転方向と逆に回して巻き上げる。巻上げ中も時計を動かすには、輪列への力を一時的に補う維持動力などの工夫が必要になる。実際の歯止めや巻上げ機構の構成は時計ごとに異なる。3 4

  • 固定香箱:箱を静止させ、香箱真に結ばれた車などから出力する。巻上げ中の駆動には別の工夫が必要になる。
  • 回転香箱:通常は香箱真を歯止めで保持し、箱外周の歯から出力する。巻上げと運転の経路は分かれる。
  • 通常のフュジーと香箱:香箱真を保持し、回転する箱から鎖を介してフュジーへ出力する。円錐の半径を変えてトルク変動を緩和する。

この比較は典型的な構成を示す。フュジーは固定香箱と排他的ではない。ハリソンの第4号では、固定した内箱のゼンマイが軸を回し、その軸に取り付けられた別の胴が鎖を引いてフュジーへ力を伝える。静止する内箱と回転する鎖胴を区別する必要がある。2 5

巻上げ、トルクと保守#

ゼンマイは巻上げによって弾性エネルギーを蓄え、ほどけるにつれてそれを返す。固定香箱という配置だけではゼンマイのトルク変化は消えない。均力が必要なら、フュジーや別の機構を組み合わせるか、使用範囲を制限するなど設計全体で対処する。箱の固定と、時計が一定の速さで進むことは別の問題である。1 5

ゼンマイ、軸、軸受け、歯止めには力がかかり、汚れや摩耗、潤滑の状態も動きに影響する。分解時には蓄えられた力を適切に解放する必要がある。箱を固定しただけで破損や摩耗がなくなるわけではない。

歴史と具体例#

競売カタログは、ジュネーヴの P. Lagisse に帰属する1675年頃の時計について、固定香箱と回転軸、停止装置、フュジーを持たない輪列を記述している。この年代と帰属はカタログの判断であり、固定香箱の発明者や最初の使用を確定するものではない。6

ジョン・ハリソンの海上時計第4号は1759年に完成した。時計史家ルパート・グールドは、その固定内箱の外端と軸の内端の結合、別の鎖胴、初期張力を調節する歯止めを記録した。グールドは鎖の横方向の引きに対する支持を利点として挙げつつ、実用上の利点は小さいとも評価している。5

米国のジョージ・P・リードによる1857年の特許 US 17,055 は、地板にはめ込んで固定した箱と、その底を兼ねて回る主車、巻上げ中の維持動力や停止装置を示す。リードはゼンマイ破断時の輪列損傷を減らせると説明したが、これは特許人の主張であり、すべての固定香箱の安全性を保証する試験結果ではない。特許はこの組合せに関するもので、固定香箱一般の発明を意味しない。3

リードの1874年の特許 US 151,243 は、固定箱から突き出る回転軸と歯車を使った巻上げ残量表示を説明する。例では軸の5回転に対し8歯のカナと56歯の車を組み合わせ、表示針を円周の7分の5だけ動かす。40時間という数値はその設計例であり、方式全体の持続時間ではない。7

現代にも固定した胴を使う設計がある。Armin Strom の Tribute 1、キャリバー AMW21 の取扱説明書は、固定胴の中で軸が回ってゼンマイを巻くモーターバレルを説明し、全巻上げ時の持続時間を100時間と公称している。メーカーの効率向上という説明は、この方式だけによる独立した比較試験の結果とは区別して読む必要がある。8

年表#

  • 1675年頃:Lagisse に帰属する固定香箱付き時計の製作年代とされる。6
  • 1759年:ハリソン第4号が完成。固定内箱と別の鎖胴を組み合わせた。5
  • 1857年:リードの固定箱、主車、維持動力などの構成に米国特許が付与される。3
  • 1874年:リードの固定箱を利用した巻上げ残量表示の特許が付与される。7
  • 現代:Tribute 1 の AMW21 に固定胴を用いたモーターバレルが採用されている。8

参考文献#

1. 早川和樹「機械式腕時計に使われるエネルギについて―動力ぜんまい」『マイクロメカトロニクス』Vol. 63, No. 221、pp. 20–21、節2.1–2.2。https://hij-n.com/memberpage/magazine/63_221/63-221-all.pdf (2026年11月4日閲覧)。

2. Breguet Blog, “Glossary M–Z”, “Spring barrel”. https://www.breguetblog.com/glossarym-z (2026年11月4日閲覧)。

3. George P. Reed, “Watch”, US Patent 17,055、1857年4月14日、明細書・図面。https://patents.google.com/patent/US17055A/en (2026年11月4日閲覧)。

4. フランス国民教育省、時計ムーブメント技術資料「Disposition classique du barillet et de la fusée」。https://bnseep.eduscol.education.fr/ressources/examens/sujets/05/400/2510300/E1/u11_n1_s01.pdf (2026年11月4日閲覧)。

5. Rupert T. Gould, The Marine Chronometer: Its History and Development, 1923, pp. 53, 55。https://navlist.net/imgx/marinechronomete00gouluoft_b.pdf (2026年11月4日閲覧)。

6. Antiquorum, “P. Lagisse … circa 1675”, lot 558、1992年競売カタログ。https://catalog.antiquorum.swiss/en/lots/lot-139-558 (2026年11月4日閲覧)。

7. George P. Reed, “Improvement in mainspring-indicators for watches”, US Patent 151,243、1874年5月26日、明細書。https://patents.google.com/patent/US151243A/en (2026年11月4日閲覧)。

8. Armin Strom, Tribute 1 Calibre AMW21 Owners Guide, p. 2。https://arminstrom.com/wp-content/uploads/2025/02/Owners_Guide_AMW21_2023.pdf (2026年11月4日閲覧)。