「フライング」が指す構造#
フライング・トゥールビヨン(英語 flying tourbillon、ドイツ語 fliegendes Tourbillon、フランス語 tourbillon volant)は、回転するキャリッジを一方の側から支えるトゥールビヨンである。キャリッジとは、テンプ・ひげぜんまい・脱進機などを載せて回る枠をいう。見える側を横切る固定の受けを省けるため、機構が浮いているように見える。1 2
ここで片持ちになるのは、キャリッジ全体の支持である。その中で往復振動するテンプ自身は軸と軸受を必要とし、回転枠にテンプ用の受けが残る構成もある。したがって、写真に一本でも橋のような部品が見えればフライングではない、と判断することはできない。固定されたムーブメントから回転枠をどのように支えるかを確かめる必要がある。2

図1:Glashütte OriginalのJulius Assmann 4。フライング・トゥールビヨンを備えた後世の実装例。撮影:Rama、2007年4月15日。出典:Wikimedia Commons, Glasshuette MG 2614.jpg。ライセンス:CC BY-SA 2.0 France。変更:縮小・JPEG再圧縮のみ。掲載画像も同ライセンス。
何のために回すのか#
機械式時計では、テンプが往復振動し、脱進機がその振動に合わせて歯車の進みを解放する。垂直に置かれた時計では、調速機の不釣合いなどにより、向きに応じて歩度が変わる。通常のトゥールビヨンは調速機と脱進機を一緒に回転させ、一定の向きだけにとどまらせず、姿勢による差を周期の中で平均化しようとする。3
この基本目的と、キャリッジをどちらから支えるかは別の設計問題である。フライング方式でも、テンプを振動させ、枠を回転させる仕事は必要となる。上の固定受けを取り去ること自体が、重力による誤差をすべて解消する証明にはならない。2 3
また、腕時計では持つ向きが変わり、懐中時計のように長時間ほぼ垂直という条件が一定ではない。Moritz Grossmannの技術資料も、現代のトゥールビヨンを熟練した時計師にとっての技術課題と位置づける。構造の鑑賞と、実測された精度の評価を分けると、この機構を理解しやすい。5
成立とアルフレート・ヘルヴィヒ#
グラスヒュッテ時計学校での開発#
フライング・トゥールビヨンの成立は、一般にドイツの時計師Alfred Helwig(アルフレート・ヘルヴィヒ、1886–1974)と結びつけられる。Glashütte Originalの歴史解説は、ドイツ時計学校の教師だったヘルヴィヒが学生と取り組み、1920年に片側支持を実現したと説明する。個人の着想だけでなく、学校の教育・制作の中に位置づけられた開発である。1
Moritz Grossmannの2013年の技術資料は、ヘルヴィヒの同校での教員活動を1913–1954年とし、1920年の特許出願と、1922年のマイスター資格に関係する5分トゥールビヨンを挙げる。ただし、この資料には1920年の原出願番号が示されず、当該公報の原文までは今回確認できていない。出願に関する後世の説明と、原特許の実読を区別しておく。5
片持ち一般の優先権と分ける#
1920年を、片側で支えるあらゆる回転調速機の最初とすることには慎重さが必要である。2001年公開の特許WO2001018611A1の先行技術説明は、1892年の英国特許GB 21,421に片持ちの構成があり、1961年のCH 353,679には球軸受による支持があると述べる。同公報は別に、ヘルヴィヒの1927年刊『Drehganguhren』を、フライング方式の参考文献として挙げる。2
この説明から、広い機械構造としての片持ち支持、ヘルヴィヒに結びつく時計史上のフライング方式、後世の球軸受化を区別できる。ただし、ここで引用された1892年の原特許と現存作品をすべて照合したわけではないため、最古の実用例や現在の名称の初使用まで確定したことにはならない。2
構造と動力の伝わり方#
キャリッジとその中の軸受#
大きく分けると、固定された地板・受け、回転するキャリッジ、その内部で振動するテンプという三つの段階がある。固定受けからキャリッジを片側で支えながら、キャリッジ内部ではテンプの軸、アンクル、がんぎ車を必要な位置に保持する。枠自体が回る運動と、その中の部品が振動・回転する運動を分けて見ることが重要である。2
WO2001018611A1の実施例では、キャリッジの基部とテンプ受けを柱で結び、全体を片持ちの球軸受で支持する。がんぎ車の小歯車は固定された内歯歯車と噛み合い、枠が回ることによってがんぎ車にも自転を生む。これは同特許の具体的な実装であり、すべてのフライング・トゥールビヨンに内歯歯車があるという定義ではない。2
支持方式と回転周期#
| 観点 | 区別すべきこと |
|---|---|
| キャリッジの支持 | 両側支持か、片側からの支持か。フライングの定義に関係する。 |
| キャリッジ内のテンプ支持 | 枠の中の軸受・受けの構成。外側の片持ち支持とは別。 |
| 回転周期 | 1分、3分、5分など。フライングという名称だけでは決まらない。 |
| 脱進機 | レバー式などの力の授受の方式。支持方式と同一の分類ではない。 |
| 表示 | 文字盤側から見えるか、裏側か、別表示に使うか。定義のすべてではない。 |
たとえばMoritz GrossmannのBENU Tourbillonは、2013年の技術資料で、直径16 mmのキャリッジが3分で一回転する例として説明される。ヘルヴィヒの伝統を引くとしながら、固有の回転周期、V字形のテンプ受け、停止機構を組み合わせている。5
材料・加工・調整に生じる課題#
支持と慣性の設計#
片側支持では、支持部の位置と回転部の質量配置が設計上の課題となる。特許WO2001018611A1は、球軸受を回転部の重心に近づける配置を、衝撃に対する感受性を小さくする手段として説明する。球軸受を使った独立モジュールとして組み立て、ムーブメントから取り外して調整する提案も示す。これは提案された構造であり、特定の市販時計の採用証明とは区別する。2
BENUの資料では、キャリッジを3分周期とする理由を、回転部の運動エネルギーと脱進機に及ぶ負担の抑制に求める。また、ジャーマンシルバー製の受け、ARCAP合金の輪列など、各部の材料を記す。ただし、これらはその製品の選択であり、フライング方式に共通の材料規格ではない。5
動く枠を軽くするだけでも、剛性を増すだけでも設計は完結しない。部品の変形、軸の位置、回転の釣合い、必要な動力を同時に考える必要がある、というのが上述の構造から読み取れる工学的な関係である。公開資料には全方式を比較した統一的な摩耗寿命・摩擦損失の値がなく、潤滑の周期や衝撃性能を名称だけから数値化できない。
止める・時刻を合わせる#
キャリッジの柱があるため、テンプにブレーキを当てて止めるときにも工夫が要る。BENUの技術資料は、柔軟な毛のブラシを用い、柱を避けながらテンプの外周を止める仕組みを説明する。フライング方式だから自動的に秒針を止められるわけではなく、別の停止機構を設計している。5
Glashütte OriginalのSenator Chronometer Tourbillonは、フライング方式に停止・ゼロリセット・分合わせを組み合わせる現代例である。竜頭を操作して機構を停止し、さらにキャリッジをゼロへ戻して時刻合わせを行う。現行のキャリバー58-06では、ゼロリセットと分針の目盛への移動を同期させる。このような時刻合わせの機能は、支持方式に加わった別の機構である。1 4
精度に関する効果と限界#
フライング方式は機構の視認性に明確な特徴を持つ。一方、完成時計の精度には、テンプの釣合い、ひげぜんまい、脱進機の状態、与えられる動力、姿勢と温度などが関係する。構造名は、歩度の試験成績を代替しない。3 5
Senator Chronometer Tourbillonの仕様は、5姿勢・3温度・15日間の検査を挙げ、シリコンひげぜんまいも記す。ここから確認できるのは、この製品で完成時計の試験と材料選択が行われるということまでである。認証された個体の仕様を、1920年の作品や他社のフライング方式すべての性能として一般化することはできない。4
保守でも、可動部を見せる美しさと、適切な分解・調整ができることは別の問題となる。前述のモジュール特許は調整・交換を容易にする狙いを述べるが、すべての現物が交換可能なモジュール構造ではない。具体的な整備方法は、個々の機械の設計図とサービス資料を必要とする。2
年表#
| 年 | 成立と発展 |
|---|---|
| 1801年 | ブレゲのトゥールビヨン特許。垂直姿勢における歩度差への対処が前史となる。 |
| 1920年 | ヘルヴィヒと学生による片側支持の開発。Glashütte Originalの歴史説明による。 |
| 1922年 | 後世のGrossmann資料が、ヘルヴィヒの5分トゥールビヨンとマイスター資格を関連づける。 |
| 1927年 | ヘルヴィヒ『Drehganguhren』刊行。後世の特許にもフライング方式の資料として引用される。 |
| 1999–2001年 | WO2001018611A1の優先日1999年9月2日、出願2000年8月31日、公開2001年3月15日。球軸受と独立モジュールの設計を提示。 |
| 2007年 | 図1のJulius Assmann 4の実装を撮影した写真。撮影年をモデルの発表年とはしない。 |
| 2013年11月 | Moritz GrossmannがBENU Tourbillonの技術資料を公表。3分周期と停止機構を説明。 |
| 2020年代–2026年10月 | Glashütte Originalの公開資料で、停止・ゼロリセット等と組み合わせた現代的実装を確認できる。 |
根拠は博物館の基本説明、メーカーの歴史・技術資料、公報の書誌、写真記録である。発明・出願・出版・撮影という異なる出来事を同じ種類の年代として扱わない。1–5
調査上の限界#
ヘルヴィヒの1920年の原出願、1927年の著書全文、各初期作品の分解調査記録は未確認である。後世の特許が挙げる1892年・1961年の先行例も、原公報と実物の対応をすべて確かめたものではない。支持方式の定義と現代の具体構造は確認できるが、最古例の完全な系譜や統一的な性能比較には限界がある。
参考文献#
- Glashütte Original, “180 Jahre Glashütter Uhrmacherkunst”, 「1920」およびFlyback Tourbillonの説明、2025年記念企画、2026年10月22日閲覧。
2. Elmar Mock, Begona Guerry, Elio Mariotto, WO2001018611A1, Indicateur de temps à régulation mécanique, 優先日1999年9月2日、出願2000年8月31日、公開2001年3月15日、先行技術・実施例・図2–6の説明。仏語原文を確認、2026年10月22日閲覧。
3. Deutsches Uhrenmuseum Glashütte, “Silver men’s pocket watch with tourbillon”, 1939年A. Lange & Söhneの作品解説、トゥールビヨン一般の目的に使用、2026年10月22日閲覧。
4. Glashütte Original, “Senator Chronometer Tourbillon 1-58-06-01-03-61”, 英語の現行製品技術資料、検査条件・機能、2026年10月22日閲覧。
5. Grossmann Uhren GmbH, Moritz Grossmann presents the first manufacture calibre with a tourbillon – the third-generation BENU, 2013年11月、特に2–4頁、2026年10月22日閲覧。